第207話大人のやり方1
あんずが酒を楽しみ始めていくらも経たない内に、俺は眠りに就いていた。俺の身体にこびり付いた血液は全部拭き取れておらず、目を覚ます頃にはニカワの様に布団に張り付いていた。そんな状況にも関わらず、あんずは俺の隣で寝息を立てている。幸いにも彼女の服は汚れていない。
昨夜に聞いたあんずの気持ちを思い返すと、どういう態度で彼女に接していいか分からず、中々起こせないでいると、俺の動きを感じ取ったのかあんずは自ら目を覚ました。
「むにゃむにゃ……。たくちゃん、もう起きてるんですか?おはよーございまふ…」
「お、おう…。おはよー、あんず。今日もまたやなぎ家に行くんだけど、一回'98に戻ってええか?」
澄人との勝負に勝った俺は、高桑から報酬として1000万の貝を受け取っていた。それはやなぎ家に払う賠償金だ。俺の本心ではないにしろ、そこには謝罪の意味も含まれている。そんな場にこんなボロボロのツナギ姿で参るワケにはいかない。正装ってほどではなくても、小奇麗にしておくに越した事はない。
いつもの一張羅に着替えるべく宿を出ようとすると、部屋に備え付けられていた受話器が鳴った。出てみると相手は女将のチサキで、前回受けられなかったサービスを勧めてくれた。
《おはようございます、今泉さま。よろしければ朝食をご用意させていただきますが、いかがでしょう?》
特段腹は減っていなかったが、高い宿泊料を払っていたので、もったいない精神を発揮する事にした。それにこの宿の食事という物にも興味がある。
二人前の朝食を注文すると、五分もかからず部屋の戸が叩かれた。運ばれてきた朝メシは、焼き鮭にご飯と味噌汁、おしんこまで付いていた。平均的な朝食ではあるが、以前にひーとんと食べた定食屋のメシとは比べ物にならないほどクオリティは高かった。しかもメチャ旨い。
夢中で箸を進めていた俺は、ふと気になりあんずの方を見ると、落ち着いた面持ちで箸を操る彼女がいた。いつの間にか上達していた箸使いに、俺は見惚れてしまっていた。
「たくちゃん、どうしました?」
「いやぁ、あんず箸上手になったなぁと思って…」
「ハクトちゃんが教えてくれましたからね。たくちゃんはぜんぜん教えてくれませんでしたけどッ」
何気ない会話にも棘があるなぁ…。本当なら今すぐにでも許しを請うべく土下座でもしたい気分だったが、その前にやらなきゃならん事が立て込んでいる。あんずに謝るのはそれが全部片付いてからだ。
チャチャッと朝メシを平らげた俺たちは、チサキに軽く挨拶をして宿を出た。
少しばかりの距離を歩き、'98に辿り着くと、昨日よりかは混雑していなかったが、カナビスを求めるミコトの列は後を絶たなかった。
「おはよーっす。みんなおるかー?」
「あっ、たくやくんッ!おかえりな……―――ってッ!!またツナギ汚してぇッッ!!大事に着てってあれだけ言ったのにッッ!!」
最初に俺を出迎えてくれた桃子は、殆ど服として体を保てていないツナギを見て憤慨していた。彼女の文句はまた今度聞くとして、俺は自分の荷物から一張羅を取り出した。俺とあんずの荷物は一纏めにされていて、その中には彼女にあげた麝香の香水もあった。
あんずには毎日この香を着けてもらいたいのだが、三谷にも同じプレゼントを渡した事を教えてしまっていたので、今コレを取り出すのは止めておこう。…と、躊躇していると、それに気付いたあんずは俺から麝香を取り上げた。
「アタシ、今日はジャコウつけようかな。たくちゃんが好きな香りですもんねッ。しおりさまにもあげちゃうくらいなんですからッ」
すごい言葉のナイフを刺してくるじゃんッ!メッタ刺しじゃんッ!ピンポイントで傷をえぐってくるじゃんッ!もうメンタル虫の息だよッ!死にたいッッ!!
と、半ベソかきながら着替えをしていると、身支度をしている俺たちに気付いた緑が声をかけてきた。
「なんだ、拓也?帰ってきたと思ったらまたどっか行くのか??」
「おう、ちょっと野暮用でな。やなぎ家に顔出してくるわ」
それを聞くと、緑は苦い顔を見せた。どうやら彼女は俺がやなぎ家にたかられているのを知っていた様で、賠償金の貝1000万を持って行く事を快く思っていなみたいだ。
「イヤな予感すんな…。拓也、用事が済んだら真っ直ぐここに帰ってこい。絶対だぞ」
緑の言葉は気がかりだったが、この1000万は俺が持っていても仕方ないので、俺はあんずを連れてやなぎ家に向かった。
――――――――――………
「ごめんくださーーいッ!今泉ですけどーーッッ!」
裏口で自身の来訪を伝えると、物凄い勢いで扉が開かれた。出てきたのはかむろのこのみだった。いや、もうかむろじゃなかったんだっけ。
「ちょっとッ!!たくやさまッ!真昼間っから堂々と来ないでくんなましッ!本来ここは男子禁制でありんすよッ!!」
小言を言いながら中へ招き入れてくれたこのみに先導され、俺たちはやなぎ家に入っていった。まだ本格的な営業時間ではないはずだが、中にはたくさんの遊女が活動していた。その殆どが、俺の事を訝しむ視線を送っている。
彼女たちから三谷を奪った俺には当然の報いだったが、お色気ムンムンの女から頂戴するじっとりとした眼差しに、何だか興奮してしまったのは内緒。
「おかみさん、たくやさまをお連れして参りんした」
「入っておいで」
開けられた襖の奥から見えてきたのは、真っ黒な着物に身を包んだ喪服姿のおかみさんだった。おそらく彼女も三谷を弔ってくれているのだろう。
だけど俺の前でその格好すんのやめてくれないッ!?兄貴とお袋の葬式思い出してトラとウマが大暴れするんだよッ!これ以上精神的に痛めつけるのは勘弁してよぉッ!死にたいッッ!!
「おかみさん、約束の貝を持ってきました」
「昨日の今日でよく準備できたね。流石だよ、クソガキ」
おかみさんの正面には俺のために用意されていたであろう座布団があったが、そこには座らず、彼女の前で三つ指を着き一礼した俺は、1000万の貝が入ったカードを差し出した。本当ならあんずの見てる前でこんな屈辱的な行為はしたくないんだけど、自分の立場を弁えるとどうしてもこうなっちゃうんだよなぁ。
俺からカードを受け取ったおかみさんは、一度だけチラッと確認した後、すぐ胸に収めた。これでやなぎ家への賠償は済んだな。…と、ホッとしていた俺に、おかみさんは衝撃的な言葉を叩きつけた。
「『今月分』はこれで徴収済みだね。今度は一月の内に同額持ってきな…」
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