mission0-8 スラム街



「シアン、どこ行くんだ? ジョーヌと待ち合わせの酒場ならもう通り過ぎたけど……」


「ああもう、うるさいな! あんたは黙ってついてこればいいの!」


 傭兵ギルドで馬鹿にされてからというもの、シアンは歩調を早めてずんずんとエリア・"ストリート"の奥へと進んでいった。


 途中、傭兵ギルドがあれば立ち入ってしらみつぶしに求人票を漁ったが、現在よりも高収入の仕事はなかなかないらしく、あったとしても「危険な仕事だから実績のない小娘なんかに任せられない」と断られるばかり。そのたびにシアンの口調がますます刺々しくなっていくので、ノワールはできるだけ話しかけないことにした。


 やがて通りは徐々に道幅が狭くなっていった。周囲を見てみると野良犬が人気ひとけの少ない通りをとぼとぼと横断したり、虚ろな目をしてよだれを垂らした男が道端に座り込んでいたりする。心なしか照明まで大通りより薄暗く見えて、どこか不気味な雰囲気が漂っていた。


「なぁシアン、なんだかこの辺嫌な感じがする……。そろそろ戻らない? ジョーヌもきっと待って……」


 ノワールは恐る恐る前を歩くシアンに声をかける。すると彼女はキッと振り返り、はっきりとした声で言った。


「じゃあ、あんただけ先に戻れば? 怖いなら別についてこなくていいよ。私はこの際ストリート中の求人票を見て回るつもりだけど」


 黙りこくるノワール。


 本能的には今すぐにでもシアンを置いて引き返したかった。


 だがそれではシアン一人でこの道を歩かせることになる。シャチたちと暮らしていた頃は、危険な場所ほど群れで行動せよと教わっていた。それは人間社会でも同じはずだ。


(けど俺がこんな風にシアンの心配をすること自体、うっとおしいと思うかもしれない……)


 ノワールがどうするか決めかねているのにしびれを切らしたのか、シアンはふんと鼻を鳴らした。


「意気地なし。一人で街を歩くこともできないんだ」


「そ、そういうわけじゃ……」


 ノワールには言い訳する間も与えられなかった。


 シアンはくるりと背を向けて再び前へと進みだす。ノワールも仕方なくそれを追う。


 通り沿いには怪しげな薬を並べている店や、露出の多いドレスを着た女が店頭に立つ店が立ち並んでいた。目が合うと手招きをされるので、ノワールはなるべく視線を下に落として歩く。


 中心街に比べるとこの辺りには傭兵ギルドはあまり店を構えていないらしい。前方には突き当たりの壁も見え始めていた。さすがのシアンもそろそろ引き返そうと思ったのか、ノワールの方を振り向こうとした……その時。


「やぁやぁ、そこのぼっちゃん、お嬢ちゃん。キミたちみたいな育ちの良さそうな子がこの辺をうろうろしてちゃいけないよ。ここはガルダストリアで一番治安の悪ーいスラム街だからねぇ」


 やけに馴れ馴れしい言葉遣いで声をかけてきたのは通り沿いの店の店番らしき痩身の男だった。黒いシャツの上に革のベストという、浮浪者のような人々もいるこの辺りでは比較的かっちりとした格好だ。だが、きちんと整った服装に対して顔色は土色で目はくまで窪んでおり、どこか病的な印象を受ける。


 シアンはいきなり声をかけられたことに一瞬戸惑っていたが、彼の立っていた場所の側に目立たない色で「求人案内所」と書かれた看板があるのを見て気を取り直す。


「仕事を探しているの。傭兵が第一希望だけど、力仕事も自信があるわ。とにかく今の収入よりも増やしたくて」


 すると男は「ふぅん」ともったいぶりながらシアンに近づいてきた。窪んだ瞳を上下にぎょろりと動かし、舐めるようにしてシアンの頭から爪先までをじっくりと見つめる。一体何を見ようとしているのだろう。意図が掴めず、ノワールとシアンはこの男の声かけにまともに応えてしまったことを少しだけ後悔した。


 男は一通りシアンを見終えると、急に上機嫌な様子でパンと手を叩いて言った。


「うん、上等だ。傭兵の仕事はウチには登録されていないけど、それより確実に収入の上がる仕事なら紹介できるよ。体力仕事だけど……話を聞く気はある?」


 その言葉にシアンもぱぁっと顔を輝かせた。


「ええ、もちろん! どんな仕事だってこなせる自信はあるから」


「そう、それなら良かった。最初はそう言っていても、折れちゃう子がけっこう多いからねぇ」


 そう言って男はにやりと不気味な笑みを浮かべる。


 何だか嫌な感じがする。ノワールはそう思ったが、当のシアンはようやく前向きな話が聞けたことですっかり有頂天のようだった。


「じゃ、詳しい話は事務所でするからついてきて……」


 男はそう言って看板の裏に隠れていた地下に続く階段を降りていく。シアンは迷いなく彼の後についていったので、ノワールもすぐに追いかけた。


 階段の両脇の壁にはろうそくが儚げに揺らめいていて、地上とは違い薄暗くじめじめと湿った空気が皮膚を撫でる。


 やがて階段の先に現れた黒く重厚な扉を男は押して開く。扉の中に招かれ、二人は思わず「あっ」と声をあげた。


 中には赤い絨毯が敷かれており、ソル金貨が積まれた小さな山があって、奥の棚には見たこともない宝石が並べられている。なんときらびやかな空間だろう。だが彼らが思わず声をあげてしまったのは、それが理由ではなかった。


 シアンとノワールは目をこする。だが何度見ても、そこには巨大な鳥かごがいくつも並べて置かれていた。中には裸身に透き通ったドレスを着て俯いている女性や、赤い皮膚に額に二本の角を持つ亜種・鬼人族の男が閉じ込められている。


「あんた、まさか”人売り”……!?」


 シアンは身構えたが、本性を知られたところで男は余裕の笑みを崩さなかった。


「やだなぁ、人聞きの悪い。ウチは自分の価値をもっと高く売りたいと思ってる人たちの支援をしてるだけなのに。……そう、キミみたいにね」


 男が右手でパチンと指を鳴らす。


 すると背後の暗がりからぬっと大きな影が飛び出したかと思うと、二人の少年少女はたちまちに羽交い締めにされてしまった。


「何すんのよ!」


 シアンは拘束を抜け出そうとしたが、相手は自分より一回り大きな屈強な男で、いくら武術を極めているとはいえ不意打ちで四肢の自由を封じられては手も足も出ない。


 痩身の男は満足気な笑みをたたえ、つかつかと革靴を鳴らしながらシアンに向かって息がかかるほどすぐ目の前まで近づいてきた。そして骨ばった指でくいと彼女の顎を上げさせる。


「うん、うん……見込んだ通りだ。この状況に陥っても揺らがない、生意気なその眼差し! ウチに縋りにくるような女の子はね、もうその時点でこの世の地獄を見たような顔をしていて生気が無いのさ。それじゃ少し味気なくってね。でもキミは違う。いつでも噛み付いてきそうな活きの良さに、しっかりと筋肉のついた引き締まったカラダ。ああ、早くお客さんに紹介してあげたいなぁ」


 そう言って男は腰から短剣を抜いた。そしてわざとらしくその切っ先をシアンの目の前に掲げる。


「ただその前に……まずは身体検査といこうか」


 ざくり。シアンの男もののチュニックの前面が短剣によって勢いよく裂かれた。


「ちょっと何を……!?」


 文句を言おうにも、チュニックがはだけて自分の素肌が露わになったことへの羞恥がシアンの言葉を阻む。


 無防備な状態で刃物を目の前にしている恐怖で全身が冷え、見ず知らずの男に服を裂かれたことへの恥ずかしさで顔は熱くなり、それまで必死に頭の中で練っていた脱出策のことはすっかり吹き飛んでしまった。


「大丈夫、大丈夫。恥ずかしいのは最初だけだよ。そのうちすぐに慣れちゃうんだから」


 男は楽しげな口調でそう言って、すっかり怯えた表情に変わったシアンの身体へと手を伸ばす。


(何これ何これ何これ……! どうして、こんなことに……!)


 戦いで負けたことは今まで何度もあった。だが強くなれば乗り越えられた。力を身につければいいだけの話だった。


 だがは違う。


 経験したことのない危機に、シアンはただ震えることしかできなかった。頭を動かして逃げ出す策を考えようにも、思考が堂々巡りしてその先に進まない。


——××××。


 ある四文字が喉を突いて出そうになり、シアンははっとして口をつぐんだ。


(だめ……! ボディーガードを生業とする者として、その言葉だけは……)


 だが目の前の男の指は今にもシアンの身体に触れようとしている。もう逃げられない。思考を閉ざし、諦めて目をつむった——その時。




「やめろ!!」




 シアンの背後でノワールが叫んだ。


 男はぴたりと手を止め、ノワールの方へと視線を向ける。


「ああごめん、キミがいるのを忘れていたよ。キミはこの子の恋人か何かなの?」


 シアンを羽交い締めにしている男に指示を出し、彼女とノワールを向き合わせるような形にした。


 シアンは顔を真っ赤にして俯く。それを見てノワールはギリと奥歯を食いしばる。


 シアンがそんな風に弱気な表情を浮かべているのは初めて見た。いつも勝気で、ノワールに文句ばかり言う彼女こそが本来の姿のはずだ。この男が一体何者なのかは分からないが、シアンにこんな表情をさせるなんて良い奴なわけがない。


「シアンを放せ! 嫌がってるだろ!」


 ノワールは拘束を抜け出そうとジタバタと暴れた。背後で羽交い締めにしている男は思わぬノワールの力の強さに驚いたようだが、それでも拘束を緩めることはなかった。


 もがくノワールの様子を見ていた痩身の男は、からかうようにけらけらと笑った。


「嫌がる彼女をここまで連れてきちゃったキミにも責任があるんじゃなーい? せいぜい後悔しながらそこで見てなよ、ね」


 そう言って背後に回り、見せびらかすようにシアンの首筋に舌を這わせようとする。


 それまで赤らんでいたシアンの顔は真っ青になり、彼女の瞳の端が潤んでいるのを見て、ノワールは自分の中で何か強い感情がふつふつと湧き上がるのを感じた。


「やめろ……やめるんだ……!」


 その感情は、どこか懐かしいものだった。


 できれば思い出したくもないものだった。


 目の前で、身近な人に危害を加えられる。


 そして何もできず、ただ泣き叫んでいた自分。


 何度も思い出しては、悔しくて歯がゆい気持ちを噛み締めていた。


 でも、それはもう十六年前のこと。


 あの時とは違う。シャチたちとの生活で身体は鍛え上げられたし、ジョーヌやシアンと出会ってからたくさんの知識も身につけた。


(あの時とは同じじゃない……! 俺は、母さんを守れなかった赤ん坊じゃない……!)


 胸が熱い。


 それは自分の中で渦巻く感情によってそう感じているのだと思った。


 だがふと胸元を見て、違うと気づく。


 首にさげていたネックレスの先の、母の形見の石が熱をもって光っていたのだ。


 ノワールの頭の中に、とある一節が浮かぶ。まだ物心つかないうちであったが、母が毎朝この石に向かって唱えていた言葉で、意味も分からず音だけが耳に焼きついていた一節。




「……”我らが海の神ポセイドン、アンフィトリテの名のもとに祈りを捧げん”」




 ノワールがそう唱えた瞬間、地下の部屋は石が発した強い光に包まれた。ゴゴゴゴゴゴという地響きがして、その場にいた誰もが立っていられずに膝をつく。


 ただ一人、ノワールを除いて。


「な、なんだ……!? キミ、一体何を——」


 痩身の男の声は言葉の最中で途切れた。


 部屋の壁が割れ、そこから水流が飛び出して男をさらったのだ。ほのかな潮の香りがする。ここは海とは離れているはずなのに。


「逃げよう、シアン」


 呆気にとられて腰が抜けていたシアンに、ノワールが手を差し出す。


「う、うん」


 シアンは促されるままその手を取る。


(知らなかった……ノワールの手……大きくて、傷がたくさんあるんだ……)


 自分より年上のくせに、いつもぼうっとしていて、幼子のように抜けているところばかりの男の子だと思っていた。だから、まるで自分がお姉さんかはたまたお母さんになったような気分で、面倒を見てやらなきゃ、守ってやらなきゃとばかり思っていた。


(でも……誰かに守られたのは、初めて)


 どこからともなく現れた海水で地下室は満たされていく。鳥かごの鍵が壊れ、捕まっていた人々はぞろぞろと階段を上って逃げ出していく。一方で人身売買商たちは海流に囚われて、先ほどまでの余裕は嘘だったかのように悲鳴を上げている。


 まるで海水が意思を持っているかのようだ。


(これ……ノワールがやったの?)


 シアンは自分の手を引くノワールの表情を見やる。彼はただ黙って前を見て、脱出のために走り続けるだけだった。



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