第2話 リメンバー 出会い
あいつと出会ったのは高校2年の夏休み明けで秋の足音が近づいていた。
「今日からお前たちの仲間になる転校生だ。自己紹介をして」
「はい、今日から…… です。宜しくお願いします」
体に合っていない少し大きめの制服の奥からか細い自己紹介が微かに聞こえたけれど聞き取れない。
黒い長い髪は一つに纏められていて吸い込まれそうな瞳と透き通るような白い肌をしていて、誰が見ても体が弱い文学少女に見えるだろう。
現に体が弱く長期入院をしていたと担任が説明を付け加えている。
「おーい。頼、聞いているか? 彼女の面倒はお前が見ろ」
「はぁ? なんで俺が」
「強いて言えば体が大きくて面倒見が良いからかな」
「ただ、空いている席が俺の隣だけだからじゃ。マジかよ」
担任が満面の笑顔で親指を突き出している。
何がグッジョブだから、面倒を押し付けやがって。
「頼君、宜しくね」
「お、おう。分からない事だらけだと思うけど勉強以外のことは聞いてくれ」
「うふふ、可笑しい」
笑ったあいつの笑顔に鼓動が跳ね上がった。
教科書を見せたり教室移動がある時は一緒に行動したりすることが多く、いつの間にか構内では隣にいるのが自然になってしまう。
「頼、出動だって」
「いい加減にしろよ。今度は何なんだよ」
生徒会長が場所だけを校内放送で流しているのが聞こえて渋々立ち上がる。
「頼君、どこに行くの?」
「トラブルの解決かな。付いて来るな、良いな。おい、こいつの事頼んだぞ」
「ハーイ、頼まれました」
クラスメイトに声をかけてから教室を後にし、指定された一年生の教室がある2階に向かうと人だかりが出来ていた。
「ちょっと通せ。執行部だ」
声を掛けると人混みが綺麗に二つに割れその先に罵り合っている2人組が見え肩を落とす。
「今度は何なんだ。誰か説明しろ」
「あの、実は」
近くにいる傍観者に説明を受けてから行動に移す。
トラブルには必ず原因があるはずで原因を解決しないと同じようなトラブルが再発してしまうからだ。
クラブ同士のトラブルならその場を沈めて生徒会に一任させ、男の喧嘩なら力づくで解決する。面倒なのが女の喧嘩と恋愛がらみのトラブルだ。
そして目の前では2人の女子が口汚い言葉で罵倒し合っている。
「いい加減にしろ!」
深呼吸をして腹の底から大声を出すと罵り合っていた女子がキョトンとしている。頭に血が上って俺が居ることにすら気付かなかったらしい。
大声を張り上げたけれど罵り合っていた女子に腹を立てて怒鳴った訳ではなく喧嘩している当事者の勢いを削ぐためだ。
「大まかな事情は聴いたが2人の口から説明してくれるかな」
「せ、先輩……」
2人の話から分かったのは恋愛がらみのトラブルで…… 彼氏の取り合いと言うか浮気と言えばいいのだろうか面倒な事には変わりない。
その彼氏を呼び出すしかないようだ。誰かに声を掛けようかと思うと既に確保されているらしい。
だらしなさそうな男子生徒がほかの生徒に背中を押されてヨロヨロと前に出てきたので直球をぶつけてみる。
「で、君はどちらを選ぶのかな」
「はぁ? 俺、彼女いるし。こいつ等が勝手に勘違いして」
「勘違いがこのトラブルの原因なんだな」
「お、俺の所為じゃねえし」
男子生徒が俺から視線を外してトラブルを起こしていた女生徒2人に視線をやると呆れた様な顔をしてお互いに顔を見合わせている。
そして、人垣を掻き分けて別の女生徒が物凄い形相で現れた。
「テメエ、また浮気か? 良い度胸だな」
「浮気じゃねえよ。こいつ等が勝手に勘違いして」
「「キスまでしたのに」」
「もう終わりだ。この馬鹿野郎!」
乱入してきた女生徒の見事なストレートが浮気男の顔面に炸裂して3対1の争いと言うか一方的な袋叩きが勃発したがスルーする。
「助けてくれよ。執行部!」
「自業自得だ。彼女達の心の痛みを体で思い知るんだな」
縋り付く浮気男を振りほどいて解決で良いだろうと思い自分の教室に向かおうと歓声に沸く人垣を抜けるとクラスメイトが付き添ってあいつが立っていた。
「来るなと言ったよな」
「付いて来るなとは言ったけれどね。連れて来ちゃダメだとは言わなかったよね。頼は」
何で俺のクラスメイトはお節介で屁理屈をこねるのだろう。
まぁ、昨日今日の事ではないので無視をするとあいつの桜色の唇が開いた。
「頼君、執行部って何? 頼君が校内のトラブルを解決しているって」
「関係ないだろ」
「ずるいよ、勉強以外は聞いてくれって言ってくれたのに」
「分かったよ。教えれば気が済むんだな」
彼女の長い黒髪が少しだけ揺れた。
この高校では生徒会の決まりで必ず部活に入らなければならない。それは生徒会が推し進める学校生活を謳歌するというモノの一環だと言われ。
俺はバイトをして姉ちゃんを助けたかったのだが姉ちゃんにすら俺の考えは一蹴され部活を強要されたがやりたい部活がなく悩んでいた時に出会ってしまった。
早急に部活を決めろと担任からも言われ取り敢えずグランドをブラブラしながら運動部を見ていた時だ。
「あなた達、いい加減にしなさい!」
「女が出てくんな。ケガしても知らねえぞ」
騒ぎのほうを見るとサッカー部と野球部が顔を突き合わせていた。どちらの部活もグランドを広く使いたいから必然的に起こる衝突だろう。
汗と埃まみれのユニホーム姿の中で制服姿の女生徒が1人で仲裁しようとしていて頭に血が上った野郎にもみくちゃにされていた。
このままではスパイクなどで怪我をしかねないだろうと思い近くにいた陸上部を捕まえて伝言を頼み走らせる。
すると直ぐに近くのポール上に設置されたスプリンクラーが作動し始めヒートアップしているサッカー部と野球部に水を浴びせ始めた。
「スプリンクラーなんて作動させたのどこのどいつだ!」
「俺だけど。何か問題でも」
「1年のクセにムカつく奴だな。これじゃ部活が出来ねえだろう」
「喧嘩になって怪我人がでれば試合にすら出場出来なくなりますけど。それでも良いんですね、先輩方。それに女の子を揉みくちゃにして怪我でもさせたらそれこそ大問題で部の存続自体危ぶまれますよ」
冷ややかな俺の言葉にサッカー部と野球部の先輩たちが苦々しい顔をしている。
多分、このまま騒ぎは収まる方になるだろうと思い踵を返すと呼び止められてしまった。
振り返ると小柄でセミロングの髪の毛から水滴を垂らしている女の子が腰に手を当てて首を少し傾げている。
「揉みくちゃになって怪我はしなかったけれど女の子をびしょ濡れにした責任は誰が取ってくれるのかしら?」
「その一点に関しては謝ります。すいませんでした」
「サッカー部と野球部の部長と副部長はあとで生徒会に顔を出すこと良いわね」
「もしかして生徒会なんですか?」
無闇に首を突っ込むんじゃなかったと思った時には既に手遅れになっていた。
有無を言わさず俺は生徒会の1人に従い後に付いて行くことしか出来ない。連れて行かれた先は生徒会室の奥にある生徒会長室だった。
「ここって」
「私の部屋よ。そこに座って待ってなさい。着替えてくるから。万が一にでも逃げ出したらどうなるか分かるわよね」
「分かりました」
生徒会長室を私の部屋ということは彼女が生徒会長なのだろう。仕方なく指定されたソファーに腰を掛けて待つことにする。
左程広くない部屋には机とソファーがあるだけで特にこれと言った特徴はない。華美な装飾もなくかと言って普通の教室でもないのだが。
そんな生徒会長室で気を抜くわけにはいかない。
何故ならこの高校に入学した全ての生徒は数々の生徒会の噂を知っているからだ。
「お待たせしました」
「あの、何故、俺がここに? きちんと詫びた筈ですけど」
「君はまだどこの部活にも所属してないわよね」
「それは事実ですね。現に部活を見て回っていた時に乱闘騒ぎに出くわしたんですから」
切れ長の瞳をした生徒会長が腕を組みながら人差し指を顎にポンポンと当てている。
「生徒会に入らない?」
「はぁ? 俺がですか? 何も出来ませんよ」
「決まりね。『生徒会 執行部』これが今日から君が所属された部署よ。校内でトラブルがあった時には呼び出すから直に現場に急行して君の判断で解決しなさい。君が判断したことは生徒会会長である私の判断とみなします。それと今回の様な部活でのトラブルの時は必ず生徒会に一任する事。良いわね」
「問題を解決する為には力づくでも構わないと言うことですか?」
俺の質問に生徒会長の小さな顔が頷き微笑んだ。
「生徒会に入れば部活は免除します。そうすればバイトも出来るわよね。上級生からも同級生からも慕われている頼君なら出来るわよね」
「出来る限りの事はしますがお手柔らかにお願いします」
そんな事があり執行部に入ることが半強制的に決定されてしまった。執行部と言っても俺一人だけなのだが。
そんな執行部を今まで続けてきた所為で俺の事を知らない生徒も先生もいない。
まぁ、あの日に地獄の入り口などと噂されている生徒会長室に入ったと言うだけでクラスメイトは大騒ぎになったけれど。
「へぇ、そうなんだ。頼君ってやっぱり凄いね」
「何が凄いんだか。生徒会のパシリだよ」
「でも、部活に入らないといけないんだね。私、どうしようかな」
「放課後にでも文化部を案内してやるよ」
そう言った放課後に何故だか生徒会長に呼び出されていた。
現・生徒会長は俺が執行部に入った時に副会長だった人だけどあの生徒会長の補佐をしていただけあってその手腕は凄かったけど。
「やった、私も頼君と同じ執行部だ」
「生徒会長の指示には従うけれど今日みたいに絶対に現場に来るなよ」
「頼君って優しいね」
「そんなんじゃねえよ。トラブルなんていつもくだらない事で起きているからだよ」
何故だかあいつが生徒会と俺の連絡役になってしまった。生徒会長曰く校内放送するのが面倒だかららしい。
それならば俺に直接連絡すればいいのに見事に却下されてしまった。
寒さが厳しくなるとあいつは休みがちになっていた。
「今日もお休みだね」
「仕方ないじゃんか。体が弱いんだから」
「お見舞いとかに行かないの?」
「行かねえよ。面倒を見ろと言われたのは学校での事だからね」
冷たいと言われてもあいつの家を知っているはずもなく知っていても行かないだろう。
まぁ、メールで学校とのやり取りは俺に一任されているからあいつの状態は誰よりも知っているはずだ。
3月になり少しづつ気温も上昇傾向になってきた。
「おはよう、頼君」
「身体は大丈夫なのか?」
「うん、心配かけてごめんね」
「謝ることでもないだろう」
そうだねと未だ少し顔色が悪いあいつが笑顔を浮かべて何故かホッとしている自分に気付いた。
季節が代わり暖かくなるとあいつも元気になっているように見えたのに授業中に物音がして隣の席を見るとあいつの姿がなく床に力なく倒れていた。
「急いで保健室に!」
先生の言葉よりも早くあいつを抱え上げて教室を飛び出す。
保健室のドアを勢い良く開けると養護教諭の顔が引き攣っているがそんなの構わずに静かにあいつをベッドに下ろす。
「何があったの?」
「急に倒れたんだ」
「そう、それじゃ親御さんに連絡をしますからあなたは。仕方がないわね、静かにしていなさいね」
教室に戻れと言われると思っていたのに俺の顔を見た先生は違う反応を見せ。冷静にあいつの両親に連絡を取っている。
まるでこうなることが前提で淡々と行動しているようにしか思えないけれど、部外者の俺が聞いても明確な返答はしてもらえないだろうと思い口を噤んだ。
しばらく物音ひとつしない保健室に居ると静かにドアが開いてあいつの父親らしき人が深々と頭を下げた。
「君が娘を運んでくれたんだね。ありがとう。少しすれば娘は大丈夫だから」
「そうですか」
「これから娘を車で病院に連れて行こうと思うんだが手伝って貰えないかな」
「分かりました」
あいつを再び抱き上げて保健室を出ると養護教諭に挨拶をしてあいつの父親さんが出てきた。
抱き抱えたまま親父さんの後を歩き出す。
「もしかして君が頼君なのかな」
「はい。すいません、自己紹介もせずに」
「いや気にしないでくれないかな。いつも娘が学校でのことを話してくれる時には必ず君の名前が出てくるんでね。どんな優しい男の子なのか気になっていたんだ。会えて良かった。これからも娘のことを頼めるかな」
「はい。少しでも力になれるのなら」
優しいなんて言われてもピンと来ないのは当たり前の事だと思っているからだろう。
弱いものや女の子には優しくしろというのが姉の教えで、その教えを当たり前の事として今まで生きていきたからで。
そんな事よりも今はあいつの病気の事が気になってしょうがない。
この場で親父さんに聞くことも出来るだろがそんな事をしたらあいつがどう思うだろうか。
でも、本人に直接聞く勇気なんて持ち合わせていない。結局、何も言葉にすることが出来ずに親父さんの車を見送った。
桜はとうに散り葉桜になり俺達は進級して3年になった。
新入生が新たに加わりしばらくしたらトラブルの種も芽生え始めるのだろう。
「おはよう」
「おはよう! 元気になったんだ」
「うん、これからも宜しくね」
「ほら、頼」
クラスメイトに急かされて教室のドアに視線を向けるとあいつが嬉しそうに手を振っているのが見える。
「相変わらず細いな。ちゃんと飯食ってるんだろうな」
「食べてるよ。頼君に毎日のように言われたから」
「毎日のように?」
あいつの言葉を聞き漏らすことなくクラスメイトが食いついてきたけれど隠していた訳でもない。ただ言っていなかっただけだ。
「へぇ、頼と毎日メールしていたなんて初耳だわ」
「学校の連絡事項等のメールだよ。メールなら気付いた時に読めるだろ」
「で、頼は彼女のことなんて何も心配していなかったと」
「メールの返信が来れば元気な証拠だし来なければ寝ているんだろうと思っていただけだ」
これ以上のことを話す気も突っ込まれる気も無いのでシャットダウンするかのように机に倒れ込む様に目を閉じる。
「頼と付き合っちゃえば」
「わ、私なんてそんな烏滸がましいと言うか頼君に失礼だよ」
そんな近寄れば大爆発してしまいそうな怖い会話が聞こえてきて背中に嫌な汗が走った。
なんの変哲もないいつもの生活がゆっくりと流れていく。そんな生活が昼休みに激流下りのようになった。
教室のスピーカーから生徒会長の声が流れてきて隣を見るとあいつの姿が見えない。
「頼、保健室!」
そんなクラスメイト達の叫び声が背後から聞こえてきて俺は保健室に向かった。
息を整えて保健室のドアをノックする。
トラブルが起きているとしても冷静に対処しなければならないからだ。
「どうぞ」
「失礼します。執行部の……」
養護教諭の視線が移った先で必死に両手を合わせているあいつの姿を見て全身から力が抜けていく。
生徒会長にまんまと一杯食わされた瞬間だった。
「ここは生徒会の遊び場じゃないんだぞ。少しだけ席を外すから手短に要件を済ませてね。君のことを信頼してだからね」
そんな事を言いながら俺の肩に軽く手を置いて養護教諭が保健室から出て行った。
そして俺はあいつの言葉を待つ。
「頼君、本当にごめんなさい」
「生徒会長が一枚噛んでるんだろ」
「うん、それでね。今度の週末にデートしてくれないかな」
あいつの口から出た言葉で思わず固まってしまう。
「あのね、クラスで皆にあんな事を言われちゃったから教室で言い出しづらくって」
「それで生徒会長に相談したと? まぁ、良いや。で、何処に行けば良いんだ」
「えっ?」
「えっ、じゃないだろ。俺はお前の家を知らないし何処かで待ち合わせしなきゃいけないんじゃないのか?」
壊れたロボットのようにあいつが何度も頷いている。そして、待ち合わせ場所だけを決めて保健室を後にした。
待ち合わせ場所は高校の最寄り駅から数駅先の私鉄が乗り入れている少し大きめの駅前だった。
ポカポカとした日差しと少しひんやりした風が心地良く。
指定された駅前の小さな噴水の前で待っていると一度だけ見た事があるシルバーのセダンが止まり、女の子が降りてきて運転席で親父さんが頭を下げたのを見て慌ててお辞儀した。
「頼君、待った?」
「き、着物なのか?」
「う、うん。変かな?」
サーモンピンクの着物に生成りの様な帯を締めて髪をアップにしているあいつに見惚れてしまう。
それに対して俺はジーパンにシャツと言う至ってラフな格好だ。
「よく似あってるぞ。制服しか見たことがないから少し驚いたけれど」
「良かった。私、着物とか和風なものが大好きなんだよね」
「へぇ、そうなんだ。それじゃ甘味処か和風の小物でも見に行きたいのか?」
「ううん、喫茶店かな。前にお父さんに連れてきてもらったことがあるんだけど。もう一度行ってみたいんだ」
着物姿に面食らったのに喫茶店に行きたいって。少し変わっていると思ったけれどここまでだと気持ち良いかもしれない。
彼女が行ってみたいという喫茶店は直ぐに見つかった。
今どきのカフェでもなくチェーン店舗の茶店でもなく、紛れも無い職人の匂いがする個人経営の店で『雫』と古木の看板にある。
重そうな木のドアを開けるとコーヒーの香りが鼻をくすぐった。
「いらっしゃい」
「マスター、お久しぶりです」
彼女が挨拶をすると浅黒い顔のマスターが軽く頭を下げて彼女がカウンターの椅子に腰掛けた。
俺も軽く頭を下げて彼女の横に腰掛けてメニューを見てみも分かるのは値段くらいで缶コーヒーかインスタントコーヒーしかしらない高校生には違いなんてさっぱり分からない。
「私は紅茶を下さい」
「僕はよく分からないのでおすすめのコーヒーを」
注文するとマスターは嬉しそうに豆を選び金属の筒に入れてレバーを掴みゆっくり回し始めた。
しばらくすると香ばしい香りが店内に立ち込め始めて店内の様子に気がついた。
店内は古民家のような作りになっていて木製のカップボードには綺麗なカップが並んでいて心地良い音楽が流れているのにお客は僕と彼女だけだ。
そしてマスターはコーヒー豆をミルで引き始め紅茶の準備を始めたようだ。
「ここはね、マスターが拘りを持ってやっているお店でお父さんと来た時に飲んだ紅茶の味が忘れられなくって」
「コーヒーじゃないんだな」
「うん、マスターには申し訳ないと思うんだけどコーヒーはちょっと苦手なんだ」
まるで別世界に迷い込んでしまったかのように店内と外との時間の流れの差を感じることができる。
ここなら会話が少なくても慌てなくてすみそうだ。
マスターがドリップポットを巧みに操りドリッパーでコーヒーを淹れ始めると更にコーヒーの香りが立ち上りマスターの動きに目が行ってしまう。
「はい、お待ちどう様」
磨き上げられたカウンターの上のシンプルなカップにはコーヒーが注がれ香りが立ち込める。
彼女の前に差し出された金色の縁取りがされベリーか何かが絵付けされている少し広口のカップで愛おしそうに彼女が視線を落としていた。
「マスター、今日の紅茶は何ですか?」
「セイロンのディンブラだよ」
「有難う御座います」
セイロンティーなら聞いたことがあるけれど彼女が飲んでいるのはきっと別物なのだろう。
良くもわからない物に対して質問などせずにカップに口をつけるとベリーに似た香りが鼻を抜ける。
「美味しい」
「珈琲にもワインと同じでテイスティングがあってね。香り・酸味・苦味・風味を味わってもらいたいけれど高校生には少し難しいだろうから美味しいと思って貰えれば嬉しいな」
「本当に美味しいです。ベリーの様な香りがしてスッキリしていて重くないしバランスが良いと言うか。こんな美味しいコーヒーは初めてです」
何故か驚いたような顔をマスターがして少しだけウンチクを教えてくれた。
そして彼女からは紅茶のゴールデンルールの話をしてくれ会話が弾んだ。
「頼君は兄弟とかいるの?」
「姉貴がいるけど」
「へぇ、お姉ちゃんか私は一人っ子だから羨ましいな。お姉さんってお仕事とかしているの?」
「曲がった事が大嫌いで正義感が人一倍強い公僕だよ。まぁ、俺の面倒を見てくれたのも姉貴だから感謝はしているよ」
何処までも澄んで輝いている瞳に見つめられると顔が赤くなるのを感じる。
堪りかねてマスターを見ると俺達の事を目を細めて嬉しそうに見ていた、どうやら助け舟なんて出してくれそうにない。
楽しい時間はあっという間で気がつくとタイムリミットが近づいていた。
外界から切り離されたこの空間なら尚更時間が経つのが早いのかもしれない。
彼女が父親に電話して迎えを頼んでいる。
会計を済ませマスターに礼を言って喫茶店を後にした。
「駅前で良いのか?」
「ここまで迎えに来てくれるから」
「そうか、俺は駅前にバイクを置いてあるからここで。明日、学校でな」
彼女に別れを告げて駅に向かおうとしてシャツの袖が引っ張られ振り返ると彼女の瞳が愛おしそうに紅茶の入ったカップを見ていた時以上に輝いている。
「頼君はバイクに乗れるの?」
「まぁ、一応免許は持っているから」
高校生にバイクの免許なんて思うかもしれないが姉ちゃんに強制的に取りに行かされたと言うのが本当の所だ。
これからは資格の時代だなんて言って高1の時に普通自動二輪の免許を取らされ。
20歳になれば車の免許だと言われたので否応なしに教習所通いがまた始まるのだろう。
「見てみたいのか?」
「うん、見てみたい」
「じゃ、少し待ってろ」
駅前まで足早に戻り商業施設に停めてあったバイクで彼女が待っている喫茶店に向かう。
「うわぁ、可愛らしいバイクだね」
「バイクというかスクーターかな。可愛らしいのは俺の趣味じゃなくて姉ちゃんのスクーターだから」
電車で待ち合わせの場所まで行こうと計画していたのに姉ちゃんに無理やり押し付けられてしまい仕方なくだ。
姉ちゃんが押し付けた理由はやっと手に入れたスクーターなのに乗る時間がなく慣らし運転をして来いということなのだろう。
「なんて言うスクーターなの?」
「ベスパPX150だよ。ベスパはイタリア語でスズメバチと言う意味らしいよ。姉ちゃんが映画のローマの休日を見て気に入って買ったんだ」
「ローマの休日?」
「俺も見たことはないんだけど。昔のモノクロの映画らしい」
彼女が興味津々でベスパを覗きこんでいる。着物じゃなければ少しぐらい後ろに乗せてあげられるのに残念だ。
「乗ってみたい!」
「着物じゃ無理だしもう直ぐ親父さんが迎えに来るんだろ」
「うう、それを言われると凄く残念だし着物を着てきてしまった後悔が残る」
「今度、後ろに乗せてやるよ」
凄く悔しそうな彼女の顔を見て思わず口から出てしまった。
「本当に? 約束だよ」
「姉ちゃんに頼んで借りるから」
「じゃ、指きりげんまん」
彼女が嬉しそうに小さな小指を俺の前につきだしたので勢いで恥ずかしい約束をしてしまった。
すると背後でクラクションが小さくなり振り向くと彼女の親父さんだった。顔が真っ赤になるのが分かり慌てて彼女から離れる。
「それじゃ、頼君。今日はありがとう。約束だからね」
「ああ、必ずな」
彼女が子どもの様にはしゃいで車に乗り込み窓ガラス越しに小指を突き出している。
セダンタイプのアウディが見えなくなるまで見送って家路に着いた。
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