第3話 避難小屋の一夜

 次の話は、登山と高山植物の写真が趣味の叔母に聞いた彼女の実体験である。


 その日、叔母は学生時代から続く仲良し三人組の面子で、南アルプスの名峰を高山植物の花畑目当てに、三泊四日の日程で縦走する旅の途中だったとか。

 一つ目の頂上を踏破し、次の目的地へ移る為にその日は山小屋に宿を取って、翌早朝出発し、一日かけて二つ目の目的地に近い小屋へ辿り着いて……と、登山計画を立ててはいたが、あまりの暑さに三人はペースを落とし、予定していた山小屋へ辿り着く前に日が暮れ始めてしまったのだとか。しかし元々その山へは行程が長い為に、足の遅い登山者救済の避難小屋が一軒設置されている事は昔から知られている事だった。

 陽が傾くのを見て、叔母達は躊躇わずに地図に示された避難小屋へ身を寄せる事にした。

 その小さな建物は、ススキが一面に生い茂る草原を背にして建っていた。管理人がいる大きな小屋ならいざ知らず、こんな小さな所ではわざわざ立ち寄る者も無く他に人がいる気配は無かった。確かにここへ来る道中も、誰にも会わなかった。今朝出て来た山小屋の主人は、叔母達の力量ではここに泊まる事に成りそうな事を予想していた様で、水と食料の補充を勧めてくれていた。

 通常無人の小屋は、何時でも鍵が掛けられておらず出入りは自由だが、一応心ばかりの利用料を支払うのがルールだ。

 戸を開けて中に入り、叔母達は担いでいたリュックをどっかと下ろし、チェックアウトの際の山小屋の主人の顔を思い出しながら、彼が用意してくれた食料で簡単な夕食を作り食べた。ただ、何となくその時の彼の言葉の端に、何かを濁す様な曖昧さが隠されていたのは何故なんだろうと、叔母は考えていたが、恐らく、あまりに寂れた古い小屋だから、お勧めしないと言う意味だったのかな、とその時は納得したのだとか。

 野宿の可能性も踏まえ、寝袋も用意して来たお陰で、板の間でもちゃんと眠れそうだった。

 とにかく長い時間暑い中を歩き通しでたくたに疲れ、叔母達は一刻も早く靴を脱ぎたかったらしい。


 持って来た物は排泄物以外、原則持ち帰るのが山の決まりだ。夕食の後、ゴミを綺麗に全部一纏めにして、洗濯が出来ないので、汗で湿った服をロープを張って掛けて乾かす事にした。

 陽が完全に沈んでも気温は下がらず、とにかく蒸し暑かったらしい。

 冬の風雪に耐える為に小屋の窓は小さく作られていて、開け放っても風はちっとも入って来なかったが、少しでも通気を確保しようと開けたまま寝る事にした。そうなると当然、蚊の侵入も懸念されたが、最悪蚊取り線香を焚けばいいと判断したのだとか。


 蒸し暑さは有ったが、風も無く物音一つしない静かな夜である。


 ところが夜半過ぎ、叔母は人の声で目を醒ました。大勢の人間が小屋の前で立ち話をしている様なのだ。一人や二人ではなく田舎の町内会の納涼祭程度の人数だったとか。

 一体この山の奥で何処の団体が夜中に集まっているのか。その人数でまさか、この小さな小屋を利用する為に来たのだろうか。そうなったらこっちは眠るどころではないが、自分達と同じ様に行程を誤ってここへ来たのなら仕方が無いにしても、こんな夜中まで彼等は山中を彷徨っていたのか? 叔母は、一旦はそう考えたが、中には老人や子供の声までしている。年寄りや子供を連れて近間の村から来たのだろうか。いや、それでも有り得ない気がした。では彼等は一体何だと言うのか……

 夜空に雲は無く、隙間だらけの入り口の扉から青い月影が射し込んで来る。

 さっきまであんなに静かだったのに、いきなり風が吹き始め、ススキの原をわさわさと揺らしながら渡って来る音が、段々に激しい単車バ イ クの爆音の様な音に変わって行った。

 外にいる者達の影は入り口付近を行き来し、中に誰かいるか見ようと言うのか、影が人の形に月の光を切り取った。それでも何かがこの小屋への彼等の侵入を阻むのか、入り口を開けられない様だった。

 叔母は咄嗟に窓が開いている事を思い出した。窓に気付かれたらあそこから彼等が入って来るかもしれない。いや、絶対に入って来る。しかし、起きて窓を閉める勇気が叔母にはどうしても出なかった。もしかしたら、外にいるを見てしまうかもしれないと思ったからだ。

「アキちゃん、アキちゃん。」

 叔母は隣で眠っている友人を起こそうと揺り動かした。普段は自分を呼び捨てにしてくる叔母の様子が、出会って以来のになるくらい、切羽詰まっている事に彼女は敏感に反応した。

「な……なに? 気持ち悪いわね。」

「外、何か変だよぉ。」

 叔母の言葉に友人は暫く耳をすませ、

「何かの寄合いじゃないの?」

「でも……あの音。ほら。何なの。」

 友人はごろりと体勢を変えて窓を見た。

「もう、煩い暴走族ね。警察に通報してやろうかしら。」

 彼女は半分寝ぼけているらしく、ここが山奥の避難小屋だと忘れているのだ。

「暴走族じゃないって。あの喋ってる人達だって何処から来たってのよ。一番近い集落でも山を三つも四つも越えなきゃ無いのよ。」

 叔母の言葉に、彼女は入り口辺りの人影を見た。彼等が今にも入って来そうな勢いで、入り口の建付けの悪い扉が、ガタガタとまるで外から無理やり開けようとしている様に鳴り始めたのだ。気付いてしまったと言う恐怖に、思わず顔色を変え、互いの手を握り合う二人。

「もう~、勘弁だってぇ、ヨッちゃん。」

「アキちゃん。ところでここの利用料、払った?」

「まだ。でも何で今そんな事聞くのよ。」

「なんで払ってないのよぉ~」

「だって、さっき帰る時でいいかって言ったじゃない。」

「早く払うのよ。それで怒ってるのかもしれないじゃない!」

「うそ、そんなぁ。分かった。私、ミキの分も出しとく!」

 慌てて財布を取り出して、大汗をかきながら備え付けの箱にを入れて手を合わせる二人をよそに、もう一人の友人 ミキさんがムクリと起き上がると、叔母がどうしても近付けなかった窓をガタガタと音を立てて難なく閉めた。

「何してんの、二人して。ちょっと風が煩いから閉めたよ。」

 窓の最後の1㎜がピタリと閉まったのと同時に、出入り口とは反対側の高い所に有る小さな嵌め殺しの窓の辺りから一陣の冷たい風が吹き降りて来た。

 その風に焦りで汗ばんだ顔を撫でられ、叔母とアキさんはへなへなとその場に座り込んでしまったとか。

 叔母にはその風が、形の曖昧な白い影となって、出入り口へ動いて行く様に見えたのだとか。

 外はいつの間にか静寂を取り戻し、今まで有った人の気配もしなくなった。

 助かった。そう思った途端、睡魔が襲い、叔母とアキさんは寄り添ったまま眠ってしまったらしい。


 翌朝、利用者のマナーとして備え付けの道具で掃除をしようと外へ出ると出入り口の前には、昨日到着した時は夕方だった為に気付かなかったが、崩れかけの小さな鳥居が有った。この避難小屋は何かを祀る社殿も予ていたらしい。裏へ回ってみると、案の定、苔むした小さな石造りの祠が有ったとか。

 叔母とアキさんは、夜中に遭遇した奇妙な出来事をミキさんにも聞いてもらい、三人は並んで手を合わせた。

 とにかく、この世ならざるモノを見てしまうなんて言う決定的な怖い目に遭わなかったのは幸いだった。それが御心付けを払ったから、と言う訳では無いと思うが、守ってくれたと思しい祠の主に対して感謝を込めて手を合わせながら、叔母はこの辺り一帯が日本有数の霊山だった事を今更の様に思い出した。そして、あの山小屋のマスターは、昔と違って人気が無くなって段々お客が減っていく中で、わざわざ来てくれた他県からの奇特な客だが、ここへ誰かの慰霊と言う粛々とした意識ではなく、登山だけを目的にやって来た自分達が、もしかしたら遭遇するかもしれない現象について、話すに話せなかったのではないだろうかと思い至ったとか。


 努々霊山と呼ばれる山には、軽い気持ちで登るものではないと、叔母は一日目に撮った自慢のコマクサの写真を私に見せながら言った。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る