サボってしまえ!

津田梨乃

第1話 さよなら、ぼく

 飛び降りてしまおうと思った。

 

 屋上の景色は素晴らしいとは言い難く、ぼくをこの世に引き留める要因には、なり得なかった。いつも自分が歩いている道がちっぽけに見えて、奇妙な感覚に襲われる。


 特に悲惨な理由があるわけではなかった。単に今日は九月一日で、中学生最後の夏休みが終わった。それだけ。本当にそれだけ。


 明日から、また早起きし、人混みに紛れながら登校して、大して面白くもない授業に耳を傾け下校する。受験に悩み、人間関係に葛藤してみたりして。毎日毎日毎日毎日。それが死ぬほど嫌なのかはわからない。少なくとも、夏休み中にそんなことを考え詰めたくはなかった。そして、これからも考えたくなかった。それなら、いっそ飛んでしまおう。驚くほどの短絡的思考だった。


 フェンスを越えて、これから自分が着地するだろう地面を見つめる。不思議と恐怖はなかった。ゲームの画面上で自分を操作している、そんな感覚さえ芽生えた。


 残機が一つ減って、ニューゲームが始まるとしたら、また屋上に戻ってくるのだろうか。何度も何度も。やがてストックがなくなり、いつしかゲームオーバーという文字が浮かんだころ、自分の存在はどうなっているのだろう。途切れず往来する車を見つめ考えた。


 とりあえず飛び降りればわかる。こんな状況において、ぼくはむやみにポジティブだった。

 さよなら、ぼく。

 地面を蹴り上げて、高々と空を舞った。

 


 ように思えた。

 どういうわけか、ぼくはまだ屋上にいた。空を仰ぎ見る形で。気づけば背中に鈍い痛みが走る。さらには、背後から漏れるこもった声。


 ぼくはフェンスごと、地上に引き戻されていた。


「あんた、新学期早々屋上ダイブとか、どんだけ学校嫌いなのさ」

 後ろからそんなことを言われる。声の主は自分で引き倒したフェンスに押しつぶされ、ずいぶん痛そうだった。その痛みと折り合いをつけたであろうころ、早くどけよ、とぶっきらぼうに言った。その時、初めて自分のせいで身動きが取れていないことに気がついた。


「せっかく朝の気持ちいい陽気を吸い込んでたのによう」

 フェンスを端にどけて、声の主は言った。それから少し焦ったように、フェンスっていくらするんだ? と喚き始めた。

 ぼくは茫然と声の主を見る。見たところ同い年には見えない。かといって学校の教員という風体でもない。まだ高校か大学生といったところか。ぼさぼさの頭、よれよれのシャツにジャージ。おまけに足元にはゲタときた。少なくとも、街を歩けば半径十メートル以内にはお近づきになりたくない身なりだった。


「で、あんただれ?」

 無遠慮に放たれた質問。それが自分に投げかけられたものだと気づくのに些か時間を要した。部外者は、ぼくなのか? ぼさぼさ頭は、じっとこちらを見つめている。

「ここの……生徒」


 やっとの思いで絞り出した声は、情けないくらいにか細い。屋上から飛び出そうとしていた勢いは、もはやどこにもなかった。ぼさぼさ頭は、ふうんと頷くと躊躇なく言う。


「なに、自殺?」

 あまりにもストレートな質問に面食らう。こういう時は、相手を刺激しないように少しずつ、歩み寄るものなのではないのか。ぼくはかじりかけのネゴシエイターまがいの本の内容を思い出した。

「はーん、いじめだろ? いつの時代もなくならないもんだわ」

 心臓を鷲掴みされた気分だった。なんで、知ってるの?


「九月一日は確かに憂鬱だ。大体宿題を一夜漬けして、寝不足気味なんだよな」

 ぼくの動揺を無視して、どうでもいい共感を求めてくる。結局終わらないんだよなー、とゲタはケタケタ笑った。ぼくが、うんともすんとも言わないでいると、ゲタは突然真面目な顔になって、ぼくの手を掴んだ。


「おっし。サボるぞ」

 拒否する暇もなく、ぐいぐいぼくの手を引っ張っていく。悲しいかな、ぼくの貧弱な腕力では抗うこともできない。


「ちょ、それなら学校に連絡を」

 悪あがきで出た言葉に、自分で呆れてしまう。さっきまで自殺を考えていたくせに、そんなどうでもいいことを心配していた。情けない。案の定ゲタは、しかめっ面だ。

「あんたは馬鹿か。律儀に連絡したんじゃ、ただの欠席だろうが。あたしはサボろうって言ってんだよ」


 全くぐうの音も出ない反論である。そこでふと違和感を感じた。あたし? ぼくは気になって、目の前のゲタを呼び止める。あの。あの。あの。

「うっさいな。なんだよ」

「あの、お兄さん……ですよね?」

 言葉がまとまらず、頭に浮かんだ単語をそのまま疑問としてぶつけた。ゲタのお兄さん。ぼくの質問を聞くと、ゲタは空いている方の手で渾身のチョップをお見舞いしてきた。


「お、ね、え、さんだ! ばかちんが!」

 そこで、ゲタ改めゲタ姉さんの胸のあたりに視線が動いてしまうのは、中学生の悲しいさがだ。だぼだぼのシャツ姿のせいで目立たないが、ほんの僅かに膨らみがうかがえる。本当に、雀の涙ほどの。


 すぐに第二撃が飛んできた。当然、ぼくは避けられなかった。

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