直 〜なお〜
有川 景
プロローグ
初夏の光がやさしい朝、少女は目覚めた。
「うーん」
軽く背中を伸ばしベッドから跳ね起きると少女の1日は始まる。
「おはよう」
少女はあくびをしながら階段を降りた。ダイニングでは父が新聞を読んでいる。
「おはよう、直」
少女の名前は「なお」
「あれ、パジャマのままかい?大丈夫か、学校間に合うのか?」
「お父さん、私は3分もあったら着替えられるの」
「そうかあ、まあ朝シャンとかしないものな。顔洗ったか?」
「顔はちゃんと洗ったわよ、それより何?その朝シャンって」
「直は知らないよなあ。昔は女の子は朝、髪洗ってたんだよ。」
「うっそ!うわ!めんどくさ!寝る前は洗わないの?」
「夜洗わず朝だけとか、夜も朝も洗うのさ。贅沢な時代だったよなあ」
「なんか、乾かすのめんどくさそう。そんな時間があったら寝てるわ」
「直はそうよねえ。」母がトーストとミルクティーを運んできた。
直は着替えるのも3分なら食べるのもそれくらい早かった。
「ごちそうさま」
「まるでウルトラマンだな」
「何?ウルトラマンって?」
「今夜教えてやるよ。さ、お母さん、そろそろ行くよ」
父はテーブルを立って上着を着た。
「いってらっしゃい!」
部屋着の直と母が玄関で父の出勤を見送った。母と一緒に父を見送るのが毎朝の行事だ。
「さ、直ちゃんも支度しなさい」
母は父がいないときは「直ちゃん」と呼んだ。
制服に着替えた直が玄関で靴を履きながら母に言った。
「お母さん、夏休みね、クラブの合宿なんだ」
「あら、どうしてお父さんのいるときに言わないの?」
「だって、お金かかるし」
「そんなのいいじゃない、お母さんに言ったってお金を出すのはお父さんよ」
「3万だよ、3万。お父さん怒らないかなあ」
「怒らないわよお」母は呆れ気味に言った。
「ちゃんとした理由があれば出してくれるわよ、お父さんはそういう人よ」
「そうかなあ」
不安そうな表情の直だったが、母の一言で気持ちが少し軽くなったようだ。
「いってきます!」直は元気よく玄関を出た。
初夏の陽光が制服の直をあざやかに照らした。
直は県立第三高等学校の2年生。
性格は快活、だが少し早合点なところがある。クラスのマドンナ的な存在でもなくどちらかと言えば教室の隅っこで仲間とおしゃべりしているタイプだ。
クラブは吹奏楽部に所属している、パートはフルート。8月のコンクールに向け、毎日放課後は練習に励み、日曜日も学校で練習。家でも小さな音で練習をする。
今回の課題曲は木管の難しいフレーズがあり、そこをクリアするのが目下の直の課題だ。
学校までは徒歩で20分。途中で同じクラスで親友の長塚美沙と合流する。
「おはよう」
「直、今日も練習?」
「そう。だってコンクールまであと3ヶ月ないんだよ」
「地区予選でしょ、そんなに厳しいの?」
「うちの地区には強豪の県立第二があるから、2校選抜であそこは間違いないから残りは1校。」
「県立第二って、共学だっけ。」
「そうよ。でもブラバンは女子ばっかり」
「ふーん、そうなんだ。うちは?」
「パーカッションとトロンボーン、チューバに一人ずつ3人いる。」
「あ、副指揮者は男子だった」
「和田くんね、直の憧れの」
「ち、違うわ!そんなんじゃない!」
直の顔が赤くなったのを美沙は見逃さなかった。
「今度の課題曲、難しい方を顧問が選ぶからさあ、めっちゃ大変。速いパッセージがあって、指つりそうになる」直は話をはぐらかした。
「へえ、そうなんだ。それで、直は出来たの?」
「それがさあ、木管みんな同じ動きなんだよ!合わさなきゃなんないし」
「一人くらいごまかしたってわかんないじゃん」
「ダメダメ!顧問めっちゃ耳いいからすぐバレるよ。こないだの合奏だってクラリネットの子が出来なくてそこで合奏中止。指揮台バンバン叩いて激怒よ。そしてパー練に切り替えよ」
「へー、厳しいんだ」
直と美沙は学校に着いた。
直は三人家族、苗字は「梢」
直は「梢 直」
父は「梢 総司」
母は「梢 真奈美」だ。
直が生まれた時、はじめは「奈緒」になるはずだった。
梢家で最初のしかも女の子、名付けには二人でかなり検討した。
苗字が一文字だけに見栄えのする名前をつけたかったのが二人の共通の思いだった。
候補にあがったのが「美智代」「沙都子」「あずさ」「奈緒」
最終的に「奈緒」か「奈緒子」でいこうかと落ち着きかけたところ、口を挟んだのが総司の父、梢作だった。「作」と書いて「つくる」と読む。
「オヤジ、どうしても一文字にしたいのかよ」
「苗字も名前も一文字の方がスッキリする。そうしろ!」
「待てよ、俺たちの子供だぜ。いくら家を建てるとき土地を世話したからってちょっと強引だよ」
「総司、お前も本当は『総』にしたかったんだよ、でもあの時は妻が反対したからな」
「もう奈緒でいこうと決めてんだよ」
「じゃあ『直』はどうだ」作は目の前のチラシの裏に書いて見せた。
「直?『梢直』かよ、苗字入れてふた文字なんてかわいそうだよ。」
どちらも譲らずで深夜までケンケンガクガクの末、夫婦が折れて「直」になった。
一文字にこだわった作だが、その父は「梢 源三郎」そのまた祖先は「梢 源右衛門」という仰々しい名前が続いたのだ。作の父はそれが嫌だったのかも知れない。
「まあ、『なお』は『なお』だし」総司はあきらめ気味に言った。
「でも体操服にネーム付ける時とか楽かも。名刺も案外見栄えするかもね」真奈美は意外にあっけらかんと納得した。
そんな名付けの苦労もよそに直はすくすくと育った。
直は授業が終わると吹奏楽部の部室に向かった。
ガラガラとドアを開けると顧問の小林涼介が立っていた。
「あれ、先生どうしたの?」顧問がこんなに早く来るのが珍しかった。
「梢、今日はフルートの成果が気になってな。基礎練終わったら呼んでくれ。」
そう言って部室を出た。
フルートパートは直と1年生の斎藤絵美のふたりだ。
〈なんで?この間の合奏そんなに出来悪かったのかなあ?〉
直は疑心暗鬼になっていた。
奥に絵美がいた。心配そうに直を見つめていた。
「梢先輩」
「あら、絵美。どうしたの?そんな顔して」
「先生、なんか怖かったです。『斎藤!入部間もないからって甘く見ないぞ!』って」
絵美はおとなしくて気が弱い。直を慕っていて部活の間はいつも金魚のふんのようにくっついている。昨年の冬までは3年生がいたが受験で抜けて絵美が入部するまでは直ひとりだった。そこへ可愛い後輩ができたので、直は嬉しかった。毎日一生懸命教えた。
1年生はまだ入部して日が浅い。毎日基礎練を重ねてやっとまともな音が出だした頃なので出来なくても仕方がないのだ。しかもハイレベルな課題曲は絵美にとって重荷だった。
「心配ないって!先生もそれだけ一生懸命なんだよ」
泣きそうな絵美をなだめ、楽器の準備をして中庭へ行こうと促した。今日は涼しいので外で練習することにしたのだ。絵美が丸椅子を2つ持って、直が楽器と譜面、譜面台を持って中庭の大きなにれの木の下に向かった。
丸椅子をふたつ並べ、譜面台をセットした。
「さ、まずはロングトーン三十分やるわよ」
「はい!」
フルートを含む木管楽器の練習にロングトーンはあまり意味がない、それなら運指をしっかりやる方がいいという指導者もいるが、直の先輩も顧問の小林もロングトーンこそ練習の要!という考えで時間をしっかりかけるよう指導していた。
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