20/ <共感の遺変/オルト>1
――美しいものが好きだった。美しいものが世界を変えられると信じていた。
人々は覚えているだろうか?
あれから三十年の月日が過ぎた今、かつて人々が夢想した通り、
けれど、何もかもから置き去りにされた訳ではない。僅かなりとも上層の新技術は下層にも届き、遅々としていても街は進み続けている。例えそれが、国際博覧会の後に生まれた、最初の二層都市構想とは大きく違っていたとしても。
「まあロイス、綺麗な本!」
リカの茶色い髪がキールの肩に触れた。
ロイス・キールの手には一冊の本があった。上層の最新機械で刷られた本には、鮮やかな
キールの手にした製本はそれすらも越える、最新の本だ。くっきりとしたアウトラインを持つ印字に、絵画のように艶めかしい挿絵は見るものの心を躍らせる。上層ではこのような書物が誰にでも手に入るという。下層の粗粗しい活版印刷技術とはまるで別物だ。尤も、このような美しい印刷技術が流通する上層では、逆に
「これは、ポスター集かしら。凄いわね、こんなに色が滑らかで……こっちの印刷とは大違い。こういうものが作れるの? 機械でも?」
「そうなんだよ。凄いよな。これがそこらの本屋に置いてあるんだよ」
「ロイスもこういう印刷を、作りたいの?」
リカの問いに、キールは頷いた。
「ああ。そりゃ、こっちには金も、最新技術もないけどさ。工夫をすれば、俺達の印刷技術だけでも、今より良く出来る筈だ。俺は、この下層で、もっと良い本が作りたい。文字というのはただ、掠れた
「私も見てみたいわ、こんな本が下層の本棚に溢れる所を――」
◆ ◆ ◆
灰色の排気烟れる夜の街。表通りには街灯の明かりがぼんやりと浮かんでいる。その裏路地を、男は走る。石畳に溜まった汚水が跳ね、キールのズボンを汚した。
「ハアッ、ハアッ、ハア……ッ!」
薄汚れた路地には明かりがない。表通りの
「ハアッ、くそっ、そんな……!」
キールは泣きそうな顔で足を止めた。その視線の先にあるのはゴミが積み上げられた煉瓦壁。行き止まりだった。
「――お前、逃げ足はそれなりに早いよなァ」
背筋を這う、恐ろしい声がした。キールは震えながら振り返った。そこに、赤毛長身の男が立っている。その手に持つ、恐ろしげな機械刃が逆光の元で光った。
「あーあ、可哀想に。一人になんざなるから、こうやって追い詰められちまう」
「あ、アンタ、オレを逃してくれたんじゃ……」
「警察署から逃したのは、お前の為じゃねえよ。依頼されてるんだよ、お前を引き渡せってな。なるべく殺したくねえから、チョロチョロしないでくれると助かるんだがな」
キールは恐怖に息を呑んだ。ゆっくりと石畳を踏み、残忍に口元を歪めた赤毛の男が近付いてくる。だというのに、キールは一歩も動くことが出来なかった。その視線が、その動きが、キールが僅かでも動けば食い殺さんと牙を剥いているようだった。
「アンタは、アンタは、何だ……」
「俺は、殺人鬼だよ」
月明かりの下、闇を落す建物の影でその男は笑った。殺人鬼など、物語やくだらないゴシップの見出しでしか見ないような馬鹿げた言葉だ。だが、今この場で、キールの目の前に立つ、人の形をしたものを形容するにはまさしくそれが相応しい。
「下手打ったよなあ、お前みたいなザコがさ、あの
「コネリーが、オレを探して……? そんな筈はない、あの時、あいつから
「馬鹿だな、その程度の情報、探しだせねえわけないだろ。お前が死に物狂いで探してた
ジャックは灰色の樹脂で覆われた
「必死に探してたんだろうが、悪いな。こいつは二日前に俺が持ち出してる」
「あ……、あ……」
キールは自分の手を見下ろした。肌も、服も、下げた銃も、返り血で真っ赤に染まっている。けれどその全てが、無意味だった。最初から何かも失敗していた。
「……死にたくない、死にたくない……! 俺にはリカがいるんだ……俺は失敗した、俺は何もかも失った、でもあいつだけは……リカだけは守らせてくれ……あいつがまた笑ってくれさえすれば良い、金さえあれば、今の生活を何もかもなかったことに出来るだけの、金さえあれば……!」
無力に泣きわめくキールをジャックは冷めた目で見下ろした。
「お前の事は解ってる。下らねえ事業に失敗して、借金でクビが回らなくなって、下っ端のクスリ売りになった。それでもどうしようもなくって、コネリーから盗んだ品を何処かに売りつけようとしたクズだろ。――だが一つ、知りたいことがある。お前の見た、怪物だ。あの
「し、知らない……。俺は仮面の女に言われた通りに、あの取引現場に行っただけなんだ、俺だって信じてなかった、怪物が現れて、取引をめちゃくちゃにしてくれるなんて……!」
キールは嘘と思われぬよう必死に喋った。ジャックは溜息を吐く。
「はー、役に立たねえな、お前」
「……っ……!」
ビクリと肩を震わせるキールに、ジャックはその得物を向けた。幾つもの鋭い歯が並ぶ
「ま、良いや。俺は俺の仕事をするだけだからな。……動くなよ? コネリーの要望なんざ関係がない。抵抗すれば、手前を殺すからな」
凶悪に並んだ細かな刃がキールの喉を冷たく撫でた。……それは死の誘いだ。命があるにせよ、ないにせよ、この金属の冷ややかさが、全ての終わりを告げていた。
建物の向こうでは、仕事を終え、夜を楽しむ人々が歩き始めている。暖かなレストランの照明が、この裏路地に届くことはない。
……だがそこに、現れるモノがある。
――闇が、落ちた。
白い月明かりがふつりと途絶える。
暗がりの路地の上。見上げた先に、それは在る。
幻想を纏い、空想を糧にして。
架空の空から、現実へと仮初の形を作り出す。
そして――それは顕現する。
薄い霧が覆う夜、白い月が浮かぶ空に、獣の形をした耳と牙。ギチギチと鳴らす体は見窄らしい獣毛に覆われ、防病マスクのような赤い二つの目。病んだ狼を思わせるそれの、獣の爪を持つ巨大な腕にはぐるぐると纏わりつく白い包帯は夜闇にも明るい。脚部はなく、幽霊のような襤褸布を下げた腰部が、無気味に宙へと浮かんでいる。
「え、な――」
有り得ぬ存在を前に驚愕に目を見開くキールの襟首をジャックは掴んだ。キールの体がぐいと引き寄せられ、後ろへと放り投げられる。
「
ジャックが愉快げに笑った時、背後から軽い足音がした。
「ジャック!!!!」
「おう、丁度良い所に来たな。間に合ったぜ?」
路地の角には、肩で息をつく灰色の目の探偵の姿があった。追いつくようにその後ろから、銅色の仮面も姿を現す。ジャックを見たシャノは一瞬眉を寄せたが、すぐにその向こうの不気味な影に気付く。
「あれは――
「おう、丁度お出まししたばかりだ。お前らが中々追いついて来ねえから、本当にこのザコを殺さなきゃならねーかとヒヤヒヤしたぜ」
「……こっちも本当に殺すつもりかとヒヤヒヤしたよ」
「ハハハ! 名演だったろ。本心だったからな」
まるで裏切ったことなどないというように、ジャックは愉快げに笑った。
「ジャック」
「何だよ」
「また変なことを企んでる訳じゃあないよね」
「なーに言ってんだ。変なことなんざしてないだろ? 全部上手く行った。ま、多少クソジジイのハナシに乗りはしたが」
「あーもー……、これが終わったら一時間くらい文句を言うからな、グリフィンが!」
「一時間で足りると良いがな」
グリフィンが物言いたげに呟いた。シャノは駆け出し、石畳に倒れたキールを庇うように立つ。
「キールさん、あれに触れられるだけでも危険だ、後ろに!」
「……ダメだ、アンタたち、オレを捕まえに来たんだろう……妻がいるんだ、オレが捕まったら、誰があいつを……!」
キールは苦しげに呻いた。この探偵たちに頼るということは自らの身を預けることだとキールは理解していた。――だが。シャノは困った顔でキールを見た。そして言葉を選びながら口を開いた。
「キールさん……奥さんは、亡くなられています」
「え――……?」
「……奥さんは、半年前に亡くなられています。部屋で、首を括られて」
一瞬、その言葉が聞き取れず、キールは呆然とした。
キールがここまで落ちぶれ、悪事に手を染めてまで足掻いていたのは全て妻のリカとの穏やかな時間を取り戻すためだ。全ては彼女の笑顔をまた見るために、彼女を幸せにするために――否。否。頭痛が走る。キールは苦しげに頭を抑える。
――いやちがう、ちがった、逆だったんだ。オレは、あいつがいなくなったから、挟持も自らの身も投げ捨てて。
『ロイス、もう、諦めましょう……? 上手くいかなかったのよ、この仕事は……』
『安心してくれ、次の仕事が取れさえしたら、大金が入る。だからもう少し信じてくれ。キミが信じてくれたオレを、オレは信じてる』
その日の夕方、リカは天井からぶら下がっていた。
――リカはもう笑わない。当然だ。死んでいるのだから。
<――ルルルル……
立ち並ぶ窓のぼんやりとした明かりが、闇に飲まれたように消えた。
仮初の現界は成る。此より、周囲は幻想へと隔絶される。
「キールを狙わない……? いや、こちらのことも……」
シャノが訝しんだ通りだった。以前出会った時、この
「……
「キールも元型じゃない……。じゃあ、誰が……」
「――ご苦労様だ、殺人鬼クン」
――何処からか、声がした。しわがれた声はくつくつ笑い、上から飛び降りた。細身の影が地面に着地し、一瞬でジャックの持つ
「しまっ……!」
影の動きに気付いたジャックの顔が歪んだ。だが遅かった。
見るからに高級な杖が地面を叩いた。老齢に見合わぬしなやかな動きで、その男の黒い外套が翻った。
「ハッハッハ、油断したねえ! 私に気が付かないとは。キミといえど、恐ろしげな怪物を前にすれば注意が逸れるのも無理の無いことか」
夜にも関わらず、その老人は黒眼鏡をかけていた。エドガー・ベーコン。ブラックドッグを率いるウル・コネリーの腹心の一人、『豚飼い』と渾名される男は、奪い取った
「やあ、シャノン」
空から、シャノにとって聞き慣れた声がした。けれどそれは普段とは少し違う。何時もなら、暗く冷えた地下酒場で聞く声は、空の下で聞くとよく通って聞こえた。
シャノが上を向けば、建物の非常階段の高みで、黒髪の秀麗な顔がニタリと笑った。派手な色のスカーフが夜風に揺れた。
「ご苦労さま。俺の思う通りに動いてくれて――本当に助かるよ、アンタはね」
シャノは男を睨みつけ、その名を呼んだ。
「ウル・コネリー……!」
「そうさ。この――オレだとも!」
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