EP1 蛙貴族@ジェントル・フロッグ
「さあさあお立会い。本日ご紹介致しますは一冊の小汚い本でございます。あら汚いなら要らないわ、なんて思ったそこのお兄さん! ところがどっこい欲しい人は喉から手が出るほど欲しい。幾ら金を積んでも惜しくない、ってんだから不思議。そうそうお目にかかれない、ツチノコも裸足で逃げ出す、珍品中の珍品でございます! さてこの古本、ひとたび競売にかけられたなら、一万が二万、二万が四万、四万が八万にも十六万にも跳ね上がる。青天井ときたもんだ。多少の汚れはご愛嬌。むしろ古来より値打ちがあるのは汚いものばかりです。骨董なんかは最たる例だ! 壺に茶碗に掛け軸なんて、綺麗な方が価値がない。綺麗な方が価値があるのは、桜と花火と妻の顔。これはお金じゃ買えないんです。紅白粉つけた所で寄る年波にはかなわない。どっこい汚いものは、お金じゃないと買えないんです。
ネタを明かしますと実はこれ「教科書」なんですよ。もちろんただの教科書じゃない。大戦の戦火を抜け、学生運動の動乱に揉まれ、高度経済成長期の荒波をバッシャバッシャと泳いだ後に、平成の世では学徒のバイブル! 数々の偉人の元を渡り歩いた! 所有者連中は大学の総代ってんだからこりゃたまげた。パラパラっとめくって貰えば一目瞭然、すごいでしょうこの書き込み。あんまり大きな声じゃ言えませんが…これ、全部テストの答えなんです。当たり前ですよね、元所有者が今の教授連中なんですから…。
さあさあ使い方は自由だよ! この書き込みを丸暗記するのも良し。神棚に上げて拝むも良し。立派な先生の使っていた教科書ってだけで、ご威光にあやかれる気がしませんか? え? アンチョコ? さてねえお客さん次第で使い方は千差万別だよ!」
「…叩き売り?」
大学の駐輪場の片隅で一人の女性が声を張り上げていた。簡易屋台を立て手にはそろばんを持ち、節目節目でそれを掻き鳴らす。時刻は昼時だが校舎の裏手ということもあり人影はまばらだ。自転車を止めに来た学生もそそくさと立ち去る。威勢の良さ、声の張り、笑顔、毛深い心臓、腕は悪くなさそうだが限りなく黒に近い商売だ。
(何故大学の敷地で叩き売り?)と、威借(いかり)あゆむは遠巻きに眺めて首を捻る。
「あれは《八年生会》のシノギだな」と、対面から答えが返ってくる。『THE・大学生』といった風貌の男が現れた。「どこの大学にも一つぐらいあるだろ、普段から何をやってるかさっぱりの怪しいサークルが。そのくせ歴史ばかり古くて方々に影響力を持っている。格好良く言うなら秘密結社、それが八年生会。あれはガラクタの叩き売りで下っ端の下っ端の仕事だ。出処不明、用途不明のガラクタを二束三文で売りつけられる。倉庫整理に近いんじゃねえか? しかし侮るなかれ、金さえ積めば連中に手に入らないものはない。曜変天目から単位まで買い付けてくるという噂だ。まあ、お前みたいな真面目くんとは一生縁のない相手だよ。むしろ気をつけろよ、あいつらは善人じゃねえ。お前は人が良いから漬け込まれるぞ」
「…あはは、ありがとう」善意からの進言でないことをあゆむは知っている。単純な話、誰かに利用されれば他の誰かが利用出来なくなるのだ。その誰かとは、ズバリ目の前の彼だ。
「あっはーん、たっくん優しー」なんじゃお前は、盛りマスカラ選手権か! 隣の盛りマスカラ選手権が真偽の疑わしいたわわなバストをたっくんに押し付けた。そして一目憚らず接吻。
「仲のよろしいことで…」
「というわけであゆむ、今日も頼んで良いか?」
ハテナで終わるくせに拒否権は存在しない。相手に選択権を与えるフリをして己の罪の意識を軽くする小賢しい手段である。命令の方がよほど潔い。あゆむが人気のない駐輪場にいたのには理由があった。たっくんはおもむろに学生証を取り出す。それも大量に。講義の出欠は今やカードリーダーに学生証を通すことで行われる。つまりこれは代返だ。代返の強要だ。
「また、すごい量だね…」
「えぇー、悪いよお」と選手権。
「良いよ良いよ。ついでだから」ついで。それが精一杯の自尊心である。
「これからみんなで『よみうりランド』に行くんだ」男は聞いてもいないことを言う。
「やーん絶叫系こわいー。たっくん乗る時手握ってね」
「あはは、そうなんだ。楽しんできて」
「おう」と、無駄に爽やかな笑顔が返ってきた。
もちろんあゆむは誘われない。代返という崇高な使命があり友人たちの進級がかかっている。しかし彼らに協力したとてリターンはない。よみうりランドクッキーすら手に入らないのだぞ。
二人は「プールってもうやってる?」と談笑しながら駐輪場を後にした。
カーンと予鈴が鳴る。「やばい」三限の合図だ。急いで講義室へ向かう。昼飯は抜きである。
幸い先生の御着到には間に合った。が…。
「……」カードリーダーに長蛇の列が出来ている。今のあゆむはいわば学生証の業者であり、ひとたび使い始めれば独占は必須だ。仕方がないので何度も列に並び直す。全て通し終わる頃には講義が始まっており、薄暗い室内を見渡して座りやすい席を探す。しかし皆端から座って行くので真ん中の方しか開いておらず、ヘコヘコしながら前を通る。これではトイレにもいけないなあと考えて「あ」ーー自分の学生証を通し忘れた。
講義終了後一応確認するも既にカードリーダーは回収された後である。「こればかりは他人を責められない」と肩を落とし自分の間抜ぶりを呪っていると「よお」肩を叩かれた。
振り返るとそこには、また別のたっくんがいた。少し厳ついたっくんである。
「今日の学部の飲み会、お前出るん?」
「あ、おれはバイトがあるから…」
「そっか。悪い! 立て替えておいてくんね?」
「ええーまた?」難色を示しても明確に拒否はしない。
「今日の飲み会だけは外せないんだ!」だけではない。彼は常に飲み会が外せないタイプの人間だ。「後でまとめて払うから。頼んだ!」あゆむの返事を聞く前に自慢の健脚で立ち去った。
「あ、ちょっと!」一人残され途方に暮れる。無い袖は振れないのだが「困った…」
「そういうの断った方が良いよ」
飲み代を立て替えるべく学部を訪れたあゆむに、幹事担当のギャルが毅然と言い放った。
「ありがとう。でも返してくれるって言ってるし、あんまり友達を疑いたくないでしょ?」「あっそ。じゃあ勝手にすれば」ギャルはあゆむの差し出す三千円をふんだくった。食費を切り崩して捻出したのだ。「あ、そうだ。クマ先生があんたのこと呼んでたよ」
「おれを? 何故?」「あたしが知るわけないでしょ?」「…ごめん」
「あのさ、あんた見てるとイライラするから、早く向こう行ってくれない?」
この女、きっつ…。
無闇に傷つけられてへこみながら《クマ先生》と書かれた痛いプレートの部屋をノックした。
「……」このプレートは教授に取り入り甘い汁を吸うべく女学生が「せんせーかわいいー」とプレゼントしたに違いない。「そうデブか? 似合うデブか?」とエロ親父も満更でもない様子。おえー全身に寒イボが駆ける。間も無くして「どうぞ」と返事があったのでドアを開けた。
「威借です。お呼びでしょうか」
回転椅子でくるりとデブは振り返る。
「きーみが威借くん?」「あ、はい」「単刀直入にきくけどこれ偽造した?」「は?」
デブは肉饅頭に、あ拳か、紙束を挟んで突きつけてきた。見覚えがある。というかそれは先日あゆむが提出したレポートだ。
「きーみたちの言葉で言うと、まるパクリしたーの、って聞いてるの」
「し、してないです!」
「でーもねえ、そっくりなのがあるのよ」
そっくりと言われて思い出す。貸した。A・B・C・Dのたっくんたち…、誰だったか思い出せないが貸して欲しいと言われ、そのせいで提出がギリギリになった。
変態デブ饅頭はあゆむの表情を読み取り、彼の言い分を予測した上で先手を打つ。
「なんでわーたしが、きーみだけ疑うか分かる?」
「わ、わかりません!」
「こっちのれぇーぽぉとの方が、出来が良いからなのよね」
「……」
「わーたしたちの仕事って、落ちこぼれを人並みにすることじゃないーの。優秀な子をより優秀にするのーが、わーたしたちのお仕事。だーからこっちがモノホンで、きーみのは偽物。悪いんだけど、再提出しーてくれるかな?」
いいともー。肉はレポートをシュレッターに放り込んだ。そのまま一緒にミンチになれ。
「…はい。すみませんでした」
今日は何をやっても駄目な日なようだ。そんな時あゆむは決まって行く場所があった。
「…照り焼きチキン」
それは学校に巣食う野良猫の名前である。誰が呼んだか照り焼きチキン。おそらく照り焼きチキンが大好物とかその程度の理由だが、とりわけあゆむは愛情を注いでいた。バイト代の大半を費やして照り焼きチキンが照り焼きチキンを食べないで済むようなメニューの開発に勤しむ。最近では照り焼きチキン以外の面倒も見ているので、彼自身の食生活は荒廃の一途である。
しかしながらその日はカップルが仲睦まじく照り焼きチキンを捏ねくり回していた。
普段ならそっと立ち去る。「あ、あ、あの」彼が声をかけたのはジェラシー、からではない。
「あ? なに?」男の方、おそらくたっくんがうろん気に見てくる。「なんかよう?」
「て、照り焼きチキンに、…照り焼きチキンをあげないでください!」
彼らの持つ袋には照り焼きチキンが数切れ入っていた。
一方照り焼きチキンは照り焼きチキンに完全に心を奪われ一心不乱に噛り付いている。
「別に良くない?」女が照り焼きチキンの背を撫でながら言う。「玉ねぎ入ってないし」
「そういう問題でなく、猫の肝臓はガラスのように繊細で…」
「この子たちってさあ! 人間の作るうまい飯にありつこうと大学にいるわけで、それを駄目っていうのはエゴじゃない?」
「え、今頭良いこと言った?」
「わかるぅ? 言ったあ」
カップルは公然といちゃつき始める。推定交際期間一ヶ月。最もホットな時期である。同時に最も他人をイラつかせる時期でもあるので、これから経験する予定の人は注意されたし。
「だとしても照り焼きチキンはまずいんですって!」あゆむは引き下がらない。
「分かった分かった。そう熱くなりなさんな。お兄さん、俺は命は何人足りとも侵害しちゃならねえと思ってる。だからここは本人に決めてもらおう」
「あっ!」言うと男は袋の中身を全て地面に撒いた。もちろん照り焼きチキンは大歓喜で鼻息を荒げながら無心で貪る。「それが出来ねえから人間がやるんだろボケ!」
条件反射である。何故そんなことをしたのか彼自身分からない。とにかく一刻も早く目の前から消したかった。断じて空腹に耐えかねたからではない。
「むぐむぐ、むぐ!」砂まみれの照り焼きチキンを食った。
「うわあ…」とカップルドン引き。じりじり後ずさり、そそくさと立ち去る。
しかし目的は果たした。代わりに大切なものを失った。尊厳とか。
照り焼きチキンを取られた照り焼きチキンは、名残惜しそうに地面を嗅いでいたが、やがて鼻を鳴らして何処かへ行く。その鼻息が「ア・ホ」と聞こえてあゆむは文字通り砂を噛んだ。
不覚にも空腹が満たされた。
◯
夢を見た。小学生の頃の記憶である。あゆむは一言で言うならお山の大将だ。誰からも一目置かれる存在であり勉強も運動も一番で、周囲は彼をちょっとした神童として扱った。もっとも神童も二十歳過ぎれば普通の子、いや二十歳を待たずして化けの皮は剥がれるのだが…。
頂点とは常に孤独である。一匹狼といえば聞こえが良いが、言い換えれば友と呼べる存在がいなかった。代わりに心の隙間を埋めたのが畜生の類いである。畜生に依存してどんな畜生でも分け隔てなく愛情を注いだ。無論保健所の職員は天敵だ。西で負け犬の遠吠えを聞けば盗んだ軽トラで駆けつけこれを癒し、東で山狩りと聞けばジョンランボーさながらのゲリラ戦で撃退した。『蛙爆竹』や『子猫ダンボール』など極刑ものの大罪であり、例え犯人が中学生や高校生とて血眼で探し出し徹底的に痛めつけ再起不能になるまで辱めた。
その獅子奮迅の活躍に山の獣たちも一目置いて毎朝彼の家の前に山の幸を供えたとか。
しかし思う。今考えてみればただの口実である。畜生をひとよりも大切にする質なのは否めないが、現代版犬公方に勝るとも劣らない理不尽な振る舞いは行き過ぎた正義なんて格好良いものではなく、己の内に秘めたる暴力性を発散するための口実にすぎなかった。ゆえに自分より弱いものを見つけて守る振りをした。それが畜生であり、いじめられっ子の転校生だった。
問題はそれだけではない。周囲を顧みないウルトラマンスタイルの正義を貫いた結果、彼が助けたものの倍以上の被害者を生み出してしまった。例えば元・いじめっ子たちはあゆむの暴力に慄きすぎて、逆に彼が暴力性を発露する口実に成り下がったのである。つまりいじめられる側に転げ落ちた。例えば軽トラの所有者はあの事故を皮切りに諸々あって離農した。前者はともかく後者はまったくの無実の被害者である。その他にも数えだしたら枚挙にいとまがない。
彼らが今何をしているのか、あゆむには分からない。
かつて威借あゆむが燦然と輝いていた頃。
それは今となっては忘れたい過去であり最大の汚点だ。
「…最悪な目覚めだ」ため息と共に目を開ける。体力が全く回復していない。お煎餅型の布団に再度沈み込んでしまいたい衝動にかられるが「はて?」何か大切なことを忘れている気がする。そのくせ焦りばかりがムラムラとこみ上げてきて、はたと時計を見ると十五時を回っていた。「大遅刻じゃねえか…」
昨日はあの後アルバイト中に腹痛に見舞われ、それを口実に夜勤を押し付けられ、部屋に帰ったのは明け方過ぎだった。それからレポートを書き直し、終わったのが八時である。ほっと胸を撫で下ろすが授業まで微妙に時間がある。かと言って寝てしまうと疲労感と充足感のせいで確実に寝過ごす…と考えている内に寝た。そして案の定寝過ごした。無論今から授業に行っても間に合わない。えーいやめやめ今日は自主休校だと手足を投げ出す。
「確かレポートの提出は今日まで…」
幸か不幸か現実は彼の怠けを許してくれない。
「行くか…」
気は向かないが顔でも洗えば少しは気が紛れるかもしれない。
「鬼の霍乱、青天の霹靂。悪いことには前触れがない。赤字に不況に世紀末。当たっていたのかノストラダムス。帰っておくれよ恐怖の大王。暗いニュースで頭はくらくら、枕を濡らすよクライクライ…。だけどね良いことだって前触れがないんです。棚からぼた餅っていうでしょう? え? ぼた餅みたいな顔だって? 大きなお世話だコンコンチキ!
ちょいと聞いてください。家に帰れば腹を空かせた可愛い弟妹があたしの帰りを待っている。聞くも涙、語るも涙の物語。父親は呑んだくれ。母親はパードで時給八百五十円。そこから生まれたあたしら兄弟。どいつもこいつも育ち盛りの食べ盛り、いたずら盛りに生意気盛り、女盛りはこの私ってなもんだ。どう?その胃袋満たすためお姉ちゃんは粉骨砕身の思いで今日も今日とて商い家業でございます」
「叩き売り…」
学校に辿り着いたあゆむを待っていたのは昨日の啖呵売女である。場所は変わらず駐輪場を間借りしていた。昨日同様、閑古鳥が鳴いている。もしかして彼女もこんな僻地にまで追いやられてしまったのかと、ふと不憫になってくる。
「よっ! おにーさん」油断した。気づけば啖呵売に背後を取られた。「昨日も見てたよね」
「…ああ、どうも」
「いやーまいっちゃうね、この辺り全然人通りなくて。駐輪場ったって殆どこれ放置自転車でしょう? あー、あたしに自転車イジリの能力があればニコイチにして売っぱらうのにい」
「……」よく喋る女だ。気付けば向こうのペースに巻き込まれている。
「世間話でも付き合ってよ。暇で暇で」
「…いやおれはこれからレポートを」
「ああん大丈夫! レポートの一つや二つ出さなくても卒業出来るんだから。息抜きも必要よ」
言ってあゆむをビールケースに座らせた。これといった理由はないが雲行きが怪しい。
目の前にずらりとガラクタじみた商品が居並ぶ。「何か気になるのあったら言ってね」啖呵売はカモを見つけたとばかりにギラギラ目を輝かせる。
「……」理由をつけるなら適当なものを買って、とっととおさらばしようと考えた。目の前の一冊の本を手に取る。真新しい和綴じの同人誌のような装丁だ。
「おっとお兄さんお目が高い! 今のお兄さんにうってつけだ! …大きな声じゃ言えないが、これは最新版の偽造レポート。これ一冊で近々のレポート課題は全てカバー出来るってんだから驚きだ。え? バレる? いやいや、丸写しは阿呆の所業。偽造と気付かれず最大限手を抜く方法が分かりやすく丁寧に記されているから。袋とじで! 買ってから自分の目で確かめてちょーだいっ。一度で良いから見てみたい優でレポート取るところ!」
ペラリとめくり「ーーっ!」あゆむは思わず目を見開く。
同人誌の最新号、そこには自分が提出したレポートがまんま載っていたのである。
わけがわからない。先日肉饅頭によってシュレッターに叩き込まれたものと一字一句違わない。どのような経緯で誰の許しを得てここに載っているのだ。「これのせいでおれは…」再提出の憂き目にあった。頭に血がのぼり手が震える。ここまで合理性を欠いた理不尽があって良いのか。おれが何をしたというのだ! しかし「いらない…」声を押し殺して本を閉じた。
「ねえねえおにーさん最近猫可愛がっているでしょう?」
一方啖呵売は彼の異変に気付かない。ビジネスチャンスを逃すまいと食い下がる。
「ウチの猫って結構グルメなのよ。しかもそれぞれ好みが違うから、特売のカリカリなんか見向きもしない。それが一発で懐柔出来る『特別な餌』があるっていったら興味ありまっか? 今この冊子を買ってくれたお客さん限定でその特別な餌を付けちゃう! 無料で! しかも十日分! これであなたも猫使いってなもんだ! どう?」
「学食の残りもんだろ」
「あ、あれ? ゴゾンヂで? でもおばちゃんと仲良くならないと譲ってもらえないよ!」
頭にのぼった血がすーっと引いていく。頭の片隅で「あーあ、こりゃ間に合わん」と冷静に俯瞰する自分がいた。「待て今からレポートを提出してくる。その後戻ってきて一言申したいからちょっと待っていろ」と、理路整然と動ければ人間どれだけ良いか。
「…一つ、質問良いか?」
「もちろん!」
「…昨日カップルにも売ったか?」
「カップル? 一々覚えちゃいないよ! でも考えてみればカップルの割合が多い気がする。これは重要な統計結果だ! さんくーおにーさん! お礼にもう十日分付けちゃう! さあさあ入荷時期はおばちゃんの気分次第! 売り切れ必須だ。またたび粉配合の特別なーー」
「……」
「ーーって、熱っ!」
商品が突如として炎上した。紙類が多いせいか結構な業火である。ほどほどのキャンプファイヤーである。突然の出来事に対応しきれず「えー…」と先ほどまでの威勢はどこへやら、呆然と立ち尽くす。一方であゆむはテキパキと働き、燃え盛る炎が飛び火しないよう辺り一帯に水を撒く。が、その手には一本のチャッカマン…。
だから正確には威借あゆむはテキパキと放火していた。
ハッと意識を取り戻した啖呵売は、着火マンに飛びかかる。
「こんにゃろう! なにしやがる!」
しかしひらりとかわすと「焼却処分だ」とのたまう。「腹痛はごめんだからな」
「は?」
「照り焼きチキンに照り焼きチキンは猛毒だああああ!」
「あんた何わけのわからんことを! 持病の癪か!」
「黙れ犯罪者め! 著作権侵害に詐欺に猫殺し!」
「堅気を詐欺師呼ばわりたあ、やい何の証拠がある!」
「おれのレポートが載っている」
「えー…しょ、証拠を出せえ…」
「神聖な学び舎で詐欺行為とは、同じ学生として情けない…。恥を知れ!」
「違うの! 家では腹を空かせた兄弟があたしの帰りを待っているの! 病弱な母は時給八百五十円でタンポポだし、父は酒乱だし、少しでも家計の助けになればってっ! …よよよよよ」
方向転換。勝ち目がないことを悟り、しおらしくその場に泣き崩れた。ただ残念なことに威借あゆむには通用しない。彼女の顔を覆う両手をむんずと掴むと力ずくでいないいないばあ。
「随分お早く干上がったなあ、涙!」
「ドライアイなのおおおお」
「うつけ者! ドライアイを何と心得る!」
「心で泣いてんだよ!」
「このまま然るべき場所へ突き出してくれる!」
「調子にのんなよ! あたしが《八年生会》の金庫番富良ソワ子(ふら そわこ)と知っての所業か!」
「知るか! お前のような不埒な輩がいるせいで、この学校は腐敗の一途を辿り猫たちはガラスのように繊細な腎臓を痛めているのだ! お前それでも商売人か? 良いか誰かを不幸にする商売なんてたかが知れている。二流のやることだ!」
「ーーっ」目に見えてうろたえた。「だからって燃やすことねえだろ! 弁償しろ!」
これ以上言い争いをしてを埒があかない。自らをソワ子と名乗った啖呵売は距離をとった。
「上等じゃねえか! あたしを怒らせるとどうなるか、その体にしっかり思い知らせてやんよ! ーーであえーっ、であえーっ!」新手の街コン、ではない。
彼女がよく通るドスの効いた声を張り上げると、どこからともなく怪人が現れ瞬く間に包囲した。数にして十人、仮面ライダー、大仏、馬など皆覆面をつけてマントを纏っている。
一方あゆむはソワ子が離れたのを良いことに燃え盛る炎へ何でもかんでもお手玉感覚で放り込んでいく。氏の名誉のためにいわせてもらうが、威借あゆむは放火魔ではない。本日は諸々の事情により、だいぶおかしくなっていた。諸々の事情とは、虫の居所が悪かったのである。
「むきい! お前らあいつを矯正施設に叩き込め!」
「ああ?」そこでようやく忍び寄る魔の手に気付いた。後ろから羽交締めにされて地面にキス。続いて蹴りや拳が降り注ぐが、あゆむは一人懐かしさに酔いしれていた。プルースト効果。血と砂の味がかつての記憶と興奮を呼び起こす。元・百戦錬磨の喧嘩の達人が奇妙なまでにしおらしく抵抗しないのは、極度な不摂生により体が鈍りきっているから。というのが理由の一つだが、もう一つ数的不利はどうやっても覆らないというのもあった。ゆえに最小限の被害で敵が戦意喪失するのを待ち、後日練りに練った策で各個撃破を狙う。だが顔が見えない相手は初めてだし、矯正施設とやらも未知数である。(もしかしてこれは窮地か?)今更焦り始めた。
「カモかと思ったのにクレーマーかよ!」ソワ子はあゆむの髪を掴んで顔を覗き込む。「学園生活灰色決定だから! でも土下座して言い値で弁償するなら見逃してあげても良いけど?」
一時的に拘束が緩み、あゆむは地面に膝をついた。そして両手をつき四つん這いの姿勢になる。と、見つけたのは五玉のそろばん。おそらくこれも違法な商品であり先ほど燃やし損ねた残骸だ。それを鷲掴みにすると満腔の力を込めてソワ子の顔面に叩きつけた。
「ぎゃあ目があ」じゃーんと派手な音を立てて飛び散った玉が顔中の穴という穴を塞ぐ。これを好機と見なしたあゆむは、すかさずひるんだソワ子にチョーパンを入れた。「んひゃ!」
「おれは! 女も殴れる拳を持っている!」正確には拳ではなく頭突きとそろばんである。
ソワ子は仰け反りたたらを踏む。足元には鼻腔に詰まり損なった玉が転がっており、大方の予想通り…踏んづけた! 転んだ! お手本のようなサマーソルトキックが空を切る。無闇に長い滞空へ経て「んぎゅ」後頭部を強かに打ち付けピクリとも動かなくなる。
「……」一連のループゴールドマシン的動きに誰もが言葉を失う。旗とか立ったら完璧だ。どうするどうすると敵さんは目に見えて狼狽える。逃げ出すなら今しかない!
「ーー放て!」
瞬間、秋晴れの空に時雨が降り注いだ。轟音が地面を打つ。一帯が瞬く間に煙に包まれる。覆面集団は何が起こったか分からず仲間同士ぶつかったりそろばんで転んだり、勝手に自滅する連中も少なくない。襲撃。その様子を見る限り増援や加勢ではない。彼らを襲ったのは大量のロケット花火やペットボトルロケットの類いであった。絶対に人に向けてはいけないタイプの子どものおもちゃをこれでもかと危険な方法で使い倒す。
「撃ち方やめ!」
時間にして五分、声を合図に雨は止んだ。先ほどまでの喧騒が嘘のように静まりかえる。既に変態集団は這々の体で逃げ出していた。一人、ソワ子を置いて。ソワ子は鼻血を垂れながらパンツ丸出しで地面に転がっている。原型を失ったバックプリントと虫食いのような穴、つまりとてつもないボロを白日のもとに晒す。それだけではなく彼女の服飾は全体的にボロく茶色い。「…埃かぶった唐揚げみたいだな」というのがあゆむの辛口ファッションチェックである。
「おい起きろ。フーテン、ルンペン、アーパー詐欺師!」一応安否を確認する。その方法がつま先で小突くというのだから本当に一応だ。しかしいつまで待っても反応がない。「やっべ…」
そもそもオンボロパンツを隠さない時点で、異変に気付くべきだったのである。
「貴君、やってしまいましたなあ」
夕闇をフラッシュが切り裂いた。首から一眼レフを下げた小太りのメガネ男、典型的日本人像といった男が薄闇からぬるりと現れる。その後ろから筋骨隆々の巨人、点滴スタンドを転がす亡霊系女子、軽薄なハンサムの三人が続く。どうやらあゆむを助けたのは彼ららしい。
「とりあえずこれだね」と小男が取り出したるは鯨幕のステテコである。「レディに恥をかかせてはいかんぞ」と気絶しているソワ子に履かせた。客観的には羞恥心増し増しである。
「可哀想…」と巨人は涙ぐむ。
「だいじょぶよん、気絶してるだけ」亡霊はさっと一通り容体を確認し「んぬふっ」とステテコを見て吹き出す。
「そっかあ、良かった」巨人はソワ子を担ぎ上げると上部僧帽筋と三角筋の谷間に挟んだ。
「やあ久しぶり」ハンサムはあゆむに近づくと手を握った。「久しぶりだねマイヒーロー」
「久しぶり?」心当たりはない。依然事態は飲み込めない。が「……」何かを感じ取った。
「おっと、感動の再会は後回しだ。とりあえず今は逃げよう!」
小男に続く形でその場を後にする。騒動を聞きつけた守衛がいつ現れてもおかしくない。
あゆむが連れて行かれたのは共通教育棟である。共通教育棟とは読んで字のごとく、共通科目を主に行う棟だ。よってここの学生である以上誰もが必ず利用するが、悲しいかな、そこへ至る急勾配は何人をも拒み、そのせいで毎年共通科目を落とすものも少なくない。さらに結局辿り着いたのは棟の四階、最上階である。あゆむは手すりにもたれて呼吸を整える。
「いやーごくろうさま」先に着いていた小太りの男が涼しい顔で見下ろす。
エレベーターを使ったのだろう。文句の一つでも言ってやりたかったが、口を開けた瞬間嗚咽が漏れた。
「ここへ」一室に男は招き入れた。そこは《開かずの講義室》の異名を持っていた。あゆむは少しだけ興奮したが、蓋を開けてみれば他の部屋と大差がない。がっかりである。
先ほどの面子が迎え入れる。依然目を覚まさないソワ子は長机をつなげて体を横たえていた。
あゆむは呼吸を整えると、開口一番「お前ガクか?」ハンサムに尋ねる。
「イエス。って、今まで気付かなかったの?」と笑った。
ガクこと西原田楽(さいばら でんがく)について。かつて小学生だったあゆむが助けた同級生の成れの果てである。彼奴に在りし日の面影はない。いやある。どっちなんだ。あゆむ自身理解に苦しむ。確かに思えば当時から顔の作りは整っていた。しかし現在の明るく弾けんばかりの笑顔は方向性でいえば正逆である。あの頃は下を向き、背中を丸めてビクビクと怯えていた。己に自信が持てず何事にも消極的な典型的いじめられっ子である。それが成長してこうなったというのか。成長で片付かないほどの変貌、豹変、変身ぶりである。改造人間か? 改造人間が凡人をとっ捕まえてあまつさえ『マイヒーロー』と呼ぶ。あの一件を指しているのであれば甚だ心外である。
「いやー懐かしい。二人で共謀していじっめ子たちを成敗したよね」
「あ、ああ…」ガクの記憶の中ではそういうことになっているらしい。
「パンツにアシナガバチ入れて何匹まで耐えられるかとかさ」
「そこまで酷いことはしてねえぞ…」
「口の中パンパンにカメムシ入れて瞬間接着剤で塞ぐとかさ。鼻から出てきたのは笑ったよね」
「…拷問じゃねえか」
「じゃああれだ。たまごっち虐殺事件」
「…それはやった」
学校に持って来ている時点で法に抵触しているのでそれを逆手にとってやりたい放題だった。
「……」何か記憶に食い違いがある。
おそらくガクが言っているのは転校先の出来事だ。あゆむの知るガクは意を唱えることはあっても賛同することはなかった。ましてや『マイヒーロー』と持ち上げるなど以ての外である。
「でもまさか大学で奇跡の再会を果たすとはね。あゆむを見つけた時は小躍りならぬ大踊りしちゃったよ。また一緒に遊ぼう。成長した分昔よりもっと面白いこと出来るはずだよ!」
「ああ…」釈然としない何かを抱えながら頷く。
「さて感動の再会はこれぐらいで良いかね? ガッくん」小太りが二人の間に割って入る。「威借あゆむくん、申し遅れました。私の名前は芯嶋英作(しんじま えいさく)といいます」
小太りでシャツインで吊りズボンで首からはカメラで、まるで休日のお父さんのような出で立ちである。芯嶋は胸を張ってほくほくとした笑みを浮かべながら言う。
「そして我々は名を《蛙貴族》(ジェントル・フロッグ)という」
我々。あゆむを助けた四人を指す。
「安い居酒屋みたいな名前っすね…」
「その理屈でいうと貴君は貴族と名のつくもの全てが大衆居酒屋となるわけだ」
「…動物+貴族の組み合わせ限定だ」
「我々は紛うことなき仲良し集団である」
「…自分で言うことか?」
「しかし凡百の仲良し集団ではない。とっても仲良し集団だ。私はそれを誇りに思っているし、仲良し集団である以上最大限親睦を深めるべきだと考えている。が、それを邪魔だてする連中がここにはいる。ーー連中の名は《八年生会》」
「八年生会…?」最近よく耳にする名だ。「なんなんですか、そいつら。この女も自分のことを八年生会と言っていたし、襲ってきた連中も八年生会っすか? 秘密結社? メーソン的なメンサ的な? そもそも秘密結社って生活圏内に存在するものなんすか?」
「一言で言うなら諸悪の根源だ」
「しょあくの、こんげん…?」
「例えば当たり前のように代返行為やレポート偽造が横行している現状を不思議に思ったことはないかい? あれは全て八年生会が水面下で活動しているからこそ公にならず、取り締りも行われないのだ。例えば学生生活において『絶対出席日数が足りていないのに何故か単位が取れてしまう』ことがあるだろう? あれは八年生会のお抱え能力者の一人、代返の
「…不思議な事件っていうか犯罪です」
「詳しくは裏学則を参照してくれたまへ」
「裏学則?」
「なんだ知らないのか? 貴君が彼女に売りつけられたアレだよ」
「そんなもの売りつけやがったのか」
(しかし理不尽な目、ね…)昨日のあれこれが浮かぶ。
「もしかして照り焼きチキンの一件もですか?」
「照り焼きチキンの件もだ。連中は野良猫を拾ってきては校内に放つ、はた迷惑な習性がある。照り焼きチキンが照り焼きチキンの味をおぼえてしまったのも八年生会が発端だ」
「…許せん」
「とにかくそのような無茶苦茶なやり方は我々の理想とは相違う。些か都合が悪いらしい。我々が我々の方法で親睦を深めようとすればするほど、八年生会は待ったをかける。選択肢は二つに一つだ。連中の目の届かない日陰でひっそりと暮らすか、連中の軍門に下り仮初めの自由を得るか。本当に? 否! 悲しみは絶望じゃなくて明日のマニュフェスト。つまり仲良し集団といえど絶望することなかれといいたい。第三の選択肢を私は提唱したい。謀反だ。反旗をひるがえすのだ。単刀直入に言おう。あゆむくん我々と共に八年生会を滅ぼそうではないか」
「……」
「我々は貴君という正義を得ることで著しく躍進しする。そしてそれは貴君も同様だ。これまで数々の悪に耐え忍んできたことは想像に難くない。しかしこれからはそんなものに耐えなくても良い。緑色の紳士がいつでもそばにいるのだから!」
芯嶋の言葉は思う所があった。しかし甘言だ。惑わされない。
「のお」
だが芯嶋栄作は人の話をきかない。
「八年生会には明確な特徴が一つある。誘拐だ。連中は見込みのある学生を攫い矯正施設に叩き込み徹底的に堕落させる。八年生会の色に染め上げる。あの状況、我々が助けなければ貴君は矯正施設送りになっていた。そしてこらからも面子を潰された連中は貴君を付け狙うだろう」
「…面子を潰したのは、あんたらだろう」
「最低限の安全は保障しよう。今すぐ答えを出さなくて良い。じっくり家で考えてみてーー」
「だあら腹は決まってますよ! 要するにちょっと遅いサークル勧誘でしょう?」
悪を滅ぼす? 仰々しいことを言っているがヒーローマニアかアニメオタクの集まりである。世間に爪弾きにされた犯罪者予備軍が電波的妄言を垂れ流しているのだ。
「もう一度言います。答えはノーっす。おれはあんたらと仲良しごっこをするつもりはない」
力強く机を叩いて立ちあがった。ソワ子がびくつく。どうやら目覚めているようであり、ならば一安心、尚更ここにいる理由はなくなった。踵を返す。扉に手をかける。
「蛙貴族はいつでもここにいる。色よい返事が聞けるのを待っているよ」
やはり芯嶋は話をきかない。
「…ふん」勝手にしろ。一生待ってろ。
無性に腹が立って一晩かけて書き上げたレポートをゴミ箱に叩き込んだ。
「…あのー」
少し前から目は覚めていた。事情が飲み込めないので大人しく動向をうかがう、もとい逃げるチャンスをうかがっていたが、しかし動けない。結束バンドで手足が縛られいる。しばらく抵抗を試みるも早々に無理だと悟り、ソワ子は首だけ起こして「するってえと、するってえと、あたしは保護されたわけじゃなくて…捕虜?」といった。
「おはよう、ソワ子くん。捕虜になるか保護になるかそれは貴君次第だ」
「えー…こわー…あたし今日帰れます?」
「ああん。あらしと一晩中たのちいことしましょう?」と亡霊系女子はソワ子の耳をほじる。「ガサガサいうでしょん?」
「ひえーっ! 神経がたくさん集まってる所みみ! あと臀部が猛烈な痒みに苛まれているのだけれど、何かしました?」
「見てみるん? ベロン」
「きゃあ」と悲鳴をあげ顔を覆ったのは巨人である。
「わあステテコ! ジャパニーズ縞パン!」もしかして喜んでいるのだろうか…?
うるさい女というのがその場の総意である。その後もソワ子は目に付いたもの全てに「でか! 顔色悪! おっさん! セックスシンボル!」と捻りのない感想を述べる。
「あれあいつは? 放火魔」
「帰ったよ」
「えー弁償させなきゃなのにぃ。ちぇ! まあいいや。じゃ、あたしもそろそろお暇しますわ。ちょっとこれ、そうそう、あんた、でかいの。うん、足だけで良いから切って」
「貴君は面白いねえ」
「…チッ」
「さあ夜の長さもソワ子くん次第だ。ききたいことが山ほどあるからね。全て吐くまで帰さないなんてこわいことは言わないよ。ちゃんと喋ったら余裕で月九に間に合うようにするからさ」
「言葉のマジック!」
「では私は学食で唐揚げを買ってくるので、ラリくんあとよろしく」
「あいあいさ」
「ちょ、おっさ…おにいさん! この人と二人はまずいって! ぎゃ」
ぎゃああああああと、共通教育棟に悲鳴が響くことはなかった。
開かずの講義室は完全防音である。
○
ところで威借あゆむには密かに想いを寄せる人がいた。彼女の存在があったからこそ一年間やり過ごすことが出来たのである。猫と並びただれた学園生活における一服の清涼剤だ。
次の日も先日同様共通教育棟へ続く坂を登っていた。五月というのに真夏に匹敵する猛暑で、あふれ返る五月病罹患者にとっては泣きっ面に蜂、もといかっこうの休む口実である。人影はまばらだ。この分なら芯嶋の言う八年生会からの刺客も自主休講である。坂を登りきると逃げ込むように棟へ入り自販機に飛びつく。普段は使用を自粛しているが今日は買ってしまおう。
(まず金を出して買う以上水はない。となると王道でスポーツドリンクか? しかしげにおそろしきは口当たりの良さである。ではお茶はどうだろうか? 家でも飲めるんだよなあ。となると嗜好品の代表格炭酸飲料か。だが逼迫した現状において嗜好品は明らかな愚行ではないか)
とか考えていたら横からすっと手が伸びてガショーンと派手な音がする。
「しるこおおお!」しかも『あったか~い』だ。
冬場にあれだけのポテンシャルを発揮するのだから夏場は兵器に等しい。なんという狼藉か。「誰だこの野郎なにしやがっ!」で、固まった。
その姿を見た途端、怒り成分がつむじから「ぷしゅう」と抜けて頭の中が真っ白になる。
彼女は汁粉を「あちち」しながら言う。
「やあ少年。元気してた?」
「…教授」
「教授ではない講師だ」
「学生にはそんなこと分かりませんて」
「しかしきみには幾度となく注意しているはずだが?」
「えへへのへ」えへへのへである。
あゆむに教授と呼ばれた人物は名を片田瀧(かたた たき)という。
「リストラ社員に最後通告しそうな名前ですね」
「親孝行しそうとかなら言われたことあるわ」
非常勤講師である。齢は二十代後半から三十代前半の妙齢の淑女であり、その若さで大学講師を任されるとは中々のやり手だ。「講師なんて嘘よ。ただの雑用と派閥争いに巻き込まれただけ」よく意味が分からなかったが、分からないようにいっていることは分かった。化粧っ気の薄い顔の和風美人である。極め付けは白衣だ。「いやあこういうの着ていないと講師って分かんないじゃん?」あゆむの心の拠り所である。一年の頃何かと理由をつけては通いつめていた。要するにこれぐらいの男にありがちな、年上の女性に対する憧れである。言わずもがなだが往々にして叶わない恋の片道切符だ。太古よりそういう風に出来ている。
「ぷっは!」腰に手を当てて汁粉を飲み干す。女性らしさをなんぼかドブに捨てないと出来ない姿だが、あゆむにとっては最高にチャーミングだった。
「窓から登って来るのが見えたからね。来ちゃった」ぺろっと舌を出す。昭和のリアクション。
「壁を登ってきたと捉えられかねない文章構成ですね。…最近どこ行ってたんですか?」
「インド」
「インド…」彼女の表情が曇るのを見逃さなかった。「…ま、まあ、さくらももこもあんなとこ二度と行かないって言ってますし」
「だから土産があるのです。今時間ある?」
「なくてもあります!」
「なにそれ? 哲学?」と笑った。「それなら茶でもしばくべえ」
茶がしばかれる様子を観察すべく二人で瀧の研究室に向かう。
「あそうそう」手に持った汁粉の空き缶を揺らしながら「ゴチ」
ずきゅーん。
ーー瀧の土産はアイスチャイだった。
「…存外王道ですね」
「そうとも言えないんだなあ、これが」以下ものすごい早口でまくし立てる。「元々インドの紅茶って、イギリス人が輸出用に作らせたものでしょう? ところが経済成長で庶民の所得が上がったことにより、近年国内消費量が増えているの。つまり日本に輸出されるのはそのごく一部、高級品ってわけ。さらにこれはダスト、つまりゴミね。商品として価値がないものを現地の人が『しゃあねえ飲むべえ』つってお得意のスパイスドーン、砂糖ドーン、ミルクドーンで飲めるようにしたのがチャイ。吉祥寺なんかのシャレオツなカッフェで飲むやつとは違う、限りなく本場の味。まあジャポンの舌に合うかどうかは別問題だけど」
「すいません聞いてませんでした」
「乳飲子かっ」喉の渇きを猛烈に潤す。
「つまりゴミを分けてもらったってわけですか?」
「イエス! 何よ文句ある?」
「先生が嬉しそうなので良かったです」
「感想は?」
「くそ甘い」
「そうなのよ! だから汁粉でバランスをとっていたってわけ」
「……」バランス、取れてねえ。一極集中にもほどがある。片田瀧ものすごい甘党なのだ。
「で、どう? あゆむくん、近況を聞かせて。お友達はできたかしら」
「もちろん!」虚勢を張った。「ワンチャンマブダチウェーイでコンパっすよ!」
「そっか羨ましいなあ。私友達少ないから…。特に同性からは敵視されがち」
「……」選択肢を間違えた。ここは同類同士傷を舐め合うべきだった。
「男の子は男の子で友達として接してくれる人って少ないしこっちも警戒して壁作るでしょ? そうすると同性にはお高くとまってるって言われるし、逆に受け入れても色目使ってるとか言われるし…。好かれるって何? 同性の友達ってどうやったら出来るの?」
…闇が、漏れている。内心ヒヤヒヤもんである。
「…ごめん、変な話して」
「いや、おれも心から通じ合える友達は難しいっていうか…意外でした」
「じゃあ講師らしい話するけど、あゆむくんレポート提出しなかったんだって?」
「…マッハイヤー」耳が早いと言いたい。「しかしこれには深遠なる事情が…」
「皆まで言うな。だいたいわかるわ! アイツに変ないちゃもんつけられたんでしょう?」
彼女が師事しているのは例の肉饅頭である。しかし良好な師弟関係が築けているとは言いがたく、立場を利用したパワハラ・セクハラ三昧にいい加減腹に据えかねていた。許すまじ。
「…瀧先生は、おれのこと信じてくれるんですか?」
「真面目一徹のきみがレポートを偽造するはずないもの!」
「……」ちょっと泣きそうになったのを咄嗟にうつむいてごまかす。
「コンパでウェーイするはずないもの!」バレてーら。「でも再提出を怠って良い理由にはならないわ。今回はもう諦めるしかないけど、次は絶対にきみが損しないようにしなさい。そして友達は選びなさい。代返バレてるよ。とりあえず今回はお咎めは無しだけど、次は絶対に無いし何よりきみに益がない。丸め込むのに苦労したんだから感謝してよね」
「おれのために頭を下げてくれたんですか?」
と言って(…あれ?)何か嫌な予感がした。点と点が繋がる。ずっと疑問だったのだ。何故彼女はセクハラを甘んじて受け入れているのか。おそらく理由は様々だが、そこには自分もいるのではないか。甘ったるチャイが喉元にこみ上げてくる。気を緩めると吐く。
あゆむの表情から何かを読み取ったのか瀧は語気を荒げた。
「ちょ、変なこと考えるのやめてよ!」
「だって絶対にそうじゃないですか! おれのせいで瀧先生は…」
「きみは勘が良いんだか悪いんだか…。こういう時はお姉さんに格好つけさせるものよ!」
自分が悪に甘んじたせいで大切な人が傷つく。考えてみれば当たり前のことである。どうして今まで失念していたのか。ヒーローごっこに熱中する子どもだって知っている。
「おれからも一つ忠告させて欲しい。ご自分を大切になさってください」
「まあ生意気。助けてもらったくせに。いーっ!」
「…ごちそうさまでした」言って席を立つ。
「もう過ぎたことだからあまり気にしない方が良いよ」
「いえ、ご忠告痛み入りました。少し生活態度を改めます」
「う、うん?」
言ってあゆむは頭を下げて部屋を出た。行き先は決まっている。悪は潰さねばならない。
悪人は誰だ。代返か。セクハラか。代返を強要したやつか。セクハラを許したやつか。
「その全ては八年生会だ」芯嶋は言う。「教授自身そこの出身なのだからね」
あゆむは瀧の研究室から出るとその足で蛙貴族に向かった。昨日と同じ場所に同じメンバーがいる。しかしよく見ると色々事情が変わっているらしい。少なくともガクの姿が見えない。
「勧誘の件、まだ気が変わらないっすか?」「もちろん」「おれは気が変わりました。やっぱ入ります蛙貴族」「そうかウェルカムだよ」「あんたこうなること最初から分かっていただろう?」「もちろん」「狸親父め…」
言って芯嶋は赤ん坊のような丸い手を差し伸べてきた。握り返すと結構強い力だったので負けじと応戦する。してから試されたことに気づく。ちょっと悔しい。
「お前大丈夫か?」と近くでへばっているソワ子に一応声を掛ける。想像を絶するヒドい目にあったことは想像に難くない。
「…あんた目え腐ってんの? 臀部がかゆいっつうの! ああもうお風呂入りたい!」
「あん。あらしに任せてん」と昨日よりツヤツヤした亡霊系女子が臀部を撫で回す。
「ぎゃあやめろ近づくなホントやめてください!」
こんなことを一晩中やっていたらしい。
「おっとラリくん、お楽しみ会はお開きだ。彼女にアロエを塗ってやって欲しい」
「えー」とラリと呼ばれた亡霊系女子は不満を漏らす。「もうおしまい?」
「おしまい。でも臀部にアロエを塗る権利を与えよう」
「しゃあないわねん」
ベロンと尻が剥き出しになった、らしい。壁向きなのは一応配慮か。もう抵抗する気力がないのだろう「ああ…」とされるがまま、おっさんじみた声を漏らす。
「…嫁入り前の娘の尻が、かぶれたり腫れたりしたら呪う」
「山芋由来の天然成分だから明日には世界一のもち肌美尻になってるわん」
「えなにそれくそ嬉しいんだけど」
「便座が吸い付いて離れないんだからん」
「盗み放題じゃん!」
ガールズトークに花が咲く。尻にアロエを塗りながら。便座を盗んでどうするつもりか。
「…あの人、昨日より健康そうですね」
「ラリくんは《ファッションレズハンター》の異名を持っているからね」
「それで説明を済まそうってんだからすごい根性…」
ラリはトロンとした目でこちらを見る。
「あらん、あむちゃん。あらしのこと心配してくれるのん?」
「あむちゃん? おれか? まあ一応…」
「うれちい。お尻にアロエ塗って欲しかったらいつでもいらっしゃい」
しかし昨日より健康そうといえど肌の白さ線の細さは目につくし依然点滴が繋がっている。幽霊なのか病人なのか。病人の幽霊である可能性が一番高い。
「これん? これはあらしの食事だから気にしない。気にしない」
「ラリくんは点滴からしか栄養を摂取しない」芯嶋が囁く。「…という設定だ」
「それは難儀な」
「さてお次はロッくん! そろそろ泣き止んでくれたまへ。涙くんさようならだよ」
「…はい」巨人が部屋の隅でぬるっと立ち上がる。身長2メートルオーバーのスキンヘッドが、半べそをかきながら、丸太のような指でちまちまと茶を淹れ始めた。「…どうぞ」
「彼は唐隈六郎(からくま ろくろう)ロックと呼んでくれ」
ロック…? ドウェイン・ジョンソンか! しかし涼しげな目元はヴィンディーゼルだ。
「わーん真っ当そうな人だあ」
やおらロックはあゆむに泣きついてくる。圧がすごい。この胸板でいったい何枚のTシャツをぶち破いてきたのだろう。しかし結構良い匂いだった。
「何を隠そう、ロッくんはまともだ! しかし神様の悪戯か、真っ当な精神は埒外な肉体に収められてしまった! 結果一番やばい。ロッくん少々下がりたまえ」
「あん! …ごめんなさい」
「ぷっひゃあ!」
「あと一つ私から訂正しておくと、あゆむくんは真っ当でも何でもないよ。彼ほどクレイジーでデンジャーな人間を私は知らない」なんとなく英語の字幕風だ。「ガッくんから色々聞いてるよ。それについカッとなって火を放つやつは頭がおかしい」
「…ぐぬぬ、否定できない。で? そのチクリ魔はどこなんです?」
「さあねえ仲良し集団といえど協調性に欠けるから」
「デートって言ってたわよん」とラリ。「だから今頃殺されかけてるんじゃない?」
「……」結んでも結びつかないサディスティックな逢い引きに戦慄をおぼえる。
と。「お待たせっくす!」講義室の扉が勢いよく開いた。
母性本能をくすぐる整った顔立ちの優男。万人の警戒心を解く弾けんばかりの笑顔。
「やーねーお股以外のどこでやるつもりなの? やらしー」とラリ。
「え、え、どういう意味?」ロックはきょとんとした眼で下々のものを睥睨する。
「やあおかえりマイヒーロー」ガクは敬礼した。そして「さようならマイヒーロー!」
ドロン。
遅れて「こらーまてー」「死にさらせー」「タマ取ったらあ」どどどーとドップラー効果。砂けむりを巻き上げて一団が追いかける。等く女人であり鬼気迫る様子だ。それも仇レベルの。
「あれがデートなのか…?」
「被害者の会らしいよ」芯嶋がやや困り顔で答えた。「ガッくんに遊ばれた人たちの」
「ーー彼女らが勝手に言ってるだけだけどね」
間も無くして帰ってきたガクは肩で息をしながらスポーツドリンクを飲む。白い喉仏が蠢く。毛先から汗が滴った。シャツをめくって顔を拭うと、うっすらと腹筋が浮き上がる。青春スポーツ漫画の一コマのようだが実際は愛憎入り乱れたドロドロの痴情のもつれだ。
「あの子たちたちは?」
「ラグビー部に閉じ込めてきた」と無邪気な笑みを見せる。「今頃瘴気にやられているよ」
「…人の所業とは思えんな」
「男女間の問題っておかしいよね。片方の感情が失われた時点で関係性を維持するのは不可能でしょ? それでもぼくと遊びたいなら都合の良い存在になるしかないのに、被害面するんだから。あまえつさえ談合して数の暴力で片付けようって、まさしく人の所業とは思えない!」
「ね? 腐ってるでしょん?」とラリが言った。
「手厳しいなあラリさん。でも部室棟を丸々一棟試験管にしちゃう人に言われたくないや」
「あらん懐かしい。でも事故だってこと忘れちゃう空っぽの脳みそは試験管にうってつけねん」
「ふえーん二人とも喧嘩はやめようよお」
「……」ちょっと感動をおぼえるくらい剣呑な空気である。「仲良し集団?」
「紛うことなきね!」芯嶋は何故か胸を張った。
「おおマドモワゼル、お尻のかゆみは取れたかい?」ガクの矛先がソワ子に向く。「きみのおかげで場が華やぐ。これからもよろしくね」ナチュラルに傅くと、ソワ子の手にチッス。
「ちょっとあらしはー?」ラリ憤慨。
「ひええこういう男、絶対駄目って思えば思うほどドツボにはまる気がしてならないい」
「そういうもんか?」
「あとこれからよろしくってどういうこと?」
「おれにきくなよ」
「…なんであんた、あたしと自然に会話してるわけ」
「話しかけてきたのはお前だ」
「弁償!」
「チョーパンが食らい足りないとみた!」
「おっと君ら乳繰り合うも多生の縁だねえ」芯嶋がニヤつく。
「妙な造語を使わないでください…」あゆむは言う。「これで蛙貴族勢ぞろいっすか?」
「そう最後にこの私芯嶋英作を入れてね」
「しかし何故おれを勧誘したんです?」
「理由は様々だけど、強いて言うなら貴君が瀧くんと知り合いだからかな」
「え」あゆむの憧れの人。しかし何故このタイミングで出てくる。「ゴゾンヂで?」
「元同級生だからね」
「…あんたいくつなんだ?」
「彼女を助けようとするあゆむくんの志は実に高潔だし、利用しがいがある」
「言っちゃうんすね、そういうの…」
「まね。仲良し集団だから隠し事は無しだ」
「隠し事ね…」とは言いつつも芯嶋英作という男、腹に一物も二物も抱えてそうである。
「ところでソワ子くん、何故八年生会は助けに来ないんだ? 何故慈善団体である我々が、人攫いのプロから貴君を奪うことが出来たのだ?」
「え、知らぬわよ」
「ちょっと失礼」というと芯嶋はやおらソワ子に抱きついた。
「ぎっ」とソワ子は古びた蝶番のような悲鳴を漏らすが、ほどなくして「ぎょへへへへ」と色気のない笑い声をあげた。芯嶋が服をまさぐる。「ひい、あたしのシックスパックが…」
「はいご注目」
芯嶋が彼女の背中から取り出したのは一枚の「…CD?」
「DVDだろ?」
「そんなのあたし持ってない」
「逆にCDは持ってたのかよ…」
「っるさいなあ! 揚げ足とってる暇があったらベンショーしろ!」
「ロッくん、このブルーレイ再生して」
「……」押し寄せる近代化の波。
映像は無駄に高画質で薄暗い一室を映していた。その中央椅子に座った男がいる。目深に被ったフードで表情は見えない。やがて『こいつらは預かった。奴を渡せ』と中性的な声がスピーカーから発せられる。その人物の膝の上、人慣れした猫が「にゃ」と鳴いて映像は終わった。
「コンテンポラリー系の自主制作映画?」ガクが首をひねる。
しかし皆同じ感想を抱いていた。「こいつら」も「奴」も「にゃ」も何を指しているのか分からない。深夜にやってた江口洋介と宮崎あおいの映画ぐらい分からない。ただ一人を除いて。画面にかぶりつきで前衛映像を何度も見返す。威借あゆむはその猫に見覚えがあった。
「照り焼きチキン…」かの猫が主演をつとめていたのである。そして驚異的読解力を見せる。「…つまり照り焼きチキンが攫われたってことっすか? …八年生会に」
「然り。愉快な仲間たちも含めてね」
「…え、じゃあ、つまりあたしは」
その段階でようやくソワ子も察する。置き去りにされた自分。助けに来ない仲間。渡された覚えのないディスク。ぎこちない動作で振り返る。
「メッセンジャー。いや鉄砲玉かな?」芯嶋は平然と言い放つ。
「ああああああっ! あんまりだあ!」人目もはばからず天を仰いでオンオンと泣き出した。「これが粉骨砕身、青春を犠牲にして組織に尽くしてきた人間への仕打ちかあ! うわあああん、うおおおおん、あああああああ」
慰めるものはいない。皆そういうキャラじゃないから。唯一気にかけていたロックもオロオロした挙句何故かお茶を出した。
「あっちい!」しかも飲んだ。「うあああああんあついいいい!」
「うるさい」猫のためなら泣き叫ぶ女性とて容赦しない。「芯嶋さんおれは照り焼きチキンが照り焼きチキンを食べないように、味が良く健康も増進するメニューを考案してきた。もちろんポークジンジャーもカツカレーもサラダもだ」
「サラダはまずいだろ、一応肉食なわけだし。だが連中目的のためなら手段を選ばないぜ。あと猫の飼い方を知らない」
「芯嶋さん『奴』ってのは誰だ?」
「ぼくだよ!」
この状況で空気を読まず小学生ばりに元気に返事が出来るのは「…ガク」しかいない。
「…何をやった」と言って百人隊の映像がプレイバック。「…いや言わずともわかる」
「何をやったかなんて瑣末ごとおぼえてないよ」「よしこいつを引き渡そう」「ひどい! 友達だろう?」「大人しく照り焼きチキン救出の礎となれ」「元を辿ればあゆむが原因だ」「辿りすぎだ。生育過程を無視するな」「つれないぜマイヒーロー」「断じてヒーローなどではない」「威借あゆむに裁かれた罪人は数知れず、とばっちり受けた第三者はその倍はいるもんね」「ウルトラマンは自分の踏み潰すビルのことまで考えなければいけなかった」「しかし犠牲を払ってでも助けた一人をここで見捨てたら本当に意味がなくなるよ」「……」「誰かを助けるなら最後まで責任を持たないと」「あの時も言っとろうが。お前を助けたつもりはないと」
「それは責任逃れだよ」「……」「あゆむは過去と向かい合っていない」
本当に蛙一匹のための弔合戦だったのか。暗にガクは言う。西原田楽が助かることを本当に知らなかったのか。ガクがいじめられていたことを知らなかったのか。自分に嘘をつくのか。
「あゆむくん、勘違いして欲しくないのはね」芯嶋が割って入る。「ぼくらは猫なんざ、一匹死のうが十匹死のうが微塵も興味ねえんだよ。一方でガッくんは大切な仲間だ。しかし貴君がにゃあにゃあを助けたというのであれば協力は惜しまない。仲間だからね」
「…ゲスが」
「その話のった!」ソワ子は赤い目を爛々と輝かせ立ち上がる。とうとう自力で結束バンドを千切った。「どうせあたしは鉄砲玉だ。戻っていっても役立たずだ! だったら面白そうな方に力を貸すのは本望だ! 富良ソワ子の弔い合戦だ!」
「黙って泣いてろ!」
「さあ選択肢は二つに一つだ。諸悪の根源を打ち倒し猫を救い友を救い薔薇色のキャンバスライフを手に入れるか。…それとも蛙貴族を敵に回すか。もちろんにゃあは一生とらわれの身だ」
「……」
「知ってるかい? 猫って人間の食べ物、食べちゃ駄目なんだぜ」
あゆむは忌々しげに吐き捨てた。
「…知っている。少なくともあんたよりは」
悪の
悪事の影に八年生会あり。学内で起こる不祥事案件は八割がた彼らが裏で手ぐすねを引いている。いや後ろ盾と言った方が正しいか。だからこそ公認・非公認団体が我が物顔でのさばっているのだ。その結果瀧女史は不幸に見舞われた。あゆむが関わらなければ良いという問題ではない。連中がいる限り彼女はまた同じ目にあう。
そればかりか今回は照り焼きチキンまで巻き込まれた。
悪は潰さねばならない。
「たのもーっ!」
ソワ子の案内で訪れた八年生会のアジトは、学内に群生する竹林の一角にあった。プレハブ小屋。〇〇工務店と書かれた朽ちかけの表札から判断するに、改修工事の業者から二束三文で買い取ったと思われる。これが悪の総本山。思わず「しょぼ…」ともらした。
「虫とかすごそう…」辺りを見回してラリが言う。
さて威借あゆむ。これまでの人生で悪の組織から猫を助けた経験がない。
「具体的にどうするんすか?」
「盗む」芯嶋の答えは簡潔である。
「……」泥棒じゃねえか。
で、蓋を開けてみればくりびつてんぎょう。シンプルで暴力的で驚異的な手際の良さだった。
「泥棒じゃねえ、強盗じゃねえか!」
「押し通る!」と言ったのは、ガクだ。満面の笑みだ。
「なんじゃいわれえ!」と突然の敵襲に浮き足立つ八年生会の面々。数にして三十はいる。
友好的な関係でなのはお互い即座に把握した。肉の壁が行く手に立ち塞がる。
「ごめんなさい! 許してください! 勘弁してください!」とロックの先制攻撃、謝罪の嵐。土下座をする勢いで千切っては投げ、千切っては投げる! 圧倒的矛盾。マッチポンプ。自ら罪を作り業を背負う。切り込み隊長然とした勇姿は頼もしいの一言に尽きる。半泣だが。
「うきゃっうきゃっ」ラリは動物的笑い声をあげてロックの後ろを陣取る。そしておもむろに座り込み、脇には薬箱、手前にはアルコールランプと五徳、病弱な露天商は謎の粉を炙り始めた。立ちのぼる煙を吸い込んだ敵が面白いようにバタバタと倒れていく。
「こいつはマジでやばいヤツだ…」正直引く。
しかし絶妙なコンビネーションについ感心してしまう。果てしなく無用なスキルだが。
「はあーい。ぷりちーぎゃるず」極め付けはガクである。彼奴が近寄っていくだけで「きゃあ」と黄色い悲鳴があがる。八年生会は女人禁制ではない。しかし彼女たちを投げたり燻したりするのは抵抗があるらしく、それを一手に引き受けるのがガクである。おんぼろプレハブの一角がホストクラブ状態だ。いつの間にやらアイスペールやお酒まで用意されグラスの氷をくるくる…。誘蛾灯のように次々女性陣が吸い寄せられていく。ソワ子の首根っこを捕まえた。
「お前が行ってどうする。夏の虫の末路を知れって言ってんだ」
「だって楽しそうなんだもん! 飛んで火に入りたくもなるもん!」
ウィンクキラーで狙われた女性が次々気絶していく。M.J.かビートルズのライブか、ここは。
「……」
特にこれといった作戦は立てていない。彼らに協調性はなく仲良し集団というのも自己申告制であり、何であれば険悪な空気すら漂っていた。それにも関わらず成果を上げている。
「…結果的に補完関係になっているんだ」
極端な話それぞれ勝手なことをしているだけである。彼らを集めたのは誰だ。
ーー芯嶋英作だ。
芯嶋は重い体を揺らしながら、倒れた敵を結束バンドで縛っていく。
「……」あゆむは考える。
ならばなぜ自分はここにいるのか。芯嶋は何を期待しているのか。分からない。
「ボサッとしてんな!」
「ってえなあ!」ソワ子に尻を叩かれた。蹴りで。「蛾め…」
「てめえの大好きな猫太郎助けんだろ?」
「しかし姿が見えんではないか!」
「それを探せよウスノロ!」
「紛うことなき正論…」
「こういうのは奥の部屋って相場が決まってんだよ!」
言ってソワ子は飛び出した。遅れてあゆむも組手とキャバレーの脇を抜ける。
「っていうか何でおれたちは煙が効かないんだ!?」
「アロエだよ! アロエ!」
アロエはソワ子だけで塗ったのは尻だ。尻の穴から吸収される煙というなら効果ありそうだが、おそらく茶である。既に一服盛られてたわけだ。
奥には扉が一つあった。元々事務所として使っていたのだろう。二人で転がり込む。
「…おお」いた。確かに猫がいた。しかしそこは猫の城といった有様で一部屋丸々キャットタワーに改造してあり、十数匹の猫ちゃんが自由奔放に遊びまわっている。「…飼い方を知らないくせに、こんな所は用意周到だな」ここから連れ出すのは些か心苦しくあったが、あゆむは臍を固める。洗濯ネットを取り出した。
「ひどい! いくら小汚いからってドラム式は悪魔の所業! ネットを被せておけば猫同士絡まないわねーってバカ! 死ぬわ! アメリカンジョークも裸足で逃げるわ!」
「黙って持ってろ。あと汚くねえ! おーよちよち」
言ってあゆむは手近な猫をひょいとつまみ上げ、ソワ子の持つ洗濯ネットに放り込んだ。そして素早くチャックを閉めると魔法のように大人しくなる。幸い猫たちは人慣れしており、あっという間に十数匹の袋となった。バン! と扉を開くと大広間へ向けて叫ぶ。
「一人当たりノルマ三匹! 両手と口を使え! 素早くかつ丁寧に! ぶつけたら祟るぞ!」
バケツリレー方式で全員に行き渡ったのを確認すると一目散に基地を飛び出した。
既に空は深い藍色で、真っ黒い竹が蛙貴族の行く手を阻む。視界が悪く足元がぬかるみ思うようにスピードが出ない。
『やや待たれえい!』『いたぞあそこだ!』『絶対に逃がすな! 目に物見せてやれ!』
さらに八年生会の残党が追いかけてくる。足取りは驚くほど軽い。そこは地の利、竹もぬかるみもものともせず距離を縮めてくる。バシャっとサーチライトが照らされた。ルパンかよ…と誰かがぼやく。追いつかれるのも時間の問題である。いっそ猫を囮にと考えて本末転倒なアイディアを振り払った。奇襲だからこそ成功したのであって、ここで手放せば二度とチャンスは巡ってこない。しかし皆体力的に限界であり、そもそも半数以上が体力に余裕がない。
(…どうする?)不幸中の幸いか出口が見えてきた。(…あれ?)と。
竹藪を抜けた先に白亜のボディーと無骨なフォルムが見えた。
ーー一台の軽トラである。
ところで昔日のあゆむ少年が好き勝手できたのには理由がある。常に軽トラがあったからだ。では何故軽トラがあったかと言うと《運命》以上の説明がつかない。そういう風に出来ていた。彼が欲すればどこからともなく現れて常にドアは開いていたし必ず鍵は刺さっている。ガクが無条件にモテるように、ロックが食って寝るだけで筋肉モリモリのように、威借あゆむは軽トラの神に愛されていた。極々限定的な先天性の運を持っていたのである。
だから善悪の判断がつく頃には己の能力を封印した。そんなもの少年特有の特別意識と、田舎特有の危機管理能力の薄さが招いた偶然だと。あくまで偶然の出来事に貶めた。
それが運命の悪戯か、このタイミングで現れる。
(おれは…試されているのか?)
これを盗めば同じ轍を踏むことになる。だが照り焼きチキンは囚われの身に逆戻りだ。
そして瀧も助けられない。彼女が学生を思えば思うほど、セクハラを強いられ続ける。
「ええい考えていても始まらない! 全員荷台に乗れ!」
鶴の一声で緑色の紳士は荷台に乗り込んだ。あゆむは『開け』と『開くな』の相反する願いを抱く。生唾を飲み込み震える手をドアにかける、と…。
「やあいざまあみろ! お尻ぺんぺーん」
「…古典的挑発」
ソワ子はステテコ由来の尻を八年生会に向ける。ぶろろろろーと軽トラが嘲笑う。
(…壊さない。必ず返す。ハイオク満タンにして整備もして車体もピカピカで、むしろちょっとパクられて良かったんじゃね? ぐらい新品同様にして。だから今は!)
「ちょっと借りるだけええええ!」
ブランクを全く感じさせないドライビングテクニックで八年生会を遥か彼方に追いやる。
長年連れ添った相方のようにハンドルもアクセルもクラッチも馴染む。
ちなみに威借あゆむ、未だ無免である。
◯
当たり前のことを言う。野良猫は汚い。さてどこへ連れて行くかという話になった。
「あゆむくんのお部屋を提供してもらおう。理由は近いから」
「駄!」目に決まっているといいかけて、もわわーんと妄想にふける。小動物に囲まれた生活はそれはそれはハッピーにちがいない。「いやいや駄目だ! 駄目に決まっている」
彼は動物をこよなく愛するが、安易に命を預かったりしない。
「さあ住所を教えてもらおう」しかし芯嶋は人の話を聞かない。「それに何度も言うぜ。蛙貴族は猫なんざどーでも良いんだ!」
「腐れ外道が!」負け犬の遠吠え。彼が折れた証拠である。「…一つ条件がある」
「聞くだけ聞こう」
「風呂に入れるぞ、猫を」
すなわち手伝え。そしてしかるべき買い物があるという意味だ。
で。
威借あゆむの下宿はとんでもないあばら家だった。築三桁突入と言われても何ら不思議ではない。だがとにかくでかい。無計画な増築と改築により現在進行形で開発が進んでおり、和製九龍城といった印象である。「昭和の貧乏学生だ!」とガクが目を輝かせた。もちろん風呂などなく、猫に風呂以前の問題だが、部屋に上げる以上ノミやダニは根絶やしである。
…それがさらりと出来たらどれだけ楽か。
ドンガラガッシャンコネクション。猫の風呂嫌いは人類の想像を遥かに超える。水は空から降り穴に溜まるものという認識は簡単には覆らない。暴れるし嚙みつくしひっ掻く。隙あらば逃げる。無論瑣末ごとだ。猫を洗う以上怪我や破壊は覚悟しなければならない。
普段からこのアパートには野良猫が勝手に入ってくる。猫以外の野良も問答無用で押し入る。こと生物の侵入に対して大らかな設計ゆえ、ノミの一匹や二匹大した問題じゃないのだが、そういうことではない。パーソナルスペースは自らの手で守らねばならない。
途中大家がやってきて「うるせえ」と言って殴られた。しかし猫についてとやかく言われることはなかった。この大らかさに憤懣やるかたない思いをすることが度々あったが、今回ばかりは助かる。いや助かっちゃいないが。全てが終わる頃に時計の針は天辺を指していた。
頭からずぶ濡れ体は傷だらけ満身創痍で部屋に戻る。
「濡れ鼠だわ!」ソワ子は嬉しそうに言う。「それも猫に襲われて!」
「疲れている時に大きな声を出すな、疲れる…」
「やあやあゆむくん、おつかれ」芯嶋、労う。「さあ鍋が出来ているよ」
「鍋?」鍋には微妙なシーズンだが冷えた体にはありがたかった。
机の上には散々飲み食いした後があり床ではガク、ラリ、ロックの三人が清潔になった猫と寝ていた。「こんにゃろうサボりやがって」とぼやくが今回の功労者ゆえ強くは咎められない。
「……」しかし鍋が出来ているとはよく言ったものである。「ただの食べ残しじゃねえか!」「みんな腹ペコだったから、勘弁してやってほしい」布袋みたいな笑みを浮かべる。
「はい! じゃああたしおじや作ります」勝手知ったる他人の家。ソワ子はパックご飯を鍋に適当にぶち込みグラグラと煮始めた。我が家の虎の子! と思うが、あゆむには文句を言う気力が無い。間も無くしてドロドロのでんぷん質が差し出された。「食えッ!」
「……。……。…くそうめえんだけど」
「へへへ。雑な料理は大家族の面目躍如といったところか!」
「一見おじやなんて誰が作っても同じと思われがちだが、米が多ければノリの塊、出汁が多ければ汁かけ飯、だがこれはその中間まさしくTHE・おじやである。唯一にして無二の引き立て役、卵の塩梅も絶妙だ。白身の存在感を残しつつ米に絡んでいる。白身は溶きすぎれば黄身に支配されるし、かといって溶かなければダマになる。さては貴様…別々に入れたな! ふわふわとろとろ、でも決して生じゃない食感が何よりの証拠! 澄ました顔して一手間加えやがった! 極め付けは土鍋に張り付いた焦げ! 一歩間違えれば苦くて臭くて食えたものではない。そればかりか洗い物も大変だし最悪鍋が二度と使えなくなる! …リスキーだよ、これは。素人が手を出す領域じゃねえ。香ばしさってのはセンスと技術と経験が三位一体となって功を奏する。貴様…この技術どこで身につけた?」
「おじやなんて誰が作っても同じでしょ?」
「かーっ! 違うと言っとろうが!」
「…大袈裟だって」
「つまり天賦の才か…手から出汁でも出てんのか? 舐めさせろ!」
「ぎゃあトイレ行って洗ってない! トイレ行って洗ってないから!」
で、十分足らずで鍋の中は空になった。
「…あ」不覚にも大学生っぽいと思ってしまった。鍋とか。「あ! 部屋に女がいる!」
「人を指してゴキブリみたいに言わないでくれる?」「お前ってさ…」「富良ソワ子」「富良さんってさ」「今更さん付け!」「ソワ子ってさあ」「呼び捨て! 彼氏面かよ! ひとのこと殴っておいて!」「…貧乏なの?」「ここよりは大分マシだけどね」「……」「一人で貧乏よりも兄弟で貧乏の方が全然マシ!」「ああそういう意味で…」生活水準的にマシとは言わなかった。「お前これからどうするんだ?」「どうするって?」「八年生会に戻らなくて良いのかよ」「戻れるわけないでしょ」「…あそこにいたのは金のためか?」「楽に稼げたから」「楽しかったか?」「否定はしないけど今考えると全部嘘だった気がする」「無理もない」「さっきからなに? 事情聴取みたいなことばっかり」「うーんそう言われるとおれは何を喋っているんだ?」「大方女子との、ひいては人類との会話の仕方を忘れたんでしょう? 畜生とばっかり喋ってたせいで!」「…癒されていただけだ」「愚痴を漏ってたってこと? もっとひどい!」「てめえの下穿き事情より酷かないやい!」「サイテー変態! おじや返せ!」「おじやは限りなく原型に近い形で返却可能である」「酸味は不要!」「あとお前いつまでガラパン履いてんの?」「獣の檻の中ではこれぐらい女子力を引いた方が身のためなの」「はいはい未知の奇病で股間が腫れ上がれ」「っていうか! 何であたしは一晩中あたしを辱めた人たちと鍋つついているわけ?」「なりゆきとタダ飯だ」「さらにその元凶におじやを作るって、なんか腹立ってきた!」「しかしうまかったぞ」「……」「絶品だ」「…そう」しゅるしゅるとソワ子の膨れあがったアレが萎んでいく。「…でも実際ここにいると昨日今日会ったばかりなのに三年ぐらい一緒にいる気がする」「マトリックスの異常だな」「あんたの家はごめんだけど」「おれだって部屋に入られるのは、人畜問わず抵抗がある。あとあゆむな」「はいはい。あゆあゆ。苔でも食ってろ」「こ、苔…」「もしかして運命なのかしら」「貴様運命論者か、違うな。ガクだ!」「ぎくり」「男見る目無さ過ぎ」「じょじょじょ冗談。あああ遊び人なんてこっちから願い下げ!」「おれも十年越しの再会だからどんな奴かイマイチ分からない。だからアドバイスは出来かねるが、気を付けておけ」「求めてないわよんなこと!」
芯嶋英作は二人のやりとりをほくほくとしながら眺めていた。ふとその視線が気になって二人して面映くなる。喋り始めると必ず喧嘩になる相手が、一生の内に三人いるとかいないとか、昔の偉い人が言ったかどうか知らないが、こいつはソレなのかもしれないとあゆむは思った。
「ん? 夫婦漫才はもうおしまい?」
「妙なこと言わんといてください…」ソワ子に睨まれた。
「ではお腹も膨れたことだし、君らが我々の仲間になるにあたって幾つか注意点をーー」
「待って!」ソワ子。「…あたしも入るの?」
「もちろん同じ釜の飯を食ったら人類皆兄弟だよ」
「拒否権は…?」
「ない」薄く芯嶋の目が開く。「しかし悪い話じゃない。蛙貴族の活動資金は全面的に出そう」
猫用品も人間の餌も全て芯嶋が黒いカードで支払いを済ませていた。サトウのご飯以外。
「特にソワ子くんは何かと入り用のようだからね。八年生会にいた頃と同額か働き次第ではそれ以上に払っても良いと考えている」
「…え、えろいこと?」
「悪くない提案だが生憎間に合っている」
取り出したるは電卓である。それをリズミカルに弾きながら、ごにょごにょと二人で何かを話し合う。やがて指がピタリと止まった瞬間、ソワ子のどんぐり眼が大きく見開かれた。
「万歳ジェントル・フロッグ!」
「互恵関係だね。あゆむくんの場合は、こういうのあまり受け取りたがらないだろう?」
「…お察しの通り、こいつほどノーテンキじゃねえので。タダより高いものはないっす」
「ぬふふん、ゼニやゼニ」
「右目が¥、左目が$に…」
「まあ貴君も困ったことがあったら何でも相談してくれたまへ。恋の悩みでもおっけー」
「芯嶋さん…あんたは一体何者なんだ?」
「強いて言うなら蛙貴族のスポンサーかな」
全く要領を得なさすぎだ。わかったこととしてリーダーではないらしい。
「ただ一つ、二人に謝っておきたいことがあって…。バラすとね、私の趣味はマジックなんだ」
「マジック?」
「おやソワ子くん、耳に何かついているよ」
言って芯嶋はソワ子の耳へ手を伸ばす。引き戻すとその手には五百円玉が握られいた。
「すごいね耳からお金が出るなんて羨ましい体質だ」
「?」古典的マジック。今や小学生も引っかからない。意味が分からず二人で首をかしげる。
「…あ」デジャヴュー。見た確実にこの光景を。マトリックスの異常などではない。
「ああ!」ソワ子も何かに気づく。「えっ…え? ええええええええ!」
つい数時間前、ソワ子の体からーーDVDを取り出した方法と完全に一致した。
「貴君は鉄砲玉でも尻尾切りでもメッセンジャーでもない。正真正銘裏切り者だ」
「うわああああああんあんまりだああああ!」
ソワ子本日二回目の号泣。泣き声をきいて猫ズが一斉に首をもたげる。床でごろ寝する三人は不自然なほどピクリともしない。熱々のおじやをかけてやりたい衝動にかられるが鍋は空だ。
「…じゃああの映像は?」
「私がメガホンを取った」
「じゃあ猫ズは…」
「あゆむくん思い出して欲しい。私は『猫なんてどうでも良い』と言った。言ってから『しまった』と思ったよ。だってどうでも良い人質に、この場合は猫質に何の意味があるんだい?」
「…あ」
「貴君が存外ぴゅっあで助かったよ!」
「ぴゅっあじゃねえ、ただの鈍感だあ!」
「八年生会は様々な場所で猫を拾っては学校に放つ。もちろん平気で人畜の餌を与えるし、とても責任感があるとは言い難い。だが愛猫が攫われたとなれば今頃ぷりぷり怒っているはずだ」
「おまえ、ソワ子! 八年生会のお前がどうして気づかなかったんだよ! 猫!」
「わああああ、説教されたああああ、でも稼ぐために居たあたしが知るわけねえええ」
「目覚ましい成長を遂げる昨今のペット産業にビジネスチャンスを見出せなかったなら商売なんかやめちまえ! おじや屋をやれおじや屋を!」
「『や』がいっぱいいいい!」
「まあまああゆむくん、あんまり彼女を責めてはかわいそうだよ」
「おれは助ける必要のない猫を連れ出してシャンプーして猫缶を与えたのか…?」
「永く生きるよ」
「永く生きるのは人間のエゴだ…」
「それに蛙貴族は八年生会に対してイニシアチブを得た」
「変な横文字使うな。つまり猫質をとったのはおれらの方だったわけだ。それが目的か…」
「だって規模が違うんだぜ? それが一矢報いたとなれば歴史的快挙だ」
「一矢報いる必要があるんすか?」
「勘違いして欲しくないのは、連中は事実悪の総本山なのだ」
「……」
「地道かもしれないが一個一個潰していけば確実に学校は良くーー」
「待て。一個、一個? 連中の基地は潰しただろう?」
「あれは前哨地。本丸はもっと別の場所だ。だいたい猫ぐらいでグラつく屋台骨じゃあないよ」
当たり前だ。少し考えれば分かることである。猫を攫われたことによる精神的ショックは計り知れないが、精神的ショックは精神的ショックでしかなく、むしろ肉体的にも金銭的にも身軽になったと言えなくもない。一方でこちらは大打撃である。肉体的にも金銭的にも…。
「それを踏まえた上で」芯嶋は言う。「ソワ子くん、貴君は蛙貴族に入るかい?」
「…やる。だってムカつくけど、お金になるし、面白いんだものおおお!」
ソワ子の答えは素早くそして明瞭だった。「でも、なんであたぢをおおおお」仲間にしたのか。ここまで手の込んだことをして。
「貴君とお友達になりたかったからね」芯嶋の答えも明瞭だった。
「…結局何が真実なんすか」混沌とする頭を抱え、こめかみを抑えながらあゆむはたずねた。
芯嶋は腕を組み眉根を寄せる。考えなければ出ないことぐらいしか真実はないらしい。
「八年生会が、ガッくんを狙っていることかな?」
それは確かに本当っぽいなとあゆむは思った。
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