第二章「死と太陽は直視できない」 第二節

 一人、また一人と、死の淵を彷徨う患者が運ばれてきては、医師や看護師たちの懸命な治療により一命を取り留め、手術室を後にする。いまもまた一人生きた状態で運び出されたが、それを死神だと名乗った少年が見送っているのだから、これほど奇妙な光景は無いだろう。

 医師や看護師たちも、疲労と達成感に満ちた表情を浮かべながら、手術室を後にした。

 無人になったことで訪れる、静寂。

 空調や精密機器がうるさい中で、それは聞こえた。

「ねぇ」

 麗子の声だ。

「はい、なんですか?」

 少年はすぐに隣をうかがった。麗子は顔を伏せたままだ。

「……いつまで、私に付きまとってる気?」

 麗子はようやく顔を上げたが、その表情はなんとも不機嫌だった。少年に向けたその眼差しは、鬱陶しいと言わんばかりである。

 自ら視界を遮っていた麗子は、少年が一切喋らなかったこともあって、彼がいまもそばにいるかどうかわからなかった。先ほどの「ねぇ」はそれを確認するためのもので、返事があったからこそ、いまのような表情と眼差しを浮かべている。

 麗子のあからさまとも言える態度に対し、少年は笑顔で答える。

「仕事ですから、完遂するまではそばを離れません」

「仕事? 死神の……?」

「はい、そうです。死神としての仕事です」

「……それって、どんな仕事よ?」

「ご説明してもよろしいですか?」

「……うん」

「わかりました。ではまず、自己紹介をさせてください」

 少年は、身体を麗子に向けた。

「ボクの名前はミコトと言います。命と書いて、ミコトです。この度、立花 麗子さんの死出のお世話を任されました。よろしくお願いします」

 命と名乗った少年は、丁寧にお辞儀をした。

「ミコト……?」

 麗子は眉をしかめた。

「はい、命です」

「ふ、ふーん……」

「どうかしましたか?」

「……えっ? あ、ううん、なんでもない」

 どこか、気まずそうにする麗子。彼女がそんな風になっているわけは、命の名前が、元恋人の誠斗に響きが似ているからだ。それでつい意識してしまって、指輪の跡だけが残る右手の薬指を、チラリとうかがった。

「説明を続けてもよろしいですか?」

「あっ、うん」

 麗子は、視線を命に戻した。

「ボクたち死神の仕事は、主に三つ。お亡くなりになった方に、その事実をお伝えする。これがまず一つ目です。次に、その方が善人なのか、それとも悪人なのかを査定します。これが二つ目。最後の三つ目は、その方がもし善人であれば天国へ。もし悪人であれば、地獄へとご案内することです」

「ふーん。つまり、いまは一つ目ってこと?」

「そのとおりです。ご理解が早くて助かります」

 命は、愛らしい笑顔を浮かべた。すると、麗子は「フン……」と鼻を鳴らし、不貞腐れたようにそっぽを向いた。彼は、笑顔はそのままに眉をしかめた。

「死神の仕事は、以上の三つに加えて、ある条件の場合にのみ、もう一つ追加されます。その条件は善人だと認められることで、そのもう一つの仕事とは、善人の方の願いを叶えることです」

「願いを叶える?」

 麗子は顔色を変えた。

「はい。ですが、叶えられる願いは限られます」

「生き返りたいっていうのは!?」

 麗子は、間髪を入れずにたずねた。命は少し驚いた顔をするも、すぐにその表情を曇らせて、小さく首を振った。

「申し訳ありませんが、それはダメです」

「……だろうね」

 うすうすわかっていたのか、麗子は鼻で笑った。

「願いですが、思い残すことが無いように、という程度で、かなり限られます。例えば、特定の人物に会って話をしたり、触ったりすることはできません。すでに亡くなられている方を呼び出すなんてことも無理です。家族や知人に、生前には言えなかった思いを直接伝える。これもダメです。恨みを抱く人物などに一矢報いる。これもダメ。生前にはできなかった豪遊を楽しむとか、最後に一度でいいからあの料理が食べたい、酒が飲みたい、性行為がしたいなど、それらも一切ダメです」

 命は、胸の前で腕を交差させてバツを作った。

「性行為って、子供のくせに……。じゃあ、全部ダメなんじゃん」

「いえいえ、そんなことはありませんよ。生前には見ることができなかった風景を見る。思い出の地を訪れる。見たかったテレビや、映画、コンサートを楽しむ。これらは可能です。美術鑑賞だってできますよ。例えば、かのルーブル美術館を訪れることだってできます。他にも、宇宙に出るとか、月に行くとかも可能です。ただし、あまりにも遠いと、そこに行くまでに時間がかかってしまうので、可能なのはせいぜい月までですね。また、地球の内部が見てみたいという願いもダメです。そこまで行く術がありませんので」

「そんな願い、した人いるの?」

「けっこう多いんですよ。太陽を間近で見たいとか、ブラックホールに吸い込まれてみたいとか」

「ああ、ちょっとやってみたいかも……」

 麗子はわずかに微笑んだ。

「他に可能なのは、家族や知人などがお亡くなりになったときのためのメッセージを残す、です。直接はダメですが、間接的には大丈夫なので、生前伝えられなかった想いを手紙という形で残すことができます。送り主の方がお亡くなりになった際に必ずお渡しする、という約束でお預かりしています」

「ふーん」

「説明はとりあえず以上ですが、なにか、ご質問とかありますか?」

「え? ……いや、無い」

「そうですか。それでは、立花 麗子さん、あなたの魂の善悪を計測致しますね」

 命は左腕を前に伸ばし、軽く袖をたくし上げた。現れたのは、年相応の小さな手と細い腕だった。顔同様、青白くて土気色だ。そんな手首には黄金色の腕輪があった。そのデザインは変わっていて、小動物のあばら骨をかたどったようで、なんとも悪趣味。

 左手を上に向けて返したところ、腕輪が淡い光を放った。そうかと思えば、無数の光の粒子となって手首を離れ、手のひらの上に集まり、徐々に形を成した。

 現れたのは一冊の本だった。両手でも乗り切らないほど大きなそれは、表紙が革製で、しかも真っ黒と、なんとも不気味なものだった。また、すべてが黒いわけではなく、表の中央には、腕輪と同じ黄金色の天秤が描かれている。

 現実ではありえない現象が目の前で起こったため、麗子は唖然とした。

「この天秤に手を触れてください。そうするだけで、立花 麗子さんの魂に記録された、一生における善悪の重さがわかりますので。――さぁ、どうぞ」

 命は、その黒い本を両手で抱え、麗子の前に運んだ。すると、彼女は仰け反り、逃げた。

「どうしました? ……もしかして、怖いのですか?」

「……」

 麗子は押し黙った。

「不安を抱かれるのも無理はありません。ですが、これは決まりなんですよ。善悪は必ず調べなければいけません。どうしても従っていただけない場合は、強制執行という手段を取らざるを得ない。そうなることはできれば避けたいので、どうかお願いします」

 命は、黒い本をより近づける。麗子は、強制執行という言葉の重みに怯み、その手を伸ばそうとするが、どうしてもためらってしまう。

「まっ、待って! お願いだから、ちょっと待ってよ!」

「はい、待ちますよ。どうぞ、心の準備を整えてください」

 命は黒い本を遠ざけた。

「そっ、そういうことじゃなくて! はいそうですかって従えないよ!」

 麗子は立ち上がり、その場を離れた。

「では、どうすればよろしいでしょうか? どうすれば、決心してくださいます?」

 命は、麗子の姿を目で追い、身体の向きも変えた。

「どうすればって、それは………………あっ、そう! 死体が見たい!」

 麗子は、手術台のそばで右往左往し、頭を捻った。そうかと思えばハッとし、命を見つめ、自分の胸に手を押し当てた。

「死体……ですか? それは、立花 麗子さんのご遺体ということでしょうか?」

「当たり前でしょ! 他人のなんか見たくないわよ! 私の遺体! あるんでしょ!? 無きゃおかしいもん!」

 麗子は、命に詰め寄る。

「ご遺体ですか……うーん」

 命は困った顔をした。

「ダメなの……?」

「いえ、ダメではないです。……ですが、オススメはしません」

 命は首を横に振った。

「……でしょうね、それはわかるよ。だけど、それじゃあね、私の気が済まないのよ! 自分の遺体を見なきゃ、死んだって言われたって信じられないし、そもそも信じない! 何も調べないし、天国にも地獄にも行かない! 絶対にっ!」

 麗子は、まるで睨むように命の目を見つめた。

「……わかりました。では、善悪の査定は後回しにし、まずはご遺体の元へご案内します」

「うん、そうして!」

 麗子は後ろに大きく下がり、命の前を開けた。彼は、それに合わせて立ち上がると、その手に持ったままの黒い本を手放した。するとまもなく、無数の光の粒子になって、元の腕輪に戻った。

「ご遺体は霊安室にあるはずです」

 命は右手を伸ばし、いつかのように鎌をその手に呼んだ。

「!?」

 麗子は怯み、咄嗟に後ずさる。

「あ、大丈夫ですよ、襲ったりはしませんから。これは、こうして使うんです」

 命は鎌をくるりと回して上下を逆にし、その長い柄を槍のように持った。柄の先端には、穂先のような形をした赤い石が取りつけられている。ルビーのようだが、その色はより濃くて、彼の瞳や刃と同じで、血を結晶化させたもののようだ。

 命は、その状態のまま扉に近づき、先端の石で軽く突いた。すると、大きな風穴が生まれて、向こうの景色が覗けた。

 命はすぐに鎌を背負い、目の前の大穴をくぐり抜けた。

「……」

 一部始終を茫然と眺めていた麗子は、思い出したように穴に近づき、恐る恐る手を伸ばしたのだが、彼女の手が触れる前に穴が閉じてしまった。

「あっ」

 どうしようかと思ったその矢先、また穴が生まれた。その向こうには命がいて、その手に鎌を持っている。

「開いているのは1分間だけなので、急いでいただけますか?」

「うっ、うん」

 麗子は、急いで穴をくぐり抜けた。

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