ジジたちの遊歩道(現代ドラマ)

「どうも、そちらも散歩ですか?」

「ええ、こりゃどうも。犬の散歩がてらですけれどねえ」


 ここに、二人のジジが出会った。


 偶然公園の同じベンチを見つけて同じようなタイミングで端と端に腰かけた。

 一人は三つ又の杖を手放せない八十代。

 もう一人は、こちらも同じく八十代。犬年齢で考えれば自分と同じような年代の老犬と毎日公園の遊歩道を散歩するのが日課となっている。杖は携帯していないものの歩みは亀よりも遅い。ただし犬ものろのろと遅いので散歩に差し支えはない。因みに自分はきちんと主人の下だと理解し歩調は必ず主人に合わせ、決して主人のリードを引っ張らないお利口さんな犬だ。まあ、実は単にもうそんな体力がないだけかもしれないが。


 今まで出会わなかったそんな二人が、この日互いを認識し合った。

 いやすれ違ってはいたかもしれないが、この遊歩道を散歩する人間は案外多く、互いを他の通行人同様意識しなければ記憶にも残らないだろう。

 今まで互いを知らなかったのが嘘のように、翌日から連日二人は顔を合わせるようになる。

 さすがにもう三日と同じ場所ベンチでばったり会えば、互いの心も少しは緩むと言うもの。


「今からここを散歩ですか?」

「ええ」

「でしたらどうです? せっかくですし、遊歩道を一緒に歩きませんか? 私も今からなんですよ」

「ああ、いいですねえ」


 そう三つ又の杖の男性が誘えば、老犬を連れた男性も快く応じる。

 二人が偶然にも散歩コースに組み込んでいる公園の遊歩道は、一周するだけでも普通の若者が歩いて二、三十分はかかる。公園中央部は広大な芝のフィールドになっていて、親子がピクニックやスポーツなんかを楽しめる場になっている。その周囲をぐるりと縁取るように遊歩道は整備されていた。低木や木立が歩道脇に植えられているので木陰もあって目にも優しい。

 二人のいるベンチから左回りで行くか右回りで行くかも自由だ。


「私は高橋と言います」


 三つ又杖の男性が帽子を脱いで軽く会釈をすると、会釈を返した犬連れの男性がその杖に目を止めた。


「ああ、本当だ。杖にきちんとお名前を書かれているんですね。偉いなあ。僕などは眼鏡入れや傘、酷い時にはバッグをよくうっかりしてしまうんですよ。先日はこの公園でもやってしまいまして……」

「いやーこれは私が杖をどこかに忘れても大丈夫なようにと、娘が油性マジックでいつの間にか書いていましてね。住所は小さめなので目立ちませんが、こんな文字が大きいと名前を宣伝して歩いているようで恥ずかしい限りですよ」


 二人はどちらともなく左回りで行くつもりで連れ立って歩き始めた。


「高橋カツオなんて良い名じゃないですか。僕は鈴木サトシといいます。同姓同名を病院で何度か見かけたことがありますよ。ある時はその方の番なのに自分が呼ばれたんだと思ってしまいまして、気まずい思いをしたものです」

「ははは私の方も高橋カツオなんてよくある名前なので似たような経験がありますよ」

「そうですか。最近の若者のような奇抜な名前だったら誰とも被らなくていいんですけれどねえ」

「まあそれも時代の流行りと言いますか、善し悪しはあるでしょうけれどね」

「まあ、そうですねえ」


 二人の歩調はゆっくりだ。

 どちらがどちらに合わせるというわけでもなく、双方の歩調が意識せずとも自然と合うのだ。リードの先ではよたよたと老犬も同じように二人に並ぶ。

 愛犬の手綱を握り直しながら男性が苦笑いを浮かべた。


「僕正直ねえ、口では呼べますが何人かの孫の名前を漢字で書けませんよ。普段読みではないので忘れてしまうんですよねえ。ヒュウガとキララって言うんですけれど」

「いやいやそれは駄目ですよー」

「やっぱり駄目ですかねえ」

「あとでこっそり漢字を覚えておかないと」

「ははは善処します」

「ええ、そうした方がいいですよ。お小遣いをあげる封筒にちゃんと漢字で名前を書いてあげたら顔には出さなくともきっと嬉しいはずです。私も苦労して孫の漢字を覚えましたよ。薔薇と書いてローズって言うのと、琉球の琉に絆と空と書いてルキアですから」

「それはまた……そちらも大変ですねえ」

「でしょう?」


 公園に、ははははと互いに笑い合う御老公が二人。

 周囲を歩いている人も比較的年配者が多いが、二人は何人もの人に抜かされて行く。

 その背中を目で追いつつ犬連れの男性が飼い犬へと目を落とした。


「ああ、因みに愛犬はごくごく普通にコロですよ。メスですがね」

「おお、コロちゃんと言うんですか。可愛いですね。シベリアンハスキーですよね?」

「ええ。僕と同じように老体ですけれどねえ。高橋さんはこのご近所に?」

「そうです。数年前に娘夫婦と一緒に」

「奇遇ですねえ。僕はつい二カ月三カ月前ですけど、息子夫婦と一緒にこの近所に越して来たんですよ。もう子供に面倒を見られる年になったと実感するのは辛いものがありますけれどねえ」

「同感です。気持ちはまだまだ若い者には負けないぞ、と気負っていますが、実際体力的にはやはり衰えを感じますよ」

「僕もですよ」

「とは言え、寝たきりは正直御免ですし、まだまだ頑張らないと」

「勿論ですとも。お互いに頑張りましょう」


 地面をしっかり踏みしめる二人の歩調が速まった。

 とは言っても微々たるものでやっぱり若者と比べるとまったりとしている歩みだが。


「私いつもはこの半分も行かないで引き返すんですけれど、今日は鈴木さんも一緒ですしはかどりそうな気がしますよ。これを機によくよく鍛えてみるのもいいかもしれません」

「ああ、いいですねえそれは。何歳になっても筋肉は付きますからねえ。……とはテレビの受け売りですけど。僕も高橋さんに便乗してトレーニングを始めましょうかねえ。最近足腰の弱りが気になりましてねえ」

「おお、ではどちらがより健脚に戻れるか競争といきますか」

「はははそうしましょうそうしましょう」


 その日、二人は張り切って遊歩道を一周した。


「鈴木さんは明日もここに?」

「の、予定です」

「じゃあ明日も会えるかもしれませんね」

「ええ。大体今日くらいの時間にと思ってます。会えるといいですねえ。誰かと話しながらの方が断然楽しいですし」


 二人は確約ではないものの緩い約束をした。

 翌日無理が祟ってあちこちが軋んで痛かったが、しかしここは腐っても男同士、言った傍からへばっていては名折れだと感じていた二人は、栄養ドリンクを一本消費し血行を良くするシップを貼ってもらってシャキリと背筋を伸ばすと、各自の家の玄関扉を開けて外へと踏み出す。


「ちょっと公園を散歩してくるよ」

「行ってらっしゃい。気を付けてね」


 と、一人は妻に見送られ、


「お義父さん、コロの散歩ですか?」

「ああ、うん。行って来ます」


 と、一人は嫁に見送られ、傍目には変化のなさそうな日課をこなすため、我が道を進む。





 公園入口の掲示板に地域防犯のポスターが貼ってあった。

 その隣には最近公園で起きた引っ手繰りや変質者出没と言った犯罪への注意喚起のビラも掲示されている。

 これまで、二人の老人はそれには一切気付いていなかった。

 そしてきっと今日も明日もこれからも気付きはしないのだろう。


「やあ鈴木さん。それにコロちゃん。会えて良かったですよ」

「僕もですよ高橋さん」


 一日ですっかり懐いたコロからの飛び付きぺろぺろ挨拶を受けながら、高橋カツオはうっかり倒れないよう三つ又杖を持つ手に力を入れる。気が済んだというよりも飼い主の鈴木サトシに「こらコロ」と窘められて離れたシベリアンハスキーをどこかホッと思いつつ、高橋は昨日と同じ左回りを促した。特に意味はない。気分で右から回ることもある。

 今日は日曜休日と言う事もあって芝の公園は昨日よりも賑わっていた。

 お互いに昨日の疲労など全く気付かせないまま、二人と一匹は別段戦術でも何でもない牛歩で遊歩道を歩いて行く。


「鈴木さん、今日も一周しますか」

「そうですねえ。歩いてみれば意外と結構歩けましたしねえ」

「ええ、ええ、そうなんですよ。実は私も自分でもびっくりしてるんです。何事も限界突破で挑んでみるもんですよホント」

「同感ですねえ」


 はははと互いに笑い合い、やはり前日の疲労を感じている足腰がキツイが、それをおくびにも出さない。本当にキツイのは数日遅れてやってくる筋肉痛なのだが、この時点で二人はそんな事は失念していた。

 高橋が広い芝生を穏やかな目で眺める。


「中の皆は楽しそうだなあ。こんな気持ちよく晴れたらそりゃまあピクニックだって捗るってものでしょうし」

「そうですねえ。僕も息子たちがまだ子供だった頃はよく外で飯を食べたものですよ。って言っても田舎の出ですから、農作業の合間に土手や畦道で弁当を広げたりしたのがほとんどですけどねえ」

「おっ! お宅も農家を? 実は私もですよ。果樹園を営んでいたんですが子供たちは跡を継いでくれなくてねー。なのでもう歳だからと閉めました。昔は収穫期の昼休憩に妻や手伝いの近所の奥さんがこさえた弁当を皆でパクパクと食べたもんです」


 懐かしく、少ししんみりと各各の思い出に浸る二人。

 コロの息遣いがそよ風に流れ、芝の方からは小さな子供たちの笑い声が遠く聞こえてくる。


「体力的には大変でしたが、僕にとってはいい時代でしたよ。今顧みるとそう思います」

「確かに。物に満たされた今は今で良い点もありますが、昔は今よりも心が豊かだったように思いますよ」


 うんうんとのんびり、けれど必死に平気なふりで歩を進めながら頷き合う彼ら。

 すると休日の騒がしさなのか、道の前方から何やら大声が聞こえてきた。

 掌をピシリと立てアスリートも顔負けな走行フォームで猛然と突進してくる男の後ろに数人の年配女性が続き、口々に何やら喚いている。


「ドロボー! ドロボーよ! お願い誰か止めてえええー!」


 とかそんな風な言葉を。

 見ればなるほど確かに男の手には女物のバッグが握られている。


「何と……!」

「白昼堂々の引っ手繰りですか! 世も末だ!」

「鈴木さん!」

「高橋さん!」


 顔を見合わせ頷き合うと二人は自分たちの方に近付いてくる若い男を見つめ、おどおどと身構えた。

 人相は悪くガタイは良い相手は、走る様子を見ても自分たちで敵うようには見えなかった。けれど犯人との間にはちょうど他に人がいなかったので、自分たちがやるしかないと奮い立ったのだ。


「どけおらジジイ共!」


 そう怒鳴る男の威勢に、三つ又杖の高橋は慄いてよろついた。


「高橋さん!」


 鈴木が驚く横で、高橋は何とその拍子にコロの足を杖の先で踏ん付けてしまった。

 当然不意の痛みに動転し、そのせいで凶暴化したコロは鈴木の手から手綱を引き抜いて大きく吠えた。


 グワオオオオンッ! ガルグルルワオオオオンッ! オオオンオン!!


「ひッ! んだこいつ!?」


 偶然にも正面から来る敵意丸出しの犯人へ向かって。

 高橋は不安定になった体勢のせいで今度は転びそうになったが、傍に居た鈴木が腕を差し伸べて必死に支えようとする。

 とんでもないのは犯人で、まさか犬から吠えられ襲われそうになるとは思いもしなかったせいでつんのめった。されど何とか踏ん張って犬を避けるように進路を曲げ老人たちの横を抜けようとした。

 これで何とか逃げ切れる、と犯人は思っていた。

 しかし、予想に反してバッグが何かに引っ張られたではないか。


「んな!?」


 今度は何だと振り返れば、三つ又の杖先がバッグの肩ひもを絡めている。

 転びそうにうなっていたせいで地から浮いていた杖先が偶然引っ掛かったのだ。

 フォークがパスタを上手く絡め取るように、三つ又の杖は奇跡的に肩ひもを絡め、尚且つそれを持つ老人の体重を載せて犯人の男に負荷を掛けた。

 高橋を支えようとしていた鈴木は惜しくも力及ばずで、彼は彼で地面に転んでしまう。


「ぐっ……放せジジイ!」


 地面に倒れ込みながらも決して杖を離さず、そのせいで引き摺られる格好になった高橋を見て慌てて鈴木は起き上がって追いかける。しかし若かりし頃とは違って思うようには動けない。鈴木は苦々しい思いでほぞを噛んだ。

 でも出来る事があると歯を食いしばる。

 伊達に長年シベリアンハスキーと共に生活していない。

 愛すべき大事な、時に野性的な家族。


「コロや、コロ! 頼む!」


 意思の疎通は完璧だった。

 杖に踏まれたものの大事なかったコロは、普段のおっとりとしか動かない老体を忘れたように唸り声を上げて犯人へと飛びかかってくれた。

 警察犬もかくやな威圧で襲いかかったコロに本能的な怖れを成したのか、男はギョッと目を瞠って足をもつれさせ転倒。その拍子に手からバッグが放り出されたが、そのバッグは高橋の杖のおかげで遠くに転がっていく事もなく地面に縫い止められた。

 その頃にはもう女性たちが追い付いて来て、近くに居た他の若者や騒ぎを聞き付けた人々が周囲に続々と集まって来ていた。そのうちの数人が即座に犯人を取り押さえ後ろ手に拘束する。犯人はしばらく悔しげに呻いていたが、誰かが通報したのか間もなく到着したパトカーに乗せられて行った。

 女性たちに何度もお礼を言われて恐縮しながらも、転んだ拍子にどこかを強く打つなどの重大な怪我もなかった二人は、体験したことを全て話し感謝の念を表する警察官たちに背を向ける。


「大丈夫でした高橋さん?」

「運よく何とか。そういう鈴木さんの方こそ大丈夫ですか? それとコロちゃんには申し訳ないことを……」

「ああいえ、コロの方も無事なようですし、気にしないで下さい。僕の方も運よくどこも平気ですし、万々歳ですかね」


 それでも気遣うようにコロを見やる高橋の前で、コロは何でもない顔付きで舌を出している。


「それにしてもナイス杖捌きでしたねえ」

「何を言いますか。そちらこそコロちゃんに的確な指示出しでしたよ」

「実はあれ正直上手く行ってホッとしてます」


 コロは威嚇しただけで犯人に噛みつく事はしなかった。

 もしも犯人がもっと凶悪でより危険を感じたなら、噛み付いていたかもしれない。

 コロは寸前の所で踏みとどまったのだ。

 鈴木も犯人の流血を望んではいなかったので内心安堵してもいた。

 常日頃からの人に噛み付いては駄目だよという鈴木のしつけの賜だろう。


「何はともあれ、ありがとうございます。鈴木さんがいてくれて良かった」


 手を差し出す高橋。


「僕からも、ありがとうございます。高橋さんがいてくれて心強かったですよ」


 それに応じ、しっかと握り返す鈴木。

 二人は固い握手と共に、残りの人生にわたって続くだろう友情を感じていた。


「さてと、鈴木さん、張り切って散歩を再開といきますか」

「ですねえ高橋さん。いくよ、コロ」


 オオン、とコロが返事をして二人と一匹はのろのろと歩み始める。


「今日の一件で痛感しましたよ。やっぱりまだもうちょっと鍛えないといけないなって」

「高橋さんもですか。僕もそう思っていたところです」

「それはまた、奇遇ですね。杖要らずを目指して頑張りますよ」

「僕もコロとかけっこが出来るようにはなりたいので負けませんよ?」


 鈴木が悪戯っぽく言うので、高橋は苦笑しながらもそれを受ける。


「私も負けませんよ。しかしコロちゃんとかけっこですか?」

「ええ。きっと今もコロは僕に合わせてくれているのでしょうから。本当はもっと俊敏に動け、散歩だって颯爽と出来るに違いありません」

「ああ、なるほど。本当にいいワンちゃんですね」

「そう思います」


 二人はその後も世間話をしながら遊歩道を楽しんだ。

 公園一周を一時間とちょっと掛けてこなして、始まりのベンチまで戻って来た二人は各自の腕時計を眺め下ろし、次には相手の姿を目に映す。


「鈴木さん、明日も今日くらいにいますか?」

「もちろんです」


 そして別れ際、二人の間ではそんな文言が定番となるのだ。





 その後余罪を全て白状した犯人により、公園の掲示板からは引っ手繰り注意の貼り紙が外されたのだが、それをジジ二人は知る由もない。


「高橋さん、何でしょうあそこの低木の陰に暑苦しい格好の男がしゃがみ込んでいますけれど」

「暑さで具合でも悪いといけませんから、声でも掛けてみましょうか、鈴木さん」

「ええ、そうしましょう。おいでコロ」


 露出狂注意の貼り紙が剥がされる日も、近いのかもしれない。

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