第9話 quattro.2

普段より多くのお客様が来店しバタバタと営業が終わり賄いを食べる。

いつもは事務所で賄いを食べるオーナーとチーフが皆と一緒に賄いをテーブルで食べていた。


「オーナー、凛さんは?」


「もう、だいぶ前に帰ったわよ」


「ええっ」


杏が驚いて立ち上がった。 


「杏、落ち着いて座りなさい」


亜紗のいつになく静かな声だった。


「は、はい」


「なんで、凛が帰ったか判る?」


「判りません」


「ここの店名のARIAはイタリア語で空気とか雰囲気という意味なの、レストランでは落ち着ける雰囲気がとても大切なの。スタッフの誰かが自宅で喧嘩してきてもその空気は伝わってしまう。ましてや店内で言い争ったり、不安そうな顔をして仕事をしていたらダイレクトにお客さんは感じてしまうものなのよ」


「すいませんでした」


「昨夜、あなたと凛に何があったのかは知らないけれど……」


亜紗が杏の瞳が揺れているのに気付いて話を止めた。


「実は、昨夜の雷雨で私のトラウマが出てしまってパニックになったんです」


杏が亜紗に応えるように話し始めた。


「トラウマって?」


「私が小さい頃、約束を破った両親に我侭を言って無理矢理ドライブに行って。その帰り道、昨夜の様な雷雨にあって。対向車線からスピードを出しすぎたトラックがカーブを曲がりきれずに突っ込んできて……私が気付いた時には乗っていた車は滅茶苦茶で……目の前に居たはずの両親は血まみれで動かなくなっていました……」


誰も杏に声を掛けられなかった。

楓も柚葉も、そして葛城も俯いていた。

誰よりも辛い思いをしていたのは杏だったのだ。


「だから本当に稀なんですけど、激しい雷雨の時はその時のことがフラッシュバックしてパニックを起こしちゃうんです。でも凛はずぶ濡れになりながら受け止めてくれた、だから心配で……」


杏の目から涙が流れていた。


「そうだったの、そんな事が……こんな時じゃないと話せないから凛の話も聞いて頂戴。いいわよね。藤崎」


「そうですね」


チーフの藤崎の了承を得ると亜紗が大きく深呼吸をして話し始めた。


「凛の奥さんが私の双子の妹だって皆は知っているわよね。そして私達がヤンチャをしていたのも、そんな時に2人は出会ってしまった。私は2人が付き合う事に猛反対だった。でも凛はきっぱり足を洗うと約束してくれたの。そして本当に足を洗い普通の会社に勤め出した。だから私は2人の交際を認めたのよ。そして桃香が生まれて幸せそのものだった。桃香が大きくなるに連れて凛の仕事も忙しくなったわ。そして桃香が七歳の時、小学校の入学式に出席する為に駅前で待ち合わせの約束をしていた。でも数分だけ凛が遅れた……」


亜紗はそれ以上話せなくなってしまい藤崎が話を続けた。


「凛の目の前で過労のせいで居眠りをした運転手の車が駅前に突っ込んだ。そして双樹さんも桃香ちゃんも帰らない人になってしまった。その運転手が私です。凛さんは決して私を責めなかった。そればかりかこうして私に仕事と生活の場所を与えてくれた」


藤崎が唇を噛み締めた。


「しばらくすると凛は人と接するのを嫌がるようになり突然姿を消したの」


亜紗が再び話し始めた。


「イタリアに居た事があるって、放浪していたって」


「杏ちゃん。そうなんだ、しばらくイタリアに居たのね。ある日ふらっと帰って来た時にはほんの僅かだけれど元気になっていたわ。でも人と距離を置くようになっていいた。それともう1つ約束にナーバスになっていた。約束が凛にとってトラウマなのよ、だから安易に約束なんか絶対にしない。そして、定職に付かなくなった。いつでも自由に居られるバイトばかりをするようになってしまったの。だから私がここに店を出そうと決めた時に無理矢理に連れてきたの」


「なぜ、この島に店を?」


杏が不思議に思い亜紗に尋ねた。


「ここは自然体のままで居られる場所だから。そして島に来る交換条件に藤崎とその家族もここに連れて来ることを提示されたの。最初は驚いたわでも、それが凛なのよ。誰も責めない、いつも自分で責任を取る」


「そんな事が凛さんにもあったんですね」


楓が溜息をついた。


「でも、10年近くも1人でいるなんて奥さんの事を忘れられないのかなぁ」


柚葉が考え深く言った。


「それも少し違うかも知れない。だいぶ前にいつも哀しそうな目をしているから少し本気で凛に詰め寄った事があるんだけど、その時に凛の目から光が消えたの。後で専門医に聞いたらそれは非常に危険な状態だって。おそらく凛にとって男女のそう言う事はとても大きな約束なんだと思うのだから無意識に人を遠ざけてしまっているんだと思うわ」


「ひ、光が消えたままになるとどうなるんですか?」


杏の脳裏に今朝の事が浮かび上がり、杏が恐る恐る聞いた。


「最悪の場合、2度と意識が戻らなくなるかもしれない」


「そんな……」


杏が言葉を失い、杏が不安に駆られ急に立ち上がった。


「杏ちゃんどうしたの?」


亜紗の声に杏が我に返った。


「私、帰ります」


「それじゃ、私が送るから」


「タクシーで……」


「分かったわ、藤崎。タクシーを」


「畏まりました」 


藤崎が電話をすると数分もしない間にタクシーが着いた。

杏は着替えを済ませタクシーに飛び乗った。


「明日のパーリー楽しみにしていたのになぁ」


葛城が肩を落としてしょげていた。


「明日はもちろんやるわよ。少し前に凛に電話したら大丈夫だって言っていたから」


「でも、今日の凛さんの様子じゃ。ねぇ、楓」


「そうだね。柚葉」


「凛なら一晩ゆっくり休めば大丈夫よ。集合時間守りなさいよ」


「オーナーがそう言うなら。明日楽しみにしています。さぁ、皆帰ろう」


「はーい」


葛城に促されて帰り仕度を始める。




杏が玄関を開けて部屋に入ると凛はパソコンに向かって何かをしていた。

杏に気付き凛がパソコンの電源を落とした。


「どうしたんだ?」


「今日は、余計な事を言ってごめんなさい」


杏が凛に向かって頭を下げた。


「杏が謝る事じゃないだろう、杏は俺の体を心配して言ってくれたんだろう」


「うん、でも」


「この話はこれでお終いだ。シャワーでも浴びてきなさい」


「分かった」


杏がシャワーを浴びて出てくると凛が寝室のパソコンに向かいながらカフェオーレを飲んでいた。


「なんだかいい匂いがする」


「ブランデーが少しだけ入っているからな」


「私も飲みたい」


「ちょっとだけだぞ」


ベッドの横に座りカップを受け取り少しだけ飲んでみる。


「美味しい、体がポカポカしてくる」


「風邪薬みたいな物だからな」


凛がカフェオーレの残りを飲み干した。


「寝るぞ」


凛が立ちあがると杏が凛のシャツを掴んだ。


「うん、あのね。お願いがあるんだけど」


「なんだ?」


「今日も一緒に寝てくれないかなぁ。寝ながら少しお話したいし……駄目かな」


「しょうがないな。今日だけだぞ」


「うん」


凛が横になると杏が話を始めた。


「凛の奥さんと桃ちゃんの事、亜紗さんに今日聞いた」


「そうか、やっぱりな」


「やっぱりって?」


「杏の態度が少し変だったからさ」


「分かるんだ」


「分かるさ」


「ごめんね、変な約束させて」


「杏が気にする事じゃないよ。俺が決める事だから」


「今は上手く言えないけれど、約束って縛るものじゃ無いと思うんだ」


「そうかもな。明日は早いからもう寝るぞ」


「うん、1つ聞いていい」


「いいぞ」


「凛は私の事好き?」


「嫌いじゃないぞ、嫌いならこうして居ないからな」


「凛はズルイ言い方するね」


「ずるいか」


「うん、いつまでも逃げていたら何もつかめないよ」


「そうだな」


凛の目に影がさした。

それから2人は何もしゃべらなかった。

杏が凛の腕の中で涙をこぼしたが凛は杏の涙に気付かなかった。


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