見てはいけない

久遠了

見てはいけない

 柚木拓磨(ゆずき たくま)は緑に包まれた山を見て感慨深く思った。

『帰ってきたんだな…… 二年ぶり、か』

 新幹線が故郷に近づいていくと、まず「お山」が目に入った。

 窓側に座っていた石渡魅桜(いしわたり みお)が振り返って笑顔を見せた。わずかに茶に染めたショートカットがよく似合っていた。

「『お山』を見ると、帰ってきたっていう気がするわね」

 懐かしげな口調だった。魅桜が柚木に尋ねた。

「時々は帰ってきてたの?」

「最初の頃は盆と正月くらいは帰るようにしていたんだけどね。ここのとこは忙しくて。友人の結婚式に帰ってきて以来だから二年ぶりだ」

「わたしはよく帰ってきてるけど。駅が変わっていてびっくりするわよ」

 柚木が新卒採用された魅桜と知り合って三年になる。新人研修の時の話で同じ県の出身だと分かったが、部署が違うせいで、その後は話をする機会がなかった。

 一年前に魅桜が支社に移動となり、送別会で再会した。そこで同郷だと分かり、二人は付き合い始めた。

 ひと月前に柚木はプロポーズして受け入れられた。

 今回はそれぞれの親族に報告するための帰郷でもあった。

 柚木は魅桜を見つめながら言った。

「こんな時期に悪かったかな」

「何が?」

 魅桜は小首を傾げた。

「プロポーズしてさ」

「後悔してるの?」

「違うよ」

 柚木は肩をすくめた。

「しばらく役職にはつけそうにないし、給料も右肩上がりの時代じゃないから」

「そんなの、あなただけの話じゃないし。二人で稼げばなんとかなるわ」

「楽天家だな」

「そこに惚れたんでしょ」

 柚木は返事をせずに笑った。

 新幹線から在来線に乗り継ぎ、地元の駅についた。

 ホームに降りた柚木は目を見はった。記憶にあるひなびたホームとこじんまりした駅舎はどこにもなかった。

「駅ビルになってる」

「凄いでしょ。外はもっと派手よ」

 高い天井に金属の棒が交差するようにデザインされ、外壁には円のレリーフがあった。円が家紋に似ていることに柚木は気づいた。

「蛇の目紋だ」

 魅桜も壁を見上げた。

「あの紋、鏡神社の紋だって。陰陽蛇の目って言うの」

「ああ、そうか。うちの三つ盛り蛇の目と違うと思ったけど」

 改札に向かいながら、魅桜が説明した。

「新しく高速ができて近くに出口ができたんだって。それで県と市が観光を充実させようって動いたらしいわ。駅の隣に道の駅ができてるの」

「それにしても、あのおんぼろ駅が、ね」

 魅桜が笑った。

 柚木も高速道路の話はネットの記事を読んでいた。観光客の増加を見込んで、駅ビルを新設しただけではなく、道の駅に隣接した商業施設を建てたことで地域が明るくなったという話だった。

 魅桜が足を止めた。

「観光展示室があるんだけど、見ていく? そんなに時間は取らないわ。地元だから興味がない?」

「いや…… ここまで変わると知らない場所みたいだ。どんなことをやっているのか知りたいね」

 拓磨は腕時計を見た。

「夕飯には早いし…… 見に行こう」

 二人は観光展示室に向かった。

 部屋の内装は特産の檜が使われていた。木の香りが漂う中に名産品が綺麗に並べられていた。壁には地元の写真が飾られていた。柚木の記憶にある駅舎は「お山」と共に古ぼけた写真の中にあった。

 展示室には立体模型の地図があり、駅と高速周辺の観光地が示されていた。その中に里宮の鏡神社はあったが、その後ろにそびえる「お山」の説明はなかった。

 説明を読みながら、柚木がつぶやいた。

「今でも『お山』は入れないのか」

 魅桜が柚木を見た。

「あそこは観光地じゃないから」

「入ったこと、ある?」

「ないわよ。もちろん」

 魅桜は首を振った。すぐに不審そうに眉をひそめた。

「あなたは?」

 柚木は小声で答えた。

「…… ある」

 魅桜が息を飲んだ。柚木は慌てて顔の前で手を振った。

「小学生の頃だよ」

 魅桜の責めるような表情を見て、さらに柚木は言い訳をした。

「参道の先を少し行っただけだから」

「総代の家だから、できたの? うちでそんなことをしたら顔の形が変わるくらい叩かれてる」

「いや、どうして分かったんだか、死んだ爺ちゃんにげんこつを落とされた。まさに顔の形が変わるくらい」

 柚木は亡き祖父のキレっぷりを思い出し、乾いた笑いを漏らした。

「それにしても、よく入らずの山に入る気になったわね」

「そういう風に言われると行きたがるもんさ。小学生は」

 魅桜は呆れていた。

 入らずの山を地元では「お山」と呼んでいた。

 山の手前には鏡神社と呼ばれる神社があった。どこかの神社から分霊したという由来を柚木は聞いたことがあったが詳しくは知らなかった。

 山へ向かう参道は各地区が交代で管理していた。周辺の家は代々その神社の氏子だった。そのまとめ役は「総代」と呼ばれていた。

 柚木の家も祖父の代までは総代の役を担っていた。

 参道や境内には玉砂利が敷かれており、柚木は祖父に連れられて「ご奉仕」と呼ばれる清掃に何度か行ったことがあった。参道と言っても土産物屋が並んでいるわけでもなく、石造りの鳥居や古びた社殿は興味のある者には面白いだろうが、そうではない者には見るべきものがない場所だった。

 参道の先が「お山」だった。鏡神社は里宮として参拝が許されていたが、奥宮の「お山」は総代と言えども立ち入りは許されず、神主しか入れないとされていた。

 展示室には郷愁を誘う曲がかかっていた。合唱には子供だけではなく大人も混ざっているようだった。

「手毬歌ね」

 魅桜が懐かしそうに目を細めた。

 柚木もその曲には聞き覚えがあった。子供の頃によく聞いた曲だった。

『なんだったっけな』

 柚木はもどかしそうに眉を潜めた。その様子を見ていた魅桜が微笑んだ。

「見てはいけない お山の中の

 神のみしるし 神面鏡

 お縄外して 映してみれば

 心あらぶる 神まいる、でしょ?」

 柚木は驚いて魅桜を見た。

「なぜ分かったんだ? オレが考えていたこと」

「この曲を聞いて考え込んでいたから、歌詞を忘れたんだなって。男の子はおばあちゃんやおかあさんから教えてもらっていないから覚えてないだろうと思って」

 魅桜は面白そうに笑った。

 数日後、柚木は魅桜の家に向かった。

 魅桜の家に着くと、すぐに居間に案内された。柚木は緊張しながら挨拶した。魅桜の両親より先に魅桜の祖父、喜十郎が満面の笑みを浮かべて声をかけてきた。

「素一の孫か。眉が細い公家顔は素一そっくりじゃな。わしを覚えておるか」

 柚木はわずかに首を傾げた。

「素一が生きておる頃、『お山』のご奉仕で会っておる。玉砂利を投げていて怒られたじゃろ」

「玉砂利の掃除? あ!」

 柚木は小さく声を上げた。魅桜が柚木の脇をつついた。

「今度は何をしたの?」

「小学校三年の時だ。真面目に掃除をしないで玉砂利を木にぶつけて遊んでいて怒られた」

「よりによって、ご神木にじゃ。バチあたりめが」

 老人は目を細めて柚木を眺めた。

「それでも、ここまで大きくなったんじゃから、神さんには好かれておるな。酒は強いか」

「え、まぁ」

「素一ほど飲めんでもいいわ。あいつはザルじゃったからな。酒がもったいなかった」

 喜十郎は楽しそうに笑った。

 柚木は忘れていたが、魅桜の両親はもっと小さな頃の柚木を覚えていた。

「素一さんが亡くなってからは、うちに来なくなっていたからねぇ」

「不義理で申し訳ありません」

「いやいや、うちもこの子が生まれた時に挨拶にいったきりだったからね。お互いに知らないのもしょうがない。それでも知り合ったのはよほど縁があったんだろうね」

 両親も柚木が気に入ったようだった。

 柚木がいとまを乞うと、喜十郎が立ち上がった。神棚に手を合わせてから、喜十郎は何かを持ってきた。

「君にこれをやろう。わしが素一に貰ったものじゃ。素一は地区の総代だけではなく、総代代表を務めておったからな。鏡神社のお守りじゃ。持っていけ」

「いいんですか」

「そんな大げさなものでもない。素一の孫に返すだけじゃ」

 柚木は軽く拝んでジャケットのポケットに入れた。

 自分の家族にも魅桜を紹介した柚木は、古くからの友人の牧瀬和樹(まきせ かずき)に連絡を取った。

「よう。久しぶりだな」

「ああ、久しぶり。どうした?」

「そう…… 結婚することにした」

「相変わらず、説明がヘタなヤツだな。なんだ、唐突に」

「明日、暇か」

 牧瀬が笑い出した。

「暇を作ってやる。飯をおごるから昼に来い」

 翌日、柚木は魅桜を伴って挨拶に向かった。

 メゾネット型のマンションに牧瀬夫妻は住んでいた。呼び鈴を鳴らすとすぐに玄関が開いた。

 柚木より背の高い牧瀬が顔を見せた。

 柚木は照れたように言った。

「昼をごちそうになりに来た」

「そうじゃないだろう。よく、これで支障なく生活ができるな」

「あなたも、よ。早く中に入ってもらいなさい。はじめまして、妻の涼子(りょうこ)です」

 奥からやってきた涼子が牧瀬の横に立ち、笑顔で挨拶をした。牧瀬と同じくらい背が高く、スラリとした美人だった。

 牧瀬は魅桜の実家を知っていたが、魅桜とは面識がなかった。

「まぁ、狭いと言っても広いからな。それにオレは硬派だったし」

 牧瀬の話に涼子が笑った。

「東京でナンパしていた人の言葉とは思えないわね」

「大学の考古学研究会で会った時に学術的な話をしたんだろう」

「発掘しながらナンパする人がいるとは思わなかったわ。まぁ、住み心地のいいところだから良かったけど」

 涼子が笑った。

「考古学って、ひょっとしたら入らずの山の研究を?」

 魅桜に言われ、牧瀬は苦笑した。

「話したのか」

「少しね」

 柚木も笑った。

 食後少しして、涼子が魅桜を誘ってリビングから出ていった。

 柚木は改めて牧瀬に尋ねた。

「和樹、おまえ、今も製薬会社勤めか」

「いや…… 辞めたよ。今は高校の教師だ」

 柚木はグラスのウイスキーを吹いた。

「失礼なやつだな」

「いつかは辞めると思っていたが…… 高校教師か。忙しいんだろう?」

「ああ、思っていたよりは。つてを頼ったが、うまい具合に国語と古文の空きができてね」

「近在で一番の不良とか言われてなかったか」

 牧瀬はニヤッと笑った。

「そう思うだろう? 案外相性がいいんだ」

「本当か。信じられん」

 柚木はウイスキーを飲み干した。

「授業の下準備として地元の旧跡を研究できて、オレには都合がいい」

「考古学が好きだったからな」

「考古学、というより、郷土史かな。その場所の歴史が好きなんだ」

「そういや……」

 柚木は魅桜の祖父、喜十郎の話を思い出した。

「魅桜のところの爺さんとうちの爺さんが友人同士だったようてね。うちの爺さんは鏡神社の氏子総代の代表だったそうだよ」

「そうか。鏡神社の氏子総代は五人が決まりで、五人衆と言われていたらしいな」

 牧瀬は考え込んだ。

「総代だったら、『お山』の御神体も見たことがあるかもしれないな。うらやましい」

「御神体?」

「里宮は誰でも入れるが、オレたちが『お山』と呼んでいる場所は奥宮で神主と巫女しか入れない。昔、オレたちが入ったのも里宮だ」

 牧瀬が自分と柚木のグラスにウイスキーをそそいだ。

「『お山』自体が御神体でもあるが、神鏡が本当の御神体だっていう話もある」

「話もある?」

「見た人は『語らず』の誓言をするから誰も知らないのさ。まぁ、それでも長い間には誓言を守らなかったヤツがいて、わずかの伝承が残ったんだろう」

 柚木はニヤッと笑った。

「ご先祖様にオレたちよりも過激なヤツらがいたわけさ」

 二人が笑っていると魅桜と涼子が戻ってきた。涼子が牧瀬に聞いた。

「そうだ。あの話、した? もうすぐじゃないの?」

「あの話?」

「同窓会よ」

「あ…… おまえ、同窓会の連絡は行ってるか?」

 慌てたように牧瀬に聞かれ、柚木は首を振った。

「いや、知らない」

「幹事の安田に地元にいる奴らだけにしとけって言ったのはオレだからな。すまん。トモノリがなんとかビエンナーレだかに入選してね。そのお祝いをしようってことになったんだ」

「あいつ、絵が上手かったな」

「染め物を仕事にしながら、日本画を続けていたそうだ」

 涼子が魅桜の分の水割りを作り、グラスを渡しながら言った。

「ようは飲むチャンスを作ろうってことなの。どう?」

「いいね。参加するよ」

 牧瀬は即答した。涼子が魅桜に聞いた。

「魅桜ちゃんは?」

「いいんですか」

 牧瀬が笑った。

「二人で婚約の報告をしてもらわないと」

 柚木が牧瀬を睨んだ。

「酒のツマミか」

「そう。ツマミは多い方がいいからな」

 四人は遅くまで話を楽しんだ。


 同窓会の会場は駅ビルのホテルだった。最上階のホールに向かうと、すぐに声をかけられた。振り返ると、牧瀬夫妻が近づいてきた。

「魅桜ちゃんはわたしのそばにいればいいわ」

「ええ。お願いします」

 柚木も頭を下げた。

「すみません」

「うちの旦那もそうだけど、どうせ行き着くところまで飲む気なんでしょう」

「たぶん」

「ま、たまにはめを外すくらい許してあげるのがコツよ。魅桜ちゃん」

「なんだかまずい人に預けたみたいだ」

 魅桜と涼子は面白そうに笑った。

 久しぶりに友人に会い、柚木は滅多にないくらい酔った。それは牧瀬も同じだった。三次会を終えると、二人はようやく歩けるくらいにできあがっていた。

「仕方がないわねぇ」

 酒を飲まずにいた涼子が二人を見て苦笑した。

「魅桜さんは?」

「勧められたけど、少し遠慮しました」

「そのくらいが丁度いいのよ。こういう時、わたしは全然飲まないから、いつもお抱え運転手。ほら、男ども! 後ろに乗んなさい」

 柚木と牧瀬はふらつく足でワゴンに乗り込んだ。涼子がエンジンをかけると、牧瀬が急に言い出した。

「おい、涼子。『お山』に行け」

「はぁ? こんな夜中に何言ってるの」

「夜中だからいいんだよ。新しく夫婦になる友人を神様に紹介しに行く」

「だめ。うちに帰るの。この酔っぱらいが」

「酔ってなきゃできないことだってあるんだよぅ」

 牧瀬は運転席をがたがたと揺すった。

「ちょっと寄ってくださいよぉ。おくさまぁ」

「変な声、出すな」

 涼子は笑い出した。

「魅桜ちゃんは時間大丈夫?」

 魅桜が時計を見ると、十一時を少し過ぎていた。

「今日は遅くなるし、ひょっとしたら牧瀬さんのところに泊まるかもって伝えてあります」

 涼子がうなずいた。

「よし。行くか。柚木さんは大丈夫?」

 涼子がルームミラーを見た。

「もちろん付き合うよ」

 涼子はギアを入れた。

 涼子が奥宮の駐車場にワゴンを止める頃には、午前零時を回っていた。暗闇を虫の声が満たしていた。

 牧瀬が積んでいた荷物をあさりだした。

「懐中電灯はオレのと涼子のと、非常用と、ヘルメットライト」

「思いつきじゃなくて、最初から来るつもりだったわね」

 涼子が牧瀬を睨んだが、牧瀬は目を合わせなかった。

「カメラ…… カメラ…… あった。涼子、これ」

 牧瀬が涼子に警棒のようなマグライトを渡した。涼子は重さを確かめるように、二度上下に振った。

「行くぞ」

 いつの間にか暗視装置付きのヘルメットをかぶった牧瀬が歩き出した。柚木が軽くヘルメットを叩いた。

「こんなものまで持ってるのか」

「趣味に金の糸目はないってさ。止まれ」

 牧瀬の声に柚木たちは足を止めた。

「セキュリティ会社と契約してるな。赤外線のセンサーがある」

「見えるのか」

「高かったんだぞ、これ。こっちだ」

 柚木たちは牧瀬のあとに続き、参道から外れた。

 二十分ほど歩くと、山を覆う森の中の開けた場所に出た。切り立った崖を背に半円状の空間が広がっている。崖には浅い洞が穿たれていた。洞の上には注連縄が吊られていた。

「あれが奥宮かな」

「そんな感じだ」

 柚木と牧瀬が話していると、涼子が割り込んできた。

「あなたたち、ここまで来なかったの」

 柚木と牧瀬が顔を見合わせた。

 柚木が小声で説明した。

「子供の頃から地元で暮らしていないと分かりにくいかもしれないけど。この手前までだって、けっこう勇気が必要だったんだ」

 魅桜が黙ってうなずいた。

 四人は懐中電灯の灯りを頼りに洞に近づいた。洞の奥に何かがあった。光で照らすと、三本足の台とその上に乗った丸いものが見えた。

「神鏡は雲の形の台、雲形台に乗っているというが、あれは…… 見たことがない形だ」

 牧瀬がつぶやいた。

 雲と言われれば雲のような台から三本の足が伸びていた。遠目に先端は口を開いた蛇の頭部のように見えた。台の上には丸いものが置かれている。懐中電灯の光を受けて影がチラチラと見えたが、細かいところまでは分からなかった。

「これが御神体か」

「たぶんな」

「なんで蛇なんだ? 鏡神社なのに」

「鏡はカカメ、へびの目から来ている、という話を聞いたことがある。神社の紋も蛇の目紋だ」

「御神鏡って歴史の教科書みたいなのに載っている、細かい模様が付いている丸いのですか」

 魅桜が小声で牧瀬に尋ねた。あたりに人の気配はなかったが、大声をはばかられる雰囲気があった。

「そう。あの台の上にある」

 牧瀬が懐中電灯を動かした。鏡の向こうで丸い影が踊った。影を見ながら柚木がさらに尋ねた。

「こっちに表が向いているのかな」

「どうかな。御神体が山だったら、向こう向きのような気もするが。ここからでは分からん」

「なぜ見ちゃいけないんだ?」

「見ちゃいけない?」

 柚木の不意の質問に、牧瀬が小首を傾げた。魅桜が気づいて言った。

「『見てはいけない、お山の中の、神のみしるし、神面鏡』って歌いますよね」

「ああ、そのことか」

 牧瀬はうなづいた。

「あれがその神面鏡だったら、たぶん神そのものだろうから、人が見るものじゃないって戒めなんだろう」

 そう言ってから、牧瀬と涼子が洞窟の中に入ろうとした。

「おい。言ったそばからいいのか」

 二人が足を止めた。振り返って顔を見合わせている。

「ここまで来て見ないっていうのも、な」

 洞は狭く、二人が入るのがやっとの広さしかなかった。

「どうする? 先に行くか」

 柚木は苦笑した。

「研究家でもないオレたちが先に入ってどうするんだ。知っている人から入れよ」

「恩に着るよ」

 牧瀬が涼子を伴って中に入っていった。灯りが洞の中で揺らめいている。床や雲形台の足を照らしていた灯りが次第に上がっていく。こちら側の表面を照らしていた灯りが裏に回った。

 真っ黒い円盤が光の中に浮き上がった瞬間、涼子が悲鳴を上げた。

「どうした!」

「来るな!」

 牧瀬の怒鳴り声に柚木は足を止めた。

「オレたちが戻る。こっちには来るな」

 牧瀬の声は震えていた。

 急に魅桜が柚木の腕を掴んだ。痛いほどの力だった。

「どうした?」

「何かが足に触った」

 魅桜の声も震えていた。柚木は懐中電灯で足元を照らした。魅桜の体から力が抜けた。柚木は慌ててその体を抱きとめた。

 どこにいたのか、洞から湧き出した無数の蛇が足元を覆い隠そうとしていた。

「心配ない。アオダイショウとかシマヘビとか毒のないやつだ」

 すっかり酔いが冷めた声で、洞から出てきた牧瀬が言った。

「戻ろう」

「見るチャンスが潰れた」

「良かったよ。お前たちが見なくて」

「何を見たんだ」

 牧瀬は口を閉じた。体を支えられていた涼子が牧瀬から離れた。

「もう大丈夫。行きましょう。魅桜ちゃん、大丈夫?」

「足に力が入らなくて……」

 魅桜が震え声で答えた。柚木が魅桜を抱えた。

「オレが抱えていきますよ。あんな蛇の大群、オレも見たことがないから、よほど驚いたんでしょう」

「頼んだわよ」

 涼子が気丈に歩き出した。

 その時、洞から聞いたことがない低い笛の音とも風の音ともしれない異様な音が聞こえた。涼子の体がビクッと震えた。

「なんだ。今のは」

「風の音だ。気にするな」

 牧瀬が柚木の背に手を当てて、急がせるように軽く押した。

 その手が震えていた。

 その夜は牧瀬の家に泊まり、翌日、柚木は魅桜を家に送っていった。

 翌日から数日は親戚への挨拶回りに忙殺された。

 そして、東京に帰る前日、二人は牧瀬に呼び出された。柚木は魅桜と一緒に待ち合わせ場所に向かった。

「おい…… どうした」

 ワゴンから降りて近づいてきた牧瀬を見て、柚木は声を荒らげた。数日会わなかっただけで、牧瀬は変わり果てていた。頬が落ち込み、目にくまができている。無精ひげが伸び、肌もカサカサのように見えた。

「良かったよ。お前たちに変わりがなくて」

 牧瀬が弱々しく微笑んだ。唇がひび割れ、声がかすれていた。

「しっかりしろ。何があったんだ」

「涼子が死んだ」

「なんだと!」

「アレに喰われた。丸呑みだったよ。オレは助けられなかった」

「アレ?」

 牧瀬が耳を澄ませた。

「あの音が聞こえるか。何かが這うような」

 柚木と魅桜は首を振った。

「おの日から、オレたちはあの音に悩まされていたんだ。そして、昨日、アレがベッドの下から出てきて涼子を引きずり込んだんだ」

「何を言っているんだ?」

 柚木が聞き返したが、牧瀬には聞こえていないようだった。

「アレは本当はいつでもオレたちを殺せたんだ。遊んでいやがったんだ」

 牧瀬の目が見開いた。

「いかん。こっちに来る! 車に乗れ」

「なんだと?」

「いいから早く乗れ! 乗ってくれ!」

 牧瀬の声に柚木は急いでドアを開け、魅桜を先に乗せた。柚木が乗り込み、ドアを閉める前にタイヤが鳴った。

「どうしたんだ」

「アレが来る」

「アレ?」

「ああ……」

 牧瀬は言葉を濁した。

「お前たちは知らなくてもいいか。神社まで逃げれば、あるいは」

 柚木は牧瀬の低い声を聞いてゾッとした。

「何を見たんだ? しっかりしろ!」

 柚木の励ます声に牧瀬は返事をしなかった。少しして、気だるそうに言った

「オレは狂いかけているが、まだ狂っちゃいない。ともかく神社まで行く。オレは許されないが、お前たちの許しを乞うてやる。お前たちは見ていないんだ。神罰を受けることはない」

 いきなり速度が落ちた。牧瀬がアクセルを踏み込むと、タイヤの空転する音がした。さらに踏み込むと、何かから逃れようとするかのようにワゴン車は左右に頭を振った。

「タイヤに噛みつきやがったのか!」

 タイヤから空気が噴き出す音がした。ワゴン車が左後ろに傾いた。再び音がして、同じように右が沈んだ。

 魅桜が悲鳴をあげた。

「外に出ろ。後ろを見るな!」

 牧瀬が叫んだ。

 柚木はドアを開けて、外に出た。魅桜に手を貸すと、魅桜の手は震えていた。

 柚木は左手で魅桜の手を握った。無意識のうちにお守りを取り出して右手で握り締めた。

 牧瀬が外に出て、後ろをうかがった。

「いない…… どこに行った? よし、大丈夫そうだ。早く鏡神社の境内へ……」

 排水口の蓋がゴトリと鳴った。

「走れ!」

 牧瀬の緊迫した声に、柚木と魅桜は走り出した。牧瀬が二人のあとを追った。排水口の蓋がゴトゴトと音を立てて三人を追った。

「振り返るな!」

 柚木の耳に幾つもの重い音が聞こえた。石の蓋が吹き飛ばされ、道路に落ちる音だった。

 牧瀬の悲鳴が聞こえた。

「飲まれる! 生きたまま飲み込まれる!」

 恐怖の声だった。

「牧瀬!」

 足を止めて振り返ろうとした柚木を、牧瀬の声が止めた。

「振り返るな! 走れ!」

 柚木は強く握られた手にハッとした。涙に汚れた魅桜の顔が見えた。

 柚木が励ますように言った。

「行こう」

 振り返らずに、二人は鏡神社の境内に向かって走った。

 夕暮れが近づいていた。

 いつもであればうるさいほどの蝉の声が聞こえないことに、柚木は恐怖を感じた。

 しばらくすると、何かが這うような、こすれる音が背後から聞こえた。その合間に風にも笛の音にも似た奇妙な音が聞こえる。その音は着実に距離を縮め、大きくなっていった。

 二人は境内に駆け込んだ。生い茂る葉が日差しをさえぎり、辺りを暗くしていた。

 背後の音が石造りの鳥居の手前で瞬時に止まった。

「もうダメ。走れない」

 鳥居から離れたところで、魅桜が足を止めた。柚木自身も息を切らしていて答えることもできなかった。ふらつく魅桜を柚木が抱きしめた。魅桜は柚木の胸に顔を埋めた。

 安心したのか、魅桜の膝から力が抜けた。柚木も魅桜を抱いたまま、座り込んだ。

 柚木の手からお守りが落ちた。

「これはこれは…… 古いお守りをお持ちですね」

 声を聞き、魅桜の肩に顔を埋めていた柚木が声の方に目を向けた。すぐ近くに誰かが立っていた。

 薄暗がりの中、白い袴を飾る白の陰陽蛇の目紋がぼんやりとした光を放っていた。

 柚木は視線を動かさないように袴を見ながら答えた。

「うちの祖父がこの子の祖父にあげたものです」

「なるほど」

 神主らしい袴の主が一呼吸空けて言った。

「柚木素一さんと石渡喜十郎さん。存じてますよ」

 若いような、年老いているような、不思議な声だった。声に気圧されて柚木は顔を上げられなかった。

 男は溜息をついた。

「柚木さんに魅桜さん、あなたたちも存じてますよ。牧瀬さんご夫妻も」

 柚木の背に嫌な汗が流れた。口調は柔らかいが、どことなく人間離れした声音に感じられた。魅桜の体が緊張して硬くなっていた。安心させるように柚木は魅桜の背を優しく撫ぜた。

「この子だけでも助けてくれませんか」

「あなたは?」

「オレはいいです」

「それは潔い。しかし、好いた男にしがみついている娘をむりやりはがす無慈悲なことはしませんよ。ここは神域ですし、私の役目もある」

 男は含み笑いを漏らした。

「お二人は鏡を見ましたか?」

「神面鏡のことですか」

「そう」

 ウソは許さないという声に、柚木には感じられた。

「神面鏡は外から見ました。でも、オレたちは鏡に映ったものは見ていません」

「そう」

 男の声は静かだったが、その響きに柚木の背筋が凍った。

「本当です」

 返事はなかった。

「そう言えば」

 男は何かを思い出したようだった。

「あなたは小学生の頃にも奥宮に来ましたね」

「あ…… いえ…… 参道を少し入っただけです」

「それだけではない。あなたに石をぶつけられたこともあった」

 懐かしそうな声だったが、柚木の背に冷たい汗が流れた。

 男が歩み寄る音がした。柚木は目をつぶり、魅桜を抱きしめた。

 耳元すぐ近くで、声がした。

「信じましょう。そのお嬢さんのことも」

 柚木の頭上で口笛のような、風が葉をならすような音がした。

 少しして同じような音が聞こえ、何かが境内に入ってきた。背後から、玉砂利がこすれる音が近づいてくる。

 魅桜がうめいた。

「大丈夫。心配するな。怖かったら目を閉じているんだ」

 柚木は魅桜を抱く両手に力を込めた。

 男が何かを唱え始めた。祝詞のようでもあり、そうではないようにも聞こえた。その声に応えるように、背後から息が漏れる音がした。

 それもまた、違う何かの音だったのかもしれない。

 祝詞が終わると、玉砂利をこする音がずるずると山の方に遠ざかっていき、やがて消えた。

「聞いてもいいですか」

 柚木は声を震わせながら言った。

「聞くだけでしたら。答えられるかどうかは分かりませんよ」

 改めて聞く声には、人の温かさが感じられなかった。

「アレはなんだったんです?」

 かすれた声で柚木は尋ねた。

「知りたいのですか?」

「…… いえ、いいです」

 柚木はやるせなかった。それがもう一つの問いになった。

「牧瀬たちはアレに殺されたんですか?」

「いいえ」

 あっさりと答えが返ってきた。

「荒ぶろうと神は神ですからね。ただ、あなたがたと会うことは二度とありません…… あなた方も…… 昨日と同じわけにはいきません……」

 再び祝詞が聞こえ出した。

「何を……」

 それが何か、柚木にはすぐに理解できた。

 心の中から何かが漏れ出していく。

 柚木はこわばってうまく動かない口をむりやり動かした。

「過去を奪うんですか」

「殺生は好きではないので。私からのせめてもの贈り物です。新しい人生を楽しみなさい」

 柚木は目を見開いた。

 人の形をした強い光が目を射た。

「やめてくれ!」

 柚木は抱きしめていた手に力を込めたが、そこには何もなかった。

 声が脳裏に渦巻き、柚木は気を失った。


 ホームに東京行きの新幹線が停まった。

『ひとり者には長いようで短い盆休みだったな』

 柚木はトランクを手に苦笑した。仕事が忙しいと言い訳し、付き合いをおろそかにしていた結果だった。

 ドアが開き、数人の女性が降りてきた。友人同士らしく、陽気な声と明るい笑いが柚木に心地よく聞こえた。

 女性のひとりと目が合った。

 わずかに茶に染めたショートカットがよく似合う女性だった。

『見たことがあるような……』

 一瞬、柚木と女性は同時に眉をひそめた。

 お山から盆の時期には吹かない冷たい風が届き、柚木の背を押した。

 柚木はハッとして周囲を見たが、すでに女性たちの姿はなかった。

 ホームには地元のわらべうたの合唱が流れていた。

「見てはいけない お山の中の

 神のみしるし 神面鏡

 御手をあわせて 縄とじ祈れ

 心やすまり 神かえる」

 二番を聞いていると、声の中に懐かしい声が混ざっていたように柚木には感じられた。

「誰の声だっけ? なにか…… 大切なことを忘れている気が……」

 それが何か、柚木には分からなかった。

 諦めてため息をついた柚木が歩き出した。

 すぐに、その姿はドアの向こうに消えた。


- 了 -

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見てはいけない 久遠了 @kuonryo

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