小さな女王

香崎凪

「ちょっと早いけど、キリがいいので今日はここまでにします」

 講義終了予定時刻、10分前。

 教壇に立つ教授がそう宣言すると、途端に教室が騒がしくなった。


 いつもは時間過ぎてても続けるくせに、早く終わるなんて珍しいこともあるもんだ。

 私は急いでノートを書き終える。

「優花、もう授業終わったよー」

 この講義の間中、毎回隣で爆睡する友達を起こしてから、私は鞄へ無造作に荷物を放り込んだ。

「寝てたわー……ってまだ8分前じゃん。急げばいつもより早い電車乗れるかも! 沙良サラって今日バイトだったっけ?」

「うん。もう行かないと間に合わなくなるから今日は先帰るね」

 目を擦りながら今更黒板を写し始める優花に応じつつも、私は頭の中で全く別のことを考えていた。


──みんなは今頃何してるんだろう。最近顔見れてなかったけど、長老は元気にやってるかな。ちっちゃい子たちは今日もまた喧嘩してるんだろうな。そういえば、シグおじさんの怪我は、もう治ったんだろうか。それから、私がいない間に何か困ったことが起きてはいないだろうか? それに────


 講義が早く終わったとはいえ、少しは急がないといつもの時間までには帰れない。

 また月曜日に、なんて挨拶もそこそこに、私は教室を出て走って駅へと向かった。


 4月30日、午後9時。

 月が変わるまでには余裕があるが、のんびりしてもいられない。そんな頃。


『サラ様、お待ちしておりました! 異界の門ゲートの状態は安定しているので、いつでも転送可能ですよっ!』

「久しぶり。リリィも門番やってたんだ。ここで会うのって初めてじゃない?」

 汚くならない程度に片付けられた生活スペースの奥。隅に置かれたベッドのすぐ横の壁に、人が一人通れるくらいの大きさの黒い穴が開いている。

──これは、今いるこの世界とは違う、異世界へと続くゲート。本当はどこにあるかも分からない、小さな妖精達の住む世界に繋がっている不思議な穴。

『つい最近、わたしもゲート整備の担当になれたのです! 頑張って長老さんにアピールした甲斐がありました!』

 えっへん! とでも言い出しそうな声がその向こうから届く。

「それじゃ、今から通るね。時間計測、よろしく」

『ラジャー!』

 私は躊躇なく穴の中に足を踏み入れた。すぐにその足は見えなくなって、同時に感覚もなくなる。最初はこれが怖かったが、今ではもう慣れたものだ。

 もう片方の足も突っ込み、次いで全身がゲートに飲み込まれると──


「無事到着、ですね! 会いたかったですー!」

 目の前には門番のリリィがいた。

 飛びながら突進してきた彼女をどうにか肩の上に座らせ、頭を撫でる。二人の間の挨拶代わりのようなものだ。

 あ。ちょっと見ない間にまた大きくなったなあ。前はその位置に立ってても余裕で撫でられたのに。


 しばらくそのまま私の肩の上で寛いだ後、リリィはふわふわと宙に浮き上がって大声で上に向かってこう叫んだ。

「サラ様がお帰りになりましたー! 鐘を鳴らしてくださーーーい!」


 ゴーン……ゴーン……ゴーン……ゴーン……ゴーン……


 待ち構えていたように鐘の音が鳴り響く。

 私は慌てて耳を塞いだ。

 こんな時間に鳴らしたらみんなに迷惑だっていつもいってるのになあ、もう。

 私がこっちに来る度に合図として鳴らされるこの音は、小さな小さなこの国の、端から端まで響き渡る。夜に行くときは寝ている人の迷惑になるからとやめさせようとしたこともあったのだけれど、いくら私の言うことでもこればかりは聞けない頼みとばかりに毎回盛大に鐘が鳴るのだった。

 


「サラ様! わたしは異界の門を見ていなければいけないので、帰りにまた会いましょうね! これ以上ここでサラ様を独占していると、皆さんに怒られてしまいそうですし!」

 音が収まり始めた頃になって、私の前まで戻ってきたリリィが告げる。

「今回の滞在、残り時間はあと29時間42分となります。それではお気をつけていってらっしゃいませ、女王様」

 最後は門番の定型句で見送ってくれるリリィを背に、私は早足で歩き出す。

 元の世界と同じように時を刻む腕時計を、ちらりと確認した。

 

 私がこの世界で女王としていられる時間は、おおよそ月に30時間と決まっている。カウントダウンは、もう始まっているのだ。


 

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