ツクリバナシ
ミコトバ
「家」ノハナシ
「居留守」
私がまだ幼かったころの話だ。共働きで夜まで帰らない両親のもとで育てられていた私は、夕方帰宅してから一人でいるのが当たり前だった。仕事が終わるのは母の方が早いので、チャイムが鳴ってドアの覗き穴から母の姿を確認してから鍵を開けるのが、両親の言いつけだ。
ある日、いつも通り夕方に帰宅し玄関のドアのカギをしっかりとかけてから居間でゴロンとくつろいでいると、チャイムが鳴った。恐る恐る玄関の前まで行くと、声がした。
「ただいま」
それは紛れもなく母の声だった。しかしこんなに早く帰ってきたことに疑問を感じた私は覗き穴からその姿を確認した。そこにいたのは確かに母だったが、幼いながらに何か違うと感じて、私は静かに居間へと戻ろうとした。その時だった。
「いるくせに」
そうドアの向こうから呟いたのは、まるでノイズのかかったような気味の悪い声だった。再び覗き穴を覗くと、そこには誰もいなかった。
「手料理」
結婚して六年目、妻との関係が冷え始めた私は浮気をしていた。会社の同僚の女性と、毎晩のように密会を重ねた。次第に帰宅することも少なくなり、昔は楽しみだった妻の手料理の味も今では思い出せなくなった。きっと妻も気づいているだろう。けれど昔から気の弱い性格で強く意見を言えない奴だから、責め立てられることもない。たまに夜遅くに帰って浮気相手の香水の香りを全身に纏わせていても、目を伏せるだけで文句の一つも言わなかった。
しかしついに、妻は離婚届を差し出した。私が署名を終えると、これが最後だからと手料理を並べた。私は何も言わず、黙々と忘れていたその味を口に運び続けた。
「さようなら」
そう言って席を立ったかと思うと、妻は久しぶりに笑顔を見せた。
「これでようやく、報われる」
私は途端呼吸が苦しくなり、右手に持っていた箸を落としてそのまま体が椅子から転げ落ちた。全身は震え、視界も霞む。ヒューヒューとか細い息を漏らし、こうなったのが今食べていた手料理のせいだと分かったのは、意識が途切れる直前のことだった。
「お姉ちゃん」
私には姉がいる。歳は私の三つ上で、生まれつき体が弱く学校には通っていない。そして私は、姉の姿を見たことがない。姉のことは両親に聞かされるばかりで、その姿ばかりか声すら聞いたことはない。姉の部屋は私の部屋のすぐ隣にあるが、たまに壁に耳をあてて声を聞こうとしても、物音ひとつ聞こえないのだ。こっそり入ろうとしたこともあったが鍵がかかっており、親に見つかって激しく怒られてからは怖くて近づくこともできなかった。
そんな話を、たまたま町中で会った伯母に話すと、伯母は不思議そうな顔をした。伯母によれば、私の姉は私が生まれてすぐに事故に遭って亡くなったというのだ。私はどうしても確かめたくなって、両親にそのことを問いただした。すると両親は仕方がないといった様子でついに姉の部屋のドアを開けた。部屋の中にいたのは、顔の部分に生前の姉と思われる顔写真が貼られた、およそ十代の女性の服装を着させられているマネキン人形だった。両親は笑顔で言った。
「お前のお姉ちゃんだ。親戚の中には死んだなどとふざけたことを言う人たちもいるが、こうしてちゃんと、生きているからな。お前も変なことを言うんじゃないぞ」
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