第7話

「アニキ……やけにうれしそーじゃない」

 了二はニタリと笑う兄の顔を見つめて、意外そうにつぶやいた。

 了は生まれてこの方、夜の街というものを見たことも歩いたこともなかった。

 悔しいことだったが、ただいま中2の弟の尻にくっついて歩かねばならなかった。

 いつもジーパンにコットンのシャツ。

 それが今夜に限って、了二のダブズボンにフードつきのトレーナー。了二はさらに、様にならないと言って、了の頭にニットの帽子をかぶせた。

 了はフニャ口をさらにフニャラとさせて、不機嫌そうに文句を言った。

「ぜんぜん似合ってない! ああ、いやだいやだ」

「アニキ、その格好じゃないと浮くって。それにアニキの格好ってオタクっぽいじゃない」

「ああ、ダブダブが気持ち悪い」

「だから、ババァくさいっつんだよ、アニキは」

「勝手に言ってろ」

「それはこっちの言い草」

 了二はガラガラとスケボーを器用に片足で転がしながら、マンションからテクテクと律義に繁華街まで降りて行った。

「そーいやさ、おまえ、ゲーセンの金とかいっつもどうしてたの?」

 了がふとたずねると、了二はニヤリと笑い、

「オヤジ」

「え? だって、お父さんはここんとこずっと会社に出張ってんじゃ?」

「オヤジの会社まで訪問したんだよ」

「いつ?」

「夜中にきまってんだろ?」

「でも、家からかなり離れてんじゃないか」

「たむろってるサテンがすげー近いのな」

「おまえ、いつ寝てんの?」

 了は心配になってたずねた。

「おうよ、学校でしこたま昼寝さしてもらってるよ」

 この弟に、来年受験という文字は存在するのだろうか。

 了は頭を抱えて、ため息をついた。

「ほら、もう着いた。狭いねぇ、この街ってさ」

と、了二はうんざりした声で言った。

 目の前の繁華街に了は圧倒されて、立ちすくんだ。

 ちょっと引っ込んだところに足を踏みいれたとたん、どこから沸いてきたのかと思うほどの人間が、道に充満していた。

 駅前の繁華街には毒気があった。

 魅力たっぷりの。

 すえた酒臭い人間の体臭が、ツンと了の鼻孔をついた。

 この匂いは、体臭というより、人間の活気と言ったほうが近いかもしれない。

 有り余った人間の生気が、了のすきっ腹を刺激した。

 こめかみがジンと暖まり、少し酒に酔ったような感覚が襲ってきた。

 しかし、意識は冷ややかに冴え渡ってくる。

 視界に映り始める生ある肉塊。

 了二の後ろをついて歩き、了はフワフワと漂うように、人込みに紛れ込んだ。

 スルリスルリと指先で、知らずに漏らしている他人の生気を拾って歩いた。

 だれも怪しまない。怪しむこともなく、悪酔いしたのだろう、と思うだけだ。

 了は程無くして満腹になった。

 以前のようにみぞおちの辺りが張る感じはない。体全体がビリビリと帯電しているような気分になった。

 我ながら、摩訶不思議な体になったことだ、と了は思った。

「でさ、まさか俺たちでホテルには行けねーからさ、ま、情報が入るまでゲーセンでヒマつぶそうぜ」

「ヘ?」

「アニキー、夜のお出掛け初めてだからって、のぼせんなよな」

 了はその言葉に眉をしかめた。

「のぼせる!?」

「キョロキョロしちゃって、恥ずかしいなァ」

 おもむろに了二は携帯を取り出し、なにやらピコピコプッシュし始めた。

「なにやってんの?」

「ン、友達にメール送ってんの」

「なに? そんなんで相手に通じんのかよ?」

 了は弟の手元を覗き込んで言った。

 了二はまじまじと兄を見つめ、一言一言ゆっくりと、

「アニキ、バカ?」

「なに?」

「アニキだってメールくらい知ってんだろ?」

「知ってるよ」

「あのね、携帯でメールが送れんの。もー、なんでこんなことも知んないのォ?」

 了二はいかにもバカにした口調で言い放った。

 了は悔しげに口をへの字に曲げた。

 知らないもんはしようがない。第一、携帯持ってないんだから。

「で、なんて送ったんだよ?」

「名物男を探せ」

「そんなんで通じんの?」

「通じるよー、有名だよ、あのヤロウ」

 了は深呼吸して、もう一度たずねた。

「有名って、なんでだよ?」

「だって、あいつをホテル街で見ない日なんかないんだぜ、アニキ」

「……」

 確かに、あの容姿だと女に不自由しないだろう。

 了は頭を抱えた。

 だけど、その事実をまったく自分が知らなかったことがショックだった。

 うわさすら、耳に入らなかったのだ。

 その兄の苦悶の様子を弟は逐一観察していた。

「アニキ、人が良すぎるよ。人に付け込ませるスキをさ、ハイドーゾてな具合に見せるんだよね。時々真性のバカじゃないかって、思うときがあるんだぜ?」

「真性のバカ……」

 3つも年下の弟にまでバカにされると、アニキとしての立場が無かった。

 ピピピピピピ!

「おっ、きたきた」

 了二はポケットから携帯を取り出した。

<えきひがしぐち>

「駅の東口にいるのか?」

「そーじゃない?」

 ふたりは東口へ駆け足で向かった。

 了は、半分栗栖が自分の母親といることを期待していたのかもしれなかった。

 しかし、了が目にしたのは、駅の待ち合い所のベンチにひとりで腰掛けて、缶ジュースを飲んでいる栗栖だった。

 その様子はどことなく寂しげで、昼間、了にあんな仕打ちをして、こともあろうか、複数の女と不倫な関係にある少年には、とても見えなかった。

 ふたりが駆けつけると、栗栖にがたいの大きな中坊がからんできた。

「あーあ、あいつら始めちゃったよ」

 了二は何が起こるか予測していたらしく、のほほんとその様子を遠巻きに見物し始めた。

 栗栖はうるさげに片手であしらっている。

 ベンチを蹴り始める中坊。

 いらだたしげに缶ジュースを投げ捨てる栗栖。

 了は目を丸くした。

 短気な栗栖を見るのは初めてだった。

 口汚くののしっている栗栖も。

 あぜんとしたまま見守っていると、中坊のひとりが栗栖の胸倉をつかんだ。

 栗栖がなにか叫んだ。

「なぁ、アニキ……」

と、了二が横に立っているはずの了を振り向いた。

 そして、同時に、栗栖は驚愕した目つきで、自分のまえに立ちはだかる了を見つめた。

「なんだよ、てめぇ」

 了二の友人らしきふたりの中坊は、こにくたらしい口調で了をにらみつけた。

「ちょー、ちょっとまったァ、それ俺のアニキ!」

 栗栖の胸倉から、あっさりと手が離れた。

「え、こいつら、おまえのォ?」

「そー」

「なんだぁ、名物男襲撃じゃなかったの?」

 了二は笑って手を振った。

「違う違う。俺のアニキが名物男探してくれって言うんでさ」

「あ、なんだ、そーなの」

 あっさりと納得してしまうところが、さすが了二の友達。

 了は栗栖を見上げた。

 不思議な体になっても、身長が伸びるということはないようだ。

 やはり、栗栖は幽霊でも見たような顔付きをしていた。

「栗栖、おまえ、住むとこ、どうすんの?」

 了はあえて、なにもなかったかのような口ぶりでたずねた。

 栗栖の顔はさらに蒼冷めて、唇はかじかんだように青紫色になっていた。

 了二たちはすでに名物男に対する興味を失っていた。

 了は慎重に言葉を選んで、栗栖に話しかけた。

「俺、なんとか、帰って来れたよ。これも、おじいさんのおかげかもな」

 さすがに栗栖は叫びもしなければ、気絶もしなかった。

 何度か、ゴクゴクッと唾を飲み込んで、

「じゃあ……?」

「うん、そういうことだね」

「ぼ、僕を恨んでるだろ……?」

 栗栖の目には、悔恨というよりも恐怖がにじんでいた。

 栗栖がどれほど、この血を怖がっているのか、了には見当がつかなかった。

「まぁ、俺の母さんとのことは、ショックだよ」

 栗栖はいぶかしげに眉を寄せた。

「よりによって」

 とたんに、栗栖は唇をとがらせた。

「僕のママは甘えさせてくれない人だったんだ」

 了は呆れてものが言えなくなった。

 おいおい、それがこのことに対する第一声かよ。

「アニキ、これからどうすんの?」

 了は答えた。

「家に帰る。こいつ、今日からうちに泊めるから」

 了二は愕然と口を開けて、了を見つめた。

「マジ?」

「うん」

「うわぁ、信じらんねー」

 了二は栗栖を眺めてそうつぶやくと、

「んじゃ、俺、当分帰んないかも」

と、背を向けた。仲間とダラダラ去っていく弟を見送り、

「行こうぜ」

と、栗栖に言った。

「小鷺田、僕はおまえの家になんか行かないゼ」

 栗栖は断固として言いのけた。

 了はガッチリと栗栖の腕をつかんでニヤリと笑ってやった。

「そうはいくもんか。言いたいことも聞きたいこともやりたいことも、たくさんあるからね」

 それを聞いた栗栖の顔から血の気が引いていった。

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