バッククロス
藍上央理
第1話
「アーノルド、おめでとう」
アーノルド・バスクレーのもとに二センテンスだけの電報が届いたのは、大学の卒業を間近に控えた夏の終わりだった。
瞼にかかる金色の髪をかきあげ、一族からの電報に目を通す。
アーノルドは沈鬱なため息をついた。
コーンウェル半島、デボン州に所在するバスクレーは、人口百人に満たない小さな村である。村名がそのまま一族の名を指し、バスクレー卿の屋敷を中心に家屋が点在する。一九四〇年代にエクスムーア国立公園が設立されてからは、観光客相手のファームハウスやバスクレー卿の屋敷観光が唯一の収入となった。
アーノルド・バスクレーは現バスクレー卿の一人息子である。
この夏までオックスフォードの大学で就学していた。卒業と同時に送られてきた電報によって、急きょ帰省したというわけである。
彼は、電報が何を意味しているか知っている。とにかく早々に、形骸化したバスクレー家後継の手続きをとって、就職したばかりの弁護士事務所に二、三日の休暇から戻ることだけが頭にあった。
革の旅行鞄にはそれだけの簡単な着替えくらいしか持ってこなかった。この、荒れ地に今後戻るつもりがなかったのだ。
事実、後継の話もなかったことにしてほしいくらいに思っている。何百年も昔に形式だけの爵位を戴き、しがみつくようにいまだにサーを名乗っていることにも、嫌悪感しか抱けなかった。
排他的な村は老人が多い。数人の若者も定期的にやってくる暗い顔のよそ者も、アーノルドは好きになれなかった。
平均的寿命が長く、葬式はめったにない。
アーノルドの父も今年で九十歳になるのではないだろうか。遅い時期にできた子供だった。母はすでに他界している。アーノルドを生んだ後すぐに死んだと聞いている。
幼いころの記憶は黒い色で染められている。闇色。暗い屋敷の中、ろうそくの明かりだけが頼り。
曇り空、大地のヒース。荒れ地は藪だけを茂らせ、天候は荒れやすい。
会話のない静まり返った関係。寝たきりの父。同世代は少なく、ランプの灯火で書物を読みふける。
物静かな子供だったという。
都会に出て、アーノルドは新世界を知った。死んだ世界からいきなり生きた活動的な世界に放り込まれ、戸惑ったこともあったが、彼はすぐに順応した。
ロンドンの生活になれると、バスクレーが疎ましく感じられるようになった。地図にも載っていない村だ。ロンドンから車で十時間以上かかる。エクセターまで列車で行ったとしても、二、三時間の短縮にしかなならない。
交流がなかったと言え、血のつながった唯一の親だ。後継の手続きがあると言えば、おそらく父の寿命の話になるはずだった。
だが、アーノルドは頭に描いていた予定が、これから先の人生まで含めて狂ってしまうとはつゆほども予想していなかった。
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