14 ラビリシズム

 ― ルディ ―



 夢中になって召喚の間の扉を開けた後、平然としていたスイト様達に驚いた。……いや、本当の意味で平然としていたのは、スイト様だけだったのだけれども。


 兎の耳を持つラビリス族、その中でも真っ白な毛並みのホワイト種は、別名『時兎』と呼ばれる。

 その由縁は一族全員が生まれながらにスキル:時属性耐性Ⅴを持っている事。


 そのせいか、僕は『あの時』の事を覚えている。


 敬愛なる魔王陛下、フィオル様が死の淵に立たされた時、それに呼応するかのように世界の崩壊が始まった。世界中の虚空に、手を伸ばしても触れられない、それはもう不思議な亀裂が広がって、地面からではない揺れが、何度も僕達を襲った。

 こんな事態を招いたのは、明らかに人間の範疇を超えた力を持つ―― 勇者。禍々しいオーラを放つその存在は、更に禍々しく光る聖剣を、あろう事かフィオル様へと向けたのだ。


 フィオル様の結界が途轍もない強度を誇る事は、僕自身がよく知っている。

 ……それを、聖剣はやすやすと破壊し、フィオル様に一閃を喰らわせたのだ。


 この世界に召喚され、賢者となったハルカ様も、フィオル様を助けようとがんばってくれた。


 けれど、どう見たって手遅れだった。


 血は溢れ、意識は無く、一瞬ごとにその顔が青白くなっていったのだ。


 それでも、僅かでも可能性があるならと魔法を限界まで使って、倒れて。それでも何度も、ムリヤリ魔力を回復させてでも救おうとしてくれた。

 その回復するための時間を、スイト様は必死に稼ごうとしていた。


 死んでもおかしくないような囮役を、引き受けてくれたのだ。


 本来なら僕も参加すべきだった。あの時点では、スイト様より僕の方が素早く、若干ではあるが力もあったのだから。


 けど、1つの懸念が僕を押し留めていた。

 スイト様は、僕が得意とする雷魔法が苦手なのだ。雷が1つ落ちれば、スイト様は全身からその力が抜けてしまう。それが何故なのか、僕は知らない。

 むしろ、本人でさえ知らないらしい。


 『聖剣』は魔王であるフィオル様が作り出した超硬度の結界を、いとも容易く破る攻撃力を誇る。なればこそ、たった一瞬だとしても隙があってはならなかった。


 なのに、最後の最後で、僕は魔法を使ってしまった。


 聖剣が恐ろしかった。その攻撃を防ぎきっていたスイト様が凄いと思えた。そして、スイト様の横にいたのが、奇跡的に正気を取り戻した勇者で。

 彼がスイト様の『隣』である事に、ひどく嫉妬している自分に驚いた。


 たった一ヶ月しか一緒にいなかったというのに、僕はどうやら、スイト様を中心にして生きるようになっていたらしい。レベル上げ、冒険者活動、食事の時間や掃除のタイミングだってスイト様に合わせていた。世話役なら当然だと、その時までは割り切っていた。


 だが他人から見れば、それは過剰なまでの依存だっただろう。実際、冷静になってから第三者として見た時、僕自身がそう感じたのだから。


 だから、フィオル様が死に掛けて、僕は慌てた。

 当然だ。仕えている主が消えようとしているのに、混乱しない部下はいない。


 だが、それ以上に。


 焦ってしまって、使わないと決めたはずの魔法を使ってしまった。その結果スイト様が死んだように動かなくなった途端に、僕は、それまで強く握り締めていたはずのフィオル様の手を、それはもう簡単に手放した。その時の優先順位は、明らかにスイト様の方が上になっていた。


 すぐにそれを理解して、頭の中が真っ白になって、それでも分かってしまった事がある。


 僕が仕えていた2人の主が、どちらとも、同時に、失われてしまうのか、と。


 どちらも守るべき存在であったというのに、どちらも守れていない上、自分は全くの無傷。守るべきだった者に守られただけでなく、その内1人は僕が傷付けてしまったようなもの。



 ―― いっそ、僕のせいだと糾弾し、罵ってくれれば良いのに。



 そう考えた途端、突然景色が歪み、気が付いたらフィオル様が事務作業をしていた。

 ……などというおかしな状況に陥っても、その後悔が僕を冷静にしてくれていた。


 何事も無かったように書類と格闘している彼女には、見覚えがあった。真っ白で飾り気の無いワンピースは彼女の戦闘着であり、度々汚れてはデザインの違う服を着ている。だから、それに見覚えがあるという事は過去に彼女が見に付けていた服ということだ。


 その服装は、ちょうど召喚が起きた頃の――

 そこに思い至って、とんでもない可能性に行き着く。僕達の力ではどうにも出来ない状況をひっくり返せるかもしれない、とんでもない力。


 あの、賢者様一行の中に、もし……『時間遡行』の能力に目覚めた者がいたならば。


「……フィオル様」


 一ヶ月前、僕は同じような調子で、彼女に話しかけた。この台詞は彼女の雰囲気が唐突に変わったために発したものだ。あの時は明らかに動揺し、羽ペンを取り落とし、インク瓶を倒して、執務室もそれはもう、見るに耐えない状態になってしまっていた。


 だが今回、そうなる前に声をかけると、フィオル様はひどく驚いた様子で僕の方へと振り返った。

 平然とした様子だった彼女は、目を見開き、全身から冷や汗が噴出していた。


 その様子で、確信する。


 慌ててステータスを開き、日付を確認し……ここが『一ヶ月前』である事を知った。

 確信を得るや否や、フィオル様は突然力無く倒れてしまった。精神的ショックが原因で、身体的には何も問題ない。だが、死に掛けたのだ。倒れるのも無理は無い。


 身体にも心にも染み付いた動きで、フィオル様を介抱する。ここが本当に一ヶ月前で、その手の中にいる彼女はちゃんと生きている。僕はそっと胸を撫で下ろした。

 そんな僕の事を、フィオル様は呆然としながら、見つめる。


 その視線とも言えないほど弱々しい視線に気付いて、僕は動かしていた手を止めてしまう。


 感覚ではつい先程、僕は、彼女への裏切りとも言える行為をしてしまったばかりだった。

 一瞬とはいえ、フィオル様の事が頭から抜け落ちていたのだ。


 実力主義の魔族社会において、魔王の事を最優先順位から外す事は、不敬罪の処刑モノである。

 フィオル様はお優しい方だ。けど、だからといって、許されない罪を犯してしまった事に変わりは無い。僕の心に、ドッと罪悪感が押し寄せる。押し潰されそうになる。


 いくら優しくても、フィオル様は僕を許してはくれないだろう。見た目は僕より幼くとも、とても聡いのだ。死に掛けていたとしても、僕の動揺は、最も傍にいた彼女には伝わったはずである。


「……ルディ」

「っ、はい」

「もう、大丈夫です、よ?」


 何を言われるのかと覚悟していた僕は、何が大丈夫なのか、とフィオル様を覗き込む。

 執務室にはベッドもソファも無いし、出るためにはちょっと特殊な出方で無ければならない。その出方はフィオル様がいないと出来ないので、応急で処置として膝枕になってしまった。


 ラビリス族は種族的に子供っぽい体型で成長が止まるようですけど、僕も男です。硬いかもしれませんが我慢してもらえれば……なんて考えていた僕の目に、いつの間にか顔を真っ赤にしたフィオル様が。


「ま、まさか熱が?!」


 思えば、産まれて間も無く魔王に就任した彼女は、幼少期というものが皆無だ。仕事ばかりで休みも無かった。さすがに病弱という事は無いだろうが、あんな事の後だ。熱が出ても、おかしくない。


「そうではないです、大丈夫です。だから、とりあえず、座らせて?」


 ……根本的な事を忘れていました。

 僕は男性で、陛下は女性。そもそも勝手に肌に触れるというのも、厳罰モノです! 緊急事態だったので仕方無いと言えばそれで済むかもしれませんが……。


 いやいや! 緊急事態なればこそ、イスの上にあったクッションを使っても良かったはず……! すっかりその存在を忘れていましたが!


「その、何も咎めませんから、とにかく座らせてください」

「はっ、はい!」

「ふぅ。ルディは頭が良いのに、肝心な所で子供ですね」


 うっ、そもそも、彼女に拾われた4年前までは、赤子同然の知識量だったのですが……。

 その辺りの事は語る必要性が無いので省きますが、ともかく、僕はまだまだ子供っぽいという事ですね。冷静さが欠けているという事ですよね。

 フィオル様は立ち上がると、かわいらしくぷくっ、と頬を膨らませた。


「ルディ、今の私の言葉、聞いていましたか?」

「子供ですね?」

「そこじゃないです」

「……座らせて?」

「……からかっていますね、ルディ」


 口を小さく尖らせて、頬に手を当てるフィオル様。そうは見えないが、苛立っているようだ。


 フィオル様は普段、誰にも苛立つ素振りは見せない。同じ女性同士で傍仕えのマロンさんにさえ、見せた事は無い。彼女の持つ感情は、ほぼ全てが外向きのものだ。

 最近はスイト様やハルカ様に対して、ご自分の素の部分を見せ始めているようだが……未だ、露骨に不満げな表情は僕にしか見せない。僕にとって、彼女と最初に出会った時の彼女をありのまま表現したなら、僕は迷わず「幼いお方だ」とはっきり答えられるくらいには、親密な仲である。


 いや、言わないけども。

 ただ、最初からそういう部分を見せてしまったから、後から取り繕う事が出来ていないのだろう。


 ともかくも、僕が挙げた2つとは別の単語を拾う。しかし、彼女が発した単語であと、意味のあるものといえば……褒める言葉は不自然だから、頭が良いという部分は完全に排除すると……。

 で、あるならば。



「―― 咎めません」



「ええ。それが全てです。それが理解できたのであれば、すぐ、あの方達を迎えに行ってください」

「あの……えっ?」


 思わず聞き返す。

 咎めない。それが全て。


 それって……。


「許して、くださるのですか?」

「許すも何も、私は貴方の心を尊重しただけ。誰しも人は、一番大切なものと、一番優先すべきものを天秤にかける。私は確かに魔王で、優先すべき存在でしょう。魔族の王ですから、当然です。しかしそれ以上に尊い存在という事であれば、それは各人で違うはず。そうでしょう?」


 ある人は家族。

 ある人は友人。

 ある人は恋人。

 ある人は、赤の他人でさえ。


 立場だけで考えれば、何事においても魔王であるフィオル様を優先しなければならない。しかしその考え方が全てなら、全魔族は魔王陛下に忠誠を誓い、忠誠心のためだけに恋人でも家族でも、何でも犠牲にしなければならないという事だ。

 それは極論であるが、僕が悩んでいた事は『常識の中でも変質的な部分』を、絶対のルールであると信じ込んでいたために生じた。彼女は、それを見抜いたのだ。


 たしかに、僕はフィオル様が大切で、それは魔族全体においてかなり根本的な思考だろう。だが、誰しも一番大切な人が誰か、と聞かれれば、フィオル様以外の名を挙げるはずだ。

 誰もがフィオル様に会った事があるわけではない。むしろ、城に閉じこもっているフィオル様を見られるのは、フィオル様付きの護衛や世話係くらいのはず。


 僕は、拾ってくれた主としてのフィオル様を尊敬し、だからこそ仕えている。

 フィオル様に抱くのは、尊敬。


 なら、スイト様は?


「これまで、同じ舞台で戦ってくれる人は、貴方にはいなかったでしょう? まだまだ戦友には程遠いかもしれないけれど。それでも、一緒に、隣で戦ってくれる人はいなかったわ。

 私は魔王。どう足掻いてもルディと同じ舞台で一緒にいられない。一緒にいられるとしたら、それはほんの一時だわ。とても特別な『隣』を奪われてしまうのは、いくら賢者様でもちょっと、悔しいのだけれど。でも、それだけの魅力があの方にはあるもの。

 ルディはお友達が少ないでしょう? 顔馴染みや知り合い、仕事仲間は多くこの城にいるけれど、お友達と呼べる人はそれこそいないと思うの。私と同じで」


 フィオル様にとって、ある意味僕は特別だ。

 買いかぶっているわけではなく、本当に。コロコロ変わる表情も、不満げな様子も、砕けた喋り方だって僕の前でしかしないのだから。


 それでも、彼女は「僕の『特別』でなくとも良い」と言った。


 自分だけの特別。それはたとえば、誰にも知られないように隠した蜂蜜やキャンディーであったり、誰も探し出せないように作った秘密基地であったり。


 手放したくはない、特別。それが、僕。

 その僕が、自分から『特別』ではなくなろうとしている。


 フィオル様の傍を離れるわけではない。ただ、僕が心のままに動けば、自然と会う回数は減るだろう。それくらい、僕は彼に夢中になっているようなのだから。


 自分には友達がいないと、さりげなく自分から認めているフィオル様だが、僕は知っている。スイト様やハルカ様を初め、今は城中にいる者達と親しげに話そうと努力している事を。


 以前は、そんな事はしなかった。

 どちらが先に変わり始めたのか、それはもう分からない。気が付いたら、お互いに前へ進もうとしていたから。けど、この場合、どっちだって良いのだろう。

 僕も、フィオル様も、同じように1歩を踏み出した。それは理解できたから。


「理解しましたか? 貴方が悩んでいる事は、とても些細な事なのです。まあ確かに、悔しいものはありますが……それはそれ、これはこれ。 さ、早く迎えに行ってあげて。私は少し休みます」

「……っ、はい!」


 僕は『前回』同様、勢い良く駆け出した。

 前回と同じ『賢者様を迎えに行く』という理由で走っているのに、前回よりも身体が軽い。心なしか周りの景色も色鮮やかに見える。

 途中で出会った者達に協力を仰ぎ、後で皆さんを連れ出すための要員を確保して、と。


 あっ! そういえば、スイト様達が前回の記憶を持っているかが不明だった。


 僕は時兎。肉体的にはともかく、精神的な時の干渉を受け難い種族である。ただ、この「時属性」はかなり特殊で、その類の魔法を使える者も少ない。

 耐性とは、ある特定の攻撃などを受け続けて初めて取得できるものだ。スイト様達はこの世界に来るまで魔法を知らなかった。であれば、時属性の耐性を持つにはこの一ヶ月は短すぎる。


 だから、最悪の事も考えておかなければならない。

 何が理由で時間が巻き戻ったのか。それはまだ分からない。推測では、賢者様方の誰かが……とは思うものの、確信は無いのだ。最悪、僕自身があの未来を変えなければならない。……どうすればいいのか、皆目見当も付かないのが現状だが。


 めったに切れないはずの息を切らしながら、僕は、地下深くにある扉を勢い良く開け放つ。


 そこには、最悪を想定していた故の、最良の事実と、驚愕が待っていた。


 ただ、ちょっと待って。ちょぉおーっと待って。

 僕は混乱の局地に立たされた。


 何だか、妙に心地よいとすら思えるテンポで話が進んで、僕を含めたスイト様以外の人達の思考力が置き去りにされてしまったのだ。


 少し整理させてほしい。

 まず、スイト様達は召喚の間で、既に全員起きていた。


 そこはいい。彼等もまた、記憶を保持しているという証明だから。ただ、スイト様達の人数が何故か増えていた。召喚された人数は、前回は6人だったはずだ。なのに、何度数えても7人に増えている。


 僕を一緒に数えるなどというケアレスミスは犯していない。何度も数えて、何度も目をこすって、何度も耳を揉んで数えても、7人なのである。

 細かい自己紹介は後回しで、僕はスイト様を青の間に運び込んだ。今彼は、自分が成すべき事をしっかりと考えているようだ。


 で、ベッドで座り込んで時々独り言を呟くスイト様の横に、僕がいるわけだけれども。


 かなり集中しているせいで、僕がいる事を忘れているのではないだろうか。

 あぁ、スイト様ならありえる。この人のイメージ力は、他の召喚された方の何倍もあるもの。


「スイト様、紅茶をお淹れしましょうか」

「ルディか。頼む」


 僅かに意識が外に向いたようだったので話しかけてみましたが、良かった、空振りにならなくて。勝手に話しかけて無視されるとか、居た堪れない空気になるだけですから。


「今後の方針、ですか?」

「よく分かったな。まあ、それしか無いか」


 スイト様は、優しげに笑いかけてくれた。

 ただ、その優しい笑みも、僕が奪うところだったのだ。

 スイト様もフィオル様同様、とてもお優しい方。何も言わずとも許してくださるような人です。だからこそ、それに甘えたくないのです。


「スイト様」


 スイト様は、静かにこちらを見つめてきました。

 ああやはり、僕がこれから言う事を予想していたようですね。


「申し訳ありませんでした」

「何が?」

「……僕は、スイト様が雷魔法に対し弱点がある事を知っていた。なのに、使ってしまいました。そのせいで、貴方は……」

「何だ、そんな事か」


 スイト様は呆れた様子で溜め息をついた。


「そ、そんな事って」

「てっきり、アビリティについて聞かれるのかと思ったよ」


 アビリティ。人が生まれながらに持つ超常的な能力の事だ。ステータスに表示された自身の名に触れると出てくる、シークレットステータスと呼ばれる部分である。

 僕がそれに気付いたのは、つい最近の事だ。


「では、この度の時間移動は……!」

「あ、それも知らなかった? まあ当然か。俺自身もまだ分からない事だらけだけど、時間移動は俺のアビリティだよ。指定したレベルの時点に戻る……っていう説明で理解できるか?」


 笑みを浮かべて、軽い調子でトンデモ発言を放り投げるスイト様。


 えっ。


「……っ!!!」

「あー……やっぱり驚く事だよなぁ。みんなにどう説明しよう」


 指定したレベルの時点。レベルが存在しなかったはずの、皆様が元いた世界に帰ることが出来るような、かなりの便利能力というわけではない。

 あくまでこの世界に来た瞬間以降のレベル時点までしか戻れないのだろう。


 だが、それでも、時を司る者が何も干渉してこなかった、稀有な能力である。


 時を冒すにはそれ相応のリスクが伴う。もしかすると、相応以上の反動が待っている事だってある。

 そもそも時空系魔法には膨大な魔力が必要だ。これは時を司る者による妨害があるからで、彼はこの世に存在する者が必要以上に過去や未来に干渉する事を嫌う。故に過去に行くには多大なエネルギーを要求し、未来を見る者には曖昧なモノしか見せない。


 占術魔法と時魔法が発展しないのはこのためであった。これは魔法に限らず、科学でも、超能力でも妨害は適応される。

 当然、スイト様の持つアビリティだって、その枠内にあれば……妨害は、起こるはずなのだ。


「あ、あの、その能力は……」

「悪いけど、俺もよく分からない。さっきの説明は説明文そのままだし。ごめん」

「っ、謝るのは、こちらです。そのような力、何か大きな代償があるはず。僕のせいで、こんな」

「その事だけど。多分、ルディが雷魔法を使っても使わなくても、あの時点で『こっち』に戻ってくるのは確定していたと思うぞ?」

「……え?」


 スイト様は肩を竦めて、何ともいえない微妙な顔を作った。


「だって、明らかに世界崩壊の危機だったじゃん。だったら、普通にこの能力を発動させて、やっぱりここに戻ってきただろ。だから、ルディが謝る必要は無い。OK?」

「でも、それじゃあ」


 それって、少なくとも、スイト様が傷付く事は無かったかもしれないって事ですよね。

 絶対、絶対痛かったはずだ。死んでいてもおかしくない状態になっていたのだから。そんな状態に陥った一因は、僕にある。


 何もせず許されるなんて事、ありえない。


「僕の魔法が無ければ、少なくともスイト様は傷付かずに済んだかもしれない。だったら僕は、何か償わなければならないのです。お願いします! お望みなら、どれ」



「 ルディ 」



 ある言葉を言いかけて、しかし、スイト様の声に遮られる。


 声が、急に冷たくなった。

 背筋が凍ったような感覚に加え、肌をチクチクと刺すような痛みが走る。実際には何もされていないはずなのに、全身が強張った。


「冗談やたとえだとしても、奴隷のようになんて、出来ない。絶対に。何があっても」


 いつもより二段階ほど下がった彼の声には、とても重みがあった。僕よりも年上の彼は、それでもたった2歳差だ。世間知らずの僕にとっては、かなり年上のお兄さんみたいな博識な人だけども。


 けどその声は、見た目からは計り知れないほどの重みを帯びていた。


 この世界の奴隷について少なからぬ知識を得ていたらしい。僕達も常に行動を共にしていたわけではありませんから、離れた間に図書館なんかで知って、もしかすると実際に見た事もあるかもしれません。


 魔法の存在するこの世界において、奴隷の扱いは酷い物も多い。魔族における奴隷は、それこそ遣い潰される対象です。生きる価値を失った者が、最後になるものですから……。


 一ヶ月前。今の時点で言えば明日の事だけれども、あの黒イノシシと対峙した時は、実のところそれほど怖くはなかった。恐怖はありましたが、絶対的に勝てる算段があったからです。

 しかし今の彼はレベル1で、僕は25。加えてこれまでの模擬線で彼に負けた事は一度として無い。


 なのに、今、僕は動けずにいる。ただただ震えることしか出来ないでいる。


「……ルディ」


 僕は無言のまま、ビクリ、と肩を震わせる。スイト様を怒らせたのはきっと初めてで。だから、スイト様が怒るとこんなにも恐ろしいのだと、痛感した。


 ちゃんと立っているのに、足に力が入っていない。

 トレイを握る手が、自然と震えてしまう。

 顔を上げる事が出来ない。

 胸の辺りに悲鳴がつっかえて、息が苦しい。


 絶対に、彼には勝てない。そう、本能と理性と身体の感覚が一致した。

 今すぐこの場から逃げてしまいたい衝動に駆られ、しかし足には力が入らず、遂には膝が折れ、その場に完全にへたり込んでしまう。


 その感覚はかつて、不機嫌になっていた陛下に拾ってもらった時のような――

 ぽすっ。間抜けな音が聞こえて、僕の頭に何か重量のあるものが乗せられる。それはとても柔らかく、温かく、触れているだけで安心させられるもの。


 恐る恐る見上げると、少し不機嫌そうにしたスイト様が、その手を僕の頭に伸ばしていた。


「あのさぁ。俺、別に良いって言ったの。分かる? ルディに対する態度が甘々だって事は自覚しているからあえて言うぞ? 俺、ルディの事かなり贔屓しているからな」

「え、えっ」

「ルディは、俺を助けようと思って、自分が出せる最高火力の魔法を使ってくれた。それは俺を守るためであって、決して他意は無い。結果的に俺もフィオルも傷1つ無い。お前は俺達を『守ろうとしてくれた』のに、俺達がそれを忌むわけ無いじゃん。だって、俺達無事なんだぞ?」


 スイト様は優しく、まるで子供にするかのように頭を撫でる。

 じんわりと、温かさが伝わってきた。


「守れなかった、とか言うのはやめろ。あの時、聖剣が俺を襲うまでには明らかなタイムラグがあった。たとえ一瞬でも、一秒でも、ルディが気を引いてくれたおかげだよ」

「でもっ」

「お礼を言う事はあっても、謝られる事は無いって」


 それは、違う。僕はスイト様の動きを阻害してしまった。そのせいで、という思考はどうやっても残る。


 それ以降言葉は無く、ただただ笑顔で僕の頭を撫で続けるスイト様。

 言外に、それ以上言うなとか、言ったら酷い事をするとかの脅迫に見えなくも無い。


 けど。


 けどぉ……っ。


「う、えぅう……」

「おー、泣け泣け。この後会議だから、急いで冷やさなきゃならねぇけど」


 頭を撫でて、時々兎耳にも触れてきて。

 近しい人でなければ、親友でも嫌悪感を覚えるらしい『ケモミミタッチ』ですが、それほど嫌な感じはしませんね……。

 フィオル様ですら、触らせた事はほとんど無いのに。……一応、ありますけども。


 ああ、それにしてもなんてみっともない。


 僅かな間とはいえ晒された、途轍もない恐怖から解放された反動か。

 はたまた、自分勝手に感じていた重圧が開放されたからか。


 どちらにせよ、そのせいで涙が止まらないのは困ります……。

 泣くなんて、初めてなので。ただ、泣いた後にすっきりする理由が分かる気がしました。


 溜め込んだものを一気に吐き出すから、すっきりするのですね。


 ……あと、5分だけ。

 そんな目を覚ます前のような台詞を何度か呟きつつ、スイト様の服をびしょびしょにして。


 それでも、すぐ笑顔に戻れるように。スイト様には、もう、涙を見せたくないから。

 というよりも、スイト様以外に見せられないと思います……恥ずかしすぎて。


 濡れてしまった制服を急いで洗い、炎と風の魔法で乾かす。

 黙っていても乾きますが、それでは時間が足りません。それに、今すぐ用意できる衣服といえば、一ヶ月前にもスイト様が着ていた寝巻きぐらい。それで人前に出すなど言語道断です!


 さすがに僅かばかりの時間を必要とするので、その間は風邪を引かないようにと寝巻きを渡しましたが。手早く作業を済まさねば。


「乾きました!」


 目やその周りが真っ赤になっても、アイロンをかけたような仕上がりに。学校指定だというワイシャツは新品同様となったはずです。洗い始めてから10分程度。別に着替えなくても良い気がしましたが、スイト様は意外にも病弱なお方なので、万が一の事があってはなりません。


 ちなみにまだ石鹸だらけの服があるので、制服一式が揃うまではまだ時間がかかりそうですね……。


「す、すぐに済ませますから。待っていてくださいね、スイト様!」


 焦っている事を自覚しているからこそ、冷静さを心がける。異次元に物をしまえるアイテムポシェットから巨大なたらいを取り出して、一心不乱に石鹸を泡立てた。そこに自分の涙でぐしょぐしょに濡れてしまった制服を放り込み、洗う。


 洗っている間は妙な安心感があるのですが、今は丁寧に、素早く洗わなければならない念の方が強いですね。安心感にまったりするのはまた今度です!

 石鹸の良い香りが漂い、時々シャボン玉がどこかへ飛んで行く。


「なあルディ」

「はい、何でしょうか! これ以上スピードは上げられませんけれども!」

「そうじゃなくて」


 質問でしょうか。今は洗濯中なので、あまり難しい質問は答えられませんが、どんと来いです!



「暇だから、ルディの耳を触っても良い?」



「ファッ?!」


 奇声。自分でも驚くほど甲高い裏声が、響く。


 当然だ。

 僕に限らず、獣人や亜人は、耳、あるいは角など、種族特有の部分に触らせる事が非常に珍しいのです。それこそ家族や結婚相手くらい。潔癖な人は、親しい人にも触らせないくらいです。


 耳を触らせる事は最大限の愛情表現であり、信頼の証。

 それを、家族でも、まして異世界の人に触らせるなんて……。


 とは言いますが、さっき触られてしまいました、よね。

 まあ、この兎耳に誰かが触れる感覚は、その多くが嫌悪感となってしまうのですが。スイト様に触られた時は、そんな嫌な感じはしませんでしたし。


 うーん……良い、ですかね?


「す、少しだけ、ですよ」

「やった!」


 物凄く嬉しそうな声ですね。洗濯に集中しているせいでスイト様のいる後方へは目を向けられないのですが、それでも、声だけでスイト様が嬉しそうです。とても。物凄く。

 次の瞬間にはおそるおそるといった感じで触れてきて、ふにふにと感触を確かめたり、むにむにと揉んでみたり。くすぐったい気もします。フィオル様の触り方とはまた違いますね。


「ん、髪とはまた違う質感」

「そうなのですか?」

「ああ。髪はふわふわで、耳はさらさら、かな」


 凄く楽しそうにそう告げると、時々「おぉ」とか「ふわぁ」とか感嘆の声を漏らしつつずっと触っていました。それはもう、洗濯が終わるまで。


「あ、そうだ。僕以外のラビリスを見つけても、不用意に触らないでくださいね?」

「ん? 何で?」


 ……何でしょうか。スイト様は異世界の方ですし、僕等の常識を知らないのは当然ですけど。故に教えなければ気付かない事もあるでしょう。それを知っているのに……。

 何故か、イラッとします。無性に。どうしようもなく。


「良いですか? 僕以外のラビリスの耳には触らないでくださいね? 僕はスイト様だからこそ触らせたのであって、他の人にとっては不快である可能性が九割九部を占めていますから!」

「お、おう?」


 顔が熱くなりながら叫ぶようにお教えすると、スイト様はやけに困惑した表情で何度か頷く。

 本当に分かっているのでしょうか。不安になりますが、他人の耳や尻尾に触ろうとした時にまた注意しましょうか。まあ、する前に嫌がられるとは思いますけど。


 ただ、触らせようとする輩が万が一にも現れたなら、全力で排除します。

 自分を触る人が、他の種族や同族だとしても触っているなんて嫌ですから。


 異世界の方ならまだ許せますけど、本当に、それだけは、断固として! 譲れません。


 最後の洗濯物を乾かし終えて、ほっと一息つく。それから僕は、温かい制服をスイト様へ手渡した。

 ふぅ。お仕事完了です。


 そうだ。今度からスイト様の服は僕が洗いましょうか。スイト様が好きな香りとか、分かりますし。時々石鹸に使われている香水の香りに顔をしかめていますから、あれは使わないようにしましょう。

 僕は満足感に浸りつつ、乾いた服をスイト様に献上した。



ラビリシズム:

 ラビリス族全体で起こる生理現象の一つ。恋愛対象ではない同姓の誰かに、必要以上に依存してしまう現象。異性の場合は恋愛対象であると判断できるが、同姓同士に起こる現象のため非常に執拗な友情という認知で終わる事が多い。扱いとしては、親友以上恋人未満。恋人にすら相談できない事を相談する相手として求めるため、相手は自身に近い性格の者か、正反対の性格の者が選ばれやすい。あくまで本人達は無自覚であり、本能的に『癒し』を求めた結果という説が有力。


 決してそれは同性愛ではないのだが、それが異性であればまず間違い無く恋愛だと確信するような感情を持ってしまう現象。ラビリス族にしか現れない。いつから「そう」なのか、どうして「そう」なるのかは不明。ストレス性などでもないため、多くの学者が研究している今現在でも、理由は不明。本来家族などの身内にしか触らせない耳を自ら触らせる傾向がある。


 彼等は無自覚ながら―― 嫉妬深く、独占欲はかなり強い。

 彼等がもし、対象の者が他の何かに触れていたならば、全力で阻止するだろう。そしてもし、その一部でも見逃されているならば、そのラビリスはとてつもなく寛容で優しい性根の持ち主だ。そんなラビリスは極々少数であるため、出会えたなら大切に――



 ―― 以上が。



 ルディから俺に手渡された本の内容を確認した時、脳裏をよぎった回想である。


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