クリティカル・パスト

蓮角

プロローグ

 《 prologue 》  ~五年前 二〇二二年 八月某日 ニューヨーク某所~


 ジルグム・バーンレイドはその日、今後の人生を大きく左右する重要な選択を迫れていた。――とは言うものの、それは客観的な話だ。当人にとってみれば茶飲み話のついでに、友人と些細な密約を交わす程度の気軽さだった。実の母親と義理の父をその手で殺した彼からすれば、以後の分岐点に二の足を踏むはずもない。

 いや、そのときの決断すらも、特に苦悩があったわけではなかった。少しばかり自分の本心に気づくのが遅すぎただけのこと。だがそれ以降は気をつけていた。心の声に素直に従うようになったのだ。傍から見ればただの狂気であるが、後悔のない生き方をする自分を、彼は最高にイカしていると感じていた。例えそれが悪魔に魂を売るような行為であろうと変わらない。そして、それは決して比喩ではなく――その日、ジルグムへと交渉を持ちかけたのは、紛うことなき悪魔であった。

 安アパートの自室、ブラインドから漏れる熱い日差しを受けながら、ジルグムは煙草の巻紙に巻いた大麻カンナビスを吸っていた。その日、真夏のニューヨークは最高気温三八・八度を記録していたが、彼の部屋は空調が壊れていた。窓からは生温い風すら吹いてこない。室内はまるでサウナのように蒸し暑く、上半身裸になったジルグムの肌は汗に濡れていた。スマートでありながら硬く鍛えられた鋼の肉体だった。首筋にはタトゥー――天使の羽を食いちぎる髑髏スカル。悩ましげな青緑色の瞳とハンサムな顔立ちは、いつも多くの女を虜にしていた。数日放置した無精ひげすら、彼の場合は〝野生的ワイルド〟になる。

 暑さも忘れる薬の多幸感に脳が痺れるのを感じつつ、しかし彼は冷静な瞳で向かいのソファに座る男を見つめていた。――いや、はたしてそれを男と言ってよいものか。

 ガッチリとした体格は、青年男性の理想像。しかしそれは、白亜のマネキンだ。まるで元々座っているポーズの代物のようだが、彼が直立している姿をジルグムは先ほど目撃している。はたしてどういう原理で間接が曲がっているのか?

 神すら信じぬ彼でさえも、マネキンが主張する『私は悪魔だ』という唐突な言葉を信じざるを得なかった。その固定概念に捕らわれないところも、彼は自身の美徳と感じていた。

<交渉、せい、りつ……だ>

 表情のない顔が開くはずもない口を結んだまま、頭部のどこかから声を響かせる。くぐもった重く低い声も、地獄の底から響いてくるようで、とても悪魔らしい。

 ジルグムはえもいわれぬ昂揚に背筋をゾクゾクと震わせ、一度大麻を大きく吸ってから灰皿に押し付ける。そして確かめるように手を握ったり開いたりした。実感は――特にない。若干、肩透かしを受けつつも、彼は部屋を移動――角に置かれた物を拾い上げる。

 そうして彼が無造作に鞘から抜き放ったそれは、本物の日本刀だ。

 日本人の祖父の遺品から貰い受けたものだ。もちろん勝手にではあるが。

 ジルグムは鏡のように自身の姿を映し出す刀身を、しばしうっとりと見つめた後、唐突に近くの冷蔵庫へと刃を振るった。いかに日本刀の刃が鋭くとも、渾身の力で振るったところで、扉を傷つけるのが関の山だろう。しかし――まるでその場の冷蔵庫が虚像であるかのように、刃は手応えなく通り抜ける。一拍を置いて、冷蔵庫の上半分が、ゴトリと音をたて落ちた。その断面は、ゼリーでも切り分けたかのように滑らか。中のガラス板、ビール瓶、トマト、ソーセージもまとめて切断され、ガラガラと崩れ落ちていく。

 数少ない家具を失ったことなどまるで意に介した様子も無く、ジルグムはその結果にしばし陶然と言葉を失い、ややあって身を折りながら笑い出す。

「くくくっ、あははっ……! いいね……いいねっ! 最高じゃないか!」

 ジルグムは更に二、三度、更に冷蔵庫を斬り、歓声を上げて出来上がった鉄屑のスクラップに日本刀を突き刺す。

「いいっ! 最高に感謝するぜ、悪魔さん! 俺が一番欲しいものをくれたな!」

<か、んしゃ……不要……>

 突き放すような物言いだが、そのマネキンもどこか嗤っているように見えた。

 歓喜のあまりオーガズムにさえ至りそうになっていたジルグムは、その猛りを一時的に押し込めようと、ソファに倒れこんで頭を抱え深呼吸した。今此処で興奮のままに騒ぎたてれば、近隣住民が苦情を入れるだろう。この素晴らしき力を手に入れた以上、警察など今更怖くないが、長く殺しを楽しむためには、まず追われる対象になってはならなかった。

 燃え滾るような興奮から幾許か落ち着きを取り戻したジルグムは、そこで向かいに座るマネキンの存在を思い出し、やや呂律の怪しい口調で問いかける。

「アンタは悪魔なんだろ? 死後の魂はいらないのかい?」

 ニタニタと笑いながら告げた言葉だが、冗談のようで、半分は本気であった。これ以上の〝力〟を貰えるなら、それも悪く無い。しかしマネキンは僅かに震えるようにして首を振っていた。

<いら、ない……それ、より、あ、新しい、身体が……欲しい>

「ははっ、納得だ。その内、特別良いのをあげよう。約束だからな」

 こんなマネキンの身体では、出歩くにも不便だろう。悪魔の現状に少しばかり同情したが、それも束の間、ジルグムは次の瞬間には天井を眺めながら女の事を考えていた。

 彼は普通の性行為では満足できない性嗜好異常者パラフィリアだった。女を八つ裂きにして、剥き出しになった子宮に刃を突き立てることで、初めて絶頂に至れる。とはいえ、あちこちに監視カメラが目を光らせる現代社会ではただの一度の殺人すら一苦労だった。だからこそ、手にした〝力〟は彼にとって神の救いにも等しかった。これでいくらでも殺せる。いくらでも犯せる。

 さあ、今夜はどこで獲物を見繕うか――零れる笑みは堪えきれるものではなかった。

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