第29話 コウとナオ
真島ゆりかはピアノを弾いていた。
ショパンの『幻想曲』だった。
目がチカチカしそうなくらいに、音符がならんでいて、途中で何度もつっかかってしまう。
「む、難しい…」
ゆりかはピアノの前で突っ伏した。
しかし数秒するとムクっと起きあがり、
「また入院するまでには弾けるようにならなきゃ」
そう口にすると、再びピアノを弾きだした。
そう、今は一時退院の期間中だった。
あと1週間したらまた入院することになる。
それまでに弾けるようになりたかった。
「お母さん、そろそろ休憩したら?」
ダイニングチェアに腰かけたスウェット姿の少年がゆりかに話しかける。
この春高1になった次男でゆりかは彼に対し、「ナオ」と呼んだ。
ナオはゆりかによく似た顔立ちで、茶色がかったフワフワした髪質のどちらかと言えば可愛いらしい雰囲気の男の子だった。
「コウに負けられないから、まだ練習するわ!」
ゆりかが意気込む。
「コウはカッコつけたい為に、ショパンの『革命』を練習したんだよ」
「だからお母さんはコウより難しい曲を弾けるようになりたいの」
「張り合わなくていいよ」
ナオは呆れながら、テーブル上にあるスナック菓子を摘んだ。
ゆりかは再びピアノを弾きながら、ナオに言う。
「ナオもピアノ弾けばいいのに。
男の子が弾けるのはかっこいいのよ」
「もう今更指動かないし、コウみたいに弾けないよ」
「残念ね。
小さい頃はコウより筋が良さそうだったのに」
ゆりかの言葉にナオの動きが止まる。
「練習するのが嫌だったんだよ」
「反抗期だったもんね」
ゆりかがピアノの演奏を止め、ニマニマ笑った。
ゆりかの病気が発覚してここ1、2年ですっかり穏やかになったが、ナオは小学校高学年から中学まではかなり手を焼いていた。
外国から帰ってきて、生活に馴染めないストレスからか、1人部屋に閉じこもっては、夜になるとどこかにフラフラ出かけてしまうのだ。
「すっかり落ちついてくれて、よかったわ。
お母さん安心よ」
ゆりかが穏やかな顔でそう告げると、ナオは対照的に不愉快そうな顔をした。
「まだまだいっぱい迷惑かけるよ。
これから大学入れなくて浪人するかもしれないし、ニートになるかもしれない。
結婚もできないかもしれない。
あ、もしかしたら引きこもりなんてものにも、なるかもしれない。」
あまりにも恐ろしいばかりことを言うので、ゆりかの顔がひきつる。
「…やあねぇ…」
「だからさ、まだまだ長生きしてよ?」
ナオは指に摘んだスナック菓子を見つめながら言った。
ナオの言葉に、ゆりかの目の前が霞んでいく。
涙が溢れそうになる。
けれど涙なんか絶対に流すかとばかりに、ゆりかはじっと楽譜を見つめ、しっかりした口調で言った。
「お母さんは、ナオとコウの髭もじゃのおじさん姿見るまで死ぬつもりないわよ」
そうまだまだ死にたくない。
この子たちが大人になるまで、おじさんになるまで見届けるんだ。
そう強く思った。
その時、玄関のドアがガチャっとなる。
「ただいま」
玄関からの声にゆりかとナオが反応した。
「コウが帰ってきた」
ゆりかがピアノの前から立ち上がり、リビングのドアを開けて玄関を覗いた。
学ラン姿の高3になる長男のコウがいた。
「委員会が長引いて遅くなっちゃったよ。
お母さん、お腹空いた」
コウは司によく似た目をしている。
笑うと目尻にシワができるのだ。
好青年風な容貌で司の若い頃に似ている。
「あれ?彼女とデートじゃなかったの?」
ナオもゆりかの後ろから、ニマニマ笑いながら顔を出す。
「ピアノで落としたっていう彼女?」
ゆりかがナオとコウを交互に見ながらきく。
するとコウの顔がみるみる間に赤くなった。
「ナオ!お母さんに余計なこと言うなよ!」
コウが叫んだ。
ゆりかとナオが楽しそうに笑った。
「あははは…」――――
いつまでも響く笑い声。
この日常がずっと続くと良いと思ってた。
なのに続かなかった――――
夢から覚めたら、再び高円寺ゆりかに戻っていた。
『コウ』と『ナオ』
前世のゆりかが大事にしていた息子たち。
あんなに大事だったのに、忘れててごめんね。
ずっと一緒にいれなくてごめんね。
ゆりかは行き場のない想いを抱え、ベッドの中でひとり涙した。
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