第三章「死して生を学ぶ」 第十一節

 老人に案内されてやってきたのは、高台にある古寺で、その奥に原田家の墓はあった。自宅からそう遠くない場所にあり、散歩も兼ねて訪れるのにはちょうどいい距離だ。

 墓石が立ち並んでいるだけのところで、その数もそう多くはなく、敷地も広いとは言えない。どこにでもあるような墓地だが、高台にあるので見晴らしは良い。

 いまは夜。三日月に照らされているだけの街並みは、蒼く染まっている。

 遠くに山の影が見え、近くには畑。そして街並み。老人の家も見えるそうだ。

 昼間だったらさぞのどかな景色だっただろうと、麗子は思った。

 墓地は斜面にあって、階段状になっている。その上から二段目のところに原田家の墓はある。年季の入った墓石で、欠損が目立つ。他のものと違って御影石でもない。

 老人は墓の前に膝を折り、そっと手を合わせた。麗子たちも、その後ろで拝む。

「それでは、ごゆっくり」

 命は、老人を残し、その場を離れた。一人にしてあげようという配慮だとすぐに察した麗子もついていった。

 二人が充分な距離を取ったところ、老人は墓前で土下座をした。

「……まっすぐな人だね」

 妻に対する謝罪を、声を大にして述べている老人の姿を見つめ、麗子は言った。

「ええ。義恵さんは、そこに惚れたんだそうです」

「そうなんだ。56年も前のこと、よく覚えてるね」

「言ったでしょ、いまのボクたちは、一度見聞きしたことは絶対に忘れないと」

「そうだった」

 そう言って肩をすくめた麗子だが、実は覚えていた。


 老人は、長い時間を土下座に費やした。

 ようやく頭を上げると、涙を流すことなく泣き出して、墓石を撫で始めた。

 優しく、愛おしく。

「……これが、死神の仕事なんだね」

 月明かりに照らされたその姿を眺めながら、麗子はつぶやいた。

「……お辛そうですが?」

 命は、老人に向けていた視線を麗子へ移した。彼女はいま、儚げな表情を浮かべている。

「え? あ……うん、ちょっとね。……実はさぁ、人が死ぬところを見たのって、今回が初めてだったんだ……」

「そうだったんですか? それは……お辛い」

「んー、辛いというよりは、カルチャーショック、かな。それでいて……なんだろうなぁ、ああ、これが死ぬってことなんだって……。思っていたよりあっけなくて、それなのに、妙にこう後に残るというか、響くというか……うーん、言葉にできない」

 麗子は悩み、頭を掻いた。

「わかりますよ。ボクも、初めて人の死を目の当たりにしたときは、そうでした」

「そうなの? ……そっか、皆、そうなんだねぇ」

 麗子は、自分だけじゃないと知り、素直にホッとした。

「事故とかは何度か見かけたことはあったけど、人がまさに死ぬ瞬間って、無かった……。うちね、私以外はみーんな長生きなのね。お祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、まだピンピンしてるし、親戚で亡くなった人はいたけど、私がまだ小さかったときの話で、お葬式とか行った経験も無くて、人が死ぬってちゃんと実感できるような経験したの、今回が初めてだった。……予想はしてたけど、やっぱり、気持ちのいいものじゃないね」

「……そうですね……」

 命は、何度か頷いた。

「麗子さんは、死について考える機会に恵まれなかったんですね」

「あー、確かにそうかもね。死について考えたのって、つい最近だわ」

 麗子は、左手首の傷に目をやった。

「人というのは、一生の間に一度は必ず死を目の当たりにし、死というものに疑問を覚えるものです。それが家族であれ、知人であれ、他人であれ、誰かを通じて死を知り、恐れ、考え、悩み、そして学ぶ。その機会に巡り合えることは、何物にも代えがたいことだと、ボクは思います。麗子さんの場合はそれが、生前ではなく死後だった」

「うん……そういう意味では、私は恵まれなかったなぁ。ほんと、不幸だねぇ」

 麗子は、呆れたように溜め息を漏らした。

「麗子さん、何をおっしゃるんです。それはとても幸運なことですよ。そんなことを言ってはいけません。家族を失って悲しんでいる人にしてみれば、侮辱に等しい」

「あっ! ゴッ、ゴメン……」

 麗子は、しまった、という顔をした。

「口が滑っただけのようなので、今回は許しましょう。反省もされたようですしね。もう二度と、そんな愚かなことは言いませんよね?」

 麗子は何度も頷いた。

「では、そのことについてはこれっきりに」

 命は、老人に視線を戻した。

「……」

 一方の麗子は、自分が何気なく口にした言葉を思い出し、ひどく落胆している。

 もし、家族や親友の愛莉がこの言葉を聞いたらと思うと、ゾッとした。口が滑ったとはいえ、そんなことを言ってしまった自分が情けなくて、腹立たしかった。

 それがきっかけとなったのか、二人は、自ずと語ることをやめて、老人を見守ることに徹した。

 その間、麗子は、命の、死についての言葉を思い出していた。

 不思議なことで、一言一句、きれいに思い出せた。

「死について考える、か……」

 麗子はぽつりとつぶやいた。どうやら無意識で、本人はそのことに気づいていない。

 傍らにいる命は当然聞こえたが、あえて何も語らず、微笑むだけにした。

 嬉しそうである。


 老人がついに立ち上がった。もう一度墓石を撫でると、背筋を伸ばしてしゃんとし、離れたところにいる二人を見て、深々とお辞儀をした。

 現世との別れに決心がついたのだろうか。

 老人の表情から、麗子はそう思った。そのとき、命が動いた。彼女もすぐについてゆき、老人の元へ向かった。

「旅立つ決心はつきましたでしょうか?」

 命はたずねた。

「はい」

 老人は深く頷いた。

「……数時間もすれば朝日が昇ります。最後に景色を眺めますか?」

 命は、老人の後ろに広がる、夜に閉ざされた景色に手を差し伸べた。

「……いえ、その必要はありません。もう、何度も見ておりますから。それに、見てしまったら未練が……」

 老人は苦笑いを浮かべた。

「そうですか……わかりました。――それでは」

 命は黒い本を取り出し、日付が変わってまもない漆黒の空に掲げた。すると、黄金色の天秤が光り輝いて、空に光線を発射した。

 光が天を貫いてまもなくのことだ、朝日のように神々しい光が降り注ぎ、老人を照らし、包み込んだ。光は広がって柱となった。

 老人は空を見上げ、その光の彼方を見つめたかと思えば、穏やかな顔をした。

 母親に抱かれた赤子のような、そんな表情である。

 けれども、思い出したようにすぐ二人に向き直し、深々とお辞儀をした。

「夫婦共々、お世話になりました」

 その声が聞こえてまもなく、老人の姿が光に消えた。

 降り注ぐ光が、天に帰る。

 老人の姿はもう、どこにもない。そこには月下の墓地があるばかりだった。

「ご苦労様でございました」

 命は丁寧なお辞儀をした。麗子もそれを見習う。

「………………これで、死神としての仕事は終了ですが、いかがでしたか?」

 長い間を置いてから、命はたずねた。

「うん……正直なところ、まだよくわからない、かな。……でもね、なんとなくだけど、いまこの場に立てていることが、誇らしい気がする」

 麗子は、原田家の墓を見つめながら答えた。

「そうですか」

 命は、満面の笑みを浮かべた。

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