チャイルド・プレイ
たけぞう
チャイルド・プレイ
「実はね。私の指、舐めるとちょっと甘いんだ。ミルクティーみたいな」
放課後の公園は、気だるげに木々の間から零れてくる陽を斜に受けていて、少し長めの影と色素の薄い日なたとの間でコントラストを見せていた。
その、どこというわけではない俯瞰的に間延びした景色のなかで、彼女はそっと告白した。
そのときぼくは、明日香の指を初めてつぶさに見つめた。
練乳色の細い線はかたちの整った爪まで伸びて、そこからかすかに膨らんで肉感を表現しながら輪郭を象っていく。白んだ桜色の爪は、小さく開いて舌を覗かせている明日香の唇を先ほどから優しく引っかいていて、湿った唇との間にわずかな抵抗を生んでいた。
「……何?」
視線は剥がせないまま、ぼくはかすれた疑問を返す。
「二回も言わせないでよ。……私の指はね、甘いの。ミルクティーフレイバー」
明日香の舌がちろっと動いて、唇の上の指の腹をなぞり上げる。彼女の指がわずかに濡れて、小さな光沢を帯びたように見えた。
「……ばかなこと、言うなよな」
「なら、」
明日香が言葉を止める。ぼくの世界を止める。
静止した世界で明日香は、年齢に不相応に艶やかに微笑んで、そっと、その指を差し出した。
ぼくの、口元へ。
「舐めてみたら?」
世界は止まったまま、明日香の指が挑戦的に揺れている。
……これは、遊びだ。子供の頃なら平気でよくやる、無邪気で他愛ない遊戯なのだ。
深い意味などない、大人に観測されることによってはじめて意味を得る類の、揺らぎの中の行為だ。
しかし、ぼくという観測者にとっては、つまり高校生という大人へのモラトリアムを受けた存在が観測するそれは、子供ほど無邪気でもなく大人ほど深い洞察もない、酷く混沌とした行為でもある。
混沌は、混沌のまま。思考は停滞し矛盾し脱線して生産性を得ないけれど。
気づくとぼくは口を開けている。
明日香の指に向けて舌を伸ばしている。
その指には、いまだ彼女の唾液によってつやがあるように見えて、その粘性の光沢へと、ぼくは……
「……うわ。ホントに舐めるんだ……」
そして、世界は動き出す。
「だ、だって、おま……え? てか何で普通に引いてるんだよ」
焦りと恥で舌がもつれた。過熱する感じをじりじり伝えて来るぼくの頬は今、きっと真っ赤だ。
これ見よがしに首を振る明日香を、ぼくは睨みつける。すると、
「よく考えたら分かるでしょ? なのにさ、舌だしてハァハァしてて、今の君、まんま犯罪者だし」
「仕方ねぇだろ! てかおまえが舐めろって……」
「ていうかね、ホントに舐めると思わないもん。ちょっとテンパって、変なこと口走ってくれたらいいな、って思っただけだし」
と、原告側の明日香の犯罪者呼ばわりに対して、弁護側のぼくは異議を唱え、原告側の教唆の事実により自身を被害者として提出する抗弁をしたものの、原告側はそれを遮りつつ教唆を事実と認めながらも弁護側の恣意性の介入を追及した形となった。
無意識の論理性って、記述するとなかなかのものだな。
さておき、それに対してぼくは、ぼそっと「知るかよ」とつぶやいたのだった。
沈黙が下りる。
ぼくはふて腐れて顔をよそへと向けたままだったが、その沈黙が少々長く持続するに至って、この無言の応酬が意味するところを知るためにこっそりと明日香の顔を盗み見てみた。
明日香は、微笑みながらじっと、ぼくを見ていた。
この沈黙は、ぼくが閉口するための時間であるだけではなくて、明日香がぼくの顔をゆっくり眺めるための時間であったのだ。
気恥ずかしくなって、ぼくはふいっと目をそらす。しかし、こっそりと目線を明日香に戻した時には、やはり明日香はじっとぼくを見つめたままで、二人の視線は再び出会ってしまう。
観念して、ぼくも正面から明日香を見つめてみた。
ぼくの見ている前で、そっと、明日香の唇が動いた。
「……良かったら、聞かせて欲しいんだけどな」
明日香の疑問が聞こえた。さっきまでの、人を食った口調はどこに行ったんだろう?
「何さ?」
彼女は、どうしてこんなに真剣な目をしている?
「さっきね、君はどうして私の指を舐めようとしたのかな、って思って。どうして?」
「てか、思ってないし」
もはや目線は外せない。仕方がないから、言葉だけでも選んでふて腐れてみる。
「……信じたわけじゃないでしょ? 指が甘いことも、ミルクティー味なのも」
「もちろんな」
「何で、じゃあ?」
知るかよ、と言いそうになって口を噤む。
それは、言ってはいけない。彼女の目も、それを言わせてくれない。
どうしてぼくは、明日香の指を舐めようとしたのか。もちろん、指が甘くないことなど検証しなくても分かっていたのに。どうして。
どうして、ぼくはあんなに混乱していた?
「私はね、」
口を噤んでしまったぼくに代わって、明日香が口を開いた。
「嬉しかったよ。君が、私の指を舐めることであんなに照れてくれて。私、女の子としてちゃんと意識されてるんだなあ、って分かった」
フラッシュバックする。明日香の白い指。唇に触れていた指。柔らかさを感じさせる唇。動いた舌。濡れた指。明日香の唾液で濡れた指。
小さな、そのすべての挙動を覚えていた。鮮烈に記憶していた。
そうか、ぼくは彼女に魅入られていたんだ。目の前の女の子に魅せられていた、ただそれだけのことなんだ。
「昔の君だったら、舐めようとなんてしなかったと思う。嘘付け、気持ち悪い、とか言うんだよ、きっと。子供の頃ってさ、無邪気に近づきすぎちゃうんだよね。近すぎて、男の子も女の子もなくなっちゃうんだよね。でもさ、私はもうそこまで無邪気じゃいられないんだ」
そう言って明日香はぼくの目を覗き込む。
そこには、ぼくの裡に潜むなにかを、白日の下に晒すためのすべての決意が浮かんでいた。
「これから私のするお願いに、イエスかノーで答えてください」
そして、明日香はそれを口にした。
「私と、付き合ってください」
そのとき、ぼくは笑っていたと思う。
おかしくて、幸せで、そしてやっぱりおかしかったから。何せ、ぼくには答えが一つしか許可されていないのだから。始めから、そういう遊びだった。
そう、これは遊びだ。子供の頃なら平気でよくやる、無邪気で他愛ない遊戯なのだ。
実はぼくたちの会話は、『しりとり』になっていた。
だからぼくは、ただ一つ許された答えを、明日香に伝えようと思う。
チャイルド・プレイ たけぞう @takezaux
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