滅ぶ愛
高村千里
第六作目
私は怒っていた。身の毛が逆立ちそうな程だった。腹の中から煮えくり返る怒りが私の全身を包み、今にも私を滅ばさんばかりだった。そしてその怒りの炎は、私の唯一無二の親友に向かっていた。
彼女の家に向かう道すがら、タクシーが悪路のせいでがたがたと揺れ、私の身体を左右に振った。前の座席に座った運転手が振り返らずに話し始める。
「いやぁ、こんなに悪い道も、ここら辺じゃ珍しいですよね。揺れるの、あと少しだと思うから、ちょっとがまんしてね」
知っている。都心から外れた、とても都内とは思えない畑ばかりが広がるこの廃れた場所へは、何度通ったか分からない。都内よりはるかに、正体不明の虫がうじゃうじゃいるこの土地を、私は好きではなかった。好きでもないのに通いつめたのは、彼女がいたからだ。
「いやぁ、それにしても、雨が降りそうな空ですね」
そう言われ窓ごしに外を眺めると、運転手の言った通り、空には厚い雲が垂れ込めていた。まだお昼を過ぎたくらいなのに、辺りは薄暗く、その空間をタクシーに乗って突っ切る様はどこか物々しい。バックミラーに映る私の真っ赤な口紅も、その雰囲気を助長させていた。
今日私は休日で、付き合っている優しい彼氏と一緒に過ごす予定だった。彼──ユウトとは、大学で知り合った。同じサークルで活動していて、それなりに面識はあったものの、三年生になるまではあまり親密ではなかった。印象としては常に穏やかで友人も多く、控えめに笑う人、で、長身で長い手足をいつも窮屈そうに曲げていた。
それは三年生の春だった。新入生歓迎会が他サークルを交えて開催され、彼とテーブルが一緒になった。テーブルにっは他サークルの先輩が割合たくさんいて、それなりに騒がしいグループに入ってしまった。先輩たちの呑むペースは早くて、歓迎会が始まって早々酔っぱらいが出来あがり、私は上手く席を外してサークルの新入生と話したり友人とメニューを見たりしていたが、一時間程経ったころ、とうとう先輩たちに絡まれ始めてしまった。
同じテーブルにいた彼はというと、ほんのりと赤く顔を染め、周りの先輩に話しかけられてはにこにこと笑っていた。
それから一時間くらいでようやく歓迎会はお開きになったが、安心していた私に同じテーブルだった先輩の一人が声をかけてきた。
「河野さん、だっけ? 俺たちこれから二次会に行くんだけど、行くよね?」
見るとさっきのメンバーの顔がそろっていて、同じテーブルだった人を片っ端から誘っているみたいだった。誘いを嫌だとも言えずに彼らと共に店の外に出ると、その集団の中に彼の顔もあり、やはり変わらずにこにこしていた。
徒歩で塊になって移動しているときだった。誰かが私の手を掴んだ。もうすっかり暗くなっていた時間だったので、すぐには正体が分からず、私の手に伸びていた腕を目で追ったら、彼の顔があった。
初めは酔っぱらっているのかと思った。それで、この場をごまかそうと唇を開くと、彼はそれを目で制止した。そして私の耳朶に口を近づけ、「逃げよう」と言った。彼の顔はもう笑っていなかった。
手を繋がれ、暗闇へ二人、静かに駆け出した。近くの公園に入り、ブランコに座り、彼は私に思いもよらない告白をした。
“一年生のときから、ずっと気になってたんだよね”
今年で、彼と付き合い始めてから五年目になった。
「もうすぐ着きますよ」
後部座席でシートにもたれかかり、ぼんやりとしていたら運転手に眠っていると勘違いされたのかそう声をかけられた。
今日私は、彼と一緒に過ごす予定だった。彼が急に断らなければ。
親友が古いボロアパートの戸を、うきうきとした顔で開けたのを見て、私の心には真っ黒な憎悪があふれた。高校のときからの親友は、客が私だということに気がつくや否や、表情を凍らせてみせた。その表情で私は確信し、アパートに土足で乗り込んだ。
彼女の部屋の隅で呆然と私を見上げたユウトのことを、親友が必死に弁解しようとしているのが見てとれた。それがまた、無性に胸くそ悪い。おろおろしている彼女の頬に、平手を一発振り下ろし、悲鳴を上げた彼女を床へ突き飛ばして黙らせ、ユウトのほうに向かう。携帯を徐ろに掲げて見せた。
「送り先、間違ってたよ、ユウト」
私は怒り、親友の彼氏と浮気した女と、彼女の親友と浮気した男へ別れを告げた。
それが二か月も前になる。あのあと、タクシーの中で涙が止まらなかった。土砂降りだった雨はさながら私の心模様で、親友も彼氏も失いズタボロだった。悲しくて辛い、忘れたいのに忘れられずに、ずっと暗闇の中を歩いているようだった。けれどももうあのときのように、私の手を握り、走ってくれる人はいない。あの人はあのときからずいぶんと変わってしまった。
目が覚めてベッドから起き上がるときになって、自分の目元が濡れていることに気がついた。また彼の夢を見ていたんだろう。口でどれ程彼が嫌いと言っても、本当のことは身体が一番理解しているのかもしれなかった。
あの日彼に突きつけた、携帯のランプが点滅していた。二か月ぶりの、彼からのメールだった。そのことに驚きつつもメールを開いた私は、息を呑んだ。
内容は、彼女と完全に別れたから、一度だけ会いたいというものだった。そのメールを読んだ瞬間、私の暗闇に、一筋の光が差したように感じた。あの女と、彼が別れた。その事実は私の心を浮き立たせた。
彼は午後、私の家に来ることになった。
午後になり家のチャイムが鳴ったので出ると、そこには彼ではなく、あの裏切った親友の姿があった。私は彼女を睨みつけた。
「今さら、何の用? もう顔も見たくない」
大きな怒りが私を包んだ。久しぶりに、くすぶっていた怒りをぶつける対象が現れたことで、しばらくすると逆に冷静になれた。そうだ。彼女はもう、彼に振られたんだ。ざまあみろ。お前より、私のほうが選ばれたんだ、と彼女の泣きそうな顔を見ていたらそんな感情が生まれてきた。
彼女は突然、私に向かって頭を下げて、震える声で謝った。
「あのときは、ユウトのほうから誘ってきたの。私も、冷静じゃなかったと思う」
「ふぅん……」
彼女は必死になって続けた。
「あなたを失ってから、気づいた。私は親友に何てことをしてしまったんだろうって」
彼女の両頬に、大粒の涙が伝っていた。
「もう一度、私の親友になってくれないかな」
私は彼女の顔を優しく見つめた。
午後。私の家に、二度目のチャイムが鳴った。彼は私にとって希望だった──数時間前まで。
「久しぶりだね、ユウト」
出迎えた私の言葉に相好を崩した彼は、私へ彼女と浮気をした経緯を告げ、頭を下げた。
「もう一度、おれの彼女になってくれ」
数時間前までの私だったなら、彼の願いを受け入れていただろう。まだ彼のことを愛していたから。彼女が先に来てくれて、良かった。失って初めて気がつく愛なんて、ない。だって私は、彼らをずっと愛してた。
「ふざけんなよ、コンチクショウ!」
そうして私は、本日二度目の言葉を叫んだ。
滅ぶ愛 高村千里 @senri421
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