緊急の客
キヨ
緊急の客
夜も更けた時間、吉乃は自室で本を読んでいた。恋愛を経験したことのない吉乃は、恋愛小説を読むのが好きだった。自分がヒロインになっているような感覚を味わっているのだ。夫時久とは、恋愛結婚ではない。だが、時久が自分を大事に想っていてくれることは、
吉乃自身分かっていた。そう、今の九条邸は、吉乃しかいない。時久の母は旅行に出かけ、時久自身は夜勤だった。
「(ちょっと……、怖いな。今、私一人なんだ)」
少しだけ、吉乃が身震いした。そう、一条院吉乃はいつも命を狙われているのだ。吉乃は読んでいた本を、本棚にしまうと、ベッドへ潜ろうとした。と、そのときだった。
玄関の方から、がちゃり、と鈍い音がした。吉乃は息を呑んだ。そっと立ち上がると、吉乃は玄関の方へと足を向ける。
「どちら様でしょうか?」
おっかなびっくり吉乃が玄関に声をかける。すると外から、
「九条の奥方さんか?」
聞いたことのない、男性の声だった。
「は、はい……」
「少し……、助けてくれないか。俺は九条の同僚兼先輩だ」
その言葉を聞いた吉乃は少しだけ表情を緩めることができた。小さく玄関に向かって頷くと、玄関を開いた。
血まみれの男がなだれ込んできた。オールバックの髪に、若干白いものが混じっている。夫の先輩、というのは嘘ではなさそうだ。血まみれの男を見て、吉乃の顔が青ざめた。
「あの……、今すぐ救急車を呼びましょうか?」
たどたどしく吉乃が言う。が、男がそれを拒んだ。
「それだけはやめてくれ。ああ、そうか。九条の奥方さんは俺のことを知らないかな?」
怪我をしつつも男は小さく笑う。
「俺は藤堂昌也。まぁ、さっきも言ったが九条の同僚兼先輩だ。よろしく」
血まみれの手で昌也は吉乃に握手を求めたが、吉乃は手を出さなかった。
「夫がいつもお世話になっております。私は、一条院吉乃と申します。こちらこそよろしくお願いします」
吉乃は深く、昌也に頭を下げた。
「おや。”九条”吉乃じゃないのか」
昌也が小首を傾げた。
「藤堂様。これには事情がありまして……」
そこで吉乃は言葉を濁してしまった。いくら夫時久の先輩とはいえ、昌也にそれ以上話したくなかった。
「そう言えば、さっき言ったな。助けてくれないか」
少しだけぶっきらぼうに昌也が呟いたかと想えば、床に座り込んでしまった。
「大丈夫ですか!? 藤堂様?」
吉乃も慌てて座り込む。すると昌也は嫌な笑みを浮かべながら、
「怪我のせいだろう」
と笑っているのだった。
「笑っている場合ではありません、藤堂様」
吉乃にしては鋭い目線で昌也を見やった。
「吉乃さん」
さっきとは打って変わって、昌也は真面目な表情で吉乃を見据えた。
「何ですか?」
「俺の怪我を……、治してくれないか?」
昌也のその言葉に吉乃は絶句した。そう、藤堂昌也は最初から病院へ行く気などなかった。九条時久の夫人である一条院吉乃に治療してもらおうと考えていた。
「とっ、藤堂様。私に医療技術なんてありません」
きっぱりと吉乃は言うのだが、昌也は吉乃の細い腕をぎゅっと掴んだ。
「少しだけでいいんだ。今、俺は腕があまり動かせない。だが、医療器具なら多少は持っている。頼む、吉乃さん。俺は、病院へは行けない」
「藤堂様……。お伺いしたいことがあります」
少しだけ吉乃は声のトーンを落とした。
「なぜ、病院へ行けないのですか? 私がもし治療したら藤堂様は亡くなってしまうかもしれません。ならば確実に医師免許を取得している医師に診てもらった方が……」
その言葉に昌也ははぁ、とため息をついた。
「吉乃さん。今から俺が発する言葉を怖がっちゃいけない」
こくり、と吉乃が頷いた。
「俺はボディーガードの仕事と暗殺の仕事を兼ねている。ボディーガード中の怪我ならば病院へ行ける。が、そうでないときは普通の病院など行けない」
「つまり……、藤堂様は、暗殺の仕事中に怪我をした、ということですか?」
昌也の言葉に、吉乃は恐れおののいた。目の前にいる男は殺し屋ではないか。いくら夫の先輩だとしても、殺し屋である。いつ自分が命を取られても不思議ではないのだ。
「暗殺の仕事中じゃない。暗殺は既に済んだ」
昌也が遠くを見つめつつ、口を開いた。顔色一つ変えない昌也に、さらに吉乃は恐れを持った。だが、夫の先輩である。助けなければいけないことは、分かっていた。
「分かりました。手伝います。ですが……」
ここで吉乃は言葉を少し止め、
「私は器用な方ではありませんが、それでもよろしいですか?」
恥ずかしげに吉乃が言う。昌也は小さく笑い、頷いた。
ぱっと吉乃は立ち上がり、
「じゃ、藤堂様。私、手を洗ってきます。消毒しなくちゃいけないですものね」
それだけを言い残すと、吉乃は去って行った。
それから数分して、吉乃は戻ってきた。
「私が手伝っても本当によろしいのですか?」
「ああ。それより早くやってくれないか」
若干だが昌也はいらつきを覚えながらも、吉乃に言った。
「まずは消毒。ああ、俺の傷口だ」
昌也が消毒液を渡す。そんな昌也の顔を見た吉乃はまたもや青ざめる。
「傷口に……しみますよね?」
「当たり前だろ? だが、俺は平気だ」
その言葉を聞いた吉乃は、一気に昌也の傷口へと消毒液をかけた。強がっていた昌也の顔が青くなった。
「つ……次は……」
昌也の言葉が少なくなってきた。消毒液のダメージは予想以上に大きかったようだ。
「し、しっかりして下さい! 藤堂様!」
吉乃が昌也の肩を揺すぶる。だが、昌也の反応は鈍い。
そのとき、大きく玄関が開く音が聞こえた。
「大丈夫か、吉乃?」
玄関の前に立っていたのは、夜勤で会社に残っているはずの夫、時久であった。そう、手を消毒しに行ったとき、吉乃は時久に電話をかけていたのだ。
「時久様! 藤堂様が、藤堂様が……!」
吉乃は泣きながら時久の胸へと飛び込んだ。時久は吉乃を引きはがすと、昌也の元へと近づいた。そして、脈を確認する。脈はある。だが、弱い。と、そんなとき、昌也が時久をじっと見つめた。
「九条にまで恥ずかしい姿を見せてしまったな。悪かった。俺は吉乃さんにも迷惑をかけてしまった。あとは自分でどうにかする」
そう言った昌也だが、既に立ち上がることが困難な状態であった。だが昌也は必死に立とうとしている。
「駄目ですよ、藤堂さん! 無理をしないで下さい!」
時久が昌也の腕を引っ張るのだが、昌也は腕を引き返した。
「俺は……、後輩にまで迷惑をかけたくない!」
意地を張る昌也を見た時久はため息をつくと、
「すみません、藤堂さん」
時久は昌也の首筋に思い切り手刀を食らわせた。いくら空手の有段者である昌也でも、背後を取られてしまえば、自分より背の高い時久に勝ち目はなかった。倒れ込んだ昌也を担ぐと、時久は昌也を自分のベッドへと寝かせた。その瞬間、シーツが真っ赤に染まった。
「吉乃。お前はもう戻っていろ。これ以上この光景を見ていたら、気分が悪くなるかもしれない」
時久がくい、と顎で血にまみれている昌也をさす。吉乃は震えながらも、小さく頷いた。
「時久様……。藤堂様のこと、よろしくお願いします」
深く頭を下げると、吉乃は部屋を出て行った。
部屋に残されたのは、時久と意識の無い血まみれの昌也だけである。傷口はどうやら腕から背中にかけてある。消毒の後だろう、傷口が痛々しげだ。もちろん時久にも、医療知識はほとんどない。強いて言うのならば、野戦時の治療くらいしかない。部屋に置いてあるバックパックから、鎮痛剤を取り出した。そして、昌也の腕に注射する。それからしばらく、時久は昌也を見守っていた。顔にまで血のりがついている。とりあえず時久は、ハンカチで昌也の顔を拭った。
「藤堂さん。今、痛み感じます?」
試しに声をかけてみた。意識を取り戻したのか、
「今は……ない」
と短い答えが返ってきた。
「分かりました。俺ができるか分かりませんが、とりあえず傷口を縫合します」
きっぱりと時久は言うと、ピンセットで縫合針と縫合糸を持った。ごくり、と唾を呑みながら、時久は昌也の傷口を縫合していく。そんな作業をしているうちに、あっという間に時間は経っていた。
「終わりました。これで大丈夫です。藤堂さん」
時久は昌也に軽く声をかけ、肩を叩いた。すると昌也は薄目を開け、
「江……?」
後輩である時久を見、昌也は時久も知らない女性の名を口にした。
「何言ってるんですか、藤堂さん。俺は時久ですよ」
いたって真面目な表情をして時久が答える。
ふと、吉乃が時久の部屋の前に立っていた。
「どうした、吉乃?」
「お二人に……、お水を持ってきました」
吉乃はまず時久に水の入ったコップを渡し、次にベッドに横になっている昌也に渡した。すると昌也は吉乃の細い腕をぎゅっと引いた。
「な……何でしょうか? 藤堂様?」
昌也は吉乃を組み敷いていた。吉乃の目に涙が浮かぶ。
「江。やはり生きていてくれたんだな。俺はそれだけで幸せだよ」
さらに昌也は吉乃に迫る。そんな昌也に時久は回し蹴りを放った。そして、吉乃を引き寄せる。
「やめて下さい! 吉乃は俺の妻です。江ではありません」
「いや。彼女は吉乃という名前じゃない。江だ。俺の愛する江だ」
時久は思った。先輩である藤堂昌也は、意識が混乱している。
「誰が何と言おうと吉乃は吉乃です」
大きな声を時久は出した。そんな時久の表情を見、昌也はそっぽを向いた。
「すまない……。一瞬だが、吉乃さんが、江に見えた」
静かな声で、天井を見ながら昌也が呟いた。時久は首を傾げ、
「江とは……、藤堂さんの奧さんですか? ですが藤堂さんは……」
すると昌也は目を細め、
「藤堂昌也は独身、だと言いたいのだろう?」
小さく時久が頷いた。
「確かに俺は独身だ。だが、独身であって独身ではない」
若干だが不思議なことを昌也は呟いた。
「どういう意味です?」
「俺は、三十年くらい前に、江という名の妻がいた。だが彼女は、病気で亡くなってしまった。だから、俺は今、一人なんだ。でもな、これだけは言える。俺のすぐそばには、いつも江がいてくれる、ということだ」
そこまで言って、ふうと昌也は遠くを見つめた。時久は昌也に頭を下げた。
「藤堂さん。すみませんでした。つらいことを思い出させてしまい……」
だが昌也は小さく微笑み、
「いいんだ。江だって、そんなことでひがみはしない。それより、吉乃さん」
昌也は震えている吉乃を見据えた。
「さっきは悪かった。吉乃さんが、妻の江に見えたんだ。君と江は、どこか似ている」
その言葉の後に、時久が、
「藤堂さん。二度とこんなことしないで下さいね。吉乃がかわいそうです」
「九条、お前にも迷惑をかけてしまったな」
ふと昌也はベッドから起き上がった。縫合しただけの背中は痛々しい。
「包帯くらい俺が巻ける」
近場にあった包帯を器用に昌也は巻いていく。そして、近くに置いてあったシャツを着た。
「九条、世話になったな。……それと」
そこで昌也は言葉を止め、吉乃をちらりと見た。
「吉乃さん。君にはとても迷惑をかけてしまった」
深く、昌也は吉乃に頭を下げた。
「いいえ。気にしないで下さい」
とだけ短く吉乃は言った。あの時、吉乃は怖くてたまらなかったのだ。
「じゃ、俺は帰るよ」
ビジネスバッグを持つ昌也の腕に痛みが走る。が、昌也は表情に出さない。
「気をつけて下さいね、藤堂さん」
少しだけ注意するように時久が呟いた。
~~~
真っ暗闇の中を、昌也は歩く。どうせ家に帰っても、誰もいない。昌也には妻がいた。だがその妻、江は病がもとで亡くなった。昌也は空を見上げた。
「俺は……、一人なのか」
近くに原っぱがあったので、そこに座り込んだ。傷口が未だに痛い。はぁ、と昌也はため息をついた。
「江よ……。俺はいつそちらへ行ける? 俺は江に、会いたい。会いたくてたまらないんだよ」
昌也の瞳から、涙が一筋、零れた。
ふと昌也は、スーツのポケットから小ぶりのナイフを取り出した。そして、微笑む。
「そうか……。これで、江の元へ行ける」
昌也は己の首にナイフを近づける。
「今行くよ、江」
ナイフで首を裂く瞬間だった。後輩である時久に、ナイフを奪われていた。
「く……九条? どうしてここに?」
すると時久は、肩で息をしながら、
「藤堂さんが心配になって、後をつけてたんです。俺が来るのがもう少し遅かったら、藤堂さん、貴方は首を切っていたでしょう?」
昌也は黙ったまま、何も言えなかった。時久の言うとおりだからである。
「俺は江に会いたいだけだ。それ以上でも、それ以下でもない」
「だから……、江さんとの会い方が間違っているんですよ」
「どういう意味だ、九条?」
すると時久は伏し目がちになりながら、
「江さんはいつも身近にいる、と言ったのは藤堂さんじゃないですか。会えなくても、いつかは必ず会えます。人間には誰しも寿命があるのですから」
そこまで時久が言うと、昌也が、
「俺の寿命は今、なんだ。江も待っている」
はあ、とため息をついた時久は、思いきって昌也の頬を軽く叩いた。
「江さんは藤堂さんが自殺してまで待っているとは俺には思えません」
そして、昌也の瞳をじっと見つめた。
「本当に江は……、そう思っているのか?」
少しだけ時久は首を傾げ、
「俺がもし江さんだったら、愛する夫に自殺なんてしてほしくありません」
その言葉に、またもや昌也の瞳から涙がこぼれる。
「江……。お前は、俺がまだ生きていてもいい、というのか?」
昌也が、空を見上げていた。そんな昌也を、時久は腕を組んで見つめている。
すると、
「昌也さん」
どこからか、女性の声がした。
「江?」
昌也は周りを見回す。不思議に思った時久が、
「どうしたんです、藤堂さん?」
「江が近くにいる」
その言葉に少しだけ時久は驚いたが、
「分かりました。お二人の邪魔になるので、俺は帰ります。藤堂さん、死なないでくださいね」
そう言い残し、時久は原っぱを去っていった。
昌也の前に、肩まで届く黒髪の女性が立っていた。水色のワンピースを着、特徴的なイヤリングをしていた。
「昌也さん」
この女性は……、昌也の妻、江であった。昌也は一目散に走り、江を抱きしめた。
「江……! ずっと、ずっと会いたかった!」
さらりとした江の黒髪に昌也は触れる。
「い、痛いですよ。昌也さん」
そう言いながらも江はまんざらでもない様子だ。
「私も、昌也さんに会いたかったです。今、会えてとても嬉しいです」
にっこりと江は微笑んだかと思うと、いきなり表情を変えた。
「ですけど、昌也さん」
そこで江は言葉を切った。
「どうした、江?」
「私に会いたい、と思ってくれるのは、とても嬉しい。けれど、昌也さんには死んでほしくありません。私よりも生きてください。それが、私からのお願いです。だから、神様もお許しになって、私は昌也さんのところへ来たんですよ」
「俺が……、江なしで生きていけると思っているのか?」
訝しげな表情をする昌也に江は、
「私が死んでからだいぶ経ちました。昌也さんは、がんばって”今”
を生きています。それは私も知っています。だから、私が死んですぐに自殺しなかったのでしょう? 昌也さんは、己の任務に集中して、今まで生きてきました。そして、これからも」
江が言う瞬間、昌也は江の頬へ口づけをした。江の顔が真っ赤になる。
「生きてください。それが、私からのお願いです。じゃ、さよなら。昌也さん」
小さな笑みだけ残すと、江は消えた。昌也は、江の幻影を見ていたのだ。
再び、昌也は空を見上げた。おそらく江は、そこにいるのだろう。
「江……。今日は心配をかけてすまなかった。いつか、必ず会おう」
空に向かって昌也は笑った。そのとき、星がきらりと光った。
おわり
緊急の客 キヨ @Kiyo-1231
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