第10話 リ・スタート

「なぁ、頼。その不景気な顔は何とかならないかな」

「マスター、一応ですけど俺は客ですよ。それにこれは地です」

「確かに年に一回じゃ寂しいとは言ったけどさ。最近入り浸りだし仕事は大丈夫なの?」

「大丈夫ですよ。忙殺されるくらい忙しいですから息抜きに来てるんです」


休みの日というか時間さえあれば『雫』でコーヒーを飲んでいる。俺の心とは裏腹に窓の外では新緑を身に纏った木々が爽やかな風に吹かれていた。

理由は至極単純で家でゴロゴロしていれば姉ちゃんに彼女と連絡は取っているのかなど顔を合わせる度に聞かれ疲れが溜まるばかりだからだ。


確かに簡単な連絡はメールでやりとりしていたが連日テレビなどで取り上げられていたので会う訳にも行かず徐々に連絡も少なくなっている。

焦りは無いかといえば嘘になるが実際に彼女が今何処で暮らし何をしているのかさえ知らない。




「そう言えば加奈ちゃんが言っていた頼が助けた彼女とはどうなったんだい」

「マスターまでそれを聞くんですか。勘弁して下さいよ。俺の安住の地がなくなるじゃないですか」

「しかし、可愛らしいお嬢さんだったのに勿体無い」

「勿体無い言わない。俺だって本当は会いたいですよ」


カウンターに肩肘を着いて不貞腐れてコーヒーカップを口に運ぶとドアベルの音がしてお客が来店したようだ。

呆れ顔だったマスターが直ぐに笑顔になった。


「いらっしゃい。お好きな席へどうぞ。ほら、頼も機嫌を直して」

「へいへい、すいませんね、無愛想で」


片肘ではなく顎の下に両肘をつけて猛攻抗議の姿勢を取ると床に鞄か何かを置く音がすぐ近くから聞こえ誰かが俺の横に腰掛けた。

お客は俺以外に居なかった筈でテーブル席も開いているのに何で俺の横にと思った瞬間に爽やかで癒やされるような香りが漂ってきた。


「こんにちは。てば、こんにちは? 私の頼は何でそんなに不機嫌なの?」

「俺の澪に会いたいのに会えないし。俺はそんなに強くないんだ。不安なんだよ」

「本当に? ごめんね。私も頼に会いたかったしこうしてギュッてしたかった」


人の頭に腕を回して座ったままの俺に澪が抱き付いてきた。

澪のぬくもりを感じ触れられて今までの事なんてちっぽけに思えてありったけの思いを込めて澪の身体に腕を回すと澪が俺の髪の毛をモフモフしている。

するとマスターの咳払いが聞こえ慌てて離れた。


「お客が居ないからってパフパフから先は勘弁してくれないかな。頼はいい大人なんだから自制心を」

「すんません。理性が吹き飛ぶ寸前でした」

「で、こちらのお嬢さんは?」

「俺の澪ですよ。もちろんマスターは知っていますよね」


もう自己紹介なんていらないだろう。散々、テレビや週刊誌で報道されていたのだから。

澪は髪をアップにして春らしいワンピースを着ているがオフショルダーになっていて胸が強調され目のやり場に困ってしまう。


「あのさ、澪。そのワンピース凄く似合っているけれど髪は下ろしたほうが素敵だと思うよ」

「そうかな。でも頼がそう言うなら下ろす」


澪が腕を上げて髪の毛をほどいて指で梳いている。

するとマスターが再び呆れた顔をして何か言いたげだ。


「マスターもこの方が似合うと思いますよね」

「そうだね。こんなに素敵なお嬢さんを他の男には見られたくないよね」

「マスターだって困るでしょ」

「まぁね。おっとお嬢さんに美味しい紅茶でもお出ししなきゃ」


マスターが澪に出してくれたのはアップルティーだった。

出てくるタイミングが良すぎるので疑念の目を向けてしまう。


「頼はそんな目で見ない。今日はセイロンに味わいが近い南インドのニルギルを使ってみたんだ」

「アップルティーってどうやって淹れるんだ?」

「そうだね。お湯を沸かしてから火を弱めてりんごの皮を入れて煮だしたお湯で紅茶を入れるんだよ。一般的には紅玉が良いと言われているけれど紅玉には酸味があるから好みがわかれるかもしれないね。少しハチミツを加えても美味しいよ」


隣に目をやると澪が何も入れずに飲んでから少しはちみつを入れて口に運んでいる。


「林檎の風味が豊かで美味しい。こんな美味しい紅茶を飲んだことがない。頼も飲んでみれば」

「俺はコーヒー派だから。あまり紅茶は飲んだことがないな」

「勿体無い」


そう言えば紅茶を飲んだ記憶があまりない。

姉ちゃんもコーヒーを好むのでその影響は少なからずあるかも知れない。そんな事を考えていると再びドアベルが鳴った。





「もう、お爺ちゃんの家では動物は飼えないの」

「嫌だ。ママの意地悪」


店に入ってきたのはマスターの娘の由希奈さんと娘の亜麻音だった。

由希奈さんは困り顔をして亜麻音を言い聞かせていてその亜麻音の腕での中ではグレーの毛玉が小さく震えている。


「ああ、頼だ」

「もう、頼さんでしょ。仕方のない子ね」

「良いんですよ。俺は気にしていませんから。それよりどうかしたんですか?」


言い合いながら店に入ってきたので理由を聞きこうとすると由希奈さんが困ったような顔をして亜麻音ちゃんはそっぽを向いてしまう。


「亜麻音は何を拗ねているのかな?」

「じぃじ、この子飼っても良い?」


マスターが亜麻音ちゃんのご機嫌を取ろうと優しく話しかけたのに亜麻音ちゃんが差し出したモノを見て固まってしまった。

亜麻音ちゃんが大事そうに差し出したのはグレー色をした子猫で、流石のマスターも困り顔をしている。

今は猫カフェやうさぎカフェに小鳥カフェとか猛禽類のいるカフェもありそこには動物好きが行く場所だから気にならないだろうが。


純粋にコーヒーや紅茶を楽しみたい人からすれば匂いが気になるはずで、看板猫がいる店もあるだろうが完全に匂いを無くすのは不可能だろう。

そしてこの店は純粋に楽しみたい人が集う店だからマスターが困り顔になるのも頷ける。


「可愛い猫さんだね。抱っこして良いかな?」

「うん、いいよ」


澪が席から立ってしゃがみ込んで亜麻音ちゃんが抱いていた猫を受け取り前足の下に手を入れて猫の顔を覗きこんでいる。


「シルバータビーで毛が長いんだね。お利口そうな顔をしてるね」

「おっぱいのお姉ちゃんが飼ってくれる?」

「ごめんね。お姉ちゃんの家も駄目かな」


亜麻音ちゃんが澪にまで断られてしまい泣きそうな顔をしている。

それなのに別のことが気になった由希奈さん亜麻音ちゃんを正そうとした。


「もう、亜麻音はお姉ちゃんの事をそんな風に言ったら駄目でしょ」

「だって、おっぱいのお姉ちゃんはおっぱいのお姉ちゃんだもん。雨がいっぱいふっているからお家の中からずーと見てたんだもん」

「また、夢の話をする」


今度は由希奈さんが困り顔をしてしまい。

澪が俺の方を見上げて何かを言いたげだったので軽く頷いて了承する。


「ネバーランドで会ったんだよね」

「うん、お姉ちゃんがお家から見てて。亜麻音がわらってるとママもうれしんだよって頼に教えてもらったんだよ」

「「ねぇ」」


亜麻音ちゃんと澪が顔を見合わせて首を傾げている。

由希奈さんが今度は困惑顔になってしまったので助け舟を出す。


「ネバーランドは夢と現実の狭間の世界です。俺達は偶然にもあの脱線事故に遭ってしまった。その為かどうかは俺には分かりませんが夢の中では同じ世界にいたんだと思います」

「それじゃ、亜麻音はその夢の世界で頼さん達に出会っていたと言うことですか?」

「信じるも信じないも由希奈さん次第です。でも、僕が言えることは亜麻音ちゃんが言っている事は本当だということです」


ネバーランドがどうのと言うのはもう過去の話で今の問題は連れて来てしまった猫をどうするかが最優先事項で。

雫では飼えないのは確実で澪も可哀想に思っているが今の状況では猫どころではないだろう。

すると必然的に残る選択肢は一つになる。


「頼……」

「俺に頼まれても困るんだが。一つだけ方法がある。亜麻音ちゃんがお願い出来るのなら」

「亜麻音、ちゃんとお話する!」


スマホからコールして間髪入れずに亜麻音にスマホを渡すと狼狽えた様な姉ちゃんの声が聞こえて亜麻音が必死にお願いをしている。

流石に即決は出来ないらしく亜麻音が不安そうな顔をしてスマホを俺に差し出した。


「頼、確信犯だな。私が断れないことを良いことに」

「別に断れば良いだろ。俺は亜麻音の泣き顔なんて2度と見たくないから飼ってくれる人を探すけどな」

「どこでそんな悪知恵を」

「俺は無駄に今まで過ごしてきた訳じゃないけど。それに悪知恵なら姉ちゃんに敵わないけどな。海に病院にそれにここもかな」


そこまで言うと姉ちゃんが音を上げた。


「分かった。それ以上言うな。私の負けだ。ただし頼が面倒を見ろよ」

「そうだな、俺が漕ぎだした舟だしな」

「沈没寸前の大きな船がまだ動いているけどな」


親指を立てて亜麻音に微笑むと亜麻音が飛び跳ねて喜んでいる。

非番だと言う姉貴が猫を引き取りに来てくれて、その足で飼うために必要な物を買いに行くと言うので由希奈さんと亜麻音にそのまま伝えた。

久しぶりに亜麻音に会って一緒に買物に行くつもりなのだろう。


「頼達は久しぶりに会ってこれからデートかな?」

「まぁ、適当にブラブラしますよ」


マスターは笑っていたが亜麻音にお姉ちゃんが可哀想だと言われたが愛想笑いをするしか出来ない。

人の噂もなんとやらと言うけれど時の人になってしまった澪は良くも悪くもまだ注目を集めてしまう立場で警戒を怠ることは出来ないから。


「頼、猫ちゃんの名前はどうするの?」

「ん、名前か…… トキかな」

「トキ、可愛い名前だね」

「じゃ、またな」


雫のドアベルを鳴らして澪と表に出ると少しずつ強くなる日差しに目を細めた。




「頼、どこに行くの?」

「特に決めてないけれど澪は行きたい所があるのか?」

「少しだけ付き合ってもらえるかな」

「澪が行きたいところなら何処までも一緒だからな」


同意して澪を見ると澪も俺を見上げていた。

その時、左の方から女の人の小さな悲鳴と共にスーパーのレジ袋に何かがぶつかるような音がして男がこちらに向かってくる。

背中に重みを感じると俺の背に隠れるようにして澪がジャケットを掴んで反対方向を見て怯えていた。


乾いた炸裂音と共にガラの悪そうな男が2人アスファルトの上に転がっている。金髪の男は額を抑え茶髪の男は喉元を両手で抑えてうめき声を上げながら。

背後でドアベルの音が聞こえたのでマスターが慌てて飛び出してきたのだろう。


「頼、何が…… な、何て事をしたんだ」

「まだ、澪を狙う輩の残党が居ただけのことです」

「そんな物をどこから」

「用心に越したことは無いじゃないですか。只のエアーガンですよ」


驚愕しているマスターの声が少し震えているのは仕方がないことだろう。

俺の右手にはベレッタ92FSが左手には同型のクロームステンレスモデルが握られている。

もちろん殺傷能力は皆無だろうが悪に対しては情け容赦がない姉貴から持たされたモノなので法に触れないかと言えば微妙かもしれない。


雫の周りが騒然としたが駅前交番の警察官と何処からか現れた私服警官によって2人の男は連れ去られ。

何事もなかったかのように買い物帰りの主婦やサラリーマンやら学生が行き交っている。


「しかし、加奈ちゃんにも困ったもんだな」

「問題が起きないようにって事なんじゃないですか」

「しかしだな。まぁ、護衛は怠らないと言うことか私服警官までじゃ」


マスターの言うとおりなのだろう。大きな船はいつまで動き続けるのだろうかとっとと沈してほしいものだ。

そんな事を考えていると無邪気な亜麻音の声が場を和ませてくれる。


「お姉ちゃん、頼ってかっこいいね」

「うん、お姉ちゃんのナイトだからね。亜麻音ちゃんが大きくなったらきっとナイトに会えるはずだよ」

「本当に?」


亜麻音達に別れを告げて駅前で澪が何処かに連絡をしている。しばらくすると黒塗りの車が現れた。

澪が嬉しそうに微笑んでいるのは気の所為じゃないだろう。

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