ちょっと異世界で勉強教えてくる。

山本正純

前編 思春期

 放課後、清潔感のある短髪の少年は机の上に白紙の進路希望調査を放置して、スマートフォンを取り出した。

「やっぱりカワイイなぁ」

 独り言を呟く少年は、画像検索した三毛猫の写真を見て、ニヤニヤと笑う。そんな彼の姿を見て低身長でポニーテールの少女が、頬を膨らませた。

「先生がいないからって、校則を破っていいと思う? 答えはダメでしょう」

 少年はスマートフォンから顔を上げ、突然説教を始めた少女を見た。

「退屈な授業から解放されて、カワイイネコの画像で癒されている最中なのに、邪魔しないでくれよ。絵梨」

 その少女、澳津絵梨は彼の顔から視線を外さない。

「ダイ。こういうことは家でやったら?」

「分かった。そんなことより、早く行かなくていいのか? 確か文芸部の集まりがあるんじゃなかったか? 俺の世話を焼く暇があったら、そっちに行った方が良いと思うが」

「そうね。兎に角学校でスマホ見てニヤけるの禁止ね!」

 伝えた後、澳津絵梨おきつえりは教室を飛び出した。彼女の真意に気が付かない少年、御手洗みたらいダイは、幼馴染の少女の後姿を見つめながら、首を傾げる。

 

 高校の最寄りの駅のトイレで、御手洗ダイは用を足していた。黒色の長ズボンのチャックを閉め、洗面所に彼は向かう。すると、閉じられていた和式の大便器のドアが勢いよく開き、ベージュ色のマリンキャップを被った初老の男性が出てくる。

 その男を横眼で見ていたダイは妙だと思った。次に電車が来るのは二十分後のはず。それなのに、なぜあの男は急いでいるのかと。

 妙に焦っている不審な男は、洗面所で手を洗うことなく、そさくさとトイレから出て行く。その際、男のズボンのポケットから黒色のスマートフォンが落ちた。

 その瞬間を目撃したダイは、落ちていく精密機械を掴んだ。そして、彼はソレを落とし主に返すため、謎の男を追いかけた。

 スマートフォンを落とした男は、待合所のドアの前にいる。ベージュ色のマリンキャップを被った男を見つけたダイは、小走りで男に近づいた。

「すみません。これを落としましたよ」

 真っ正直に落とし主に返そうとする高校生の少年の姿を瞳に捉えた謎の男は小声で呟く。

「やっと見つけた。予言通りだ」

 あと一歩で謎の男に手が届く。そんな時、突然アスファルトの地面の上に白く塗られた大きな円が現れる。その円は謎の男を中心に大きくなっていき、赤く光り始める。この光が少年を完全に包み込んだ後、ダイは意識を失った。


 意識を取り戻した後、御手洗ダイが見たのは西洋風の館だった。まるで大富豪が住んでいそうな程大きい館。館の周りは、見たことがない種類の鋭い赤茶色の大木。一体、ここはどこなのか?

 大きな門扉の前で困惑していると、どこかからかベージュ色のマリンキャップを被った男が現れた。

「御手洗ダイ様。お嬢様がお待ちでございます」

 訳も分からないまま話が進み、ダイは首を捻る。

「ここはどこだ? お前は誰だよ?」

 突然の疑問に謎の男は首を縦に振る。

「そうでした。ここはアッチの世界で言うイセカイです。疑っているようですので、証拠をお見せしましょうか? 見てください。こんな生き物は、アッチの世界にはいないでしょう?」

 その男は、そう言いながら帽子を取る。すると彼の目の前の男の体に異変が起き始めた。頭から猫のような耳、お尻から銀色の綺麗な尻尾が生えていった。

 猫耳の人間を目の当りにした少年は、本当に異世界に来たのだと察することができた。

 それから猫耳の男は、話を続ける。

「これから御手洗ダイ様は、こっちの世界で家庭教師として働いていただきます。もちろん、仕事が終わったらアッチの世界に戻っても構いません。それと、アッチの世界で使えるオカネと言う物を差し上げます」

 ダイは何となくだが、状況を理解できた。どうやら目の前の男は自分を家庭教師にしたいらしい。だが、彼には腑に落ちないことがある。少年は、それを謎の男にぶつけてみた。

「何となく分かったが、どうして俺なんだ? 百歩譲ってここが異世界だということは信じるが、違う世界の人間を家庭教師として雇う理由が分からない。同じ世界で家庭教師を探さないのか?」

 この疑問に男は唸った。そして、数秒の沈黙の後、謎の男は口を開く。

「あなたは予言者様に選ばれました。私は予言者様の指示に従い、あなたと接触しただけです。お嬢様の家庭教師に相応しいのは、賢いカッコイイ御手洗ダイ様。あなたです」

 疑問が解消され、御手洗ダイは首を縦に振った。妙なフレーズで褒められ、乗り気になった彼は、照れながら真剣な目で男を見つめる。

「分かった。そこまで言うんなら、俺が家庭教師になってやる」

 この言葉を聞き、男は物凄く喜び、少年の手を掴む。

「ありがとうございます。それでは、中でお嬢様がお待ちです。っとその前に、自己紹介がまだでしたね。私は館の使用人を務めていますミネルヴァと申します。早速お仕事、よろしくお願いします」

 そう言いながら、ミネルヴァと名乗る男は門扉を開いた。そうしてダイは館の中に案内される。


 案内された部屋は、八畳ほどの広さだった。床一面にチェック模様の絨毯が敷き詰められ玉ねぎに似た形の電燈が天井から吊るされている。部屋の中にあるのは現実世界にありそうな普通の学習机。それの近くに円形のベッド。

 ミネルヴァはベッドの上で丸くなり眠っている金色の短い髪の少女に声を掛ける。

「お嬢様。家庭教師の方を連れてきました」

 使用人の声に反応して、眠っていた少女が可愛らしく欠伸をしながら目を覚ます。御手洗ダイは、お嬢様と呼ばれる少女の姿を観察してみた。

 ミネルヴァと同様、頭には猫のような耳が生えていて、使用人と同じ銀色の猫の尻尾が上下に揺れている。顔は小学一年生のように幼かった。

「この人が家庭教師? 名前は?」

 可愛らしい声で少女が尋ねる。そんな彼女の手にはスマートフォンが握られている。

「御手洗ダイ。よろしくな」

 ダイは軽く頭を下げた。しかし、猫耳の少女はスマートフォンから顔を上げることなく、画面をタッチしていた。

 現実世界にもスマートフォンを構いながら顔を合わせず会話する女子がいる。異世界にも現代っ子のような人がいるのではないかと、ダイは思った。

「じゃあ、ダイダイって呼ぶね。えっと、私はアース・マホ。適当にマホとでも呼んで」

 無表情で尚且つ顔を合わせることなく自己紹介。本来なら最悪な第一印象だが、ダイは真逆だった。かわいく揺れる猫の尻尾を見ていると、そんなことはどうでもよくなっていく。大の猫好きな彼は、アース・マホという世界の住人をカワイイと感じ、顔を少しだけ赤くした。

 それと同時に彼の中で不安が生まれる。ここは異世界なのだ。勉強の内容も現実世界とは違うはず。そんなことで勉強なんて教えることができるのだろうか?

 そんな不安を他所に、アース・マホは学習机に向かい歩く。その姿を見たミネルヴァは、ダイに耳打ちする。

「一時間後、また来ます。それまで勉強を教えてください」

「ちょっと、待ってくれよ。真面目な話、別の世界から来た俺が勉強を教えるなんて無理……」

 ミネルヴァはダイの言い分を最後まで聞くことなく、部屋から出て行った。こうして二人きりになったダイは、頭を掻きながら学習机に近づく。

「ダイダイ。早く勉強教えてよ」

 感情を込めない淡々とした口調で、マホはダイに声を掛けた。机の上にはテキストとノートが広げられている。

 一体異世界では、どんな内容を勉強しているのか? 全く分からない理論が書かれていたら、勉強なんて教えることはできない。

 興味と不安が共存する中で、ダイはテキストを覗き込んだ。

 そこには高校二年生で習う数学の方程式が書かれていた。これくらいならば自分でも教えることはできる。

 ここでダイに新たな疑問が生まれる。これがテキストに書かれているということは、アース・マホという少女は自分と同い年ではないか?

 確かめなければ気が済まないと思ったダイは、少女に尋ねる。

「これを習うってことは、マホちゃんは高校生なのか?」

 この家庭教師の問いにマホは首を捻る。

「高校生って何?」

 安直な質問だとダイは後悔した。ここは異世界なのだから高校生という言葉が通じるとは限らない。

「俺が別の世界から来ているってことは知っているよな?」

「うん。預言者の紹介だとミネミネが言ってた。高校生って何?」

 マホは高校生という言葉に興味を示し、何度も尋ねる。その質問にダイは答えようと頭を捻った。

「思春期の男女が通う学校の生徒のことだが、これで伝わるのか正直分からない」

 本音が混ざる説明を聞いたマホは、突然スマートフォンのような端末を取り出し、画面をスワイプしてみせた。

「思春期。心身ともに子供から大人に変化する時期のこと。もうすぐ私の思春期が始まる」

 自分の説明を理解しているようにダイは思った。

「変わっているな。俺が住んでる世界では、いつから思春期が始まるのかなんて、誰にも分からないのに。明確にいつから思春期が始まるのかが分かるなんて。それも預言者って奴が教えてくれるのか?」

「そう。こっちの世界だと思春期を迎えたら、特別な能力が使えるようになる。預言者からの手紙によると、もうすぐ私の能力が解放されるらしいけど、まだ実感がないの。ダイダイの世界では、私と同じくらいの年齢の子が能力を解放しているっていうのに、私は遅れ気味」

 マホの話を聞いたダイの頭にクエスチョンマークが浮かぶ。自分が住んでいた世界に、超能力者なんていない。ましてや学生超能力者なんて聞いたことがない。そんな存在がいたとしたら、テレビで大きく取り上げられるはずだ。

「えっと。マホちゃん。俺が住んでた世界に特殊能力が使える奴なんて一人もいないんだが」

「ウソ。少しスマホで調べたら、黒龍天空拳の使い手の堕天使とか、皇帝ダークサンダーマスターとかっていう言葉が出て来た」

 ダイは目を点にする。

「それは中二病だな」

「そう。それ。ダイダイの世界だと十四歳くらいの人が中二病って病気になるんでしょう。その病気の影響で黒龍天空拳が使えるように……」

「ならない!」

 ダイはマホが言い切るより前に、あっさりと否定した。その直後、冷静になったダイはマホの口から語られた事実を整理して、驚きの声を出す。

「ちょっと待て。一度整理しようか? マホちゃんが使っている端末は、スマートフォン?」

「うん」

「マホちゃんの年齢は十四歳? 俺が住んでる世界にある中二病が、こっちの世界の能力解放とイコールだと勘違いしているんなら、それくらいの年齢のはずだ」

「イエス」

「ということは、こっちの世界だと俺の世界の高校二年生レベルの問題を、十四歳が解くってことだな。なんとなくこっちの世界のことが理解できた」

 マホが通う学校がハイレベルな進学校なのか? それともこれがこの世界での一般的な学習内容なのか? どちらなのかがダイには分からない。しかし、彼の仕事は決まっている。

「じゃあ、早速勉強を始めようか?」

 これまでの世間話の空気を変えるため、ダイは両手を一回程叩く。その動きに合わせて、マホは尻尾を縦に振った。

 一気に勉強モードになったマホは机の上に置かれたペンを持ち、ノートの方程式を記した。熱心に勉強に打ち込むマホの横顔を、ダイはカワイイと感じ、少年の顔は次第に赤く染まる。

 三問程解いた所で、突然マホのペンが止まる。もしやと思ったダイは、少女に声をかけた。

「どこか分からないところでもあるのか?」

 家庭教師として当然の問いに、マホは意外な答えを口にする。

「今日の宿題は、このテキストのページの方程式十問の答えをノートに書くこと。それが終わったら、ダイダイと時間までお話していい?」

 そう言いマホは上目遣いで尋ねた。だが、真面目な少年の答えは決まっている。

「ダメだ。宿題が終わったら、明日の授業の予習をする」

 あっさりと要求を切り捨てられ、マホは頬を膨らませた。

「ダイダイのケチ」

「こういう拗ねた顔もカワイイなぁ」

 思わず漏れたダイの本音を聞き、突如としてマホは赤面する。

 それから、マホは宿題を五分で終わらせた。異様な速さにダイは舌を巻いた。

「流石だな。じゃあ、次は隣のページをやってみようか? 俺はマホちゃんの答えが正解かどうかを確認してみる」

 別の世界から来た家庭教師の指示に、マホは従う。

 ここにきて見守りから家庭教師らしい採点という仕事。ダイは可愛らしい少女の顔を見ながら、マホの答えは正しいのかどうかを確認していく。

 そして二十分後、確認作業を終え、顔を上げたダイは、マホに話しかける。

「全問正解だ。スゴイな」

 ダイに褒められ赤面していると思われたマホの手にはスマートフォンが握られていた。

「嬉しい。ありがとう。ダイダイ」

 マホはスマホを操作しながら呟く。この反応にダイは呆れた。

「勉強をサボってスマホで遊んでいたのか? 褒めて損した」

「サボってない。隣のページも解き終わったから、少し休憩のつもりで……」

「別に怒ってないから、気にしなくてもいい」

 少し不穏な空気が流れ始めた頃、ドアがノックされ、ミネルヴァが姿を現した。

「御手洗ダイ様。そろそろ家庭教師のお仕事も終わりでございます。元の世界に帰る準備をしてください」

「ミネルヴァさん。どうやって元の世界に戻るんだ?」

 この疑問に対し、ミネルヴァはハッキリと答えた。

「心配無用です。時間になったら、自動的に戻ります。御手洗ダイ様。先程、大切なことを言うのを忘れていました。一々迎えに行くのも面倒くさいので、あなたに特殊能力を与えました」

 どうやって特殊能力を与えたのかも気になるが、この場合の特殊能力にダイは心当たりがある。おそらく、異世界を行き来する能力であろう。

 だがしかし、ミネルヴァは予想の斜め上を行く特殊能力を口にした。

「尿意を感じ取りトイレに駆け込んだら、異世界に飛ぶことができる。そんな能力です。一時間で近くのトイレに戻ります」

 微妙な能力だとダイは思った。ただ異世界に飛ぶだけではない。トイレに行く頻度で異世界に行く。一体何の恨みがあって、こんな特殊能力になったのか? ダイは呪い始めた。

「誰だよ。こんな変な特殊能力を与えようと考えた奴。預言者って奴か?」

「その通りでございます。預言者様は数百個の特殊能力を使えます。アッチの世界で言うチートという存在です。普通は一人一つしか特殊能力は使えないのですが、兎に角、預言者様から異世界に行き来できる能力をお借りしました」

「これが唯一の異世界を行き来する能力だってことか? 変わっているなぁ」

 呆れの表情しかできなくなっている少年に対し、ミネルヴァは忠告を続ける。

「最後に、トイレはドアに鍵がかかる大便器でお願いします。小便器の前だと、誰かに異世界を飛ぶ瞬間を目撃されてしまうので」

 妙な特殊能力に妙な要求。この二つを受け入れるしか彼はできなかった。

「分かった。この際受け入れよう。こんなカワイイ女に勉強を教えるためだ。ところで、報酬のオカネというのは?」

 すっかり忘れていたように、ミネルヴァは両手を叩く。

「そうでした。こちらが報酬の二千円です」

 そういいながら、ミネルヴァは財布から千円札を二枚取り出し、ダイに手渡す。

 時給二千円の家庭教師の仕事を異世界で行う。こんな経験ができるとは夢でも思わなかったダイは喜んだ。

 それから数秒後、少年の体は赤い光に包まれ、館から少年は姿を消した。

 目を開けると、そこは公衆トイレの中だった。なぜかダイは大便器の上に腰かけている。

 ドアを開けた先にある見慣れた風景は、駅のトイレだった。おそらく微妙な特殊能力で、駅のトイレにテレポートしたのだろうと、ダイは思った。

 時間は丁度、異世界に飛んでから一時間くらい。もしかして、異世界に行ってきたというのは夢だったのではないかと、ダイは疑う。

 しかし、右手に握られた二千円がそれを否定した。

 ここにいても仕方ないと思ったダイは、トイレから出て行く。すると、目の前を幼馴染の少女が通り過ぎた。その少女、澳津絵梨はダイの存在に気が付き、素早く彼に近寄った。

「ダイ。まだ帰ってなかったの? まさか待っていたとか?」

 まさか異世界に行っていたとは口が裂けても言えないと思ったダイは、否定できなかった。

「実はそうなんだよ」

「だったら校門の前で待ってたら良かったのに。まあ、別にいいけど」

 ぎこちない二人は、これから一緒に自宅に帰ることになる。それぞれの気持ちに気が付かないままで。

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