第二話

「——————」


 卯吉は、言葉を失った。

 自分の顔のすぐ横で——青く透き通る石のような目を妖しく輝かせ、艶かしい紅色の舌をちらつかせる、銀の大蛇。

 その大きさは、三間近くもあろうか。

 卯吉は、その美しさと妖しい気配に思わず引き込まれそうになるのを、必死に踏みとどまった。


「気がついたか——私の本当の姿に。

さあ、月もちょうど翳った。

残念だが、お前はその愛おしい妻のところへは帰れないよ」


 首に回る蛇の身体が、ぐっと喉を絞めつける。

「………っ……」


 卯吉の頭の中で、村の言い伝えとこの大蛇がひとつに繋がった。


「——暗い山道を行く旅人を捕らえ、食い殺していたのは——あなたなのか」

 次第に苦しくなる息で、卯吉は蛇に問うた。

「食い殺す?人間など食いはしない。私はその命を奪うだけだ。

こと切れるまで喉を締め上げてしまえば、後は狼どもがきれいに食い尽くす」

「——何故、人を殺す?」

「私の愛した男を奪い、殴り殺したのはお前達だろうが!」

 大蛇は真っ赤な口を大きく開き、威嚇するような恐ろしい音を立てて唸る。

 その輝く身体は卯吉の胸や腰にもきつく巻き付き、喉を締め上げる力はぎりぎりと一層強まった。

「……う…………っ」

 視界がかすみ、意識が遠のきそうになる。


「だが……お前は本当に、あの人と瓜二つ。

せっかくだから、聞かせてあげよう。——私と夫の話を」

 蛇は、その裂けた口元を卯吉の耳元へ寄せ、ぞっとするような笑みを浮かべた。




「——私も、かつてお前と同じ村の娘だった。お前がさっき背負ったあのままの姿の、初という娘だった。——それはもう、ずっと遠い昔の話だが。


私は、村はずれに住む伊兵衛いへえという男に恋をした。

やがて、私たちはお互いを深く愛するようになり——いずれ一緒になろうと約束を交わした。

しかし——ちょうど同じ頃、村の長者の家の息子が、突然私を妻にしたいと求めてきた。道端で偶々見かけた私を、一目で気に入ったという。


両親は、私を長者の家へ嫁がせようとしたが——私はそれに応じなかった。

私は伊兵衛に、一緒にどこか遠い所へ行きたいと何度もせがんだ。

伊兵衛は、その願いを黙って受け入れてくれた。


ある夜更け、私は家を抜け出した。伊兵衛と一緒に村を出るために。

月のない夜だった。

私たちはこの山を越えようとして——追っ手に捕まった。

長者の息子は、私の行動を密かに村の者に見張らせていたのだ。

何人もの男達に囲まれ——伊兵衛は散々に殴られ、蹴られ——それは、もう容赦もなかった。

私は自由を奪われ——目の前で伊兵衛が動かなくなる光景を見せられた。

そして私は、力尽くで村へ連れ戻された。


その後のことは、どうでもよかった。

自分の身の上に起こることには、もう逆らわなかった。

ただ——私はそれから一切食事を取らず、夜眠ることもなくなった。


初は、きっとそのまま、衰弱して死んだのだろう。——私は、自分が死んだことにすら気づかなかった。


次に私が目覚めたのは——この山の奥にある小さな祠の前だった。……この、銀に輝く大蛇の姿でね。

私は蛇の身体を得た。——そして、初の姿に戻ることのできる力を。


この身体と力を私に与えたのは、神なのか、それとも魔なのか——それは分からない。

ただ——例えようもなく深い悲しみと怒りが、私をこんな姿に変えた——それだけは、間違いない」


 蛇は、少し間を置き——呟いた。

「私は——お前を待っていたのかもしれない。

伊兵衛に生き写しのお前を。

ただ——お前が私を妻にできないというなら——私がすることは、ひとつだけ」

「…………」

「——私が、お前を自分のものにするだけだ。

この蛇の姿で——一滴の血も残さず、お前を呑み込んでやる。

——私とお前は、これでひとつだ」



 卯吉は、悟った。

 どのみち、自分はこの大蛇から逃れられないことを。



「——わかった。

だが、妻を……茅を捨ててあなたと夫婦めおとになることだけは、やはりできない。

だから——どうしても私を帰さないというならば、私を呑み込むがいいだろう。


ただ……頼みがある」


「——言ってみよ」


「——妻に、この薬を届けたい。

妻は今、重い病にかかっている。一刻も早く、薬を飲ませてやりたいのだ。

それから——これ以降は、この山を通る旅人をもう決して殺さないと、約束してほしい」


「——いいだろう。

ならば、お前の家まで案内しろ」


 大蛇は卯吉に巻き付けた身体を解き、その輝く背に卯吉を乗せた。

 そして大きく身をくねらせると、凄まじい勢いで木々の間を滑り始めた。



     *



  大蛇は、瞬く間に卯吉を家まで運んだ。


「妻に薬を飲ませたら、すぐに戻ってくるのだ——」

 卯吉はそう蛇に言われ、冷たく光る背を降りた。



 家の中では、茅が薄い布団に横たわり、静かに眠っていた。

 秋の虫の美しい声が、外から流れ込んで来る。


 妻の枕元に、静かに座る。

 そして、じっとその寝顔を見つめた。


 病で痩せてはいるが、安らかな寝顔だ。


 ——起こしてしまえば、もうこんなふうに妻を見つめることもできない。

 今だけ——少しだけ、こうして愛おしい寝顔を見つめていたかった。



 家の中に、不意に月の光が明るく差し込んできた。

 先ほどの黒雲が去ったのだろうか。


 その柔らかな光と、優しい秋の風が——妻の瞼を開けた。


 うっすらと開いた茅の目は、やがてはっきりと見開かれた。


「——ああ——あなた。

お帰りなさい。——ご無事で、よかった……」

 茅の瞳に、涙が溢れた。


「——ただいま、茅」

 卯吉は、胸が痛んで上擦りそうになる声を必死に抑え、何とかいつもの調子で答えた。


「——よく効く薬を手に入れて来たよ。さあ、お飲み」

 柄杓ひしゃくで椀に水をすくい、茅を抱きかかえながら床に起き上がらせると、医者に言われた通りの分量の薬をゆっくりと飲ませる。


 ——これで、きっと茅は大丈夫だ。

 このひとならば——これからも、きっと強く生きてくれる——。



 全て飲み終えると、卯吉は茅に伝えた。

「いいか、茅。これから、毎日この薬を朝夕忘れずに飲むんだ。

薬を全て飲みきれば、病はきっと良くなるから——わかったな?」

「……あなた……」

「ん?」

「……また、どこかへ行ってしまうの?」

「———え?」

「……だって、まるで私に言い残すみたいな言い方をして……また旅にでも出てしまうみたいに。

——もう、どこにもいかないのでしょう?」

「…………ああ」

 卯吉は、崩れそうになる自分自身を支えるように全力で微笑み、茅を強く抱いた。

「……よかった。

……あなたがいれば、病なんかすぐに治るわ」


 茅は、卯吉の胸に抱かれながら、少し微笑んで言う。

「——ああ、そういえば……私ね、今、面白い夢を見てたのよ」


「……どんな夢?」


「……あなたにそっくりな男の人の夢」

「——私にそっくりな?」

「ええ。……顔も、声も——本当に瓜二つで。

あなた、って呼んだら——

そのひとは……自分は伊兵衛だ、と言うの」


「………………」

「伊兵衛というそのひとは……ずっと恋人を待っているのに、もう長い間会えずにいるって……寂しそうに、そう言ったわ。

その恋人を一緒に探しましょう、と私が言ったら……笑いながら、あなたはもう帰りなさい、だって」

そう話しながら、茅もちょっと笑う。


「ただ、伝えてほしいことがあるって……

もし、はつという娘に会ったら……自分はずっと待っている——そう伝えてくれ、って。

何があっても、自分の気持ちは変わらない——いつまでも待っているからと……そう言っていたわ。


はつさん……そんな娘さん、この辺にいたかしらね……?」


 茅は、途切れそうに話しながら、卯吉の胸でまたうとうとと眠ろうとしている。



 卯吉は、堪え切れずに、茅を力一杯抱きしめた。

 あの世との境目で、伊兵衛の思いを確かめて戻ってきた、愛おしい妻を。




 

 眠った茅を静かに寝かせ、卯吉は家の外へ出た。


 ふたりのやり取りが、耳に届いたのだろう。

 蛇は、銀色の身体を震わせながら静かに泣いていた。

 その青い目から、幾筋もの涙を流して。


 そして——まっすぐに卯吉を見つめると、呟いた。

「卯吉。頼みがある。

——お前の斧で、私の牙を折り取ってほしい。……そして、その牙で、どうかこの眉間みけんを貫いてくれ」


「——わかった」


 卯吉は納屋から斧を運ぶと、大蛇の開いた口に輝く牙めがけて、勢いよく斧を振り下ろした。


 キイィ…………ン……!


 鋭い音を響かせて、牙は折れた。


 蛇は苦しげに一瞬顔を歪めたが——静かに呟く。

「——卯吉。…頼む」


 躊躇うことなく、大蛇はその美しい頭を差し出す。


 卯吉は、鋭く輝く牙を両手で握ると、大きく振りかぶった。

 そして、その眉間へ渾身の力で突き立てた。



「———————っ」


 大蛇の額から吹き出す、青く透き通る美しい液体が——涙の色をしたそのしぶきが、卯吉の全身にかかる。

 そして、身体に触れたかと思うと、そのしぶきはたちまち銀に輝く粉となって、夜空にきらきらと吹き上げられていく。

 見ると、大蛇の身体も次第に激しく輝き出し——少しずつ、砂のように崩れていく。

 秋風が、その輝く銀の粉を空中高く舞い上げる。

 そこにはもう、痛みも苦しみもなく——

 ただひたすら美しい光が、きらめきながら月明かりの中へ拡散していった。


 ——それはまるで、伊兵衛に寄り添うために天を駆け上る、初の心のように。



 蛇の最後の輝きが、静かに空に舞い上がった。

 それを仰ぐ卯吉に、声が降ってくる。

 鈴を振るような——消えそうに儚い、あの美しい声。



 卯吉様——

 私を地獄よりお救いくださり、ありがとうございました。

 こころより、御礼申し上げます。

 この御恩は、決して忘れませぬ———。




 その声も、夜空に舞い上がった銀の輝きも——すぐに、跡形もなく消え去った。


 あるのは、ただ溢れるばかりの虫の声だけ。



 そして——雲ひとつない夜空に、月が静かに輝いていた。




          *




 その秋から、1年が経ち——また秋が訪れた。



 茅の病はみるみる回復した。

 それからは風邪ひとつひかず、以前より一層健やかに美しい女になった。


 そして——この夏の終わりに、卯吉と茅の間に新しい命が生まれた。

 それは輝く玉のように美しい、元気な男の子だ。



 春に植え付けた作物も、どれも驚くほどよく実った。

 この収穫ならば、この冬も家族が暮らすのに何の心配もない。


 家族が幸せに過ごすために必要な分だけ、幸せが訪れた。

 必要な時に、願ったことはなぜか全て叶った。


 

 ——まるで、何かに守られているようだ。

 秋の爽やかな空を仰ぎ、卯吉はふとそんなことを思った。




 あの夜の出来事は、現実だったのだろうか。

 それとも、ただの自分の夢だったのか。

 ——卯吉は、時々そう思う。



 ただ——

 暗い夜の山で旅人が行方知れずになる話は、その後とんと聞かなくなった。



 それから——もうひとつ。

 月の明るい夜には……初の消えていった地面が、不思議な銀色にきらめく。

 卯吉以外は、その輝きには誰も気づかないのだが。




 それだけが——あの夜のことは本当だったと、卯吉にひっそりと囁いていた。






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