迷い猫は傘持つ君に雨宿る。

篁 あれん

episodeー1

 彼は出入り口を僅かに開けて、こう言った。


「嫌だったらあの扉から俺を突き飛ばしてでも逃げて下さい」


 意味が分からない。

 そう言いたかったのに、言葉にはならなかった。

 切ったばかりの髪を片手で梳く様に撫でられて、少し荒れたその手がカサリと頬に触れる。

 照明を落とされて薄暗い部屋の中には、大きな鏡が何枚もあるせいで表通りの車のヘッドライトが時折部屋の中を旋回する様に照らして通り過ぎて行く。

 その明りだけで、彼の表情を探すのに必死だった。

 逆光の中で彼がどんな顔をしているのか見えないまま、逃げようと思えばきっと逃げられたのに、どうにも動く事が出来なかったのは衝動が邪魔をしたからだ。


 きつく抱き締められたあの腕の感触が、まだ残っている。


「シゲ、おい、シゲ! 聞いてんのか?」

「あ、ごめん……イチ……」

「お前が人に聞かれたくないって言うから、個室取ってやったのに黙ってちゃ何も分からんだろうが」

「うん……」


 木下樹尚きのしたしげなおは、同級生の綿貫一哉わたぬきいちやと共に高級クラブのVIPルームにいた。

 チェックのシャツに擦り切れたジーンズを履いた自分が、酷く滑稽に見える場所だ。


「イチはいつもこんな所で飲んでんの?」

「まさか。いつもは自宅か居酒屋だよ」

「でも、お前はこういう場所、似合うよな……」


 高そうなスーツ、高そうな時計、高い酒の名前は分からないけれど鼈甲色の液体の中に満月の様な綺麗な氷が浮かんでいて、ロックグラスを持つ節の目立つ大きな手が同じ歳の同じ街で育った男を、まるで別人の様に魅せる。


「んで、どうしたって? また、元嫁に無理な事言われたか?」

「いいや、有里ちゃんは少し前に再婚して、多分俺にお金の事で連絡して来る事はもうないんじゃないかな」

「なら、今度は何があった?」

「イチ、お前……男に欲情した事ある?」

「ブッ!!」


 男前がコント宜しく目の前でウイスキーを吹き出した。


「シゲ、お前……何言って……? どうかしたのか?」

「俺……自分でもよく分からなくなって来てさ……」


 樹尚は数日前の出来事を掻い摘んで一哉に話した。

 担当の美容師に頼まれて、カットモデルをする為に閉店後の美容室で髪を切って貰い、写真を撮り、他の全てのスタッフが帰って行く中、車で送って貰う為に最後まで残っていた。


「木下さん」

「何? 佐渡さわたり君」

「木下さんって髪洗って貰うの好きでしょ? いつも気持ち良さそうにしてる」

「あ、うん。あれ、眠くなるよね」

「頭皮が敏感な人は、腰も敏感だって知ってました?」


 佐渡は手に掛けた表の扉を閉めるかと思いきや、少し開けたまま戻って来た。


「腰?」

「そう、こうやって撫でてあげるだけで……」

「あっ……なにっ?」


 前から抱き付かれる様にして腰元をゆっくりと撫でられる。

 薄いTシャツ一枚を、易々と捲られて近くにあった店内の照明のスイッチはいつの間にか消されていた。


「嫌だったらあの扉から俺を突き飛ばしてでも逃げて下さい」

「佐渡君……?」

「すみません、木下さん。俺、ずっとあなたの事が好きだった……」

「え……?」


 荒れた掌が腰元から脇をなぞって這い上がって来る。

 ビクビクとふるえる樹尚は、抵抗しようともがいているつもりなのに佐渡の力は意外と強くて、次第に呼吸が荒くなって行く。


「ちょっと……待って……あっ……」

「木下さん……好き……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 何で謝られているのか、どうして突き飛ばせないのか、このまま流されてしまえば取り返しのつかない事になると頭では分かっているのに、人肌に長く触れてない樹尚の皮膚は佐渡の熱を欲している様にさえ感じて、樹尚は困惑したまま抗う。


「それで、ヤッたのか? その美容師と」

「ヤッては……ない」

「途中で止めてくれたのか?」

「って言うか、怖すぎて身体の方が無理だった」

「あー、止めてくれたって言うよりは出来なかったと言うわけか」

「……うん」


 樹尚は若い時に一度結婚に失敗した。

 それ以来、軽く女性恐怖症で人肌に触れる機会は殆ど無かった。

 別れた元嫁から金を用立ててくれと言われる事も珍しくなく、たった一人産まれた娘の為にと朝から晩まで働いていた。

 それが例え自分と嫁の間に生まれるはずの無い血液型の子供であっても、樹尚は自分が結婚すると決めたからには親としての責務を投げ出す訳には行かない。

 汗水垂らして働いている間に嫁が浮気して子供を連れて出て行ったとしても。


「俺、おかしくなったのかな……? イチ」

「何で? 何がおかしかったんだ?」

「だって……すっごく怖かったのに、その……反応してたんだよね……」

「まぁ、ビビり勃ちってのもある位だから、別におかしくはねぇんじゃねぇの?」

「離婚してから、そう言う事する暇も無かったし……もう良く、感覚が分からないって言うか……相手が男でも普通反応するもんなの?」

「どうだろうな……つか、お前はその美容師をどう思ってる訳?」

「どう……って?」

「告白されたんだろ? どう答えたんだ?」

「どう、答えたんだろ……」


 実際、あまりよく覚えてなかった。

 激痛に耐えかねて突き飛ばして、多分命辛々逃げる様に店から飛び出した様な気がする。


「さっきの質問だがな、シゲ」

「うん?」

「男に欲情した事があるかって、聞いただろ」

「あぁ、うん……」

「あるよ」

「そう、そっか……なら、ちょっと安心した」

「ついでにちょっと、検証しようじゃないか」

「検証? 何を?」

 

 一哉いちやはそう言うと徐にスマホを取り出し誰かに電話を掛け始めた。

 樹尚は一哉の言っている意味が良く分からなくて、ただ呆然とその姿を眺める。

 綿貫一哉は同級生の中でも一番大人びていて、高校卒業と同時に東京へ行き、つい先日地元に帰って来た。

 樹尚が自分の子か分からない子供を孕んだ女と結婚して、金策に明け暮れていると狭い街で噂が流れた頃、同級生は皆、あいつはバカな男だと嘲笑した。

 優し過ぎるのが仇になったと、大人になれよと、周りが口を揃えて言う中で、たった一人「大丈夫か?」と言ってくれたのがこの綿貫一哉だった。

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