真夏のメモリー:終

 この話には後日談がある。ただ、そうは言っても、たいしたものではない。

 廃墟にいた幽霊の謎が解けた訳でもなければ、〝少女″とやらの正体が分かった訳でもない。文字通り、単なるその後の話だ。



 真夏の小さな冒険が終わって、それからさらに時が流れた。いかんせん、その流れは速い。〝光陰矢の如し″という諺があるが、まったくその通りだと思う。

 うだるような暑さがやわらいできたと思ったら、すぐに木の葉が色付き始めた。読書や食欲の秋も束の間、師走の月日はその名の通り飛ぶように過ぎていく。鏡餅を割ったかと思えばいつのまにか、巷では豆をまいていた。雛人形なんて飾る間もない。

 気づけば季節は春になった。それは桜の咲く季節であり、新入生が入ってくる季節でもある。



 この時期在学生らは皆、汚れのない初心うぶな新入生たちを自分たちのサークルに勧誘しようとして仁義なきビラ配り合戦を繰り広げる。

 先日二回生となった七瀬もまた同様に。キャンパス中央図書館前にて文芸部への勧誘を試みていた。目の前を行き交うのは、数え切れない程の新入生。


「人、多いなあ………」


 半ばうんざりしたような顔で、誰にともなく呟く。そもそもにおいて七瀬は、人ごみというのが大嫌いなのだ。

 〝木曽路は全て山の中である″という一文で故郷信州の田舎っぷりを表したのは、文豪島崎藤村だが。彼にあやかって言えば、七瀬の実家は全て田んぼの中といったところ。

 初夏にはケロケロケーロと夜な夜なカエルが大合唱し、秋にはトンボの編隊が空を埋め尽くす。そんな田舎に生まれ育った身であるからなのか、虫の群れはよくても人の群れはどうしても慣れることが出来ない。


「こら七瀬、シャキっとしろシャキっと」


 ため息をついていたらいきなり背中を叩かれた。ビクリとなった七瀬の隣で、部長の南理恵が苦笑を浮かべる。一年に一度きりと言っていい部員獲得のチャンスだからか、今日の彼女には一段と気合いが入っていた。


「こういうのは最初の印象が重要だからな。良い感じの雰囲気を出していくぞ」

「ええ、了解です」


頷いた七瀬のその横で、欠伸を噛み殺している人物が一人。


「まあ落ち着こう。焦ったところでどうなる訳でもない」


 穏やかな雰囲気を漂わせて呟くのは、副部長の三良坂みらざか 潤じゅんだ。〝まあ落ち着こう″という口癖の通り、いつも冷静沈着な様を崩さない、法学部の四回生。南部長が文芸部のアクセルなら、さしづめ彼はブレーキといった所だ。


「最悪の場合、名義を借りてくる当てはあるんだろ?南さん」

「あることにはあるが………幽霊部員なんていても虚しいだけだろうに」

「ならまだ大丈夫だろう。断崖絶壁ではあるが絶体絶命ではない」

「いいことを教えてやろうか、三良坂。そういうのを楽観的自転車操業というんだよ」


 現在、彼らの所属する文芸部は致命的かつ慢性的な人数不足に苦しんでいる。その部員数僅か四人。数えるにも片手の指で事足りてしまうのだ。

 南部長に三良坂副部長、そして七瀬。あと一人二回生の子がいるにはいるのだが、複数サークルを掛け持ちしているために事実上の幽霊部員だ。部として認められる最低人数が五人なので、実は結構ピンチだったりする。

 加えて、部室に人気が無いのはどうしても寂しい。幽霊が見える七瀬でも、そこにいない幽霊部員の姿を部屋の中に見出すことは出来ない。


「南部長、今年は何人入って来ると思います?」

「………三人来れば御の字ってとこだな」

「ああ……」

「ああ、とはなんだ。ああ、とは。質問したことに罪悪感でも感じたか?」

「現実は非常だなと思っただけです」

「はっ、ははは……」



「「はあ……」」




 入部するかどうかは別として、意外と皆、差し出したビラは受け取ってくれるものだ。

 そもそもの段階としては、まず文芸部の存在を新入生に知ってもらう必要がある。なので断ってこないことをいいことに、手当たり次第に配っていた。


 〝彼女″がそこに現れたのは、七瀬が手持ちのビラの数に心もとなさを感じ始めた時のことだった。

 清流を思わせる黒髪が目の前で風に揺れている。漂ってくるのは仄かに甘い春の香り。七瀬の視線が彼女に吸い寄せられた。

 流れた月日の長さで、すぐにはそれと気づけず。一拍の後、押し寄せるようにして記憶が甦ってきた。


「あ……」


 驚く七瀬を見つめて。彼女は可憐に微笑んだ。

 春先のスミレを思わせる、花が咲いたような笑顔で。懐かしさに身体が震えた。


「お久しぶりです、先輩」

「――――渚ちゃん」


 その名前を口にすると彼女は嬉しそうに、はい、と答える。

 様子を見ていた南部長と三良坂副部長が、後ろでそっと顔を見合わせた。



「ここにいるってことは……九大うちに合格したんだね?」

「はい。文学部です」

「おめでとう。そして受験勉強お疲れさま」 


 凡そ八か月ぶりに再会した渚は、以前の雰囲気をそのままに一回り大人びていた。


「それにしてもまさか、本当にもう一度会えるなんてね。思ってもなかったな」

「私も驚いてます。同じ大学なのでその内会えるかもとは思っていたんですが、こんなに早くだなんて。夢みたいです」

「嬉しいことに、これは夢じゃないみたいだよ。自分でもまだ、こうして話してるのが信じられないけれど」

「何か、縁みたいなもののおかげかもしれませんね。それに……」

「それに?」

「あの時教えてくれたじゃないですか。会いたいと思う人とは必ず会える、って。その通りでしたね、先輩」


 ーーーそれはつまり、彼女ももう一度会いたかった、という意味なのだろうか。

 そう考えた途端に、渚から目が離せなくなった。何故だろう、こうして向き合ったまま時が止まって欲しくなる。

 春風にたなびく黒髪に、褐色がかった肌と。少し潤んでいる大きな瞳とが心の奥まで刻み込まれて、次いで心臓がドクンと跳ねた。

 恋を拾ってしまった。一拍遅れて、自覚する。トルマリンのように黒く透き通っている彼女の瞳を見つめていると、ともすればその中に吸い込まれてしまいそうで――――


「―――ゴホン」


 部長の咳ばらいで我に返った。


「………何を呆けているんだ?七瀬」

「え、あ……いや、何でもありません。彼女とは顔見知りなんですけど、まさか此処で会うとは思ってなかったので、驚いてしまって」

「顔見知りね……ふうん」


 面白そうに目を細めた部長の視線を、七瀬は無理矢理引き剥がして渚の方に向きなおる。


「そうだ渚ちゃん、サークルとかはもう決めてる?もしまだなら、よかったら文芸部なんてどうだろう」

「よかったらも何も、最初から文芸部って決めてます」

「え?」


 本当?思わずそう訊き返せば、渚は心外だというような表情で、本当です、とはっきり答えた。


「本を読むのも好きですけど、一度物語を書いてもみたかったので。この機会に、と思いました」

「―――なるほど、最高の理由だな」


 南部長が一歩前に進み出て、渚に握手を求めた。


「私は部長の南 理恵だ。本を読むのも書くのも、飽きるくらいに出来るから安心して入部してほしい。歓迎するよ」

「上川 渚です。よろしくおねがいします」

「うん。隣のこれ・・は副部長の三良坂だ」

「よろしく。難しいかもしれないけど、部室とかで変に気を使うことはない。部室は我が家、部員は家族だとでも思ってくれ」


 ちょっと固めの笑顔を浮かべて、副部長が言った。

 部が家族なら、部長は母親で副部長が父親、自分が長男あたりだろうか、と七瀬は空想してみる。何となく女性陣の尻に敷かれる男性陣の絵面えづらが思い浮かんだ。


「そしてこっちは七瀬……だが、どうやら紹介するまでもないらしい」

「見知った顔ですしね。……これからよろしくね、渚ちゃん」

「はい、こちらこそ」


 改まってそんなことを言い合うと、不思議と胸のあたりがくすぐったくなる。


「文芸部へようこそ」


 少し迷って差し出した右手を、彼女は躊躇いもせずに握り返してきた。

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