第3話 バッドモーニング

 目を覚ましたワイアットは、途端口の中に酸味に眉を顰めた。鼻の奥が痛く、喉がいがらっぽい。どの辺りかもわからない通りの、散らばったゴミ箱に埋もれながら彼は横たえていた。記憶はすっぽりと抜け落ちている。が、どうやら昨日はまたしこたま飲んだらしいと理解するのに時間はかからなかった。よくあることで、路上で起きるのも今月にいたっては二度目だ。

 胃の気持ち悪さ、早朝の寒さ、二日酔いの頭痛による三重奏に辟易しながら、彼はしばし放心したように座りこんだ後、ふらふらと立ち上がった。上着の内側を探ると、思ったとおり財布はスられてなくなっていたが、特に気にならなかった。どうせはした金しか入れておらず、この寒空で衣服を奪われていないだけマシである。もっともホームレスでもない限り、彼の胃液に濡れた安物の服を欲しがる者などいないだろうが。

 ワイアットはいかにもみすぼらしく薄汚れていたが、よく見れば彼がまだ二〇代の若者で、中々のハンサムな顔立ちをしていると誰もが気付くだろう。

 鼻が高く透き通った翡翠色の瞳。足の長くバランスの取れた体躯。学生生活ではさぞかし人気者であったはずだ。それが何故此処まで落ちぶれてしまったのか気の毒に思い、思わず五セント硬貨を募金する者もたまにいる。そんな自分を情けなく感じる心さえ、最近の彼は失いつつあった。

 しかしそうして身だしなみさえ気にかけない彼は――だが、自分の顎に触れた瞬間、顔を歪めた。そして慌てて腰のポケットを確かめ、ホッとする。折りたたみ式の剃刀は奪われていなかった。彼はひとまず周囲を見渡し、現在地を確認した。

 丁度良く近くに宙に浮かぶホログラム標識があり、そこがラッドロー通り――イーストビレッジの南だということがわかった。ワイアットは通勤の車が増えつつある早朝のニューヨークを急ぎ足で進み、地下鉄の階段を目指した。


 五分ほど経った後、彼は地下鉄の公衆トイレで洗面所を使い髭をそっていた。シェービングクリームもつけていないので、後に肌が荒れるのは請け負いだが、彼にとっては一刻も早く無精ひげを処理する方が大事であった。

「早く済ませろよ、乗り遅れちまうからな」

「わかってるよ、パパ。急かさないで」

 ワイアットのの背後を一二歳ぐらいの野球帽を被った子どもが通過し、小便器へと向かう。特に気にせず丁寧に髭を剃っていたが、続いて後ろから現れた男を鏡越しに見て、彼は目を剥いた。

 身長七フィート近くある、とてつもなく巨大な黒人だった。しかも羽織ったトレンチコートで隠れていても全身恐ろしいほどの筋肉の鎧で覆われているのがわかる。一瞬、ワイアットは〝超人ハルク〟が現れたのかと思ったほどだ。あんぐりと口を開けて絶句するワイアットの後頭部へ、大男がおもむろに懐から取り出した拳銃を突きつける。デザートイーグル.50AE。まったくお似合いとしか言いようのない馬鹿でかい得物だ。

 ただし彼の手の中では標準サイズのように錯覚してしまう。

「動くな――」

 更なる驚愕にワイアットは理解が間に合わなかったが、脅威に反応して身体が勝手に動いていた。瞬く間に反転し、男の手首を狙って手にした剃刀で切りつけようとし――しかし大男は難なくワイアットの手首に手刀を入れ、得物を叩き落とす。まるで鉄球でも落ちてきたかのような衝撃であった。ワイアットは執着せず、相手の銃を握った右手を摑んで銃口をそらそうとした。が、その動きすらも予測されていたように男は一旦手首を引いて銃を上げ、摑もうとした腕を逆に摑んで捻り上げ、壁に叩きつける。ワイアットは目を見開きながらも、身体をひねってバックハンドブロー。

 拳は相手の脇腹に突き刺さったが、大男は揺れることさえなかった。むしろ苦痛に顔を歪めたのはワイアットの方だ。鉄の柱を思い切り殴ったのような痛みが手の甲に響く。

 それでも腕を捻って何とか拘束から逃れようとするが――そんな彼の鼻っ面に、大男が持つものとは別の銃口が突きつけられた。

「FBIだ」

 先ほど、小便器へと向かった野球帽の少年だ。その手には三八口径の小型のリボルバーが握られている。冗談のような出来事が立て続きに起こったものの、これはさすがに最大の衝撃であった。ただでさえ今はまともとは言い難いワイアットの頭は、状況がまるで飲み込めず、ただ呆然と硬直する他ない。

「抵抗しない方が懸命だ。というか、お前の方が痛いだろ?」

 小生意気な少女のような中性的な声で、少年が皮肉っぽく告げる。あどけない可愛らしい顔立ちをしているが、対照的にその瞳はどこまでも大人びて冷め切っている。

「ゼル、一番最初に名乗れよ。何も言わずに銃つきつけるから抵抗されるんだ」

 それはワイアットではなく、大男に向けられた言葉であったらしい。

「そうだったな。――悪いな、兄ちゃん。口より先に手がでるタイプなんだ」

 大男は悪びれた風も無く、ニヤリと笑っていた。凄まじい威圧感の割りに、笑うと大型犬のような愛嬌があった。だからといって、好感を抱けるような状況でもなかったが。

「ゼルギウス・クロックハウト捜査官だ」

 大男――ゼルギウスはワイアットの腕を摑んだまま、もう片方の手に握った銃を懐に戻し、代わりに手帳を取り出していた。

「同じくオズワルド・ランブロウ」

 少年――オズワルドは片手で銃を構えたまま、同じく手帳を取り出す。 顔写真つきの身分証明。FBI捜査官――どちらも本物。しかし背後の大男はともかく――

「……子どもの、FBI捜査官……?」

 途端、オズワルドは不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「そこのデカブツよりまともだろ」

「オズ? 毎度、一〇割の確立でお前の方が驚かれてるが?」

「あー、うるさいぞ」

 親子ほどの歳の差を感じさせたが、二人の遣り取りは長年組んできたパートナーのそれだ。最初オズワルドがトイレへと入ってきたときの親子のような会話は、ワイアットに警戒させないために回り込むための演技だったのだろう。

 しかしこんな子どもを捜査官に任命するとは、いったいFBIは何を考えているのか?

「……」

 少年捜査官への疑問は、ひとまず置いておくとして――それより問題は、自分の事であった。いったい何故、FBI捜査官に捕らえられているのか、ワイアットにはまったく身に覚えがない。彼は困惑の表情を二人へ交互に向けてから、ひとまず相手が暗殺者の類でないことだけは理解し、降参を宣言する。

「すまない、わかった……頼む、もう抵抗しないから、手を放してくれ。銃も下げて」

「手錠が先だ。まあ公務執行妨害は勘弁してやる。こいつのミスだからな」

 オズワルドが相棒を親指で指しながら、おざなりに告げる。

 だが問題はそこではなく、ワイアットは大いに慌てた。

「ちょっと待ってくれ、一体何の容疑だ? 昨日俺は酔って暴れたのか?」

「だとしても、それは別件だ。お前には殺人幇助及び虚偽申告の疑いがある」

 そこで大男が意外なほど器用な手つきでワイアットの両手を後ろにまとめ、手錠をかけていた。

「どういうことだ? 何故俺が――」

「ジルグム・バーンレイドの生存が確認された」

 ゼルギウスが重々しく低い声で言う。その言葉に、ワイアットは鉄バットで頭を殴られたかのようなショックを受ける。身の丈七フィートの大男も、少年捜査官も、その驚きに比べればまだ生温いものだった。通り過ぎたはずの悪夢が、未だ余韻を引きずる痛みが、まだ終わりではないと宣告されたのだ。思わず腰を抜かしそうになるワイアットに、オズワルドは約束通り銃をしまいながらも、一切遠慮のない淡々とした調子で告げていた。

「だいたいわかったろ? 詳しい話は車で聞かせてやるから、ともかく一緒にオフィスまで来てもらうぞ、ワイアット・バーンレイド元警部補?」

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