100回目に迎える冬はどんな味だろうか?

社畜の歌姫

第1話プロローグ

 何度目の冬だろうか…灰色の雲に覆われた空は、今にも、氷の涙をこぼしそうになっている。桜の枝には、1枚の枯れ葉が凍えるような冬の風に、飛ばされそうになっていた。


 そんな、静まり返った公園のベンチに、泣き出しそうな黒服の男が一人でいた。黒服の男は、膝に肘をついて俯いて座っている。



乾ききった地面に一つ、二つと水滴のあとがついていく。黒服の男は、泣いて、泣いて、泣いて、泣き止まなかった。ひとしきり泣いた後に、空を見上げたまま、微動だにしなかった。


数分が経ち、男の口からは弱音がこぼれたのである。 


「俺頑張ったよな?頑張ったよな!? お前と一緒に明日を迎えたかったよ……俺はもう、クタクタだ……」



 そこまで言いかけた男は、不意に後ろからかけられた声に、言葉を止めた。


「誠人(まさと)こんな所にいたら風邪ひくよ。家まで送っていくから……帰ろう?」


 優しい声のトーンで後ろからかけられた声の女性に、誠人は無言の頷きで返事をし、女性の車に乗りこんで、公園を後にした。


◇ ◇ ◇


「おはようございます寺田さん」


「おはよう、坂井くん。昨日言ってた、企画書今日の夕方までにお願いね」


「あっ、その件なら既に終わりましたよ」


「おっ、仕事が早いねぇ。何かいいことでもあったの? 」


「何でもないっすよ」


 朝の7:30にいつも通り出社した誠人は、上司の寺田さんに昨日任されていた、企画書の進捗を聞かれたところだった。

 催促されるまでやる気が起きない誠人は、今日は珍しく頼まれごとを済ましているのだ。


「もしや、女の子か?」


「え? っとその、ち、違いますよ」


「図星か……ふふっ」


 見事に当てらた誠人は、声が裏返ってしまい、寺田さんに笑われてしまった。女の勘はよく当たるというのは、どうやら本当らしい。


 寺田さんは、自分の年齢より5つほど上だとほかの社員に聞いたことがある。しかし本当のところは、単なる噂であり、寺田さんの口からは公言されていないのだ。

 仕事が早く、部下の指導もきっちりこなす。文句の付けようもない、とてもいい上司である。

 たまに、誠人をいじってくるフレンドリーな一面も持ち合わせており、自分の所属する部署では嫌ってる人ほとんどいない。むしろ、人気の上司だ。


「寺田さんも早くいい男見つけないとですね」


からかわれた誠人は、寺田さんの急所を的確に反撃した。すると、寺田さんは顔を赤くし、近くに積まれていたファイルを誠人に手渡した。


「ちょっと誠人くん?この仕事夕方までにお願いね?」


「えええ? ちょ、何ですかこの量っ」


「それじゃあ、よろしくねっ」


 小悪魔的な笑みをした寺田さんは、もちろん可愛かった。しかし、目の前にある書類の量に、目眩がしてそんなことを考えている余裕なんて、誠人にはなかった。


 控えめに言って……完全にやらかした。


 デスクに座って、片っ端から書類を片付けていく誠人をみて、部長が上機嫌になったのを、集中している誠人は気が付かなかったようだ。


 ◇ ◇ ◇


 手首にはめている腕時計を見ると、短い針は既に八を回っており、会社には人がほとんどいなくなっている。積まれた書類をを消化する頃には、会社の窓の外は暗くなっていて、あちこちに街灯の光が、レンガの歩道を照らしている。

誠人はぐーっと背伸びをすると、あと片付けをさっさとして、会社を後にした。


 会社から地下鉄入口までは、徒歩5分程の距離だ。

改札をくぐり、ホームで帰りの電車を待つこと3分。目的の電車がホームに到着した。誠人は電車に乗り込み近くにあった、つり革に手をかけ、カバンを足元に起き、ケータイを触り出した。


 誠人が立っているのは、帰宅時間からズレてはいるが、まだ残業帰りのサラリーマンや、私服の大学生などが沢山乗っていたため、座るスペースは空いてなかったのだ。


 ぼーっとケータイを触っていると、横から聞きなれた声が聞こえてくる。


「坂井さんっ、お疲れ様です。今日は随分と遅い時間まで頑張っていたんですね」


「た、高橋さん」


  電車で声をかけてきたのは、高橋 海(たかはし うみ)さん。年は自分よりも一つ下の23歳だ。

 すらっとした華奢な体型、黒のロングヘヤーで美人な顔立ちをしている。

 薄いイエローのカーディガンに、白いスカートをはいている彼女はとても良く似合っていた。


「高橋さんこそ、遅いですね。お出かけですか?」


「はい。友人とお食事をした帰りです」


「良いですね!私は仕事の帰りです。上司に仕事押し付けられちゃって…」


「坂井さんが、怒らせたんじゃないんですか?」


「ううっ…」



 図星をつかれ、困惑している誠人を見て高橋さんは、左手を口元に当ててクスクスと笑っていた。


 あまりに可愛くて少し見とれてしまい、ん?どうしたの?というように、したから顔を覗き込まれて、慌てて視線を外した。


 次は~駅とアナウンスが電車に流れて、高橋さんは電車を降りたのである。


「じゃぁ、またね。坂井さん」


「はい、おやすみなさい」


(連絡先教えて貰えばよかった…)


 降りて、改札に向かう高橋さんを見ながら、誠人はそんなことを思ったのである。


 今度あったときは、連絡先を聞こうと心の中で誓い、次の駅で誠人は降車し、自宅への帰路へとついたのである。

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