第92話ミコトの居場所11

「え…、は??ちょ、ちょっと何言っとるの……?きゅうけい……??」


 オウム返しで聞き直してしまったが、流石の俺でも理解できないほどガキじゃない。つい数分前に出会ったばかりの女に『夜のお誘い』をされてしまったのだ。女の子から性のアプローチなどされた事もない俺にとっては、青天の霹靂というか、寝耳に水というか、こんな場面を処理できるプログラムなど持ち合わせていない。

 思考停止で固まっている俺に、怪しげな視線を送りながら、マチコはカウンターを越えてこちら側にやって来た。彼女の動きを目だけで追いかけると、俺の背中を意味あり気に指でなぞり、ゆっくりと通りすぎて行った。扉を開け、店先に出ている看板を店内にしまい込んだマチコは、もう一度俺に近づいて来る。カウンター越しでは分からなかったが、彼女は小柄ではあるが一人前の『女の身体』をしていた。

 緊張と混乱で真っ赤になっている俺の顔を下から覗き込む彼女の胸元は、ゆったりとした襟の隙間からブラジャーを覗かせている。少し手を伸ばせば届いてしまう距離にある身体に、俺の頭はさらに混乱してしまった。

 このまま行きずりに身を任せ、未踏の快楽に溺れてしまおうか…。ゴクリと唾を飲み込み、マチコの誘いを受け入れようとすると、彼女は俺のポケットを摩った。


「もちろんお代は貰うよ…。タダで女の子抱けるほど、都(ココ)は甘くないから…。でも、これだけあれば十分……」


 そのポケットには、畳と布団を買う為の貝10000と、さっき高桑に貰った貝10000のカードが二枚入っている。それを差し出せば、この女を一晩自由にできる…。明日、買い物に使う分はひーとんに建て替えて貰うか、最悪また高桑に借りにいけばいいか……。などと考えていた俺は、この時冷静な判断力を欠いていた。何よりも大切なあんずの存在さえも、忘れてしまっていたのだ。

 ポケットの中に手を突っ込み、人生最大のポカをやらかそうとした正にその時、物凄い怒声と共に、店の扉が破壊されながら勢いよく開いた。


「ッッシェイッオラアァァァァッッッ!!」


 どこか聞き覚えのある掛け声だと思ったら、その輩の正体はひーとんだった。しかもすげぇ機嫌悪そう。何かあったのかな?

 呆気に取られていた俺とマチコの姿を視界に捉えたひーとんは、それまでの不機嫌さが嘘の様にポカンとした表情に急変した。


「あ、あれ?今ちゃん??何でこんな所にいるの??」


「うわッ、誰かと思ったらひとしじゃない…。あんたこそ何しにきたの…」


 ん?んん??この二人は知り合いなのか?

 ひーとんが姿を現したとたん、彼の不機嫌が移ったのか、マチコの態度がガラッと変わった。その変わり様とひーとんの登場に、俺は漸く正気に戻れた。危ねーッッ!もう少しで、好きでもない女に筆下ろしされる所だった!っていうか何考えてたんだ俺はッ!あんずにバレたらどんな摂関されるか分かったもんじゃねーぞッッ!!


「今ちゃん、この女には気ぃつけろよー。誘うだけ誘っといてさせてくんねーし、貝だけはキッチリ取られるからよ」


「ひとしのツレならこっちから願い下げだっつーの。それより看板下げてあるんだから入ってこないでよ」


「店ん中電気ついてんじゃねーか」


 どうやらこのマチコという女は結構な悪女らしい。口ぶりからすると、ひーとんも一回騙されてんのかな?それにしても俺の貞操を弄んだ挙句、貝までせびろうだなんて、強姦恐喝未遂だぞ。一発実刑じゃねーか。ふざけやがって、この女…。

 結局ここでも食い物にされそうになった所を、またしても友達に助けられた。運が良いんだか悪いんだか分かんねーなぁ。っていうかいよいよ油断できねーぞ、この都って場所は。

 しかし、何でさっきまであんなに思考が乱されていたのだろう。女の子に言い寄られたってだけでああなる程、バカな男ではないつもりだ。いや、バカかも知れない。

 錯乱状態に陥った自分の経緯に疑問を抱いていると、俺の飲みかけたコーヒーをひーとんが取り上げた。残ったコーヒーの匂いを必要以上に嗅いだ彼は、少し口に含んだとたん、再び怒りの形相になり、コーヒーカップを床に叩きつけた。


「てめぇ…、コレを今ちゃんに飲ませたのか……」


 ひーとんは、俺が飲んでいたコーヒーに混ぜ物がされている事に気づいた。店に入ってきた時の俺の様子が少しおかしかったというのだ。その混ぜ物が『スパイス』である事も瞬時に暴いた。俺には全く分からなかったし、俺と同じく、もくもく亭で少しテイストしただけの彼が、何でこんなにスパイスに敏感なのかと言うと、扉をブチ破った時の怒りに原因があるらしい。


 俺と居酒屋で別れた後、意気揚々と女を買いに行ったひーとんは、彼のお眼鏡に適う女を見つけ、声をかけた。その女はやけにヘラヘラとしていて、受け答えもあまり会話になっていなかった。その事を気にしつつ既に脳が下半身にある彼は、適当に部屋を取り、女を連れ込んだ。

 部屋に入るやいなや女は、『一服していい?』と言って、タバコの様な物を取り出した。それは紛れもないスパイスだった。

 あまり広くない密室でスパイスをもくもくやられ、ひーとんはその匂いで参ってしまいそうだった。しかし、そんな事よりも早く『行為』に移りたい彼を焦らす様に、女は備え付けの風呂を浴びに行った。

 女が風呂から出てくるのを悶々と待っていたひーとんだったが、待てど暮らせど一向に出てこない女に痺れを切らし、彼は風呂場を覗いた。すると女は、大量の吐瀉物を吐き出しながらその場に倒れていた。

 ただ事ではないと思ったひーとんは、風呂場から女を運びだし、布団に寝かせたが、相変わらず女はヘラヘラしていて、横になったとたん大声で笑い出した。何度も『大丈夫か?』と問いかけたが、返事もせず、女は笑い続けていた。

 そうこうしている内に、部屋の時間がきてしまい、宿泊に切り替える事もできたが、すっかり萎えてしまったひーとんは、女を置いて出てきたのだそうだ。

 女に貝は払ってこそいなかったが、部屋代と時間を無駄にした彼はぶつけ様のない怒りに苛まれた。下心をなくしたひーとんの目には、都中に溢れている似た様な女が映った。彼の不快感は、スパイスの匂いが尾を引いていた。

 そうしてトラウマに近い形で、ひーとんはスパイスに敏感になってしまったのだ。


「おい、マチコォ…。いつから都はこんなんになっちまったんだ…?」


「『情報』が欲しいなら、ボトル入れろ。アンタの前のボトルは流れちゃってるからね。安いボトルじゃ、ウチの営業時間くらいしか教えられないよ」

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