第5話流言

週が明けた月曜日の昼休み、食堂で食事を済ませ教室でくつろいでいた優花里に朱美からメールが来た。

(何だろう?)

「何これ!」

メールを見た途端、優花里は思わず声を張り上げた。

「優花里、ちょっと来て」

郁美と恵理香が声をかけてきた。

「噂、もう知ってるよね?さっきね、部員は全員でデマの火消しに当たりなさい、って主将から一斉メールが来たの。主将も今日中にきちんと対応するように学年主任の先生方に話をしたからって。カチューシャは私達が火消しをするから、優花里は菊池さんのところに早く行ってあげて」

3人が廊下に出ると、恵理香が状況を説明する。

「ありがとう、恵理香。でも、主将は何故そこまでしてくれるの?」

「たぶん、主将はあの噂の火元は身内だと見当つけてるんじゃないかな。勘が鋭いし責任感の強い人だから、自分の責任だと感じてるんだよ、きっと」

「そうなんだ・・・そうとは知らず主将には何回か悪いことしちゃったかも。じゃ、悪いけど紗希ちゃんとこ行くね」

優花里はC組に向けて走って行った。


「じゃ、始めようか?」

恵理香が郁美に声をかけると、郁美は黙って頷く。教室に戻った郁美と恵理香は黒板の前に立つと、恵理香が満身の力を込めて黒板を右手で叩いた。バシッ、という激しい音が教室内に響き渡り、それまでざわついていた教室が一瞬で静まり返った。

「皆、聞いて。先週末、歴研の部長が陸上部の部室に殴り込みをかけて主将を殴ったっていう噂が流れてるけど、これ、デマだから。先週の金曜日、うちの主将と歴研の部長が議論したことは事実だけど、これは先週、歴研から部長同士で話がしたいから、って申し入れがあって、双方で日程調整した部長同士の話し合いなの。だから歴研部長の殴り込みなんかじゃない。それに、暴力沙汰は一切なかったから。私も郁美も終始その場にいたから信じて。誰かが面白半分で流したデマを真に受けないで」

話の途中から恵理香は涙ぐんでいる。

「この中に面白がって無責任にデマを拡散する人がいたら、私達が許さないからね!」

恵理香に続いて普段は大人しい郁美が血相を変えて叫ぶ。

「天下の陸上部様が何故歴研の肩を持つの?加害者は歴研でしょ?」

「歴研の肩を持つ?そんなんじゃない。無責任にデマを拡散させて人を傷つけるような下卑たマネをするな、って言ってんのよ!それに、歴研が加害者なんて、あんた、何言ってんの?あんたはデマを鵜呑みにしてるだけじゃないの!それとも、歴研の部長が主将を殴ったところを見たとでも言いたいの?ふざけないでよね!」

半ば茶化すようなクラスメイトの発言に対し、普段からは想像もできない激しい言葉で郁美は言い返す。郁美の雄叫びを聞いて、クラスの中でこれ以上反駁する者はいなかった。

「郁美、これから知り合いに片っ端からメール出すよ!」

「OK!」


優花里が紗希のいるC組に行くと、既に詩織と朱美が来ていた。紗希は平静さを保とうとしているものの顔が引きつり、誰が見てもピリピリしているのがわかる。C組の生徒達も紗希の様子を見守るのが精一杯で、教室は静まり返っていた。

「紗希ちゃん、カチューシャはね、郁美と恵理香が皆に説明してくれてる。主将も学年主任に掛け合ってくれたみたいだから、もう大丈夫だよ」

「ありがとう・・・でも、どうしてこんなことになったのかな?」

優花里が紗希に状況を説明すると、紗希は力なく答える。

「誰かが面白半分で尾びれ背びれを付けたんだよ。紗希ちゃんのこと貶めようとかじゃなくて、ただ面白半分でしたと思うよ」

詩織も紗希を励ましている。

「それにしてもメールも善し悪しだね。あっという間に学園全体に広がっちゃうんだからね・・・」

朱美が呟いていると、授業開始のチャイムが鳴った。

「紗希ちゃん、私達教室に戻るね。続きは部室で」

紗希に声をかけると、優花里、朱美、詩織の3人は教室に戻って行った。


「五十嵐さんと長谷川さん、2人共、何時まで携帯をいじくってるの?もう授業は始まってるわよ」

チャイムと同時に教室に入ってきた英語教諭がいきなり恵理香と郁美を注意する。

「Teacher,wait 5 minutes!」

(何でいちいち英語で答えなきゃならんのだ)

(チャイムと同時に教室に入ってくるなんて、教室の前でチャイムが鳴るのを待ってるとしか思えない!)

英語の授業が始まり、教諭から注意を受けた郁美と恵理香が悪あがきをする。この英語教諭、授業中は自分の許可なくして英語以外の言語を話すことを禁止しているのである。その結果、授業中は私語がほとんどなく極めて静かな状態になるのだが、中には英語で私語する猛者もいて完全に私語が無いわけではない。

「ひょっとして例の噂の対応?そのことなら昼休みに陸上部の主将から学年主任の先生方に申し入れがあって、今日中に各担任が注意喚起することになってます。あなた達にも担任の先生からお話があるでしょう。もう大丈夫だから早く携帯をしまいなさい!」

英語教諭は郁美と恵理香に学園としての対応を伝えるが、とにかく早く携帯電話をしまえと徐々に語気を荒くしている。

(さすが主将、GJ!)

「Yes,Ma'am!」

「遅れてす・・・おっと、英語だったか!Sorry for being late!」

恵理香が答えていると、走って教室に入ってきた優花里が教諭に謝る。

「陸上部といい歴研といい、皆青春してるわね。五十嵐さん、長谷川さん、豊浦さん、早速だけど3人でLesson2の全文読んで訳してちょうだい」

(さらっと言うな、鬼婆!)

(Lesson2の最後まで予習してないわよ!)

(先生が来るの早すぎるのよ!)

英語教諭は3人にペナルティを与えるが、中には常時3分以上遅れてくる教諭もいるというのに、1~2分授業に食い込んだだけでこれだけのペナルティとは3人は腹の虫が収まらない。他の生徒達は、今日は何もしなくていい、とすっかり安堵している。


放課後、優花里が部室に行くと、ドアの鍵がかかったままになっている。普段なら部室の鍵管理は私の専任、と言わんばかりに紗希がいち早く鍵を開けているのだが、今日はまだ鍵は開けられていない。

(紗希ちゃん、まだ来てないのか・・・)

優花里が職員室に鍵を取りに行くために部室棟を出ると詩織がやってくる。

「ごめんね、待った?鍵、すぐ開けるから」

「紗希ちゃん、大丈夫かな?」

鍵を開けている詩織に優花里が尋ねる。

「大丈夫だと思うよ。そんなに弱い子じゃないから。でもショックだったようだね・・・」

詩織は下を向いたまま、自分の不安を打ち消したいかのような口調で優花里に答えた。


「さっきはありがとう・・・」

紗希は部室に入ってくると、いきなり机に突っ伏した。

「紗希ちゃん、そんなに気にしなくても大丈夫だよ。噂なんて2~3日もすれば消えてしまうから・・・」

「消えなかったらどうする・・・」

詩織が励ますと、机に突っ伏したまま紗希が呻く。普段はやたら騒がしい1年生達は突然起きた深刻な出来事に対して何をしていいかわからず、何も言うことができない。

「あの酷い噂、どうする?もっときちんと対応するように、これから皆で職員室に要請しに行こうよ!」

「その話は止めてくれ・・・」

朱美が大声で喚きながら部室に入ってくると、紗希は相変わらず机に突っ伏したまま呻く。

「ごめんね、紗希ちゃん・・・」

朱美が紗希に謝っていると、誰かがドアをノックしている。

「は~い」

優花里がドアを開けると、理恵が立っていた。

「菊池さん、いるかな?」

「いますけど・・・」

優花里は机に突っ伏したままの紗希に視線を向ける。

「ああ、やっぱりね・・・ごめんなさい。案の定、噂の火元はうちの1年だった。その1年の子、先週菊池さんがうちの部室に来て私とさんざん議論して最後に私が折れた、ってクラスメイトの何人かに話したらしいんだ。その話自体に嘘も誇張もないから不問にしたけど、何処かで尾びれ背びれが付いたのね。私達のように具体的な目標を持ってない多くの子は皆退屈なのよ。何か面白そうな話があればすぐに誇張して拡散させてしまう。ホント迷惑よね」

理恵は紗希の傍らに腰かけると、静かな口調で紗希に話しかけた。

「明日、食堂でランチしましょう。こんなくだらない噂を消すためには、一緒に食事してるところを見せ付けるのが一番効果あるからね」

理恵が紗希を食事に誘うと、紗希はようやく顔を上げる。

「ありがとうございます・・・お願いします・・・」

紗希は力なく答えた。


翌日の昼休み、紗希が食堂に行くと入口で理恵が手を振っている。

「昨日より表情が明るくなってるね。よかった」

紗希が理恵の傍らまで行くと、安堵した理恵が話しかけてくる。

「先輩と部員の皆さんのおかげです。ありがとうございました」

紗希が理恵に礼を言う。実際、初動の対応が効いて1日で噂はかなり収束していた。

「いいのよ。火元は私達だったんだから。何食べる?」

理恵は微笑みながら紗希を誘う。食券を買い、カウンターから料理を受け取って2人は席に着いた。

「先輩、量が多いですね」

普段、優花里の大飯食いを見ている紗希の眼からしても、理恵の食事量は明らかに多い。

「私達は運動量が文化系サークルの子と違うからね。少なくとも私はこれくらい食べないと体力維持できないから」

理恵は力うどんと八宝菜定食を交互に食べながら答えていた。力うどんには角餅が3個入り、八宝菜定食のライスは大盛りである。ただ、理恵は箸で摘まんだものを落としては手で拾って食べている。

(この人、ものすごく不器用なのかな・・・)

紗希は理恵の不器用さに内心驚いていた。紗希が観察していると、理恵は角餅を箸で摘まみ損ねて床に落としてしまう。紗希に観察されているとも知らずに、理恵は餅についたゴミを指で摘まみ落とし、ざっとまんべんなく餅の状態を確認すると口に入れる。

(げっ!)

「あの・・・先輩、そういうこっとって止めた方が・・・」

「何で?もったいないでしょ?それに私、食べ物粗末にするの大嫌いだし」

(いや、そういう問題じゃ・・・)

「ところで、この食堂、4時半までしてるけど、4時過ぎに入ったことある?」

「私はお昼しか入ったことありませんけど・・・」

「カツが残ってるとね、カレーの食券でカツカレーが食べられるよ。今度カレーの食券だけ買っておばさんに頼んでごらん。カツカレーになるから。他のメニューでも応用が効くからいろいろ試してみなよ。極めつけはね、一番安いC定食の食券買って、おばさんに、適当に見繕って、って言うと、余り物をアレンジしてくれて結構内容が充実した定食もどきが出てくるよ。私達はΩ定食、って呼んでるけどね」

「究極の定食、って意味ですか?」

「そういうこと」

「先輩、何時もしてるんですか?」

「たまにね。どうしても晩御飯まで耐えられない時があるからね」

「でも、食べた後練習ですよね?」

「ははは、この程度なら影響ないから大丈夫」


「ねぇねぇ、あの2人、陸上部の主将と歴研の部長じゃない?」

「先週、殴り合いの喧嘩したって噂だったけど・・・」

「でもさ、仲良く食事してるじゃない?」

「先生が言ってたように、あの噂デマだったんだね」

「そうだよ、当の陸上部が事実無根だって言ってるんだもの。一体誰があんな酷いデマ流したんだか・・・」

「でもさ、あの2人、綺麗だよね・・・嫉妬しちゃうよね。ひょっとして、あの2人に嫉妬した誰かの嫌がらせかな?」

談笑する理恵と紗希を眺めながら、食堂の至るところで生徒達が話している。理恵の思惑どおり、噂は瞬く間に消えていった。

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