第二章「死と太陽は直視できない」 第一節

「立花 麗子さん、ボクの声が聞こえますか? 立花 麗子さん……」


 名前を呼ばれた気がして目を開けたところ、薄緑色の平らな壁と、アイボリー色の床が見えた。……もとい、薄緑色の壁こそが床で、アイボリー色の床こそが壁だ。

 麗子はいま、床の上に横たわっているため、錯覚した。

「ここは? ………………手術室?」

 薄緑色の床に手をついて上体を起こし、室内を見回す。

 そこは無機質な空間だった。そばには金属製のベッドのような台があり、その真上には、円盤状の大きなライトがあった。

 複数のライトが円形に並べられたそれは、無影灯と呼ばれるものだ。

 その名前こそ知らないが、テレビドラマなどで見たことがあったので、それで、手術室ではないかと勘繰った。

 周りを見れば、心電図や除細動器など、見たことがあるものからそうでないものまで様々な精密機材が存在するので、やはり手術室に違いないと確信した。

「手術室ってことは、ここって病院だよね。……あっ、そうだ、トラックが……それで、柱が倒れてきて……」

 どうしてこんなところにいるのかと不思議に思ったが、その理由に気づくのに、さほど時間はかからなかった。

 脳裏に、事故の光景と恐怖が甦ったのだ。

 麗子は、自分を抱きしめて、ガタガタと震えた。

「………………でも、大丈夫だったんだ。助かった。生きてた……」

 麗子は、自分が無事であることを再確認し、心からの安堵を得た。――と、その矢先のことだった。

「――立花 麗子さん、残念ですが、あなたはすでに亡くなっています」

 頭上から声が聞こえた。

「……えっ?」

 ハッとして見上げれば、天井から吊るされている無影灯の奥に、顔があった。

「キャアッ!」

 ひどく驚いて、悲鳴を上げた。慌ててその場を離れて、近くの壁を背にする。そして、あらためて見上げれば、無影灯の上には人影があり、こちらを見下ろしていた。

 それは、真っ黒い服を着た幼い子供だった。

 小学校は高学年ぐらいの男の子で、髪は真っ白。瞳は血のように赤々としている。肌は青白く、それでいて土気色でもあり、まるで死人のようだ。

 姿形は人だが、そうは思えない不気味さと妖しさを醸し出していた。

 麗子は思った。幽霊だ。オバケだ。心霊現象だ。そうに違いない。間違いない。人生、28年目にして、ついに見てしまった。

 麗子は心底怯えた。恐ろしくて目を逸らしたいのに何故か見てしまうというジレンマに悩まされるも、とにかくこの場から逃げ出そうと、目の端に見えた扉へ走った。

 スライド式の大きな扉で、覗き窓がある。またテレビドラマで見た知識だが、確か扉の横の、足元にあるくぼみに足を入れれば開く仕組みの自動ドアだ。

 早速試すも、扉は開いてくれない。どうしてなのかと憤り、焦り、強引に開けてやろうとするが、ノブがないから開けようがなく、とにかく押してみたが、ビクともしない。

「ちょっとっ! 誰かぁっ! 開けてぇっ!」

 大声で助けを求め、扉を叩く。けれど、どれだけやっても返事はなく、開いてくれない。そもそも、音がしない。叩いている感触も、抵抗もなかった。

「どういうこと!?」

 そこから、さらなる違和感に気づいてしまった。自分の身体は確かにここにあるのに、なにも感じられないのだ。指を動かしても動かしている気がしない。目の前の扉に触ってもその感触がない。立っているのに床が感じられない。身体の重みが無く、暑くもなければ寒くもない。呼吸をしても吐息が出ない。風が起きない。

 麗子はこれが現実とは思えず、自分はいま夢を見ているんじゃないかと疑った。これは悪夢だ。そうに違いない。よく考えてみれば、手術室に一人で、しかも床の上に横たわっているというのもおかしな話だ。現実的じゃない。現実じゃない。夢以外のなにものでもない。ならば、さっさと目覚めてくれ。

 麗子は、扉を背にしてうずくまった。頭を抱えて、目を固く閉ざしてなにも見えないようにすると、この悪夢が覚めてくれるのを願い、待った。

「――立花 麗子さん、ご安心ください。あなたに危害を加えるつもりはありません」

 まぶたの向こうの世界から、幼い声が聞こえた。

「ヒィッ!」

 まだいる。まだ悪夢は覚めてない。そうと知った麗子は、今度は両の耳を塞いだ。

「――もう一度ボクの姿をご覧いただければわかると思いますが、ボクは、あなたが思っているような存在ではありませんよ」

 幼い声はまたも聞こえてきた。耳を塞いでいるのにだ。

「これは夢よ! 夢なんだから! 悪夢っ!」

 麗子は声を張り上げて、自分に言い聞かせる。

「――立花 麗子さん、残念ですが、これは夢ではありません。悪夢でもない。そもそも、あなたはもう夢を見ることはできません」

 幼い声は三度聞こえた。

「なっ、なんでよっ!?」

 なにをしても聞こえてくる声に苛立ち、怒り、恐怖を忘れた。カッと目を見開いて声を荒げたのだが、それで見てしまった。手術台の前に立つ少年の姿を。

 先ほどは真っ黒な服としか見えなかったが、少年が身にまとっているのは、ぼろきれのようであり、ローブのようでもある、独特なものだった。

 そんないでたちの少年の背後には“真紅色の三日月”という奇妙なものが存在する。

「立花 麗子さん、もう一度言いますが、あなたはすでにお亡くなりになられています。残念ですが、それが現実なんですよ」

 睨みつける麗子に対し、少年は哀れみに満ちた眼差しを浮かべた。

「はぁっ!?」

 もう一度声を荒げた麗子は、あることに気づいてハッとした。少年に向けていた視線をゆっくり横へ逸らし、背後にある真紅色の三日月を凝視する。

「………………ちょっと、それって……その後ろにあるのって、なによ……?」

「これですか? これは――」

 少年は、右手をすっと横に伸ばした。すると、背後にある真紅色の三日月がひとりでに動き、宙を舞った。

 三日月だと思われたものは、漆黒色の長い棒の先に取りつけられた、見るからに鋭利な刃だった。それは回転しながら少年の右側に舞い降りて、真横の位置でぴたりと止まった。彼は、伸ばしているその手で長い棒を――長い“柄”を掴んだ。

「――ご覧のとおり、鎌ですよ。この大きさですから、正確には草刈り鎌ですが」

 少年が掲げたそれは、まさしく“鎌”だった。

 牧草や麦などを刈る際に用いる農具の、草刈り鎌に似ている。

「ボクが何者であるかは、この姿と、この鎌をご覧いただければご理解いただけると思うのですが、いかがでしょうか?」

 少年は、麗子の目を見つめて小首をかしげた。

「………………嘘だよ、そんなはずない……」

 麗子は、首を小さく横に振った。そしてまた顔を伏せて、頭を抱えた。

「信じられないのも無理はありません。ですが、これは夢などではなく。現実です。もう一度言いますが、立花 麗子さん、あなたはすでにお亡くなりになっており、ボクは、その事実を伝えるために遣わされた存在。……死神なんですよ」

「いやぁあああ――――――っ! 嘘よぉおおお――――――っ!」

 少年の言葉を聞いた途端、麗子は天を仰ぎ見て、悲鳴を上げた。

 その直後のことだった。後ろの扉が開いて、手術着を身にまとった男女が、血まみれの男を乗せたストレッチャーと共に雪崩れ込んできた。扉の前にいた麗子は突き飛ばされてしまう。

 男女は、ストレッチャーを手術台の隣に置き、掛け声と共に、患者を手術台に乗せた。咄嗟に避難した少年や、麗子のことなど眼中になく、患者の命を救うことに徹している。

「大丈夫ですか?」

 少年は、手にしたままの鎌を背負い直し、麗子に歩み寄り、手を差し伸べた。

「近づかないでっ!」

 麗子は、少年から逃げ、部屋の端に移動した。

「あの――」

「――うるさいっ!」

 少年が追いかけ、話しかけようとしたところ、麗子は間髪入れずに声を荒げて、それを遮った。彼は、親に叱られた子供のようにしゅんとし、口を噤んだ。一方の彼女は、その場にしゃがみ、壁を背にしてうずくまり、また顔を伏せた。

 動かなくなった麗子を黙って見ていた少年だが、そっと近づき、隣に座った。

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