エンドロールのその先は
卯月草
『穴』
大学生になった春。俺は実家から、この大学近くのアパートに引っ越してきた。家から通えないわけではなかったが、一人暮らしに憧れていた俺は親に無理を言って何とか許可をもらった。しかし住んでいるここは1Kのぼろいアパート。俺は三部屋ある二階の真ん中の部屋に住むことになったのだが……。
「くっそー……」
越してきて一番困ったのは、壁の薄さだ。玄関から向かって右隣には同じくこの春から越してきた男子学生が住んでいる。不安もあった一人暮らし。隣人への挨拶は緊張したものだが、同い年で物腰柔らかい青年を見て安心したのだ。だけどこんなことになるとは。
他人の女の喘ぎ声なんて聞きたくもないのだが、嫌でもこちらに漏れてくる。迷惑だと思っていても、耳をそばたてている俺は、我ながら情けないと思う。
俺だって彼女欲しいよ。入学してもうすぐ一カ月。男友達はできたものの、彼女はおろか女友達もいないのだ。まあ焦るなかれ。まだ一カ月。それに、俺はついている。
「あ、帰って来たのか」
左隣の部屋から鍵を開ける音がした。そこには一つ上の女子学生が住んでいる。挨拶しに行ったとき、俺はその人のあまりに可愛い容姿にこの出会いは運命だと思った。もしかして同じ大学ではないか、と思ったが残念ながら違った。彼女は最寄駅から二駅先の女子大に通っているらしい。だとすれば彼氏のいる可能性は低い! なんてことを思いながら俺は彼女との距離を縮めるべく日々考えを巡らせている。まだ何もいい案は浮かばないでいるのだが……。
「あれ……こんな穴、あったか?」
彼女側の壁。そこに小指くらいの穴が開いていることに気付いた。瞬間俺の脳内は一つの考えに支配された。ここから彼女の様子を伺えるのでは? いやいや、ダメだそんなこと。それに向こうまで見えるかなんて分からないじゃないか。そうだ、分からない……。
「確認するぐらいなら……いいよな」
俺はあまりにあっさりと欲に負けた。おそるおそる左目を近づけ穴を覗く。
「あっ……」
彼女が見えた。長い黒髪が綺麗な曲線を描いた背中に垂れている。彼女の体の正面がこちらに向いた。俺は咄嗟に体を退く。着替え中なのか彼女は服を着ていなかった。あのまま覗いていたら……。俺は拳で頭をごついて自分の浅はかな考えを打ち消した。
「この穴、どうすりゃいいんだよ」
運がいいのか悪いのか。翌朝玄関を出ると、彼女も同じタイミングで部屋を出てきた。喜ぶべきところなのだろうが、昨日の今日である。彼女と目が合った瞬間、あの綺麗な背中が脳裏に浮かんだ。
「ねえ」
「はっ、はい!」
もしかして覗いていたのがばれたのか!? 声を掛けられ俺は明らかに動揺していた。
「今から学校?」
「はい、そうです……」
「そう、私も学校。けど気が変わっちゃった」
「へ?」
彼女は俺の腕を掴んで引き寄せた。細い腕からは想像のつかない強さで引っ張られ、抵抗する間もなく彼女の部屋へと招き入れられた。
「なっ、何ですか!」
「穴、気付いたでしょう?」
やっぱり気付かれていた!
「い、いや! 覗くつもりはなくて……!」
「あの穴、私が空けたの」
え……? 俺はゆっくりと、俯いていた顔を上げた。そこにはあの可愛らしい容姿はそのままに、優しい悪魔の表情をした彼女が、こちらを挑発的に見ていた。
「今日は学校、サボっちゃおっか」
「はい……」
俺はその瞳に吸い込まれるように、彼女の小さな世界に足を踏み入れてしまった。
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