身近に潜んでいた恐怖体験 短編集

桜木 玲音

第1話 首の折れた黒い人影


 私の散歩コースは、家から三㌔離れた場所に有る大きな神社までを往復する町中だ。今回お話しするのは、その道の途中で私が出逢ってしまったモノについてである。


 私はどちらかと言うと、怖がりなのだと思う。


 故に安全確保の為に自分で決めた事が三つ有る。


 それは誰かに言われたからではなく、ここへ越して来た時から、無意識に自分の中でそうしなければと決めた事なのだ。


 その1、散歩に出掛ける場合、時刻は夕方七時までに出発し、八時には必ず帰宅する事。最低八時半以降には決してならないように。


 その2、物音のしない暗い路地の奥は絶対に覗き込まない。


 その3、雨の日は歩かない。


 全ては、色んな意味での怖いモノに遭わない為である。


 を意識し始めてから二年になる。


 とにかくダラダラとは歩かずいつも全力でがモットーである。


 私の住まいは市街地に有る為、時刻が早ければ人の目も有る。


 3つの事を守っているからと言う事無く、とにかく不審者関係で怖い思いをした事など一度も無かった。


 しかし、その日はどこか違った。


 幾日も降り続いていた大雨の後の為か、いつもなら窓を開けている民家から多少の音や人の気配がしているものだが、湿気を心配してか窓を開けている家は無く、通りを吹き抜ける風が揺らす葉の音ぐらいで、辺りは異様に静まり返っていた。


 纏わり付く空気の中を進んで行くと、いつもは何も気に掛ける事も無いある場所にさし掛かった。昭和初期に建てられたと思しい格子戸の嵌められた商家の佇まいの町家の前である。煤けた玄関が既に空き家と化してから何年も経っている事を物語っている。見えている窓にはもちろん明かりは無い。


 心なしかどぶの様な臭いが漂って来る。


 ふと思った。


 何故あんな三つの事を決めたのか。


 特に小さい頃から気を付けているのは、暗い路地には車の気配が無い限り目をやらない事だ。


 何故、特に今通り掛かったこんな帰る人の無い空き家の横の、誰も通らないこんな路地はダメなのか。


 そもそも何故、今、そんな事を思ったのか。


 私は何気なく、やけに暗いその場所を、いつもなら見ないその空気が淀む場所を見てしまった。


 路地の奥ではなく、ほんの入り口、至近距離に、よれよれのジーンズにスニーカーを履いて、リュックを背負った二十代ほどの男性が下を向いて立っていた。


 どれだけかは離れている筈なのに、私には彼がほんの目前に立っている様に感じたのだ。


 そこは街灯が照らしているにも関わらず不自然に暗く、遮られている様に生ぬるい空気が塊になった様にたわんでいる。


 ただ立っているだけの人に、私も飛び上がる程驚きはしない。


 彼の様子が見た瞬間明らかに変な事に気付いてしまったのだ。


 首はガクリと有り得ないぐらい直角に曲がって真下を向き、ピクリとも動かない。


 今時らしく携帯電話でも覗き込んでいるのかと思ったが、両腕はだらりと下へ真っ直ぐ垂れていてる。顔は一切見えないが全体が真っ黒い。


 不意に車が通り掛かった。


 ヘッドライトが路地を照らしても、近付いて来る音を聞いても、彼は下を向いたきり全く身動みじろぎもしないのだ。


 見てはいけないものを私は見てしまったのか?


 跳ね上がった鼓動を必死に抑えた。


 彼の前を通過するまでの何秒か、私は目線を動かす事が出来なかった。


 気付かれてはいけない。


 不自然に走り出したり、立ち止まったりしては気付かれる。


 見ただけなら、相手に気付かれていなければ……付いて来ない。


 私は視界の端で彼が動いていないのを見ながら、出来るだけ早く必死にその場を立ち去る努力をした。


 とにかく早く。


 前だけを見て。


 彼が人だったのかどうなのか、確かめる勇気など私には無かった。


 とにかく私には、彼がそら恐ろしい闇そのものに見えたのだ。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る