第179話ナインティエイト3

「じゃあ、色々と聞いていくね。まず、きみの名前を教えてくれる??」


「あ…、あいり…っていいます……」


「あいりちゃんね。今使ってるスパイスは持ってるかな??」


 問診を始めたヨシヒロは、彼女が使用しているスパイスの種類と、ここまで自力で来られている点から、この子の中毒はそこまで酷いものではないと判断した。この程度であれば、カナビスを与えるだけでも充分な効果は期待できる。

 しかし、当の本人は現在進行形で中毒の苦痛を味わっている。症状が表れている状態は、精神に大きな影響を及ぼす。彼女は今、中毒症状からくる不安と、治療を受けている安堵がアベコベに混ざり合って、少し過呼吸気味になっていた。相当気が張っているのだろう。

 カナビスを与える前に、彼女の気持ちを落ち着かせたかったヨシヒロは、優しい口調で語りかけ、気分を解していった。それに応える様に、彼女の受け答えには余裕が生まれていた。さらに、マチコが気を利かせて持ってきてくれた白湯を口にすると、額に滲んでいた脂汗も引いた様子だった。


「あいりちゃん、コレは『カナビス』っていって、風体はスパイスに似てるんだけど、中毒を抑えるには有効な薬なんだ。使い方はスパイスと同じ。でも、カナビスを吸う時はこの『ボング』を使うんだ」


 ヨシヒロは彼女に、カナビスとボングの使い方を教えた。最初は恐る恐るだった彼女も、一口カナビスの煙を吸い込むと、スパイスとは比べ物にならない程のナチュラルな香りに度肝を抜いていた。

 スパイスの刺激に慣れている彼女は、咳き込む事もなく受け皿一杯のカナビスを吸いきった。その頃にはカナビスの陶酔を自覚できる程キマっていて、恍惚の表情を浮かべていた。彼女の体内では、カナビスがスパイスに勝った様だ。


「あ、あれ??なんだがすごく落ち着きます…。身体がこんなに楽なのは久しぶりかも……」


「よかった。効いてきたみたいだねッ。眠たかったら遠慮なく寝ちゃっていいからね。起きたらもう一回カナビス吸って、食べられるならご飯にしよう。それまでゆっくり休んで。気分が悪くなったらいつでも言うんだよ」


「は…、はい。…お世話になりま…すぅ……」


 カナビスがもたらす心地の良い高揚感と、優しいヨシヒロの言葉に、彼女は全身を委ねる事ができた。今まで苦しかったんだろうな…。辛かったんだろうな…。ここに駆け込んできた時の苦痛に歪んだ顔を見れば、そのくらいの想像は容易にできる。

 その苦痛を取り除いてやれた事に、ヨシヒロはカナビスの陶酔以上の多幸感を感じていた。医者の存在理由は、本来人を癒す事にある。自らの手で救った七人目の患者の安らかな寝顔を見て、漸くヨシヒロは実感できた。

 自分は紛う事なき『医者』なのだと。


「国枝くん、ちょっといい?また来たわよ」


 休む暇もなく現れた新たな患者を、ヨシヒロは快く受け入れた。自分に向けて差し出された救いを求める手は、何が何でも掴んで引っ張り上げる。そう固く心に決めたヨシヒロは、自らも一本の紙巻を深く吸い込み、カナビスをキメた。


「じゃあ、色々と聞いていくね。まず、きみの名前を教えてくれる??」


 ――――――――――………


 本日二人目の患者も容態を安定させたヨシヒロは、束の間の休息の為に、店側の方へ顔を出した。すると、さっきまでとは違う面持ちで会話をするマチコとスパイの姿があった。


「マチコちゃん、何かあったの??」


「あ、国枝くん…。ちょっとマズいかも知れない…。三谷紫織の行方が分からないの…」


 それはまだ自警団本部が知り得ない情報だった。いや、知らせるべきではないとマチコが判断していた。事が判明したのは、ほんの少し前。監視用ロボが偶然捉えた、人力車を引く車夫たちの会話からだった。

 三谷が在籍している遊郭『やなぎ家』は、お抱えの車夫を何人か雇っていて、三谷ほどの売れっ子になると、車での送り迎えが義務付けられる。今日の昼から予約が入っていた三谷を迎えに行った車夫が、一向に宿屋から出てこない三谷を不審に思い、やなぎ家の経営者である『おかみさん』にその事を伝えた。


「本来ならば、自警団に捜索の依頼がくるはずなのですが、やなぎ家さんからの通報はありませんでした。その理由は大体ですが、予想が付きます。

 三谷紫織さんが本日相手した客は、スパイスの開発者でもくもく亭の経営者、『羽根田浩』だったんです」


 羽根田浩もマチコと同じく、子飼いの二一組を自警団に潜り込ませている。その事と、スパイスを撲滅しに俺たちが都にやってきた事を合わせて考えたおかみさんは、双方を刺激しない様に自力での捜索を始めていたのだ。


「問題なのは、羽根田と三谷の足取りが宿屋からパッタリ消えている事なの。普通だったらそれはあり得ない。都のどんな細い通路でも、監視ロボの死角はないから。でも屋内は別…。

 考えられるのは、その宿屋に羽根田しか知らない地下通路があって、そこから脱出した可能性ね」


 だったらその宿屋を調べればいい。だが、羽根田に地下通路を用意するほど、羽根田の息がかかった宿屋が、すんなりと事実を吐くはずがない。そのアクションは、三谷の行方不明をこちらが把握した動かぬ証拠になる。それが羽根田の耳に入れば、ヤツはさらに行方を眩ますだろう。

 三谷の安否を心配するヨシヒロだったが、この先どれだけスパイスの中毒者が救いを求めにくるか分からない。それを優先したかった彼は、このビッグトラブルが起こっている事だけでも俺に伝えようとした。


「いずみくんッ!いずみくんッ!急にテレパシー送ってごめん!緊急事態なんだけど落ち着いて聞いて。しおりちゃんが攫われたッ!犯人はスパイスの開発者、『羽根田浩』ッ!

 やなぎ家さんの車夫が捜索してるんだけど、二人の行方は情報屋のマチコちゃんでも分からないし、ワケあって自警団も頼れない。僕は'98を離れられないから、捜索を手伝う事もできない…。いずみくんも忙しいだろうけど、そういう事があったって事だけでも頭に入れておいてッ!」


 ヨシヒロからの通達があった時、俺は絶賛対局中だった。雀荘を相手取って。

 俺たちが交わした約束では、応答が難しい場合には咳払いで反応する様に決めていた。だがこれは、俺が想定していた以上の厄介事だ。それにヨシヒロも冷静さを欠いていた。彼に余計な心労をかけたくなかった俺は、約束を破り言葉で返事した。


 《ヨシヒロ、ありがとな。承知した。三谷は昔っからそういうヘマするんだわ。アイツのケツ拭うのは慣れたもんだでよッ。ヨシヒロは引き続き治療に専念してくれりゃーええ。ほいじゃーなッ》ピッ


 俺との通話を切った途端、救いを求めにきた中毒者がまた一人、『ナインティエイト』の扉を開いた。

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