鬼哭の闇と愛の世界
たけぞう
鬼哭の闇と愛の世界
「こんばんは、お嬢さん。少しよろしいですか?」
ノックの音が聞こえた気はしたが、まさか本当に来客とは思わなかった。
わずかに開いたドアの陰で、私は旧式の猟銃を後ろ手に握り直す。逢魔が刻に、外を出歩く人間なんてまともなはずがない。
「実は、人を探しているんです」
しかし、男は屈託無く笑って言った。
「……正気なの?」
「もちろんですよ。そんなにおかしいですか? それとも、この辺りでは挨拶代わりに人の正気を疑うんですか?」
くっくっと男は楽しそうに笑っている。
「そういうわけではないけれど……」
いや、その言葉は間違いではない。こんな狂った世界で、正気を保っている方がどこかおかしいのだ。
私だって、目的がなければ。いや、執着と言い換えてもいい、狂おしいそれがなければとっくに正気を手放していただろう。
「そんなに警戒しなくても大丈夫です。あなたが招き入れない限り、私は中に入れませんから。私はそういう存在なのです」
その言葉の真意を尋ねる機会は、訪れなかった。
男がひょいと私の背後をのぞき込み、軽い調子でこう言ったからだ。
「おや、どうやら来たようですね」
私は振り返る。そして、硬直した。
仮住まいであった小屋の至る所から、ぬらぬらとうねる糸状の闇が侵入してきていたからだ。
――絡みつく闇。そう呼ばれているはじまりの怪異だった。
「『彼女』です」
のんきな男の声は無視して、私は小屋の外へと躍り出た。
勢い余って男の腕の中に飛び込んでしまい、私は緩やかに抱き留められる。
「おや、困ったお嬢さんですね。彼女はとても嫉妬深いというのに」
小屋の中はもう、黒い糸巻きのような闇に絡みつかれ、色も、形も、何もかもを奪われ始めている。その様子を見て、なぜだろう、そんなことを一度も考えたことがなかったのに、男の言葉のせいであり得るわけのない感想を抱いた。
――そのぬらぬら光る闇が、まるで女性の黒髪のようだ、なんて。
「……あなた、何者なの?」
「さあ? 私は私ですよ。彼女を待っていた、しがない化け物です」
やがて小屋はすっかり闇に呑まれ、私は男の腕を借りながら、そこから少しでも離れようと闇夜を歩いていく。
化け物。男はそう言った。
この世界はとっくに、闇の住人たちに支配されている。
まず、闇が現れた。絡みつくように浸食する闇は世界を覆い尽くし、次いで、闇に住まう物の怪どもが跳梁し始めた。
こんな世界で出会ったのなら、闇の側の存在である方がずっともっともらしい。
そんなことを考えていると、男の足がぴたりと止まった。
いつしか、雲間からわずかに月光が差している。
その光が闇を幾分薄めていて、目の前の存在の輪郭を淡く描き出していたことに、私はやっと気づいた。
「これはまた、大胆に印象を変えましたね。そんなに永遠が信じられませんでしたか」
男がふっと笑う。男の笑みに初めて寂寞が混じった気がした。
「私の心は永遠にあなたのもの。その想いは変わっていませんよ。短命なあなたが死んでしまえば、恋なんかしないつもりだったものを」
その輪郭はいびつで、異形だった。
「あなたも『鬼』になってしまわれるとは」
口が致命的に肥大した、かつては人であった何か。
私は思わず銃口を向け、反射的に引き金を引いた。
湿り気を帯びた、肉の弾ける音がする。男が、銃口を掴んで自らの胸に押し当てていた。その右肩が、跡形もなく消し飛んでいる。
「だめですよ、そんなことをしては。ほら、彼女を見てください」
男の右肩に霞がかかる。そのもやの晴れたときには、何事もなかったように、着ていた服ですら元通りになっている。
「……美しいでしょう? 綺麗でしょう? 愛するために生まれてきたような、そんな姿でしょう?」
もはや顎のために存在しているような異形を前に、男は陶然とした表情で語っている。不死身の鬼の目には、あの化け物がそう映るのだろうか。
そんな私の心を見透かすように、男は言葉を続ける。
「……理解できない、ですか。彼女の愛は、鬼になったことで少し歪んでしまったようです。愛する者とひとつになりたい。いっそ、食べてしまいたい。繰り返した望みは呪詛のように、彼女の姿を規定してしまった。この世界は、そんな彼女の愛に呑まれたのです。彼女の闇に、絡みつかれたのです。愚かですね、何もかも。愛しい、ですね」
それが、この世界の真実。
世界を巻き込んで自らの歪みに呑み込まれた、そういう女がいたというだけのこと。身勝手な世界の敵に、男はただ、愛しいと感想を漏らした。
「そんな、勝手な……」
私はつぶやく。それを聞いた男は小さく笑って、
「すみません。でも、知りませんよ、そんなこと。私にとって世界とは、彼女のことを指すのです。私の定義は揺るぎもしない」
悪びれもせずに、男は私も世界も突き放した。
男は、ゆっくりとかつての恋人に近づいていく。周囲の闇が蠢いて、男にまとわりついていく。
その満足そうな背中が悔しくて、私は背後から言葉を投げつけた。
「……私も人を探しているの。帰ってくるって言った、あの人を」
それが私の目的。この世界で狂うわけにはいかない一筋の光。
「正気ですか?」
男が笑う。笑いながら、妖しい艶を放つ光に絡みつかれていく。
「もちろん」
私の決意に、男は少しだけ優しい表情を浮かべた。気がした。
そのきまぐれに少しだけ溜飲が下がって、私は背後の闇に向かって駆けだした。
背後では、止むことのない咀嚼音が響き続ける。
不死身の鬼を喰らい続ける、愛に狂った鬼。
二人の愛の交歓は、いびつなままで完成されてしまっていた。
***
〇八〇 (待賢門院堀河)
長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は 物をこそ思へ
(末永く心変わりしないというあなたの言葉がどこまで本心なのかはかりかねています。別れた今朝はこの黒髪のように心乱れてしまうのです)
鬼哭の闇と愛の世界 たけぞう @takezaux
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