押入れの戸

白神護

押入れの戸

 むかし、母が頻繁に夜勤の仕事に出ていた頃、その姉弟は家に二人きりで、夜が明けるのを待っていました。



 弟が小学三年生――八歳の時の、ある夜の事です。弟の部屋を、姉が訪ねてきました。


「ベッドの下に、何かいる!」


 一つ歳が上の姉は、弟の耳元に唇を寄せ、ひそひそと、そう打ち明けました。


「お姉ちゃんの?」


 弟も釣られて声を潜め、姉の部屋がある方の壁を、まあるく見開いた目で見つめました。


 姉は頷き、「どうしよ……」と泣きそうな顔で訴えます。弟も青ざめた顔になって、でも、しっかりと姉の手を取り、「隠れよう」と提案しました。


 弟はまず、ドーナツ型の蛍光灯から垂れている紐を、パチパチと鳴らしました。白、橙、黒と、部屋の様相が瞬く間に様変わりします。それから、暗闇の中を手探りで移動し、静々と押入れの戸を開けて、その中へと身を隠します。


「だいじょうぶ。朝になったら、母さんが帰ってくる」


 弟はだいぶ小さく声を潜めて、暗闇に解けた姉の方へと、そう言葉を投げかけました。




 どれほど経ってか、弟はふと目を覚ましました。いつの間にか、押入れの中で眠ってしまっていたようなのです。姉の気配は、寄せ合い、触れ合った身体の幾つかの部分から、しっかりと感じます。しかし同時に、安らかな寝息の気配も、そちらから漂ってくるのです。


 弟はちょっとだけ呆れて溜息を漏らし、ほぼ同時に、ハッと息を呑みました。足音が、薄い戸を一枚隔てた向こう側から、重く、ゆっくりと、ギシリ、ギシリと、聞こえてくるのです。


 弟は恐怖で目を見開き、戸の向こうの、足音のする方を見つめました。足音はゆっくりと、ゆっくりと部屋の中を徘徊し、押入れへ近づいたり、遠ざかったりします。弟は恐怖で涙を滲ませながら、足音の主がどこかへ去ってしまうよう、念じ続けました。そして――、



 ――ガタッ。



 押入れの戸が、数センチ、開きました。







 目を覚ますと、戸と壁の僅かな隙間から、朝の光が忍び込んできています。弟は逸る気持ちを胸に押し留め、しっかりと耳を澄まして外の様子を窺って、それからやっと、押入れの戸を開けました。部屋は特に荒らされた様子もなく、いつもの通りの弟の部屋です。


「お姉ちゃん――」


 弟が姉を呼んだとき、その声に重なるようにして、玄関の戸の開く音と、母の、聞き慣れた「ただいまー」という声が聞こえました。弟は半ば強制的に寝ぼけた姉の腕を引き、母の元へと走りました。




 姉弟と、母と、実家から応援で呼んだ、祖父と叔父とで家の中を調べても、物が取られていたり、誰かが潜んでいたりということはありませんでした。


 そうして、ベッドの下の謎の存在は姉の思い過ごしであり、弟が聞いた足音は、恐怖から生まれた夢幻であるということに落ち着いたのです。



 ただ、弟には一つ、腑に落ちないことがあるのでした。


 弟の部屋の押入れの戸は、果たして、何時頃開けられたのでしょう。それだけを、弟ははっきりと思い出せずにいるのでした。

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押入れの戸 白神護 @shirakami

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