第2話 人狼<ライカンスロープ>
1/ 狂った狼が吠える街 1
――死よりも辛い苦しみというものがある。
体が焼けた。血が燃えた。心が狂った。
覚束ないままに、叫び、手を伸ばす者がいる。
押し寄せる影の中、這いずり、藻掻く者がいる。
手足が焦げた。目玉が泡立った。脳が煮え立った。
救ってくれと願った、殺してくれと願った、それらが聞き届けられることはない。
いつか訪れる苦しみの果て、その願いも存在すらも、失われるまで。
血の滲んだ喉からは声が枯れ、足掻いた手からは爪が剥がれ落ちた。
もはやそれは人ではなく。もはやそれは獣の様相で牙を剥いた。
――そうしてようやく、獣は死ぬことが出来た。
◆ ◆ ◆
――シャノン・ハイドが帰宅した時、壁には穴が空いていた。
「……え」
ここは大都市テムシティ、科学華やかなる上層都市とは縁遠い、置き去りにされた下層都市の片隅にある古ぼけたアパルトメントだ。
家を出る前、部屋のそこには確かに、見慣れた薄汚れた壁が今日も変わらずあったはずだった。しかし、今やそれはポッカリと人ひとり通れるだけの穴が空き、隣の部屋がすっかり見えていた。
「お。帰ったか」
ソファにのんびりと寝そべっていた長い赤毛の男が古雑誌から顔を上げた。この家の居候、快楽殺人者、切り裂きジャック。今はジャックを名乗る男。
「これ、何があったんだ……?」
シャノは状況を理解しようと、ジャックに尋ねた。
「俺じゃねえぞ? グリフィンの奴が……」
「戻ったか、シャノン」
すっと、開いた壁の穴から現れたのは安い部屋に似合わぬ、生地の良い白と紺のコート。そして頭部には表情というものを一切見せない、銅色の仮面。仮面には六つの黒穴が空いているがその奥を見通すことは出来ない。
「グリフィン、何でそこに……隣、人住んでたよね?」
シャノの疑問に、ジャックがオレンジジュースの空き缶を弄びながら笑った。
「安心しろよ、痕跡は一切残してない」
「……」
シャノは無言で電話台に向かった。
「落ち着け、シャノン。大家に確認した所、隣人は三ヶ月前に引っ越していた。私は空き部屋を借りただけだ」
「冗談だよ冗談。俺でもそこまで簡単に殺すわけねえだろ。っていうか御前、隣が引っ越したの気付いてなかったのか……? 三ヶ月の間も? この薄壁で?」
「……全然知らなかった」
「「…………」」
グリフィンとジャックはやはりと合点した。シャノン・ハイドは生活力が低かった。壊滅的ではない。食材は買う。掃除機も掛ける。しかしよく見れば、ぽつり、ぽつりと抜け落ちている所が目につく。生ゴミは捨てるが、腐らないゴミは溜め込みがちだとか。空のティッシュボックスの上に新しいティッシュボックスが積んであるとか。
昨日、ジャックがキッチンのとある封印された戸を開くと、中には割れた皿や取り返しの付かないほどに焦がしたフライパンが隠されていた。
『捨てる週が決まってるから、何となくずるずると、出し忘れて……どうせ腐らないからまあ……』とは本人の弁。
一昨日は卵の賞味期限が危ないからと、夕飯が卵料理一色に染まった。実際はまだ数日かけて消費して良かったにも関わらず。ジャックは無言で料理を食べるグリフィンを哀れみ、夜中にそっと深夜営業の小売店へ連れ立った。
一つ一つはありがちなことだが、この一週間ほどでそういうことが数多にあったため、二人の結論は――こいつに任せきりにしていてはいけない、ということだった。
「借りたって……隣の部屋をか?」
「ああ。三人で御前の部屋は手狭だろうと思ってな」
"切り裂きジャック"事件の後、何とはなしにグリフィンとジャックはシャノの部屋に住み着いていた。しかしシャノの借りている部屋は決して広くはなく、三人で住むには確かに快適とは言い難かった。
「それで、壁に穴を開けて隣と繋げたのか……。大家さんに怒られないかな……」
「出る時に修繕すれば問題なかろう」
グリフィンは杜撰な話を口にした。金銭頼りの大雑把な解決策だったが、空き部屋が多く、入居にほぼ条件のないこの寂れたアパルトメントでは、実際にそれで済みそうでもあった。グリフィンは真面目な割に時折手段が豪胆だった。
「それよりもシャノン。体調に変化はないか」
シャノがコートを脱ぐ様子を見ながら、グリフィンが尋ねた。
「大丈夫だよ、何ともない」
「そうか、なら良いが……」
「あの力自体は便利だったんだけどね。何でだろう、怪異の中心が明るく、輝いて見えて」
「……推測するに、あの力は君の求めるものを指し示したのだ。君は
「ああ、それは便利、部屋の中でよくペンを失くすから」
シャノはコートを壁に掛けながら冗談めかして言った。
「元は人ならざる力だ、繰り返し使うことでどんな影響があるか解らない。君自身が変質し人でなくなる事もありえる。力が表れる条件が解らない今、気をつけても仕方のないことだろうが、気には掛けていてくれ」
「うん、ありがとう。心配かけて悪いね」
シャノは明るく言った。一度恐ろしい怪異を前にし、ありえざる視界で世界を見たにも関わらずその気負いのなさも、グリフィンの案ずる所の一つではあるのだが。
「私も出来ることをするというだけだ。くれぐれも……」
グリフィンが繰り返そうとした時、ジャックがうんざりした声を上げた。
「ハイハイ、はーなーしーが長ーい。御前、見た目は怪しい癖に心配症だよな」
グリフィンはムッとした様子で赤毛の男を見た。
「貴様のような本物の不審者に言われたくはない」
「俺は社会に溶け込める不審者だからな、これまでノー職務質問、ノー通報。つまり、傍目には怪しくない――実際には人殺しだろうと、だ」
「……今朝もフツーに近所の人と挨拶してたね」
始めの頃はシャノも殺人鬼を住まわせることに当然不安があったが、今の所ジャックは何のトラブルも起こさず、寧ろ何も知らぬ人間からは気さくな若者とすら思われているのだった。シャノは難しい表情でジャックを見た。
「少しでも悪さをしたら叩き出すと思ってたけど、そんな様子もないからなぁ」
「だろ? 俺はちゃんと大人しく出来るんだ、良い殺人鬼だろ」
「あとはそうやって人を煽る発言をしなければね」
「これは、俺の愛嬌みたいなモンだから」
悪びれないジャックにグリフィンは溜息を吐いた。
「救いがたい男だ。いつか貴様に因果が巡ってくることを祈る」
「そうなると良いな? ま、俺は祈りなんてものが通じたトコなんて
ジャックは下卑た笑いを浮かべた。グリフィンは無言。シャノは肩を竦め、コーヒーを淹れようとキッチンに向かった。
グリフィンとジャックのこういった小競り合いはよくあることで、最初は止めるべきか、グリフィンに加勢すべきかと悩んでいたシャノだったが、最終的には放っておくのが一番だと心得た。両者とも本気で相手をどうかするつもりはない、いずれは互いに距離感を掴むだろう。
グリフィンはキッチンの
「……なるほどな。祈るだけでは何も起こりえない、確かにその通りだ」
「だろ?」
グリフィンが自分のからかいを肯定したことに、ジャックは満足そうに頷いた。
「――つまり、望むことは自分の手で果たせと受け取った」
「グリフィンとジャックも何か飲むー? あとジャックは程々に――」
カップを手に持ち、キッチンから顔を出したシャノは目にした光景にぽかんとした。
カチリ。
「あ? 何だこれ」
グリフィンの赤茶色の手袋がジャックの首元から離れた。ジャックは怪訝に己の首に触れた。皮のバンドのような感触。グリフィンはソファに寝転ぶジャックの頭を無表情な仮面で見下ろした。
「首輪だ。貴様が悪さをすればこちらの任意で爆発する」
「はァ!?」
「あーあ……」
淡々と冷たく告げるグリフィンを見て、シャノは額を抑えた。
「偶然用意があってな。貴様が不快な行動をとりそうならば使用しようと思っていたのだが、こんな早くに使うことになるとはな」
「何が偶然だ、サイズぴったりじゃねえか! くそ、これどう外すんだ!?」
ジャックは嵌められた首輪のようなものを弄るが、金具は何かしらの仕掛けでしっかりと閉じており、開く様子はない。
「安心しろ。市販のチョーカーにフィア片石を仕込んで改造したものだ。知らぬ者から見ればただのアクセサリーに見えるだろう」
「ハ、そのくらい引きちぎれば終わりじゃねーか」
ジャックは嘲ったが、銅色の仮面は変わらず静かにその顔を見下ろしていた。
「無理に外すつもりなら我々から離れた所でしろ。自動爆破の余波がこちらに及ばぬように」
「おまっ……マジで言ってんのか」
「その程度の対処は予想している。当然、”マジ”だ」
ジャックは引きつった顔でグリフィンをじっと見た。グリフィンは仮面の下から見つめ返した。
「シャノー……」
やがてジャックは情けない声でもう一人の同居人に助けを求めたが、シャノは静かに告げた。
「……からかい過ぎたジャックが悪い。グリフィンの怒りが収まるまでは大人しくしておくんだな」
「クソッ、見捨てやがって。贔屓だ贔屓、常人贔屓。恨むからな。夕飯から肉を減らしてやる」
「反省しないと期間が伸びると思うぞ?」
「私はいずれ外すとは一言も言っていないがな」
「優しくしろよー、まだ一般的なトークに慣れてねえの。大目に見ろ」
「先程は社会に溶け込んでいると自慢げだっただろうが」
ジャックの主張には取り合わず、毅然とした足音を立てグリフィンがソファから離れた時だった。ギギイ。錆びついた音を立てて玄関が開いた。
「おいシャノ、不用心だな、鍵はかけておけよ。今は外付けの
「お、おじさん……!」
片手に包みを持ちノンビリと現れたのは、シャノの知人であるジョン・ブロディだった。ブロディは空のカップを手にしたシャノを目に留め、それからこの若者の部屋にいる仮面の男と赤毛の男を見た。
「なんだそいつら」
「ええと。ルームシェア」
冷や汗をかきながら、シャノは何とか言葉を選び取った。
「隣の部屋ブチ抜いてか」
ブロディはぽっかり開いた壁の穴を見た。
――まずい。シャノは焦った。同居人が増えたことに気を取られて、ブロディにどう誤魔化すかというのをスッカリ忘れていたのだ。この正体不明の仮面男と連続殺人犯のことを。世話を焼いている若者の部屋に突如現れた、見るからに怪しげな二人にブロディは顔を顰めた。
「色々あって……こっちがグリフィン、あっちがジャック。二人とも、この人はブロディさん。知り合いの警察官だよ」
大人しくしておいてくれ、という意味を込めて、シャノは警察官を強調した。グリフィンとジャックは努めて無難に振る舞った。
「どうも。シャノン・ハイドには数日前から世話になっている」
「宜しく、ブロディさん。俺なんか淹れてくるわ」
「いい、気を遣うな」
ブロディは
「……シャノ。御前また変なこと始めてるんじゃねえだろうな」
「いや、そんなことは。普通の人たちですって」
「どう見ても怪しい連中だろうが」
ブロディは仮面姿のグリフィンを見、それから眉を寄せてジャックを見た。
「……その、信用ならないかも知れないが、我々は決して彼に害を為そうというつもりはなく……」
「あー、いい、いい」
出来る限り誠実に話そうと試みるグリフィンをブロディは制止した。
「今は何も言わん。コイツの決めたことだし、ヘラヘラしてるくせに頑固だから言うことも聞かないだろうよ。だがな、コイツに何かしたら俺が御前らを必ず追い詰める。覚えておけよ」
「ああ。分かった」
「チッ、素直なやつだ。おいシャノ、デイジーから預かってきた、夕飯にでも使え」
グリフィンから視線を外すと、ブロディは妻からの包みをシャノへ渡した。ズッシリとした重みが手に乗り、耐熱
「豚シチューですね、いつもありがとうございます」
「良いか、無茶もヤケもやるんじゃねえぞ。何があったとしてもな」
「はい、分かってますよ」
「チッ、いつも返事だけは殊勝なんだからな」
ブロディは頭を掻き、溜息を吐いた。
「信用がないなぁ、わたしはおじさんを信用しているのに」
「残念だったな、俺が御前を信用したことなんざ一度もねえ、この不良が」
「あいて」
ビシ、と額を指で弾かれ、不満げにシャノは額を抑えた。
「じゃあな、シャノ。俺は仕事に戻る。繰り返すがそいつらに感化されてバカはするんじゃねえぞ」
「あはは、大丈夫ですよ、寧ろ彼らが止めてくれますって」
ブロディは複雑な表情で玄関から見送るシャノの後ろを見た。じっと様子を見守るグリフィンとジャックを。そして深く息を吐き、軽く手を振るとアパルトメントの階段を降りた。
「……緊張したな」
玄関の扉が閉まる音を聞き、グリフィンが息をつき、座り込んだ。ジャックが頬杖をついて呻く。
「何もしてないのにスゲー睨まれた。経験で悪人を嗅ぎ分けるタイプだな。やだなー」
「うーん、心配されてるなあ」
シャノはまだ少し温かさの残るシチューを見た。ブロディが来たのは"切り裂きジャック"事件の直後だからだろう。シャノにとっても多くのものが失われた事件。
「善人だな」
「そうだね、凄く良い人だよ、いつも世話になってる。怒るとおっかないけど」
感慨深く呟くグリフィンにシャノは頷いた。
「あの警官、よく来るのか?」
「そんなでもないよ。でも時々は顔を出しに来るし、街でも会うだろうね。逃げ出すなら今の内かもよ?」
シャノはクスリと笑い、ジャックもそれを鼻で笑った。
「バーカ、誰がこのくらいで逃げるか。お前らも困るだろーがよ。こっちの爆弾首輪のほうが余程困るんですけどー?」
その抗議をグリフィンは無視した。
◆ ◆ ◆
そこは地下。石造りの壁に囲まれた冷たい場所で、僅かなオレンジ色の明かりが揺れる。そこは酒場の奥にある特別な部屋だ。
ウル・コネリー。酒場ブラックドッグの店主、そして情報屋
「――なるほど。話は解った」
コネリーは洒落たカーペットの上に転がる粗野な男の死体を踏み、頷いた。
「つまり、だ――その本来ならば全く無関係と思われる死体たちには、共通点があるワケだ」
コネリーの前には二人の男が居た。彼らは
――参謀、『猛牛』のギブ・バイロン。拷問官、『豚飼い』のエドガー・ベーコン。
左頬に大きな傷を持つ義眼の男、バイロンは太い指で粗い金属版のインクで刷られた書類を捲り、答えた。
「ええ。これらはまだ表立ってはバラバラの事柄と思われていますが、幾つもの似通った点がある」
「おやァ、では何故我々以外の誰もそれに気付いていない?」
大きな丸い黒眼鏡を掛けた老人、ベーコンがくつくつと気味悪く笑った。その手には床の男を撲殺した高級そうな杖が握られている。バイロンは静かに続けた。
「それは当然、死んでいるのが下層のクズどもばかりだからですよ。そんな奴らが死んだ所で、家族以外から気に掛けられることなどありません。一年経てば存在したことすら希薄になる価値のない奴らです」
バイロンの物言いをコネリーが宥める。
「オイオイ、そういう言い方はよせ。死人にはウチの構成員だって含まれてるンだぜ?」
「アッハッハ、ウル、何を仰る、ウチの構成員なんてクズばかりではないか!」
口元を大きく歪めて笑う黒眼鏡の老人に、やれやれとコネリーは肩を竦め、諭すような表情で嘯いた。
「エドガー、そういうのは慎むのがいい大人ってものだよ」
「男子いつまでも少年とも言いますな」
「じゃ、さっきの台詞、孫娘に聞かせられるかい?」
「いやはや、絶対に無理だねェ!」
「本題に戻りますが」
コネリーとベーコンの益体もないやり取りを聞き流し、バイロンは封筒から取り出した写真を並べた。数枚の写真に映されたのは全て人間で、その目を狂った獣のように血走らせ、歯を剥き、涎を垂らして絶命していた。どの死体も一様に肌に謎めいた斑点を浮かべていた。これらの全てはよくある熱病として処理されている。
「さてさて。連続する不審死。そして犯人は人間じゃないと来た。ヒヒ、良いじゃないか、事件だよ。面白いじゃあないか!」
コネリーは愉快そうに口元を歪めた。フム、とベーコンも興味深げに杖を弄ぶ。
「人間ではないとすれば、はてさて獣か、それとも――」
「――"怪異"か」
コネリーは笑いかけた。
「――だろ?」
二人は静かな目で、無言。
「ヒヒ、良いじゃないか"怪異"!オレたちにも知られず、夜闇を切り裂く怪人がこの街を這いずっている! 非常に――面白い!」
コネリーは死体の写真を眺めると、パラパラと楽しげにばら撒いた。それから思い出したようにバイロンへと尋ねる。
「表立っては、と言っていたけど、新聞屋のアンドレアスはまだコレを嗅ぎつけていないのかい?」
「まだのようですが、すぐに彼の耳にも入ることでしょう」
「手を打つなら早めに、というコトか」
「何か使える奴がいるかね、ウル」
ベーコンの言葉に、コネリーはニタリと笑い、邪な表情で目を細めた。
「ああ――"探偵"に心当たりがある」
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