クロス
藍上央理
第1話
「おいしい棒、買ってくる」
短い休み時間もあと7分で終わるというとき、了は思い立ったように言った。
「次の授業、タツノの英語だぜ?」
後ろの席の栗栖が言う。オレンジ色の瞳が冷ややかに了を見た。
そんな栗栖の視線にも耐え、了は教室から走って出て行った。
江嶋栗栖はすごい。と、小鷺田了は思っている。
栗栖のどこがすごいと思っているか、了はたまに考えてみる。
まず光線の角度によって金茶にきらめくとび色の髪。それからキラキラとしたオレンジ色の瞳。あと門の前にはいつも見物にたかる女ども。さらにスポーツもできるほうで、陸上の短距離のホープだ。
なもんで、ちょくちょくバレー部やバスケット部から彼の貸し出しをお願いしてくる連中が絶えない。
栗栖は絵に描いたような美男子なのだ。確かおじいさんがイギリス人だと聞いたことがある。
彫りが深くていつも憂いを含んだ印象の、なんとなく、ニヒルな顔立ち。男だったら一度はなってみたい容姿をそのまま持っていた。
反面、了は純粋な日本人顔。
塩味のほうが効いてそうなさっぱりした感じ。
でも、ただそれだけ。別段変わったところとか、人より抜きん出たところなど何もなし。
「ばあちゃん!」
ガラリと勢いよく、了は駄菓子屋の戸を開けた。
常葉高校のまん前にある駄菓子屋には年齢のまったくわからないゾンビのようなおばあちゃんがいる。
駄菓子屋は駄菓子の匂いなんかしない。いつも日なたの匂いと、なぜだか、魚臭い匂いがする。
「おいしい棒ちょうだい!」
ばあちゃんはいてもいなくても、あまり代わり映えがない。
「ン」
とおいしい棒を指さして、料金箱を、
「ン」
と指さすだけ。
チャリン
了はダッシュで駄菓子屋を飛び出した。
チャイムは鳴った後だった。
三校目は英語。
タツノの時間だった。
了はアチャーと天を仰いだ。
タツノこと磯山は、タコ唇で馬面で下腹を突き出してるので、まるでタツノオトシゴみたいだと、タツノオトシゴというアダ名をつけられた。が、独身なので、オトシゴがおっこちて、タツノなのだ。
「タツノか……」
了は絶望的につぶやいた。
タツノいわく、「成績不良者(タツノはバカとは言わずこう言う)はなぜ成績不良かというと、脳みそに血が行き届いてないからだ。だからして」
信じられないが、バカは逆立ちして教科書を読むと、カバではなく、成績優良になるというのだ。
アホか。
みんな、そう言ったが、言った奴全員その場で逆立ちさせられて、黒板の逆さ文字(しかも、英語!)を読まされたのだった。
だが、了はあきらめて、ガラリと教室の戸を開けた。
「センセ! 小鷺田がモウレツなゲリから帰って来ました!」
教室じゅうの視線がいっせいに了を見つめた。
了のいないあいだに栗栖は何を言ったのか、了は考えたくもなかった。
うらめしげに了は栗栖を見つめた。
「小鷺田、おれは笑わんから入って来い」
しかし、タツノの目と口は苦しげに歪んでいた。
栗栖はぬけぬけと続けた。
「今朝飲んだ牛乳が腐ってたらしいんです」
栗栖はまじめくさった顔をして言った。
誰も彼もが、栗栖を信じた。いや、多分、おもしろければ、なんでもいいのだ。
了は一瞬度肝を抜かされたが、ペコッと頭を下げ、コソコソと席に戻った。
「小鷺田、あとで正露丸やろうか?」
タツノは了が席に着くのを見届けて言った。
「いえ、いいっス」
了は小さく答えた。
「くーりーすー……」
二時間続きの英語が終わり、険しい目付きで了は後ろの席の栗栖を振り向いた。
栗栖は小銭をジャラジャラいわせながら席を立ったところだった。
ふたりして教室を出ると、栗栖がすました顔をして手を出した。
「おいしい棒、僕にも頂戴」
了は渋い顔をして、ポケットから駄菓子のふくろを出して、栗栖に渡した。
「ていうか、ちがうだろ、おまえ、下痢とかひどくね?」
「まぁまぁ」
二人は昼食を買いに購買部へ向かった。
購買部のまえはすでに人だかりでごった返していた。
購買のおばさんの声だけが、臭くて黒い男の山の間から、かろうじて聞こえてくる。
そこでふと了は気がついた。
「あれ、栗栖、愛母弁当は?」
「ママ、今日から三日間旅行」
「ふーん」
栗栖は、了の知っている人間の中では一番のマザコンだった。
朝から晩までママママ漏らしているわけではないけれど、ママがいなければ、どうやら生活もできない甘やかされた奴なのだ。
ふたりは、やっとのことで人だかりからはい出した。
昼休みも残り30分。
「こんなの毎回体験してんのか?」
「愛母弁当で昼休みを丸まる過ごされる貴族様も、さすがに驚いたみたいですな」
栗栖はやきそばパンとカレーパンとアン食パンと牛乳を持って、なにやら感動したような顔付きで了を見つめていた。
あの乱闘の中でよくそんなに買えたなと、了は自分の手の中のコッペパンと練乳パンを見下ろした。
「なんだ、小鷺田はそんだけ?」
「いつもこんなだよ」
「僕のアン食パン半分やるよ」
「サンキュ」
慌ただしくいすに座ると、おもむろに栗栖はアン食パンを二つに割った。
片割れにパクつきながら、ホイとアン食パンを了の目前につき出した。
思わず了はパクッと食いついた。
ハッ……!?
なんだか、奇妙なマが。と了は思った。
しかし、そう感じたのは了だけのようだった。
すでに栗栖は自分のアン食パンを食べながら、片手で牛乳のパックにストローを刺している。
栗栖はズズと牛乳を吸い込むと、
「ホイ」
と、何げなく了のほうへ牛乳パックを寄せた。
「飲めよ、買ってないだろ」
「ども」
了は思わず、ときめきを覚えていた。
なぜ、感謝でなくて、ときめき?
驚きでもなくて、嫌悪でもなくて、戸惑いでもなくて、トキメキ。
愛母弁当だったら、ときめくこともなかっただろう。
弁当のときは、栗栖は全部一人で食ってしまう。
飯粒ひとつくれない。
普段は栗栖は教室に配給される茶を飲む。
牛乳を飲む栗栖など、今日が初めてだった。
だから、食い物を分けてもらうだけで、こんなにもときめくとは、了自身も思っていなかったのだ。
了は慎重にストローに口をつけた。
一口。二口。
三口目をいこうとしたとき。
「飲み過ぎ」
ストローが了の口から引き離され、栗栖がゴクゴクと飲み干した。
悲しいやら、うれしいやら。
ぼうぜんと栗栖を見つめる了の様子に、栗栖は気付き、
「そんなに牛乳、好きなの?」
「え?」
「すごい顔してるよ」
「え?」
了は慌てて顔を押さえた。
今までの全部顔に出てた。
「分かった、おいしい棒のお礼に、牛乳を全部あげよう」
トンと牛乳パックが目の前におかれたとき、了は自分でも驚くほどうれしかった。
普段栗栖は別の友人グループと行動するのだが、この日は何の気まぐれか了に付きっ切りだった。
そのことが了には誇らしく思えた。栗栖の好意がなぜだかとてもうれしかった。
栗栖とは常盤高校の校門の前で別れた。
栗栖は海の見える外国人街の丘の自宅に帰り、了は高校の裏手のマンションへ向かった。
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