クリティカル・パスト
蓮角
プロローグ
《 prologue 》 ~五年前 二〇二二年 八月某日 ニューヨーク某所~
ジルグム・バーンレイドはその日、今後の人生を大きく左右する重要な選択を迫れていた。――とは言うものの、それは客観的な話だ。当人にとってみれば茶飲み話のついでに、友人と些細な密約を交わす程度の気軽さだった。実の母親と義理の父をその手で殺した彼からすれば、以後の分岐点に二の足を踏むはずもない。
いや、そのときの決断すらも、特に苦悩があったわけではなかった。少しばかり自分の本心に気づくのが遅すぎただけのこと。だがそれ以降は気をつけていた。心の声に素直に従うようになったのだ。傍から見ればただの狂気であるが、後悔のない生き方をする自分を、彼は最高にイカしていると感じていた。例えそれが悪魔に魂を売るような行為であろうと変わらない。そして、それは決して比喩ではなく――その日、ジルグムへと交渉を持ちかけたのは、紛うことなき悪魔であった。
安アパートの自室、ブラインドから漏れる熱い日差しを受けながら、ジルグムは煙草の巻紙に巻いた
暑さも忘れる薬の多幸感に脳が痺れるのを感じつつ、しかし彼は冷静な瞳で向かいのソファに座る男を見つめていた。――いや、はたしてそれを男と言ってよいものか。
ガッチリとした体格は、青年男性の理想像。しかしそれは、白亜のマネキンだ。まるで元々座っているポーズの代物のようだが、彼が直立している姿をジルグムは先ほど目撃している。はたしてどういう原理で間接が曲がっているのか?
神すら信じぬ彼でさえも、マネキンが主張する『私は悪魔だ』という唐突な言葉を信じざるを得なかった。その固定概念に捕らわれないところも、彼は自身の美徳と感じていた。
<交渉、せい、りつ……だ>
表情のない顔が開くはずもない口を結んだまま、頭部のどこかから声を響かせる。くぐもった重く低い声も、地獄の底から響いてくるようで、とても悪魔らしい。
ジルグムはえもいわれぬ昂揚に背筋をゾクゾクと震わせ、一度大麻を大きく吸ってから灰皿に押し付ける。そして確かめるように手を握ったり開いたりした。実感は――特にない。若干、肩透かしを受けつつも、彼は部屋を移動――角に置かれた物を拾い上げる。
そうして彼が無造作に鞘から抜き放ったそれは、本物の日本刀だ。
日本人の祖父の遺品から貰い受けたものだ。もちろん勝手にではあるが。
ジルグムは鏡のように自身の姿を映し出す刀身を、しばしうっとりと見つめた後、唐突に近くの冷蔵庫へと刃を振るった。いかに日本刀の刃が鋭くとも、渾身の力で振るったところで、扉を傷つけるのが関の山だろう。しかし――まるでその場の冷蔵庫が虚像であるかのように、刃は手応えなく通り抜ける。一拍を置いて、冷蔵庫の上半分が、ゴトリと音をたて落ちた。その断面は、ゼリーでも切り分けたかのように滑らか。中のガラス板、ビール瓶、トマト、ソーセージもまとめて切断され、ガラガラと崩れ落ちていく。
数少ない家具を失ったことなどまるで意に介した様子も無く、ジルグムはその結果にしばし陶然と言葉を失い、ややあって身を折りながら笑い出す。
「くくくっ、あははっ……! いいね……いいねっ! 最高じゃないか!」
ジルグムは更に二、三度、更に冷蔵庫を斬り、歓声を上げて出来上がった鉄屑のスクラップに日本刀を突き刺す。
「いいっ! 最高に感謝するぜ、悪魔さん! 俺が一番欲しいものをくれたな!」
<か、んしゃ……不要……>
突き放すような物言いだが、そのマネキンもどこか嗤っているように見えた。
歓喜のあまりオーガズムにさえ至りそうになっていたジルグムは、その猛りを一時的に押し込めようと、ソファに倒れこんで頭を抱え深呼吸した。今此処で興奮のままに騒ぎたてれば、近隣住民が苦情を入れるだろう。この素晴らしき力を手に入れた以上、警察など今更怖くないが、長く殺しを楽しむためには、まず追われる対象になってはならなかった。
燃え滾るような興奮から幾許か落ち着きを取り戻したジルグムは、そこで向かいに座るマネキンの存在を思い出し、やや呂律の怪しい口調で問いかける。
「アンタは悪魔なんだろ? 死後の魂はいらないのかい?」
ニタニタと笑いながら告げた言葉だが、冗談のようで、半分は本気であった。これ以上の〝力〟を貰えるなら、それも悪く無い。しかしマネキンは僅かに震えるようにして首を振っていた。
<いら、ない……それ、より、あ、新しい、身体が……欲しい>
「ははっ、納得だ。その内、特別良いのをあげよう。約束だからな」
こんなマネキンの身体では、出歩くにも不便だろう。悪魔の現状に少しばかり同情したが、それも束の間、ジルグムは次の瞬間には天井を眺めながら女の事を考えていた。
彼は普通の性行為では満足できない
さあ、今夜はどこで獲物を見繕うか――零れる笑みは堪えきれるものではなかった。
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