"穢れ"と"汚れ"
「おおぉ」
「なるほどこれがイスラム世界においての学術、経済、そして文化の中心で在り続けた世界都市……!」
「大きいですねー……」
「全くだねぇ」
「私も初めてここに来たときには驚きました。まさかここまで密に人が集う場所がこの世にあろうとは思ってもいなかったのでね」
運転席に座るイディが感嘆の声を漏らす。彼はどうやらもとからここカイロに住んでいたわけではないらしい。後で聞いた話では彼はここについ最近引越ししてきたらしい。その割にはすいすいと道を進んでいくものだからその時の私は全く気づかなかった。
カイロはいくつかの市街に分かれており、ナイル川東岸に近いタハリール広場がカイロの中心である。エジプト考古学博物館や現大統領府であるアブディーン宮殿がある新市街。そこから東にはイスラム世界最古の大学、アズハル大学がある旧市街。ここには死者の街と呼ばれる墓地が存在しており、カイロの拡大に伴って市街地に収容しきれなかった人々が墓へ住み着いているという。墓は珍しい形をしているものが多く、世界遺産に登録されているものも幾つかあるのだとか。
その他、新市街から南にはオールド・カイロ、この都市で最も古い市街地に加え、ベットタウンとして開発された東部、工場地域の北部がある。私たちはカイロ国際空港にほど近い東部市街地を走っている。
犇めく町並みを車で走り抜けている時、イディが唐突にこんな質問を投げかけてきた。
「時に、御陵さんは何故この街が"市街地"というもので区切られているのかご存知ですか?」
「へ?」
「む、君はそれを会う人全員に聞いているのかい?」
「もちろんですとも。ただの好奇心というのもあるし、人の
やれやれと肩をすくめるヴォネガット教授と「ふふっ」と何やら優雅な笑みをたたえるイディさん。この文化人たちに囲まれている一般peopleに属する私はというと、無い知識をどうにかひねり出すためにうんうんと唸っていた。
「えーと?何故市街地が街で?うん?違うな、街が市街地で区切られている……、んー?」
「おんやぁ?御陵ちゃんは私の言ってたこと忘れちゃったのかナー?」
「私の言ってたこと……」
助手席でニヤニヤ煽ってくるヴォネガット教授との会話を洗いざらい思い出してみる。
様々な旅路を経て、様々な國を見てきた。その國に根付いた様々な文化はそこに住まう人々の信仰や生活から生まれたものだった。それを説明してくれる時にいつも彼女が言っていたのは……
「―――"区切る"ことが意味を成すから?」
「ふふん!」
「ふむ、ふむ」
前部座席の二人は私の答えを聞くと思い思いに満足げな表情を浮かべていた。これは合ってたってことで良いんでしょうか?
「御陵さんはヴォネガット教授と共に旅をしたのでしたね。これは失礼、愚問でした」
「い、いえ。というかその、私はちゃんと理解できてるのか自分でも分かってないですし……」
「いや、十分に理解しているとも。いや、理解するのに必要なのはそれだけなんだよ」
彼女はまた、いつの日にか見せた少し淋しげな表情を見せたが、すぐにイディに向けてドヤ顔を見せつけていた。
「ふふん、私の助手は優秀だろう?」
「ふふ、そうですね」
「そうだろうとも、そうだろうとも!」
まぁ、何だろう。ここまで喜んでくれてるのなら良かったってことで良いのかな?
ひとまずほっと胸をなでおろしていると、イディさんが私の自信なさげな回答が合っているということを肯定してくれるかのように説明を始めてくれた。
「"区切る"ことが意味を成す、というのはですね、まぁより広範的な意味で言えば世界の区切りでもあるんです」
「世界?」
「例えば、旧市街にある墓地。墓自体は世界的、人類共通的文化の一つですがあれは生者の世界―――つまりは現世と死者の世界をつなぐ境界的構造物なんです」
「んー……。なるほど……、少し分かってきたような気がします」
「古来より死した存在と生ける存在は決して交わることのない存在です。生命体としての終焉を迎えた存在は決して生者の管轄する世界に影響をもたらしてはいけない。"死"というものは万物に普遍に訪れるものではありますが"死"の発露は力の発散が伴います」
「力の発散というのはあれですかね、墓地の雰囲気が違うとかそういうことにもつながります?」
「その通りです。飲み込みが早いですね。その"死"による力は人界を乱すことに事足りる。それゆえに"死"した存在は生者とは違う存在に区切り、生者とは違う場所に隔離することによって力を封じ込めるのです」
「なんだか魔術的な話になってきたと思っているだろうか要するにそういうことなんだ。私達が魔術的だと感じることの多くはこのアニミズム的思考、死体という形で現れる生者の恐怖が源流だと言えるんだ」
区切ることの意味。区切ることによって成される意味。生命としての死への恐怖が生み出した人類共通の文化が墓。
弔うことに意味が無いとは言わない。安寧たる眠りを祈ることに意味がないとは言わない。これはただ単純に、生命が遺伝子のコードの一節から理解している活動限界への恐怖だった。
「また、"死"とは穢れでもあります。普段私達が使っている意味とは些か異なりますが"きたない"のです。物の汚れとして"汚い"はゴミだったり、排泄物だったりは"死"と同様に嫌われ隔離されます。死体は者の汚れ、穢れとしてそれらと同様に人々に忌み嫌われるものなのです」
「汚れを嫌う……。文化とかアニミズム的思考の背景にはもしかして医療も関係あるのかもしれないですね……」
「ふむ、そういえば御陵さんは医療従事者でしたか」
「クリミア戦争において負傷者が兵舎病院で死亡したのは排泄物等の処理が出来なかった、不衛生な状況にて発生した感染症がほとんどであったと言います。ナイチンゲールがその状況を打開した故に死亡率は減少したそうです」
―――われはすべて毒あるもの、害あるものを絶つ。
ナイチンゲール・プレッジの一節、これこそが彼女が成した偉業の根底にあるもの。それと同時に原始風景に生きた最初の人々が歴史を積み重ねる間に無意識に理解したことでもある。
「さてと、難しい話はここまでですかね。もうそろそろ目的地に着きますよ」
イディさんの声で現実に引き戻される。いつの間にやらかなりの距離を走っていたようで周りの町並みはまばらな住宅街に変わっていた。
イディさんが一件の家の前に車を停める。
「着きました」
彼はそういって助手席と後部座席のドアを開けてくれた。
「良いねぇ、ジェントルマンだねぇ」
彼女の後を追って私も車から降りた。
「我が家へようこそ、ヴォネガット教授、御陵さん」
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