mission0-12 突きつけられた選択
海の上で話すのも不便だと言って、トリトンは近場の岩礁までノワールたちを案内した。
夜の海は暗く静かで、海面に映る星や月の光がなければトリトンを見失って闇に飲み込まれてしまいそうな雰囲気だ。
移動する間、ノワールはトリトンと一度も目が合わなかった。まるで避けられているかのようだ。「久しぶりだな」とか「元気にしていたか」とか、そういう言葉を聞きたかったのに、トリトンは黙りこくっている。
ノワールたちが岩礁に上がると、トリトンはようやく口を開いた。
“坊主……確か今は『ノワール』と呼ばれているんだったな”
“ああ。ジョーヌがそう名付けてくれた”
“そうか。お前らしくて良い名だ”
ノワールとトリトンのやりとりはシャチ同士が交わす言葉によって成り立っていた。当然ジョーヌとシアンには理解できない。ノワールは二人にシャチの言葉を通訳しながら話を進める。
“トリトン……ガルダストリアで俺に呼びかけてくれたよな。俺、少し嬉しかったんだ。今まで一度も会いに来てくれなかったから、てっきり見限られたのかと思っていた”
するとトリトンは頭を横に振った。
“違う。俺が呼びかけたんじゃない。お前がその石で俺を呼んだんだ”
“俺が……?”
“ああ、お前の母親が託したアンフィトリテの宝玉——ポセイドンの神石の力でな”
“アンフィトリテ……神石……あの仮面の奴も言っていたけど、それって何なんだ? 俺の持っているこの石は、ただの宝石とは違うのか……?”
“……お前は知っていたんだろう? ジョーヌとやら”
トリトンはジョーヌの方を見て言った。ノワールがジョーヌにトリトンの言葉を伝えると、ジョーヌは頷く。
「ああ。私もリゲルと共に古い書物を調べていた時に知ったんだ。〈遊泳する孤島〉と呼ばれる、絶えず移動し続ける島に住むアンフィトリテの一族、そしてそこで守られているという、海を支配する力を秘めたポセイドンの神石。最初はそんな伝承などおとぎ話に過ぎないと思っていた。だが、リゲルが島の場所を突き止めたことで伝承は現実になった。……島民の虐殺という、悲劇の形で」
巨大なシャチは悲しげな音を立てて鳴く。
“ああ……あれは酷い出来事だった……。毎晩夢に見るよ。親交の深かった者たちが泣き叫び、逃げ場のない狭い島で一方的に殺されていくさま……俺に我が子を託し、微笑みかける首長シレーヌの顔……そう、お前の母親だ”
“母さん……”
ノワールはまぶたを閉じて十六年前の記憶に思いを馳せた。あの日の海水の冷たさや、血の嫌な臭いは今でも鮮やかに思い出せる。
だが、トリトンとは違うことがある。
当時まだ物心ついていなかったノワールにとって、母親の顔だけは曖昧に曇っていた。年数が経つごとにはっきりと思い出せなくなってきているのだ。
まるで呪いのようだ、とノワールは思った。今も生きて一緒に暮らせていたのなら、母親の顔を忘れることなどなかったはずなのに。
「ねぇ、親交が深かったっていうのはどういうことなの? シャチとアンフィトリテの一族は仲が良かったってこと?」
シアンが尋ねると、トリトンは頷いた。
“俺たちは海王ポセイドンの眷属であり、同時にその海王の力を扱うアンフィトリテの一族の眷属でもある。海王が海を平和に保ってくれるからこそ自由に生活できる、その恩を返すべく主人に忠義を尽くすのが俺たちの使命なのだ。と言っても、アンフィトリテの一族たちは俺たちのことを『姿形が違うだけの隣人』という風に扱ってくれていたが”
「アンフィトリテの人たち……いい人たちだったんだね」
シアンはちらりとノワールの方に視線を向ける。ノワールは自分の言葉を語らず、淡々とトリトンの通訳を続けた。どこか寂しげな表情を浮かべて。
“ジョーヌとやら……お前がさっき言った通りだ。ポセイドンの神石には海を支配する力がある。アンフィトリテの一族はポセイドンの神石を悪しき者の手から守るため、人里離れた孤島で身を隠すことにした。一方、眷属である俺たちは世界中の海を動き回ることができる。魚や海藻、あるいは工芸品になるサンゴ礁のかけらや貝殻を集めてきては献上し、彼らの生活を支援していた”
「待てよ……ということはつまり、シャチたちには〈遊泳する孤島〉の場所がわかるということか?」
“そうだ。俺たちは超音波を使って島の場所を知ることができる。リゲルとかいうガルダストリアの軍人には、その習性を利用されてしまった”
「まさか……!」
“リゲルは若いシャチを一頭捕らえ、ひどいことに口を縫い付けてしまったのだ。そして、何日も食事を摂れない状態にして、飢えてきたところで〈遊泳する孤島〉まで案内したら解放してやると脅した。案内をしなければ他のシャチを同様の目に遭わせると言われ……彼は軍人たちを〈遊泳する孤島〉まで連れて行ってしまった”
「リゲルめ……そんな酷いことをしていたのか……!」
“突然訪れた災厄に、穏やかな暮らしを続けてきたアンフィトリテの一族にはなすすべがなかった。ポセイドンの神石があるとはいえ、ちょうどその力を扱える前首長が死んだばかりの時期でな……。〈遊泳する孤島〉はガルダストリア軍に制圧され、島民たちは皆殺されてしまった。……ノワール、お前だけを除いて”
トリトンが言葉を切り、ノワールもジョーヌも口を開かなかった。一瞬の沈黙。岩礁に打ち付ける波の音だけが虚しく響く。シアンは居ても立ってもいられなくなり、わざと声を張り上げて言った。
「で、でもさ! ノワールはこうして生き延びているんだし、その神石ってのもリゲルに奪われずにここにあるじゃない! やり返しに行こうよ。私、こんなの許せない……!」
トリトンは苦い表情を浮かべると、頭を横に振った。
“残念ながら、今のままでは神石は不完全だ”
「不完全? でも、ノワールはすでに海水を呼び出したりとかしてるけど……」
“その後に強烈な疲労に襲われたりしなかったか?”
“……!”
ノワールは息を飲んだ。心当たりは十分にあった。酒場で力を使った後、突如立っていることさえ辛くなった。無意識だっただけで、最初に力を使った時も疲労はあったのかもしれない。
“神石には力の解放に段階がある。神石に使い手として認められることで『共鳴』し、その次に真の力を引き出すための『覚醒』がある。今のノワールは『共鳴』が始まっただけで、その力は不安定、簡単に言うと燃費が悪い。力を使うことで莫大な体力を消費してしまう。安定的に力を使えるようにするには『覚醒』が必須。だが……”
トリトンは遠く海の向こうを眺めて言葉を続けた。
“そのためには、今やガルダストリア軍が管理している〈遊泳する孤島〉の祭壇まで行かなければいけない。それだけでもリスクが高いが、ポセイドンの神石を『覚醒』させるには、代償としてある呪いを受け入れることになる。とても孤独で、苦しい呪いだ……。勝手な願いだが、俺はノワールにはその呪いを引き受けてほしくはない”
“だから……トリトンはこれまで俺にこの話をしなかったの?”
“そうだ。できればお前には何も知らないまま、本来アンフィトリテの一族が過ごしてきたような安穏な生活をさせてやりたかった。……だが、どうも運命はそうさせてはくれないらしい”
トリトンは一呼吸おいて、ノワールに向き直る。
“選べ、ノワール。もう一度海へ帰り、人間の手の届かないところで穏やかに暮らすか。それとも、孤独な海王となる運命を受け入れて仇に立ち向かうか。どちらを選んでも、俺たち眷属はお前の味方だ”
するとザバッという波音がして岩礁の周囲で水しぶきが上がった。シャチの群れの仲間たちだ。彼らは顔を出して岩礁の上にいる三人の人間を囲み、ノワールの選択を見守るつもりらしい。
“俺は……”
ノワールはトリトンの顔を見る。
次にジョーヌ、そしてシアンの顔を見る。
周囲のシャチの仲間たちの顔を見る。
最後に、胸元の神石を見つめる。
どれも、彼にとっては大切なものだった。
だからこそ、選ばなければいけなかった。
「俺は……」
ノワールはジョーヌとシアンと目を合わせた。心配そうに視線を返す二人。ノワールはそんな彼らに頭を下げて言った。
「俺は……もう一度海に戻るよ。俺と一緒にいたら、二人はまた危ない目にあうかもしれない。もう、目の前で誰かを失うのは嫌なんだ……だから……今までありがとう」
頭上から、ジョーヌのため息が聞こえる。
「本当は君の力で私の仕事を手伝ってもらいたかったんだが……無理強いするわけにもいかないからな」
「……ごめん」
「なに、謝る必要はない。また気が向いたら会いに来てくれればいいさ。な、シアンちゃん?」
だが、シアンからの返事はなかった。
「シアン……?」
ノワールは気になって顔を上げる。シアンはぷいと顔を背けてしまった。
「……バカ」
そう呟く声は、少しだけ震えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます