君に手渡す残酷な花

たけぞう

君に手渡す残酷な花

「この世で一番残酷な酸って、何だと思う?」

 そう、シリカは聞いた。

 彼女の表情はよく分からない。笑っているのか、悲しんでいるのか、それすらも。それはもともと彼女が感情を表に出さないからでもあるけれど、もはや僕の目がポンコツだからでもあった。

「何、その質問」

「いいから答えて」

 彼女が促すので、少し脳細胞を働かせる。

「さあ、何だろう。王水とか? 金さえ溶かすっていうし」

 王水は、塩酸と硝酸を3:1で混合して作る超酸だ。中世の錬金術師たちが、金さえ溶かすその液体を畏怖し「王の水」と呼んだのも頷ける。

 しかし、シリカの意見は違うようだった。

 面白がるように、くっくっと喉を鳴らすと、

「冗談。王水なんて可愛いものじゃない。王水がどうやって保管されてるか知ってる? ガラス容器にいじらしく収まってるのよ」

 飼い犬の癖でも話すかのように、いじらしい、と彼女は評した。

 その感覚は、僕には理解及ばないけれど、

「それは、君にはそう思えるだろうさ」

 シリカの指先から芽生える、ガラスの花を間近に見ながらそう言った。

 彼女は珪素生命体だ。隕石とともに飛来してきた、鉱石生物である。

 ガラスは珪素の酸化物であり、シリカはある程度自由に自分の体をガラス化することができる。そうすれば王水にだってびくともしない。

 そもそも酸が金属を溶かすのは、その強力な酸化力で金属をも酸化させるからだ。別に何でも溶かせる魔法の液体というわけではなく、人体だって化学熱傷にはなっても溶けることはない。

「じゃあ、いったい何だったら残酷なんだ?」

 そう聞くと、シリカの感情が再び分からなくなる。

 彼女の感情が分かるのは僕だけだから、それだけで手がかりは潰えてしまう。鉱石生物である彼女は別に人型をしているわけではなく、緩やかに蠢く暗灰色の岩塊とガラスの結晶のオブジェが人の姿に見えてしまう僕の目は特別だ。特別に、異常だ。

 でも、シリカを見て美しいと思えるこの異常が、僕には誇らしかった。

 ああ、美しいシリカ。彼女は再び口を開く。

「残酷、という言葉はね、生き物を見ていないと生まれないのよ」

 彼女の言葉は、透き通るガラスのように無色だ。そこに色を探して、僕はもうほとんど見えない目をシリカの方に向ける。

「生き物を見て、その生き物が苦しんでいるのを観察して、そこから産み落とされる言葉。それが、残酷。だから、残酷な酸は、うんと生き物を苦しめるものだわ。それはもう正視に耐えないほどに」

 色はまだ見えない。しかしその言葉の温度は、僕の背筋を凍らせた。

 いや、僕の体はすでに冷え切っている。死に向かっている生き物は、あらゆる熱を脱ぎ捨てて冷たくなっていく。その事実からは逃れられないと分かっているが、ただ、心に灯ったこの最後の熱だけは失いたくなくて、僕はまだこの生にしがみついていた。

「それは例えば、フッ酸とか?」

 シリカの言葉に記憶を揺らされた僕は、数年前に隣国で起きた事故を思い出していた。痛ましいガス漏れ事故。そのガスを直接浴びた全員が、大量の中和剤を注射されてなお激痛にもがき苦しみ、ついには死に至った。

 フッ化水素酸。生物の持つカルシウムと反応して、神経細胞のそばで結晶化する最悪の毒物だ。

「そうね、フッ素が関わる酸にはろくなものがないわ。とても残酷で、正視に耐えない。ほとんど正解よ、おめでとう」

 シリカは、その無機質な手で、優しく僕を撫でてくれる。

 彼女がどんな存在であろうと、その声は、言葉は、そこにこもった想いは、どこまでも有機的で僕を包み込む。

「……でも、あなたにとっては違う」

 シリカの声が響く。やっと、色が見えたと僕は思った。

 彼女の言葉は、否定だ。激しい否定、敵意、嫌悪。そういう負の感情の色で彩られていた。

 それに気づいて、その意味を求めて僕は必死に彼女の目を覗き込む。

 昏い光。どこまでも深い深淵。それだけは感じることが出来た。

 その光が照らす先に気づいて、僕は言う。

「君は、残酷じゃない」

 自らの体を酸化させてガラスにできるシリカは、さながら生きた酸だ。

 彼女の否定は彼女自身に向けられており、シリカは自分のことを卑下して、自らを酸と呼んでいるのだ。

「そうかしら」

 彼女の言葉の響きはなお沈んでいる。

「あなたは、私がこれからすることを知っても、それでも同じことが言える?」

 いまや、シリカの表情は明らかだった。いくらこの目が使い物にならなくても、もう間違えない。

 彼女は、笑っていて、悲しんでいる。自分自身を許せなくて嘲笑しながら、どうしても溢れてくる涙の結晶を止められないでいる。

 その結晶はきらめいて、光を僕に投げかけていた。

 かなしい、ちいさな光。それを、愛しく思える心はまだ僕にも残されている。

 だから、伝えた。死にかけの生物の、最後の力が生み出す言葉を。

「もちろんだ。君が残酷なもんか。もしこれから僕に何があっても、残酷なのは君じゃない。君にそれを選ばせた、この世界が残酷なんだ。この世で一番優しい君の選択なら、僕は受け入れる」

 自らを絞り尽くして出た言葉に、嘘など混じる余裕はない。その、純度100%の混じりけなしの僕の真実で、シリカが自ら否定した彼女自身を全力で肯定する。

 シリカが僕の頬に触れる。僕は、静かに頷いた。

 もう、言葉はいらない。

 だから、それは音もなく始まった。

 彼女の指先から、ガラスのつるが伸びてくる。細く、鋭く、それは僕の頬を伝わって、右目を迂回するようにして僕の内部に侵入する。激痛が走る。酸化した珪素が、透明な棘となって僕の神経を直接切り裂いている。シリカの結晶は、僕の視神経に巻き付きながらその先へ、脳を目指して僕を掘削していく。気が狂いそうな痛みで全身の筋肉が限界まで硬直し、その制御の効かない身悶えが関節や骨を自ら壊してしまう。

 この痛みは、残酷な世界が彼女を酸に貶めていく彼女の苦痛だ。

 この世で一番残酷な苦痛が、この世で一番優しい君から届けられる。

 やがて、ガラスのつるは脳にたどり着く。そこで彼女は花開く。肉を切り裂いたその花弁から、今度は暖かい雫が広がっていく。

 ガラスは絶縁体だが、珪素樹脂のシリコンは半導体だ。僕の脳を満たしていく彼女の一部は、僕の発する小さな稲妻を拾い上げて、ガラスの維管束を通してシリカに届けていく。僕自身の生きた証が彼女に刻まれていく。

 僕はシリカの中で生き続ける。彼女の孤独も、僕の無念も、暗灰色の彼女の体に刻み込まれて溶け合っていく。

 それを、この残酷な世界の言語では、幸せというのだと思う。

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