第22話 パスト

 その場にエルがたどり着いたとき、既に決着はついていた。そこは元々運んできた大型ゴミを一時的に取り置き、分別するための場所だった。スペースの確保のために邪魔なゴミ類は強引に端へと寄せられ、各所に山を築いている。そして部屋の中央には巨大な金属の砲台――〝チューバ・ミルム〟がそびえ立つ。そしてその麓には、二つの人影。

 一人はワイアット。エルの位置からは後ろ姿で、表情は伺えない。その手に握られた銃からは微かな硝煙が漂っている。スライドが引き下がったまま――全弾撃ち尽くしたのだ。

 もう一人はジルグム。ワイアットの前で大の字に倒れている。全身に銃弾で穿たれた穴。

 胴部に七ヶ所、頭部に三カ所。光を失った瞳が虚空を凝視している。まず間違いなく絶命していた。その側には愛刀が抜かれることもなく鞘に収まったまま転がっている。

 反撃する間も無いままに仕留めた証拠――どうしようもないほどの違和感。

〝ワンド〟適応者のFBI特別捜査官と互角に渡り合った男を、ワイアットはどうやって出し抜いたというのか。

 疑問はあったが――とにもかくにも、結果としてジルグムは彼に敗北したのだ。

「ワイアット……」

 エルはその結末に唖然としながら、彼の背に声をかけていた。顔を上げ、振り返ったワイアットの目と目が合った瞬間、彼女は誤って別の誰かを呼びかけたかのような錯覚に捉われる。先の見えない真っ暗な洞窟を覗き込んだかかのような、何とも言い難い不安感。

 あのワイアットから何故そのような気配がするのか――その戸惑いを察したように、彼は不意に目元を和らげ苦笑を浮かべていた。

「ああ……問題ないよ、エル。ジルグムは仕留めた」

 そこにいたのは、いつものワイアットであった。エルは何度か目を瞬き、再び事切れたジルグムを見て納得する。いかに残虐な男とはいえ、ワイアットにとっては血の繋がった兄だ。自ら引導を渡して、何の感情も湧かないわけがないだろう。今し方の虚無感に満ちた表情を、エルはそう解釈していた。

 彼女はワイアットの肩を優しく叩いた。労るように。

「すまなかったな。嫌な役目を押し付けた」

「いや……俺も、自分の手で決着をつけれて良かったと思ってる」

 ワイアットは見るからに疲れたといった様子で一つ溜息をつき、空になった銃をその場に放り捨てていた。もうそれは必要ないと告げるように。

「そういえば、リナはどうしたの?」

「ああ、足を撃たれて動けなくなってな――だが弾も貫通していたし、大事な血管も傷ついていない。敵は全員打ち払ったし、今は安全な場所で応援を待っている」

 エルはやや早口だった。ワイアットを安心させるつもりが、自分を言い聞かせるような調子になってしまう。エルとて怪我を負った親友を一人置いてくることには胸が痛んだが、たとえそうしてでも優先しなければならない事があった。彼女はそこで改めて魔力の充填されたレールガンを見上げる。〝ワンド〟が使用不能になっていても、ここまで近くに寄ればその膨大に過ぎる力の流れが突き刺すように肌身に感じられた。

「こいつはまだ稼動している。早く停止させないと」

 首謀者のジルグムが死んだといってもまだ安心は出来ない。その巨大砲身は南側――マンハッタンへと突きつけられたままだ。充填完了とともに自動発射が設定されている可能性とてある。最も厄介であったジルグムが死に絶え、他の見張りもいる気配は無かった。

 足止めの心配はなさそうだと、エルは急ぎ〝チューバ・ミルム〟に繋がるタラップへと向かおうとする。そして――そんな彼女は、気付いていなかった。その後方で、ワイアットが地面に転がる日本刀を拾い上げ、その鞘から刃を引き抜いていたことを。

 〝ワンド〟による鋭敏な感覚を失っていたというのもあるが――そもそも、エルは彼に対して一抹の疑念も抱いていなかったのだ。あれほどまでに先輩捜査官達から注意しろと言われていたにも拘らず。多少のいざこざはあったが、ワイアットという男を敵だとは疑っていなかった。次の瞬間――彼女の背後からまったくの出し抜けに凶刃が突き出されていた。

「ッッ――!」

 唐突に過ぎる灼熱の痛み。エルは小さく悲鳴を漏らしながらも、咄嗟に飛び退いていた。それはあくまでも身体に染み付いた回避行動。頭では何が起こったもわからないまま、困惑の表情で後ろを振り返る。その浅く裂けた二の腕から、赤い血が滴っていた。

「わ……ワイアット、何を――!」

 その刃を繰り出したワイアットは、美酒に酔いしれるような陶然とした表情でエルを見つめ返す。

「いいね……君のそういう顔、見たかったんだ……ああ、やっぱり綺麗だなぁ……」

「わ……ワイアット……?」

 熱を発し痛み続ける二の腕に手をやりながら、エルは瞠目するしかなかった。

 まるで悪霊か何かに取り憑かれたかのように、ワイアットは今まで見せたことのない喜悦に満ちた顔で邪悪に嗤っている。その表情は、かつて捕らえられ尋問を受けていた際のジルグムのものと重なり――そしてその心象は、限りなく的を射ていた。

「あはは、違うよ、エル。俺はジルグム。ジルグム・バーンレイドなんだよ」

「何を――」

 そこで、エルは苦々しく歯噛みしていた。当然ながら何も知らない彼女に、悪魔とジルグムの間で交わされた契約を――その果てに起きた複雑な入れ替わりまでをも看破できるわけがない。

 だがそれでも、今までの全てが茶番であったことぐらいは理解することができた。

「今までずっと、お前に騙されていたわけか……!」

 エルは無事な手で懐の銃を引き抜き、それを相手に突きつけながら後ずさる。

 刃物と銃。本来、距離を取れば前者が後者に叶うはずも無い。だがエルはそれでも追い込まれているのが自分であるという漠然たる予感を覚えていた。

 それほどまでの威圧感を相手から覚え――そしてそれは正しかった。

「仕方ないよ。俺自身、自分に騙されていた。自分をずっとワイアット・バーンレイドだと思いこんでいたんだから……」

 ワイアット――否、ジルグムは自分自身に呆れたとばかりに溜息をつき、次いで刃に僅かについた血を舐め取っていた。とても美味そうに、一滴残らず。その行動にたまらない嫌悪感と寒気を覚えながら、エルはチラリと銃殺されて倒れた男を一瞥する。

「なら、そっちの男は……」

 このワイアットだと思い込んでいた人物がジルグムならば、今までジルグムであると思いこんでいた男が誰なのか、エルにはさっぱりわからない。そもそもDNA鑑定では間違いなく彼がジルグムと判定されていた。

 ただ一人真実を知る男は、しかし説明しようともせずに呆れ顔をしていた。

「まあ、別に誰でもいいだろう? 二人きりだ。俺の前で、他の男の事なんか気にするなよな、エル」

 彼の興味は、もはやエルだけだった。〝チューバ・ミルム〟の引き起こす災厄――万単位の死傷者の嘆きも、ジルグムにとっては彼女一人の苦悶に劣る。その美しき顔を恐怖に歪め、貪りつくしたい。その苦痛の果てに泣き叫びながら斬り刻まれる彼女を想像するだけで、ジルグムの興奮は絶頂にさえ至りそうであった。

「君とのキスの味は……とても良かったよ。甘くて甘くて……だがそれよりも、あの時の君の傷ついた顔が最高だった。あの顔をもう一度みせてくれ」

「貴様……ッ!」

 またとない恥辱を受け、エルは引き金を引いていた。片腕とは思えないほどの精確な射撃。しかし目にも留まらぬ速度で振るわれた刀が、猛襲する弾丸の雨を全て受け流していた。目標を大きく外した弾丸が、後方の粗大ゴミへと虚しく突き刺さっていた。

 目を見開いて驚くエルを、感じ入ったような表情でジルグムが見つめる。

 今より数分前――ジルグムは悪魔ディウスを相手に不服を申し立てていた。あくまでも契約では、ジルグムに人ならざる力を与えることで成立するものであると。ならばその力をディウスが今尚持っているのはおかしいと訴えたのだ。この場合、身体のジルグムと、魂のジルグムのどちらにその権利があるかが問題ではあったが――魂側の存在をジルグムであると断言したのは他ならぬディウスであった。悪魔にとっては契約に絶対であり、人間のようにとぼけることはできない。それは彼らの存在否定にも関る。

 故にディウスは渋々ながらも訴えを認めて、その人外の力をジルグムへと返していた。

 そして次の瞬間、もはや用済みと、容赦なくディウスは撃ち殺されたのである。こうしてまんまと驚異的な身体能力を取り返したジルグムは、かつてジルグムを偽っていた頃のディウスと同等の力へと至り、この銃弾逸らしの絶技も当然として再現可能となったのだ。

 一瞬の自失の隙を衝き、エルの眼前にまで間合いをつめたジルグムは、そこで得物を突き出す。その刃が彼女の銃を遠くへ弾き飛ばしていた。次いで刀が翻り、エルの肩をわずかに裂き、彼女が身を捩ったところでさらに足を斬りつける。エルは顔を顰めながらも急いで後退しながら、傷ついた腕で片方の銃を引き抜いて構えた。が、そちらの得物も瞬く間に弾き飛ばされた。よろめく彼女の首筋に、更に薄皮一枚の傷がつけられる。

 少しずつ全身に増え続ける斬り傷。殺そうと思えばいつでも殺せるだろう。ジルグムの意図は明白だ。じわじわと彼女を甚振って、愉しんでいるのだ。

「このっ! ――ッッッ!」

 エルがやぶれかぶれに振るった拳もあっさりと掌に受け止められ、そのまま軽く捻られる。同時に足を払われ、彼女の身体は空中を一転――受け身も取れず地面に背中を強く打つ。そうして呻くエルの上に、ジルグムが覆いかぶさっていた。得物を惜しげもなく放り捨て、もがく彼女の両手を掴んで組み伏せる。

 その鼻先が触れそうなほど、顔が近づけられた。悪魔よりも残酷な笑みを浮かべる男の顔が。その涎が頬に滴る。エルは果敢に相手を睨み返しながらも、その瞳の端には涙が浮かべる。手痛い裏切りを受けた彼女の気持ちを察したように、眼前のジルグムが言い訳するように告げていた。

「ああ、勘違いしないでくれよ、エル。君への気持ちは本物だった。今でも君が好きだ、エル。心から愛している。だから――」

 邪悪に微笑むジルグムの舌先がエルの首筋に触れ、斬り傷を押し広げるように動く。

 その染みるような痛みと嫌悪感でエルは思わず震えてしまう。

「――ゆっくり楽しもう。そこのレールガンが全てを吹き飛ばすのを横目で見ながらな。さあ……良い声で、鳴いてくれ」

 熱い舌先が血液と唾液をしたらせながら蟲のように這い、徐々に下へと滑っていく。首筋から鎖骨へと。エルはあまりの不快感と恐怖に、しかし身動きひとつ取れなかった。久しく感じたことのない異性に対する恐怖――力では抗えない相手への恐ろしさに、思わず叫び出しそうになる。そんな彼女の畏怖に染まる表情が、ジルグムを更に昂らせていく。

 荒い吐息を胸元にふきつけ、膨らんだ下腹部を脚に強く押し付け、だがそこで――

オイ、コラヘイ、アスホール!」

 エルの全身を貪ろうとしていた男の鼻先に、強烈な爪先蹴りが叩き込まれた。

 ジルグムも彼女に夢中になるがあまり隙だらけだったのだろう。驚愕に目を見開きながら後ろへ仰け反るその顔に更なる蹴りが繰り出され、しかし今度は後方へと跳んで躱わしていた。窮地に現れたその男は、燃えるような赤髪と同じほどに、熱い怒りをその翡翠色の瞳に滾らせている。

「――ッ! クライブ!」

「おう、俺だ!」

 高級スーツ――オースチンリードに身を包んだクライブは、襟元のネクタイを緩めながら、憤懣やるかたないといった表情を浮かべている。何事も飄々と受け流してしまう彼が、こうして怒りを露わにするのは珍しいことだった。

 慌てて半身を起こすエルに――だがどういわけかクライブは、憤然とその指先を彼女の眼前につきつけていた。

「ったく、聞き捨てならないぞ。お前、あいつとキスしたのか?」

「あ、いや、それは……って、わ、私に、怒ってるのか?」

 先の不実に甚く反省しているエルは、思わず小さくなって彼を見上げる。まるで叱られた子犬のような目。その反応は全くの予想外で、クライブは気勢をそがれた。

「あー、まさか、冗談だ」

 そうしてクライブは彼女の頭に手を乗せ、髪をくしゃくしゃと掻き混ぜていた。昔、よくそうしたように。

「遅れて悪かった。あちこち渋滞でな」

「クライブ……」

 エルはされるがままに――しかし恐怖ばかりの先ほどとは違って、胸の内には安堵が広がる。幼い頃からそうだった。

 こうして彼はいつもエルのピンチに現れては――こう告げるのだ。

「――もう大丈夫だ。あとは俺に任せておけ」

 クライブのその厳しい視線は既に、少し離れた場所で佇む殺人鬼へと向けられている。ジルグムの手には既に得物の日本刀が回収済みであった。鼻血を乱暴に拭いながら、ジルグムは冷め切った瞳でクライブを睨みつけていた。彼にとっては、せっかくの逢瀬を邪魔された気分である。

「君か……クライブ。どこまでも目障りな男だな」

「そりゃこっちの台詞だ。ま、イイ女ってのは男が取り合う運命にあるんだな。ってなわけで、決着つけようぜ」

 クライブが軽くほぐすように拳を振るう。ジルグムが「へぇ?」と面白がるように口の端をにやりとさせていた。クライブが真っ向勝負を挑むつもりなのだと知り、エルは慌てて腰を浮かした。彼は〝ワンド〟も持たない普通の人間だ。しかも荒事専門の戦闘屋というわけでもない。ただの泥棒である。FBI捜査官ですら歯が立たない男を相手にしては、為す術もなく返り討ちになるだけだ。

 だが立ち上がろうとするエルを制するように、クライブが彼女の前に軽く手を前に差し出し、軽くウインクする。任せておけとのサイン。つまり彼の中では勝算があるらしい。

 しかし俄には信じきれず、エルは中途半端な体勢のまま戸惑うしかない。

 ジルグムもまた彼の大口を聞いて、愉快そうに嗤っていた。

「勝てると思うか? 俺はワイアットじゃない。ジルグム・バーンレイドだぞ」

「はぁ? ああ、なるほど、そういうことね――」

 辿り着いたばかりで状況を知らないクライブだが、それだけで大体事情は理解できた。

 多くの人間がこの男に謀れたという事実。兄への復讐を誓う好青年ではない。エルさえも裏切り、陵辱しようとした最低の変態野郎であった。――それさえわかれば充分だった。

クソ食らえだキス・マイ・アス。だったら俺は〝カーニバル・フェイス〟ことクライブ・ファーニバルだ!」

 かくして――ニューヨークを恐怖に染め上げた連続殺人鬼と、、都市に祭りを彩る大泥棒の戦いが幕を切った。示し合わせたように二人の男は横へと駆け出し、平行移動。ただし当然ながら、ジルグムはすぐにその距離を縮めた。

 襲いかかるは、斬撃の嵐だった。古来より受け継がれ続けた日本剣術の型や、当人の積み上げてきた錬度などの精彩さは、その猛威には微塵も感じられない。ただ我武者羅に振りますだけの、酷く雑な暴力。

 実のところ、ジルグムの剣の技量は決して高くはない。幼少の頃に祖父に習ったきり、あとは我流で鍛え上げただけの未熟な動きをしている。弾丸の軌道を反らすという離れ技も、それがただ飛来物がゆっくりと近づくように見えるほど動体視力が優れているから可能なだけで、刀の技量が極めて優れているわけではなかった。

 だが極限に突き抜けただけの暴力が、どうしようもなく厄介極まりないのは事実として彼が証明している。ゴリラを相手にしてはプロボクサーがどれだけ技巧をこらしても歯が立たないのと同じだ。生物としての性能がまず違うからこそ、剣の技術など不要であった。

 その絶え間なく襲いかかる純然とした暴力に、為す術もなくクライブは逃げ続けた。

「あれだけ息巻いておいて、逃げるのか?」

「ハッ、逃げ足の速い男が最近のモテブームなんだよ!」

 乱雑に積み上げられた粗大ゴミの影に飛び込んだクライブの背後で、壊れた冷蔵庫と洗濯機、自転車と加湿器が一息でバラバラになる。空中飛散するゴミの中央を堂々突破してジルグムが踏み込み、クライブはその眼前にワイヤーフックを投擲。伸縮性に富んだ強靭なワイヤーは――しかしジルグムの凶刃にはまるで歯が立たず、半ばから断ち切れる。

 クライブはベルトから惜しまずワイヤーの固定具を外し、それも投擲しながらゴミの積み上げられた山を跳びはねて昇った。まるで猿のような機敏さで。ジルグムは投げつけられた固定具を易々斬り捨てるも、そこで失速する。彼は人外の力を手にしていたが、足場の悪い場所を素早く移動するバランス能力まではさすがに与えられていなかった。

 そのゴミ山を力技で突き進んでも埋もれるだけで、しかも山になるほど多量とあれば細かく斬り刻むこともできない。力強く跳躍し一気に移動しては、不安定な足場にバランスを奪われぐらついていた。一方、普段から障害物を乗り越えて逃げる経験の多いクライブは、瞬く間に彼を突き放して視界の外へと逃れ、ゴミ山の物陰に隠れていた。

 そうして身を低くしながら、一旦乱れた息を整える。

「ったく、こんなことになるなら、事故のとき見捨てれば良かったぜ」

 今更ぼやいてもどうにもならないが、この窮状に際しては言わずにはいられなかった。

 いつも騙す側の立場である〝カーニバル・フェイス〟も欺いた彼に、クライブは僅かな称賛の念を抱く一方で、耐え難いほどの憤怒の念を沸きあがらせる。

 エルは警戒心が強いようで、一度信じた相手には危ういほど無防備だ。そんな彼女の信頼を裏切ったワイアット――ジルグムの罪は大きい。

 今、彼は猟犬として兎を追っている気分だろう。腹立たしい限りだが、この圧倒的な戦力差を考えれば妥当な例えだ。しかしクライブにとってはそこが付け入る隙でもある。彼はゴミ山の中から何か武器に使える物が無いかを調べる。そうして、手ごろな鉄パイプを掴み取った瞬間――

「鬼ごっこの次はかくれんぼか?」

 背筋にゾッと寒気が伝う。ゴミ山の上から一気に飛び出してきたジルグムが、刀を大きく振りかぶりながら落下してきた。そちらへ向けてクライブは咄嗟に鉄パイプを投擲。あっさりと鉄の塊は両断され、そのままクライブもあわや脳天から真っ二つにされるところだったが、紙一重で後方へと跳んでその一撃を回避していた。

「――じゃあ次はお医者さんゴッコといこうじゃないか!」

 着地したジルグムは間を置かずに接近し、再び暴風の如き勢いで刀を振りはじめた。

 クライブは全力でその猛攻から逃げながら叫ぶ。

「そういうのは、可愛い女の子とやりたいね!」

「同感だ! だから俺の邪魔をするな!」

「――ッ!」

 挑発として意図したのか否か――どちらにせよ、その言葉はクライブに効果的に作用した。この男はクライブを殺害した後は、喜んでエルを甚振りに戻るのだろう。たっぷりと彼女を恐怖に染め上げた後で、一切の慈悲なくバラバラに切り刻んで悦に浸るのだ。

 それはクライブが怒る理由として、これ以上ないものだった。

 彼の身体が、強引なバックステップ回避によって僅かに揺らぐ。コンクリートの地面に靴を滑らせたのだ。その隙を最大のチャンスと見て取り、ジルグムは壮絶な嬉々とした表情で、渾身の一撃を繰り出してくる。だが――その隙は誘いであった。

 クライブは相手の踏み込みに対し、初めて前方へと跳ぶ。

 自ら間合いに飛び込んできた獲物を、ジルグムの袈裟斬りが両断する。――その直前に、クライブの上半身が恐るべき反射神経と柔軟さを見せつけ、低く沈んでいた。

 刀が空を斬り、切っ先が地面に突き刺さる。

 クライブは止まらず、驚愕するジルグムの懐へと滑るように飛び込み――

「そうら、麻酔をくれてやるよッ!」

「なっ――」

 型のなっていない刀の大振りによって、身を捻った状態にあるジルグムに、渾身の一撃から斬り返しを放つ技量はない。目にも留まらぬ剣撃は間違いなく必殺であり、立て直す前に踏み込まれる経験など無かったからだ。今までのように小さい連撃を繰り返していればクライブに反撃の余地などなかった。だが、すばしっこく逃げ回る獲物を仕留められず、ジルグムのフラストレーションも溜まっていた。そこに決め手となるチャンスを与えることにより、大振りを引き出した――全てクライブの計算の内。

 真っ向勝負で勝てない相手ならば、騙し技ブラフで対等にまで引き下げるまでのこと。

 今、懐へと飛び込んだクライブは、すかさずジルグムの腰にある武器を奪い取る。その早業は瞬きする間の一瞬。大泥棒の面目躍如。

 それは――警棒タイプのスタンガン。ゴミ処理施設に踏み込むまえにエルが彼へと渡した武器だった。クライブはそれを目敏く見つけ、利用。相手の無防備な脇腹に叩き込んでいた。刹那の瞬間にジルグムの全身に一〇〇万ボルトの電圧が駆け抜ける。成人男性でも一撃で気を失うほどの電撃を受け――しかしジルグムは驚愕と衝撃に目を見開けながらも耐え切っていた。その身体は既に常人の尺度では測りきれない。

 だが――ならば、クライブはどうなのか?

「普通の、人間のくせに、何故こんな――」

 ジルグムは左手を柄から離して手刀とし、押し付けられたスタンガンを弾き飛ばす。

 そもそもがおかしいと思わなければならない。人間離れした脚力で接近するジルグムに対し、紙一重とはいえ間合いの外へと逃げ続ける男が――今この場でジルグムに対等に渡り合っているこの男が、はたして本当に、普通の人間であるかということを。

「普通? 違うね、言っただろうが!」

 クライブの体内にある〝ナノマシン〟が術を行使し、その身体能力を極限まで引き上げる。一時的にジルグムの足下程度には届いた怪力が、痺れた手に握られた刀を弾き飛ばす。

「俺は! 〝カーニバル・フェイス〟――クライブ・ファーニバルだ!」

 その強化は本来、三重の意味で有り得ないもの。

 〝ワンド〟の技術は国家機関の機密情報であり、本来ならば捜査官や軍人などにしか使用を許されていない。しかし人が扱う以上、どこなりとも漏洩する場所は存在した。

 ならば〝奪う〟ことが専売特許のクライブに、その技術を奪うことも不可能ではなかった。だが仮にどこかから〝ワンド〟技術を奪ったところで〝ミーミスブルン〟が魔力の流れを管理している以上は、不正使用は行えない。そこでクライブは抜け道を編み出した。

 泥棒仲間の工学知識に長けたゾーイと、天才少女ルナとの共同開発品――魔力変換機の利用だ。これは〝ユグドラシル〟社会に流通している通常の変換機とは異なり、魔力を他のエネルギーに変換するものではなく、逆に、電気エネルギーを魔力に変換するものであった。社会には現存しない技術。ノーベル賞ものの大発明。ただし、その栄誉にまるで興味のない二人による。

 クライブはこれを特製のインプラントで接続し、不正に得た魔力によって〝ワンド〟を強制稼動させている。ただしこれは非公式ながら〝ワンド〟適性A判定相当の彼ですら、最底合格ラインのD-程度の出力しか得られない。魔力変換器の変換効率は一割以下であり、一度に出力できる魔力量が僅かだからだ。

 故に正規の〝ワンド〟能力者と違い〝塵法術ナノ・ウィッチクラフト〟すら使えないが――〝ユグドラシル〟の制御が奪われている今でも、充電エネルギーを利用して身体能力の強化は可能となった。もちろんそこまで想定しての設計ではなく、ただの偶然である。

 だがその偶然がこの場にもたらしたものは大きい。彼を普通の人間としか思っていなかったジルグムは、一気に形勢不利へと追い込まれる。

 振りかぶったクライブの拳が彼の顔面を思い切り殴り飛ばしていた。

「隙ありだな! 俺は基本、暴力は嫌いなんだが――」

 よろめくジルグムに、クライブは容赦なく更に踏み込む。

「――今回ばかりは! とことん殴る!」

 拳が再度顔面に叩き込まれ、ジルグムがたまらず尻餅をつく。

 クライブはその上半身へと馬乗り――マウントポジションを取り、拳を振るった。今まで受けた猛攻を、そっくりそのまま返すように、連続でその顔面を殴りつける。

 サンドバックを叩きまくるように何度も。拳を嵐のように振り下ろし続けた。

 擬似〝ワンド〟稼動終了まで残り一分を切る。本物のデータからあり合わせの材料で似せて作っただけの模造品である彼の〝ナノマシン〟は、せいぜい三分程度の使用が限界だった。それ以降はただのタンパク質へと変貌し血流に溶けて消え失せる。それまでに決着をつけねばならない。だがそうして拳の皮が破れるまで殴り続けていたところで――ただ苦悶を漏らすだけであったジルグムが、不意に泣き叫ぶような悲鳴を上げていた。

「やっ――やめてくれえッッ!」

 クライブはその悲痛な叫びに思わず瞠目し、拳を止めた。ジルグムが――ワイアットの顔をした男が小刻みに震え、ボロボロと涙を流し始めていたのだ。

「俺は、ジルグムだけど……ワイアットでもあるんだ……! やめてくれ、クライブ!」

「は……? おい……それは、どういう……」

 クライブは困惑して動きを止める。彼が恋敵であったとはいえ、ほんの一時とはいえ協力関係にあった相手と殺しあうことに、クライブも何も感じないわけではない。

 だがそうして動きを止めた隙に――反撃の拳が彼の顔面を殴りつけた。

「――ッ!」

 不意打ちを受け、今度はクライブがよろめく。更に続く重い拳が顔面にクリーンヒットし、たまらず後ろに引き下がる。そこで手を使わずに背筋を利用して立ち上がったジルグムが、口の端から零れる血を拭いながら嘲笑を浮かべる。

「ハハッ、二人揃って人が良すぎるんじゃないか? こんな三文芝居に引っかかってくれるなんて、詐欺師が聞いて呆れるね!」

 元々、地力で相当の差があった。たった二発だけでクライブは膝が崩れそうなほどのダメージを受けていた。その隙に近づいたジルグムの蹴りが彼の顔面を突き上げ、拳の連撃を腹部に叩き込み、下がった横顔を思い切り殴り飛ばす。倒れそうになったクライブに、更に逆サイドからの蹴りが襲う。

 こめかみを思い切り蹴り飛ばされたクライブは、たまらずその場に倒れる。ジルグムがその様子を見て、血と涙と傷でボロボロになった顔を歪め、大声をあげて嗤う。

「……この……野郎っ……!」

 クライブは立ち上がろうとするも、痛烈な脳震盪で足に力が入らなかった。擬似〝ワンド〟も強制終了。起死回生の反撃も、彼を倒しきるには及ばなかった。土壇場で甘さを衝かれたのだ。卑怯な手段を用いたことにジルグムは何ひとつ恥じた様子もなく、倒れる彼の腹を容赦なく蹴りはじめる。先ほどの仕返しのように、何度も。クライブは苦悶を漏らす。ジルグムもさすがに息を荒くしていたが、クライブは既に体力の限界だった。

 どうやっても、ここからの逆転はもはや望めない。勝ち誇った殺人鬼は、転がり落ちていた刀を拾い上げ、そこで憂鬱そうな溜息を一つ漏らしていた。

「まったく……うらやましいよ、本当に……君とエルの絆は、どうして壊れないのか不思議なぐらい強いものだ」

 ジルグムはしばし考え込むように鏡のように輝く刀身を見つめる。そこに映る自分を見ると、自分が誰なのかわからなくなる。そうした気持ちはワイアットとして生きていた頃からあったものだ。ジルグムは再び小さく溜息をつき、クライブの傍へと近づく。そして彼の眼前に、その無慈悲な刃を突きつけた。

「君達みたいな関係を、俺も築いてみたかったよ。バラバラにするんじゃなくて……」

 ジルグムも、なんとなく気付いていた。何故首尾よく弟の身体を手にして復活したとき、自分がジルグムとしての精神を拒み、ワイアットとして生きることを選んだのか、その理由を。心のどこかで、普通でありたいという気持ちがあったのだ。性嗜好異常者ではない、まともな生き方をしてみたいと、はかなく願望したのだ。だが――それも詮無い望みであった。はっきりと思い出したのだ。

 ジルグム・バーンレイドにはこんな生き方しかできないのだと。

「けど俺は、やっぱり、これじゃないと興奮できないんだ……エルがバラバラになった姿を見たくて仕方が無いんだよ」

 ジルグムが暗い笑いを浮かべ、クライブは失笑し首を振った。

「まったく、気が合わねえな……俺はあいつが、嬉しそうに脚を揺らすのが好きなんだ」

 その言葉に、ジルグムは顔を顰めていた。気に入らないと告げるように。

 そして切っ先を振り上げ、容赦なくクライブの頭上に振り落そうとする。

 しかしその寸前に、銃声が鳴り響いた。ジルグムの側面から。咄嗟に反応したジルグムは襲いかかる銃弾を刀で受け止め――だが弾丸は刀身の横を滑らなかった。着弾したそのままに、銃弾が張り付く。氷で固定されて。そこから急激な速度で霜のようなものが広がり、それは刀を握るジルグムの両腕にまで伸びていった。一瞬でジルグムの腕が凍りつき、壊死する。それは紛れも無い――〝塵法術ナノ・ウィッチクラフト〟だった。

 驚愕にうろたえたジルグムは、そこで銃を構えた女と視線があう。

「エル……」

 両手で構えた銃を向けるエルは、厳しい表情で彼を見据えている。

 怒っているのか、悲しんでいるのかも判然とはしない。――どちらにしても、美しかった。

 ジルグムは途端に狂おしいまでの渇望を感じ取り、そして皮肉気に嗤った。結局のところ、どちらを選んだところで手に入らない女だった。ワイアットも、ジルグムも、クライブには勝てなかったのだ。それがどうしても気に入らず――ジルグムは獣のような叫び声をあげ、凍って動かない腕をそのままに、彼女に向かって駆け出した。その得物を突き刺そうと。そんな彼に対してエルは迷い無く銃弾を放った。連続で放たれた弾丸を、もはや防ぐ術など彼にはない。優れた動体視力で、半端に身を捻って急所を避けたために、多くの銃弾による激痛に晒されることになる。穿たれた部分から氷が広がり、両腕がバラバラに砕ける。かつて彼が斬り刻んだ被害者達よりも細かく。ついに彼女の傍に辿り着くことも出来ずに両膝をついたジルグムの額に、最後の弾丸が叩き込まれた。頭部を打ちぬかれてもんどり返り、全身を凍りつかせる。氷像と化したジルグムは断末魔の叫びすら上げることも出来ず、大きく目を見開きながら死に至った。

 それが〝ニューヨークの切り裂き魔〟の最後だった。

 エルは複雑な気持ちで大きく息を吐き出してから、急いでクライブの傍にまで駆け寄る。

「クライブッ!」

「よお、可愛い子ちゃんスウィーティー……〝ユグドラシル〟の……制御が、戻ったのか?」

「どうやら、そうみたいだ。――それより大丈夫か、クライブ?」

 心配そうに顔を覗きこむエルに、クライブは強がり、怪我だらけの顔に笑みを浮かべて親指を立てる。

「男の子だぜ。ケンカの一つや二つじゃ泣かねえよ」

「……久しぶりに聞いたな、その台詞」

 エルは苦笑しながら、彼に手を差し出す。ふらふらになりながら、それでもクライブは肩を借りて立てる程度には回復していた。

 エルはそこで再び、倒れるジルグムに目を向ける。多くの人を裏切った男ではあり、彼女も酷い仕打ちを受けた。当然腹立たしくあったが、不思議と、全てが嘘であったようにも思えなかったのだ。妹が誘拐されたときにエルを勇気付けたり、エレベーターで気持ちを伝えてきた来たときのワイアットが、ただ演じられただけの存在だったように思えない。

 もちろん彼が異常者の犯罪者であることには違いないのだが――なんとも複雑な気分を拭いきれなかった。そうした感情が表情に出ていたのか、クライブが静かに訊いていた。

「君こそ、大丈夫か?」

 ハッと我に返ったエルは、少し間を置いて、何度か頷いた。

「ああ……大丈夫だ」

 そこで振り返った彼女は、クライブとの顔の近さを意識する。思わずトクリと心臓が高鳴り、頬が赤くなった。互いに互いを意識した視線が絡み合い、クライブはややあってから意を決したように顔を近づける。だが、エルは近づく顔を素早く手で防いだ。

「あれを止めるのを忘れていないか?」

 エルは視線をすぐ近くの兵器へと向けた。〝チューバ・ミルム〟は未だ膨大な魔力を蓄えている。しかもやはり自動発射に設定されていたのか、今やそのタービン部分を回転させていた。ジルグムを倒したと、それで気を抜いて全てを台無しにしていては笑い話にもならない。だがクライブはそんな状況も構わず、大声で文句を吐いた。

「おいおい、超いい雰囲気だっただろ今! あいつとはしたのに、俺とは無しなのか?」

「緊急事態だ! マンハッタンが吹っ飛ぶぞ!」

 エルは肩を貸していた彼から身を離し、タラップの方へと向かう。そんな彼女を、クライブは不満たらたらに、よろよろとした足取りで追いかけた。

「一〇秒で済むのに!」

「それだと短いだろ!」

 思わぬ返答に、クライブはポカンとする。エルはそちらを振り返らずに急いでタラップを上りながら、真っ赤な顔で告げていた。

「だから全部終わったら、だ!」

 そうして彼女は、逃げるような早足で去っていく。恥ずかしがるように。

「……よし、わかった、早く止めよう」

 俄然やる気になり、悲鳴を上げる両脚を無視して、クライブはふらつきながらも走り出す。そうして二人は〝チューバ・ミルム〟の周りを囲む整備用の連絡通路を駆けた。

「制御盤があるはずだ。操作して発射を止める。最悪の場合は破壊だ」

「んー、前者は大賛成、後者は大反対だ。これほどの魔力が高まってるものを破壊したら、間違いなく大爆発だ。ニューヨークの半分は消し飛ぶかも」

「撃たれるより被害が大きいな」

 二人はそこでレールガン側面の制御盤へと辿り着く。そこにはタイマーがセットされ、一〇分後に発射されるようになっていた。どうやら単純操作では発射は止められないとわかり、エルは早々に冷却処理を検討したが――そんな彼女をクライブが制した。

「まてまて、不確実な方法はとるな。まあ俺に全部任せとけ。これでも爆弾処理の免許だって持ってるんだ」

 彼は嘯きながら制御盤の前に膝をつき、どこに隠し持っていたのか、様々な工具を取り出していた。何故そんな技能を身につけているのか、エルは問い質すのはやめておいた。どうせろくな理由ではない。今から正規の専門家の応援を呼んでも遅く、ここは彼に任せるしかないだろう。そこでエルの携帯端末に着信が入った。

「ハルシュヴァイカー捜査官だ」

『ロックスです。〝ユグドラシル〟の奪還に成功しました。ゼルがやってくれましたよ。何があったかは……後で説明します。まず、そちらの状況を教えてください』

「〝チューバ・ミルム〟の前まで来た。インウッド最北、一〇番街沿いのゴミ処理施設だ」

『本当ですか? では、ジルグムは?』

 その問いにエルは一瞬間を空けた後、はっきりと答えた。

「……私が射殺した」

『よくやりました』

「今は発射態勢にある〝チューバ・ミルム〟の停止作業中だ。既に魔力の充填は完了している。発射まで残り八分だ。失敗したらマンハッタンが二つの割れる」

『比喩であればどれほどいいことか。――今更無意味かもしれませんが応援を手配します』

「頼む。リナリスが負傷したが、暴動のせいか救急車も来る気配がない。急いで助けを回してほしい。それと……アフィンをマンハッタンから遠ざけてくれないか?」

『任せてください。ですが、失敗しないでくださいね。私の妻もマンハッタンにいるんです。今からじゃ脱出は間に合わないかもしれません』

「安心してくれ、念のために頼んだだけだ。失敗したら私も発射の衝撃で天に召されるだろう。上手くやる」

 通話を切り、エルは作業を続けるクライブの背に問いかける。

「大見得切ってしまったが、止まるのか?」

「まぁ急かすな。さほど複雑なもんじゃない。ゾーイの抜き打ち練習問題の方が三倍は難しい。落ち着いてやれば、簡単にいけるさ」

 こんな時でも止まらないクライブの軽口は、むしろ頼もしかった。だがさすがの彼も不安がないわけではないのか、後ろをチラリと振り返ってから告げていた。

「ただなんだ、何事も一〇〇パーセントと断言するのはよくない。だからお前は念のため、ちょっとでも遠くに逃げておけ。砲身は南向きだから、北なら大丈夫だ」

 なるほど――確かに今この場で、もはやエルに出来ることは無い。機械工学を学んでいたといっても、専門は材料工学及び熱力学だった。

 それを理解はしていたが――エルは連絡橋の床板に腰を落とし、鉄柵に背を預けた。

「おい、エル?」

「お前が最後まで逃げ出さずにいるか見張っておく」

「俺が逃げると思うか?」

「何事も一〇〇パーセントと断言するのはよくない」

 意趣返しを受けてクライブは苦い顔をする。エルは膝を抱きながら、からかうように告げた。

「それに私が近くにいると、お前はカッコつけたがるからな。失敗できないだろ?」

「よくご存知で」

 こうなっては説得しても聞かないと、彼女の性格を理解していたクライブは、一つ溜息をついてから作業を再開した。巨大タービンの静かな回転音をBGMに、しばしの沈黙後にエルが問いかけていた。

「もう最後かもしれないから、教えてくれ」

「人が頑張ってるのに、そういうこと言うなよ」

「じゃあ最後でなくてもいいから、教えろ。何で犯罪者になったんだ?」

「わー、直球だね。手元が狂ったらどうすんだよ」

 クライブは苦笑し、だが元々打ち明けるつもりであったのだろう、いともあっさりと語り出していた。

「俺の親父、ロバート・ファーニバルがジェイムズ・イノバン州知事の息子ジャン・イノバンを殺したことになってる事件は覚えてるな」

「ああ――ということになってる?」

「冤罪だ。ジャン・イノバンはただ単に薬でハイになって自分でこめかみを撃ち抜いただけなんだ。自分の銃でな」

「だが、ロバートは罪を認めていたんだろ? それに記録では凶器にロバートの銃が使用されたとあった。ナタリーが強姦された事件の裁判で負けて逆上したと……」

 そこでエルはハッとし、答えに行き着く。彼女も捜査官として二年も働いていれば、世の中には信じられないほど不正が多く蔓延っていることを嫌でも理解できる。

「偽証だったのか……?」

「そうさ、親父はちょっと人が良すぎたが、立派な捜査官だった。イノバン親子に復讐は誓っても、不正を調べるという正攻法で、だ。殺そうとなんかしていない。だが叩けばいくらでも埃の出るジェイムズはそれが気に入らなかったんだろう。結果、判事とつるんで親父を殺人犯に仕立て上げたんだ」

 クライブは込み上げてくるものを堪えるように少し間を置いてから、続けた。

「親父は、罪を認めた。本当は無実なのに、自分がやったことにした。そして死刑判決を待たずに獄中死した」

「何故だ? 無実を主張すらしなかったのか?」

「理由は簡単だ。俺とナタリーを守るためだよ。下手に無罪を主張しようものなら自分の子どもがどうなるか、ジェイムズに脅されたんだ。親父も流石に塀の向こうじゃ自分の子を守れないからな……無実を晴らそうとせず、黙ってその罪を受け入れた。自殺じゃなく、雇われた看守に殺されたのかもしれないが……そのあたりの真相は闇の中だ」

 エルは絶句しながら話を聞いていた。クライブは作業を続けながら淡々と言葉を紡いだ。

「親父に弁護士の友達がいてな、色々調べてくれてた。その人から真実を教えてもらったんだ。けど結局、決定的な証拠がなかったし、どちらにしろ親父も自分の罪を晴らそうとしなかった。そして親父が死んで、ナタリーも絶望して自殺した。俺は二人を死に追い込んだジェイムズ・イノバンが許せなかった」

 クライブは小さく溜息をつく。過去の自分を見つめなおし、呆れ返ったように。彼の声には悔しさや恨みといった感情を通り過ぎた先の、虚しさと悲しさだけが残されていた。

「けど普通に捜査官になったところで、親父のように潰されるだけだ。法の内側からじゃ、位の高い人間には目をつけらた時点で終わりだ。だから法の外から、非合法に復讐しようとした。窃盗犯としての腕を磨いて、復讐すると誓ったんだ。やつから不正の証拠の全てを奪って、白日の下に晒してやろうって――」

 激情に駆られかけたようにやや語気を荒くしたクライブは、そこで苦笑し、肩を竦めた。

「ま……人殺し出来るほどの度胸も無かったしな」

 自嘲するように告げる彼の肩に、エルは手を置き、軽くさすった。

「そういうのは、度胸とは言わない。お前が善人である証拠だ」

「……なんだよ、優しくしてくれるな」

「事実を言っただけだ。照れるな」

 その壮絶な過去を聞いて、エルはようやく一つの答えを得た。今までどうしてクライブが何も相談してくれなかったのか。口を噤んだまま、何故一人で抱え込んだのかを。

「お前は父親そっくりだ……私を巻き込まないために、今まで話さなかったんだな」

「あー……やっぱ、わかる?」

「ああ」

 エルも同じ立場ならどうするか――きっと同じ結論へと至るだろう。何も話さず、一人でけりをつけるはずだ。もちろんそれを理解しても、正しいと認める気はなかったのだが。 

「まあ、そういうわけだったんだがな……そうして俺は一時期、君の前から姿を消した。各地で修行して、裏の世界に片足を突っ込んだところで……ジェイムズ・イノバンは死んだ。腎不全であっさりな」

 州知事の死は当然、ニューヨーク市民のエルも知っていたことだ。だがその結果どうなったのか、予測が至り言葉を無くす。クライブはその瞬間、人生の目標を失ったのだ。

「もう何回か盗みを働いた後だった。仲間と一緒にデカい山も張った。犯罪を続ける意味はなくなったが……もう引き返せなくなっていた」

「それで窃盗犯になって……義賊の真似事を?」

「……他に生き方が思い浮かばなかったんだ。今更、君に会わせる顔も無かったし」

「バカだな……」

 エルはあきれ返ったように呟く。全ての経緯を知り、出てきたのは深いため息だけだった。結局、彼は長年かけて空回っていただけなのだ。エルの知っているクライブ・ファーニバルのまま。人生の歯車が狂ったのが彼だけの責任ではないとはいえ――なんとも遣る瀬無かった。

「最初に、私に教えてくれれば良かったんだ。その片足を泥に突っ込む前に」

「そしたら、どうなっていた?」

「もちろん止めたよ。二人で捜査官になって、真相を明らかにする道を選んだ」

「だからイヤだったんだ」

「私を失うからか? 違う、クライブ。私はそんなに弱くない」

 上手くやれる自信はあった。結果としてイノバン州知事が死に至らなかったとしても、二人で協力すれば、正攻法で彼の悪事を白日の下に晒すことができただろう。

 今まさに、こうして未曾有の凶悪事件を二人の力で解決へと導くように。

「クライブ。私を守ろうとしてくれた気持ちは嬉しい。だが、そんなこと望んじゃいなかった。私はただ、一緒にいただけだった……置いてけぼりにされた私の辛さが、わかるか?」

「……ごめん」

 クライブが肩を小さくして、開き直ることもなく謝る。既に自首することを決めた彼だ。もはや痛いほど自分の過ちを理解しているようだった。

「謝っても許さない――と言いたいところだが……」

 エルはそんな彼の背中へと擦り寄り、そっと抱きついていた。愛おしい気持ちを堪えきれずに、その背中に耳を当てる。

「人殺しでも無い限り、謝って許されないことはない。お前が心から謝るなら、私はそれを許すよ」

「エル……」

「待ってやる……罪を償うなら、何年かかろうと、待つさ」

「だけど……エル、君の人生を台無しにしたくない」

「バカ。もうされてる。今更だ」

 神妙な顔で告げるクライブに、エルは苦笑せざるを得なかった。

「罪の意識があるなら、充分反省してくれ。私だって……待つのが好きなわけじゃないんだからな」

 もう二度と、決して離すまいと告げるように、エルが抱擁に力を込める。クライブの背中に温もりが伝わる。そこから小さな震えを感じ取り、クライブは天を仰いだ。

「ああもう……バカだったな……俺」

「ああ……ようやく気付いたか。遅すぎだ」

 エルは上ずった声で告げ、熱い吐息で嘆息し――そこでハッと顔を上げた。

「な、おい……クライブ。作業、疎かになってないか?」

「あっ……しまった!」

 クライブが至極慌てて再び止まった手を動かし、エルは顔を真っ青にして焦る。

 おそらくレールガンの発射まで、あと一分ほどしか残されていなかった。

「ちょ、ちょっと待て! それはシャレにならない――」

 そうして彼の手元を覗き込んで、エルは目を瞬く。発射までの残り時間を刻むタイマーが、残り三分程度で止まっていた。更に回転していたタービンも、ゆるやかに停止をはじめている。会話の途中で、既にクライブは停止作業を完了していたのだ。呆然とするエルに、今まで慌てる素振りをしていたクライブが、不意に口の端を吊り上げる。

「赤のコードか青のコードかって、やってみたかった?」

「し……心臓止める気か! ――終わったなら終わったと言えバカ!」

 我慢なら無いと大声を張り上げ、拳を振り上げた彼女の腕を、クライブは笑いながら受け止め、グッと自分の方へ引き寄せる。そうして彼の胸元に倒れたエルは、思わず言葉を失った。クライブは彼女をしばし見つめ返し、愛おしき女の乱れた前髪をそっと直しながら、微笑んで告げた。

「終わったよ」

 エルは顔を赤くし、小さく頷く。終わった。ならば、もう何も気にかける事柄も無い。

 そっと目を閉じ――しかし待ちきれないように、彼女は自分から唇を奪いにいった。

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