旅の始まりと仲間
3−1
落ち着け、まだ慌てる時間じゃない。
まあ、時間も場所もわからないんですけどね? どこだよ、ここは。
ははは、と空笑いして男から視線を引き剥がすと、大山はひとまず起き上がった。体に掛けられていた毛布と厚い織物がめくれて、冷気に当たった体がぶるりと震える。大山の全身は、寝汗でじっとりと濡れていた。
小さな部屋だ。ベッドが二台に戸棚がひとつ。部屋の中は薄暗く、窓から向かいの建物の灯りが差し込んでいる。
混濁した記憶の中に、この部屋で荷物を片付けた場面が断片的に浮かび、大山は眉間に皺を寄せた。確か、青い屋根の小さな宿だ。頭が痛い。喉はカラカラで、股関節がおかしな開き方をしている。
股の間に何かが挟まっているような……いやん、誰かにいたずらされちゃった?
のろのろと下腹部を見て、大山は悲鳴を上げた。
「うわあああ!」
「えっ、なに? びっくりするなあ!」
床の男も叫んでいるが、いまはそれどころではない。大山のズボンと下着は半ば下ろされ、股間に半透明のオレンジ色をした物体が張り付いているのだ。
「なんじゃこりゃあああ!」
無意識に謎の物体を引き剥がし、思い切り壁に叩きつける。物体は柔らかく、湿った感触がした。白塗りの壁にべちゃりと張り付いて、ゆっくりと剥がれる。
ぼとん、と落ちた物体を目で追った大山は、そこに二人目の不審人物を見つけた。薄汚れた服を着て、暗がりのなか膝を抱えて座っている。その人物は謎の物体を投げつけられた事に驚いてか、びくっと身をすくめた。
お前も誰だよ!
部屋の隅に座っているのは、痩せた体の少年だ。どことなく東洋人っぽい風貌で、歳の頃は中学生くらいに見える。長い前髪の間から、おどおどした目が覗いていた。
どこかで見た顔だ。ええと……あの馬車に乗っていた、使用人らしき少年。
大山の混乱に拍車がかかり、呼吸が荒くなる。乾いた喉が絡んで、彼は何度か咳き込んだ。
「これが落ち着いていられるか……いや、落ち着こう。なにか数えるんだっけ? ああ、素数。素数って、七までしか覚えていないんだよな……次が十一だっけ? 数えるほどねえや」
ひとり言をつぶやいて、天井を見上げる。細田はどこだ。あいつなら素数くらい、余裕で百桁は諳んじてみせるだろう。
深呼吸をして、ゆっくり顔を戻す。隣のベッドを見れば、寝具に鼻先まですっぽりと埋もれた友人がいた。彼は周囲の騒ぎもよそに、ぐっすりと寝入っているように見える。
いや、本当に寝ているんだよな。まさか死んでいないよね?
細田が、寝ているのに眼鏡をかけたままなのが怖い。大山は下着とズボンを直して、妙に力の入らない足を床に付ける。彼の両足は、革靴を履いたままだった。ベッドの間に座っている男が邪魔だ。蹴飛ばしたい。
「なあなあ、落ち着いたなら話を聞いてくれよ。もう一刻の猶予も無いんだって」
「うるさい、黙れ」
大山が睨みつけると、男はヘラヘラと笑って返した。誰だか知らないが、いますぐ捻り潰したい。
「おい、ダダ……細田。起きろ」
そっと声をかけて、頬を軽く叩いてみる。普段よりもさらに顔色の悪い友人は、まぶたを痙攣させて反応した。ほんの少しだが、唇もピクピクと動く。
あまりの安堵に、大山はその場で崩れ落ちた。床に打ち付けた膝が痛い事にさえ、感謝の念が湧き上がる。ベッドの敷布に突っ伏して、彼は埃っぽい空気を何度も呼吸した。
なにはともあれ、自分たちは生きている。現状はさっぱり理解できないが、命さえ無事なら大丈夫だ。
呼吸を整えて、全身で世界の力を取り込む。まずは、このおかしな疲労を取り除かねば。ぎゅっと目をつむれば、顔の皮膚が引き攣れた。全身の水分が足りない。血の巡りが悪く、握りしめた指先が痺れている。あまりの空腹に、胃がキリキリと痛む。
それでも大山の肉体は、ひとつ呼吸をする度に力を取り戻した。
ひたひたと湧き上がる力は、温かい水のように全身を満たしてゆく。再び目を開いた時、大山はすっかり体調を取り戻していた。
だが、空腹はそのままだ。本当に、いったい何があったんだ?
小さなうめき声に顔を上げれば、細田が薄く目を開くところだった。
「よお、ダダ君。おはよう」
「んー……」
「気分はどうだ? ああ、起きなくていい」
しょぼしょぼとした目でこちらを見る細田に、大山は上掛けを優しく叩いてやる。友人は、まだ手足を動かすのも億劫そうだ。
「たぶん、お前も疲れてるだろうから、もうちょっと寝てな」
さて、問題をひとつずつ片付けていこう。
すっくと立ち上がり、床に座った男を見下ろす。
「お前は誰だ」
「えー。そこから?」
大山は、感情のままに男の肩を蹴った。
おっと、ついやってしまった。反省してまーす。
「いったあ! ちょっと君、ひどいね?」
ばたんと仰向けに倒れた男は、芋虫のように身を捩る。
改めて観察すれば、男は妙な格好で縛られていた。麻縄のような荒い紐が、肩とみぞおちの二箇所を腕ごと縛り上げ、両の手首はそれぞれ太腿の付け根に括り付けられている。足首も縛られているので、あんな格好で座っていたのだろう。
「あ、じゃあ、さっきのウドノ虫でもいいから。ね、お願いだよ。おしっこ漏れちゃう」
「……ウドノ虫?」
どこかで聞いた名称だ。
大山のオウム返しに、男は首を反らして部屋の入口を向いた。
「そうそう。さっき、君が壁に投げたやつ。まだ赤くないから使えるでしょ。ラガ君さあ、君も不親切だよね。この人たちが、丸一日は目覚めないって聞いてたでしょ? 外を見てよ、もう夜じゃん! 俺の事はどうするつもりだったのさ」
男の視線の先には、膝を抱えた少年がいる。そうだ、ラガ。出会った時、あの女剣士が彼をそう呼んでいたっけ。大山も少年に視線を向けるが、彼は自分の膝に顔を突っ伏してしまった。
「ったく、使えないなあ。もういいよ、漏らしちゃうから。宿の人に怒られるのは、ラガ君だからね!」
「あんた、さっきから漏らすもらすって。子供じゃないんだから、少しは我慢しろよ」
「本当に限界なんだよ! 君たちはいいよねえ、ウドノ虫くっつけて、暖かいお布団でぐっすり寝てたんだからさ……いや、ごめんなさい。本当に助けて」
揃えた脚をもじもじと動かす男に、大山は軽い頭痛を覚える。男は顔立ちから察するに五十代くらいで、体格もかなり良い。衣服は大山やラガ少年と違い、生成り色をしたボタン留めの襟付きシャツに茶色のベストを着て、下には細身のズボンを履いている。ズボンにはなんと、ベルトまであった。
無精髭に覆われている顔はそこそこ整っており、どことなく海外の映画俳優を彷彿とさせる。衣服もそうだが、容姿が白人そのものなのだ。これまでに見かけた人々が、みな中東や中央アジア、ラダーでさえ東洋風の外見だったので、男の存在はかなり目新しく見える。
そんな男が床に転がり、漏らすと言って腰をくねくねさせているのだ。
大山は、がっくりと肩を落とした。問題は山積みだが、この男の言うことにも一理ある。借りている宿の床を汚されるのは、大問題のひとつだ。
確か、この部屋にも便器があったよな。虫の入った、例のおまる。くそ、記憶が曖昧だ。
「……わかった。縄は解いてやるから、逃げるなよ」
「だめだ!」
大山が便器を探して洗面台に近づくと、ラガが弾かれたように顔を上げた。
「そいつは陣使いだ! 手を解いちゃだめ!」
「あのさあ、ラガ君。何度も言ってるけど、俺がその気なら、とっくに逃げてたっての。せっかく助けてあげたのに、この仕打ちはないんじゃない?」
「誰も頼んでない! あんたが居たせいで、奴らに見つかったんじゃないか!」
「あれは、俺のせいじゃないもんねー」
なにこの状況。
とりあえず、便器は洗面台の下で発見した。虫は入っていない。少年の横に落ちている虫を拾ったが、すでに動いていなかった。死んじゃったかな。申し訳ない事をした。
部外者二人が言い合っているのを無視して、細田の布団を剥ぐ。予想通り、まだ元気な虫が股間に張り付いていたので、それをつまんで便器に放り込んだ。細田が、靴の臭いを嗅いだ猫のような顔をしたが、それも全力で無視する。
「ほらよ、便所だ」
大山は便器を床に置くと、男と少年の間に立つ。左右に視線を流せば、二人は気まずそうに押し黙った。
「お二人さん、ここは俺たちの借りている部屋なんだ。喧嘩したいなら、表でやってくれ」
「ほら、怒られたー」
「いや、お前の事だよ。子供と同じレベルでやり合うなって」
このおっさん、調子が狂うな。
大山は、男を見下ろして首を傾げた。ラガがこの場に居て、男が縛られているという事は、やったのはラダーたちだろうか。
「それで? あんたが馬車の四人目かな」
「あ、気づいてたんだ。さっすがー」
「本当にうるさいな」
大山は男を縛っている縄を掴んで、乱暴に座らせてやる。縄はそれほど太くない。力を込めて引っ張れば簡単に千切れた。
「だめだって! なにしてんだよ!」
「お前もうるさいぞ。黙れ、ガキンチョ」
騒がしい少年を放置して、男の縄を全て解いてやる。手首と脚の付け根はあまり余裕が無かったので、引き千切る時に男が悲鳴を上げていた。少し、手首の皮が剥がれたようだ。
まあ、知ったことではない。
自由になると、男は弾かれたように便器を掴み、部屋の隅に駆け寄った。限界だと言うのは本当だったようだ。嫌な音がするが、聞かない振りで少年に向き直る。
「お前ひとりか? ラダーとハンダはどうした」
「みんなは……わからない。僕は、ここまでだって言われたから」
「そうかい。じゃあ、もう用は無いから出て行け」
「なんで……助けてよ。僕、ひとりになっちゃったんだ。ラダーは、あんたたちに付いて行けって」
「ああ?」
大山が睨み付ければ、ラガは壁に縋るようにして小さくなった。
「いやあ、助かった! 君、良い奴だなあ!」
用の済んだらしい男が、ズボンを直しながら振り返る。彼は横目にラガを見下ろして、ひょいと片方の眉を上げた。
「ラガ君は、厄介払いされちゃったんだよ。可哀想にねえ」
「違う! あんたと一緒にするな!」
「一緒じゃーん。お姉ちゃんに捨てられたんでしょ?」
「要らないのは、あんただけだ! 僕は、ぼくは……」
「せっかく自由になったんだから、後は好きに生きれば? 俺はもうしーらない」
「おいおい。また二人でお話か。ずいぶんと仲が良いんだな」
もう限界だ。
大山は男の首根っこを掴むと、力ずくで部屋の外に出した。大柄と言っても自分より十センチは身長が低いので、簡単につまみ出せる。
廊下に出されると、男は目をぱちくりさせて振り返った。
「え? ちょっと待ってよ。俺、一文無しなんだけど」
「知るか。さっさと出て行け。お前もだ」
まだ座っているラガの腕を掴むと、少年は身を捩って抵抗した。もちろん大山には、子犬が暴れている程度にしか感じられない。
「待ってよ! 話を聞いて。僕、ラダーから手紙を預かってるんだ。それにお金も……」
「そうかいそうかい、良かったな。なら、そっちのおじさんに恵んでやれ。じゃあな」
少年も廊下に転がして、力いっぱいに扉を閉める。
よし、これで清々した。
内鍵を閉めて部屋を振り返れば、細田が腹を抱えて笑っていた。ひーひー言うのを黙って見ていると、そのまま咳き込んでひっくり返る。
「おい、起き抜けになにやってんだ」
呆れた大山は、友人の面倒を見てやることにした。ベッドの間には、宗教施設の部屋と同じように、小さな引き出し付きの棚がある。陶器の水差しとコップも用意されているが、どちらも空だ。
まあ、こいつには空のコップで構わない。
むせ返っている細田を起き上がらせてやり、コップを手渡す。小さな声で「まど」と言うので窓を開ければ、彼は自分で水を汲んで飲み、ようやく人心地ついた顔になった。
「よう、山ちゃん。ナイス対応」
「当たり前だ。あんなの付き合ってられるか」
「で? 盗られた物は無いかね」
「あー。いま確認する」
細田が二つ目のコップにも水を汲んでくれたので、飲みながら荷物を改める。上着とズボンのポケットに入れていた財布は、どちらも無事だ。中身を正確に数えてはいないが、何枚かくすねるくらいなら丸ごと持って行くだろう。
風呂敷包みは自分のベッドの隅にあり、毛布の切れ端まできちんと入っていた。戸棚の鍵もそのままで、中にはリュックサックが二つと、トートバッグが詰まっている。
「大丈夫だ。盗みのために眠らせた訳じゃないみたいだな」
「そりゃあ良かった。まあ、あのガキが居たくらいだからな。手紙を預かってるって?」
「大方、親切なおじさんに、子供の面倒を頼むとかって話だろ。ったく、甘く見られたもんだ」
大山が眉をしかめると、細田も長々とため息をついた。
お互いに顔を見合わせて、疲れた笑みを交わす。
「さすがに、こっちのパターンは予想してなかった。あんまり親切にしすぎると、変な誤解をされるんだな」
「それだけ、こっちの世界が殺伐としてるんだろ。で、どうするよ」
「宿の払いが心配だから、下に顔出して来る。今日はもう飯食って寝よう」
「さんせーい。あ、風呂も入りたい」
「へえ、珍しいな」
大山が言うと、細田は心底から嫌そうな顔をして、雑に引っ張り上げただけのズボンをつまむ。
「ああ、虫ね」
「思い出させるなよー。なんだよあれ、ひどくね?」
「漏らす心配があるくらい長い時間、寝てたって事だろ」
窓の外はすっかり日が落ちて、通りのあちこちに明かりが灯っている。建物の柱にはランタンが下がり、道には石灯籠のような物も置いてあった。
窓を閉めると、余計に部屋が暗く感じられる。卓上ランプがあるので棚の引き出しを開けてみると、果たして蝋燭の箱と、それより大きな金属の箱があった。
「火口箱だ。マッチは無いみたいだな」
「蝋燭だけ用意して。とにかく風呂と飯!」
「はいはい」
ランプの火屋を開けて蝋燭を刺せば、細田が指のひと振りで火を灯してくれる。まったく便利な男だ。
「ここに着いたのは、昨日の夕方かな?」
「まる一日がどうとか言ってたからな。ったく、こっちも暇じゃねえってのに」
本当に、面倒な事になった。
今後は困っている人を見かけても、変に親切心を出さずに無視しよう。それが平和だ。
大山が部屋を出ようとすると、細田に呼び止められた。
「ひとつだけ注意してくれ。あの、馬に乗っていた奴らな。
「へえ? よく知ってるな」
「あのばあさんに貰った本に書いてあった。灰色のローブが短くて、腰から下にスリットが二本入ってるのが特徴だとよ。こいつらはガヤンたちと違って、武器も持ってる」
「了解。見かけたら逃げるわ」
「それと、里にも地元の番人が居るからな。変に探られるようだったら、さっさと移動しよう」
「はいよ」
廊下には、すでに男もラガも居なかった。
ほっとして階段を下りる途中で、大山はふと気づく。
あのばあさんに貰った本? 細田の持っている本は、ガヤンから渡された本ではないのか。ああ、だからバッグの中身を見た時に、変な顔をしたんだな。
こうなると、自分も本を読ませてもらう必要がありそうだ。妙な翻訳機能も我慢して、知識を仕入れるとしよう。
大山が宿の受付に顔を出すと、そこにはひとりの少女が居た。
外国風の顔立ちと背の低さで、年齢はよくわからない。十代ではあると思うのだが。上着が赤茶色なので、彼女も従業員だろう。
「あら、お客さん」
少女は驚き顔で大山を見上げると、片手で口を押さえた。
「あの……大丈夫ですか?」
「こんばんは。ええと……大丈夫、というと?」
「いま、おかみと近所の人たちが、番屋に行こうかって相談していて。ご無事なら、本当に良かったです」
「ありゃ。それは、ご心配をおかけしました。おかみさんは、いまどちらにいらっしゃいますか」
「食堂に居ます。声をかけましょうか」
「いえ、こちらで挨拶させていただきます」
受付の奥の扉は開いていた。入ってみると広い部屋で、椅子の四脚あるテーブルが五つと、片側にカウンターが設えてある。
カウンターの内側は台所のようで、とても良い匂いが漂っていた。だが、すでに夕食は終わったようだ。手前のテーブルで、宿のおかみさんと、同じ赤茶色の服を着た年配の男性、そして衣服はバラバラながら体格の良い男性が三人、深刻そうに話し合いをしている。
そりゃあ、騒ぎにもなるよな。宿泊客とは関係の無い人間が、二人も下りて来たんだから。
「すみません、おかみさん。ちょっとよろしいですか」
大山が声をかけると、おかみさん……確か、ミヤさんと言ったっけ……が、ぱっと顔を上げた。
「あら、あんた! 良かったよ、無事だったのかい」
「はい、おかげさまで。すみませんでした。ずいぶん、ご心配をおかけしたようで」
「まったくだよ。もう少しで、男衆と部屋に押しかける所さ。それで、もうひとりの人は」
「連れも無事です。さっき出て行った奴らは、どうしましたかね」
「それだよ! まったく、聞いとくれよ」
そこからは、ミヤの独擅場だった。
男たちが椅子を勧めてくれて、大山はミヤの話を大人しく拝聴する。彼女によれば昨日、大山と細田が宿を出て半刻も経たないうちに、ヒージャの風亭から若い衆が手伝いを呼びに来たらしい。
ラダーたちの泊まっていた宿だ。そこの食堂で大山と細田が倒れていたそうで、双方の宿の従業員と、二人の客が協力して部屋まで運んでくれた。
「その背の高い女は、酒を飲みすぎたんだろうって言ってたけどね。出て行ってすぐだし、大して酔った風でも無かったんだ。おかしいと思ったけど、この人が
「おい、それじゃまるで、俺が金で目をつむったみたいだろ」
ミヤに指さされた赤茶色の上着の男性が困ったように口を挟んだが、彼女は余計に語気を荒くした。
「その通りじゃないか! 朝になっても起きて来ないし、呼んでも部屋には鍵がかかってる。あたしは何度も、中の様子を見ようって言ったのに」
「でもなあ、お客さんはこうして無事だったんだし……」
「それに、さっきの男どもはなんだい。あんな奴ら、うちに入れた覚えはないよ!」
おや、あの男とラガは、昨晩そのまま残った訳ではないのか。
大山は軽く身を乗り出して、ミヤを宥めるように手を振った。
「まあ、その辺で。事情は大体わかりました。俺も連れも怪我ひとつありませんし、荷物も無事です」
にっこり笑えば、ミヤは鼻息をついて椅子の背にもたれかかる。
「心配して頂いてありがとうございます。俺たちにも隙があったんでしょう。この事で、宿の方に苦情を言うつもりはありませんから」
「まあね。本当に、生きててくれて助かったよ」
「そうですね……いくつか、質問してもよろしいですか」
ミヤの言葉で、大山の背筋が伸びる。
彼女の言う通りだ。油断にも程がある。自分たちは、あのまま殺されていてもおかしくなかった。
大山はこれまで、仕事で海外へ行く際にも細心の注意を払っていたつもりだ。だが、その警戒のほとんどは、スリや盗難といった金銭的な被害に向けられていた。
ホテルと取引先を往復し、たまに地元の飲食店に行くだけなら、それで良かった。しかし、ここは異世界だ。地球の都市部と同じように考えていては、この先もっと酷い目に遭うだろう。
「俺たちは他の宿で気を失って、こちらの宿まで運ばれたんですよね。それは、昨日の夕方で間違いないですか?」
「ああ。五の鐘が鳴って、しばらくしてからだね」
「その後、俺たちは部屋で寝かされて……その時には、例の男と少年は居なかったんですよね」
「それがおかしいのさ! さっき、あいつらが下りて来るのを見て、驚いたのなんの」
ミヤが、憤慨したようにテーブルを叩く。
「うちは八の鐘が鳴るまで、必ずひとりが受付に居るんだ。時間になっても戻らない客が、たまにいるからね。それから全部の出入り口を閉めて、朝までは誰も入れない筈なんだよ」
「そのご質問には、俺がお答えしましょう」
声に振り返れば、またあの男が居た。
髭面を笑顔でいっぱいにして、大山にひらひらと手を振っている。彼の背後では、受付の少女がおろおろと足踏みをしていた。
ミヤが、弾かれたように席を立つ。
「あんた! よくもぬけぬけと顔が出せたもんだね!」
「いやあ、すごい剣幕で追い出されちゃったから、大人しく退散しようとは思ったんだけどね。もう七の鐘が鳴る時間でしょ? 宿も無いし、今晩はここに泊めてもらえないかなーって」
へらへらと笑う男をよけて、大山は宿の入口を覗き見る。ラガ少年は居ないようだ。
「このお兄さんたちと同じ部屋でいいからさあ。頼むよ」
「話の内容によるな。気をつけて口を開けよ。ここには、怖い人たちが居るんだぞ」
大山が、そう言ってミヤを取り囲む男衆を手で示せば、彼らは腕組みをして男を睨みつける。
特に赤茶色の上着の男性は、鬼瓦のような顔で男を見上げていた。銀板一枚どうこうが、かなり負い目になっているようだ。
「俺たちの部屋に忍び込んだ方法によっては、番屋に突き出されても文句は言えないんだからな」
「もちろん、俺は犯人じゃないからね。それをやったのは、ハラ奥様だよ。シャイダ=ハラ。シャイダ家に嫁ぐ前の名は、ハラ・リャガとか言ったかな。この国のタズルト
どうだ? という顔をされるが、大山にはさっぱり意味がわからない。
だが、周囲の人々の反応は全く違った。ミヤが脱力したように腰を落とし、男衆の何人かは口をぽかんと開けて男を見返す。
「ハラ奥様は、闇の呪術士でね。鍵開けと忍び足がお得意なんだ。と言っても、別に盗みや殺しはしないから安心してくれ。俺というお荷物を置いて行くのに、ちょっとお兄さんたちの部屋にお邪魔しただけだからさ」
「本当に、奥様とお嬢様が居たのか。俺は、そこから疑ってたぞ」
大山の言葉に、男は面白そうに笑って返した。
「そこはほら、ラダーちゃんが嘘の苦手な子だから。この国へ逃げて来るのに、いくつか筋書きは用意してやったんだけどね。結局、ジョードの政争に巻き込まれて、お嬢様を安全なドウリャの誰かに嫁がせる、みたいな話に落ち着いたみたいだよ」
「ジョード?」
「ドウリャのすぐ北の国だよ。君たちも、北から来たんじゃないのか」
「なるほど」
昨日から大山は、地元の人々に「北の人」と呼ばれている。東洋人のようなラダーの容姿が、その北の国のものなら、日本人の自分と細田も同じく北からの旅人だと思われるのだろう。
細田なら、周辺国の地理も知っているだろうか。今後は、出身地を問われても答えられるよう、なにか背景をでっち上げる必要があるな。
「で、お前はどこから来たんだ。その外見だと、この辺りの生まれじゃないんだろう?」
「おっ、興味が出て来た? 俺のこと知りたい?」
「やっぱりいいわ。面倒だから出て行け」
「すみません。助けて下さい。お腹が空いたんです」
男はいきなり膝をついて、大山の脚にすがりついて来た。本当に、心底から鬱陶しい。
「君も見たでしょ? 俺、あいつらに縛られて、丸一日も部屋に閉じ込められてたんだよ。君たちと同じ被害者なの! 可哀想だと思わない?」
「まったく思いません。お引き取り下さい」
男の手を振り払って、ミヤに向き直る。彼女はすでに、虫けらでも見るような目で男を睨んでいた。
「おかみさん。どうやら犯人は、貴女のお兄さんが勤めている宿に泊まっていた、背の高い女性たちのようですね。あの連中は、いまどうしていますか」
「それがねえ。あの晩、いつの間にか居なくなってたって言うんだよ」
「夜の内にですか?」
「部屋を使った様子も無いし、盗られた物も無かったからね。リダが……ああ、ヒージャの風亭のおかみだけど。払いは済ませているし、問題にしたくないからって組合長にも届けてないのさ」
「そうなると、もうこの里には居ないでしょうね。わかりました。被害が無いなら、俺たちも問題にはしません」
「ねえ、みんな無視しないで! お願いします、なんでもしますから!」
足元で、しつこく言い募る男がうるさい。
大山が男をどうやって追い出そうかと思案していると、背後で不規則な足音がした。
振り返れば、細田だ。壁に手をつきつつ、階段を下りて来たところらしい。受付の少女が、慌てて手を貸してやっている。
「よう、ダダ。起きて大丈夫なのか」
「まあねー。山ちゃんの帰りが遅いから、様子見に来た」
細田は少女に促されて近くの椅子にかけると、床に座り込んだ男をじっと見下ろす。
病み上がりのようにやつれた細田が、眼鏡のレンズ越しに凝視するのに怯えてか、男は言葉も無く見返すばかりだ。
「おっさん、名前は」
「デニス……デニス・ロビンソンだ」
「ほう。聞いたような名だな。姓の響きからすると、出身はアメリカか? それともイギリスかね」
「なん……君は、いったい」
「俺か? 俺の事は気にするな。で、地球からお越しのデニスさんは、陣使いなんだってな。貴重な能力者じゃないか。この国じゃ、その辺の呪術士より使い勝手が良い」
細田が身をかがめると、男は視線に押されたように後ずさりした。大山の脚に肩が寄りかかるので、とても迷惑だ。
「文無しなんだって? 助けて欲しいのか。この世には、一宿一飯の恩って言葉があるんだ。俺の貸しは高く付くぞ」
「い、いや……すまん。忘れてくれ。ずいぶん親切な人たちだから、もしかしたら助けてくれるんじゃないかな、って思っただけでね」
「おい。逃げるなよ」
細田の指が、パチンと鳴る。
もちろん、ただのパフォーマンスだろう。だが、実に効果的な演出だった。部屋の中の明かりが一斉に消え、広い食堂が薄闇に包まれる。
ミヤと男たちが、びくりとして立ち上がりかけるのを見て、大山は片手を上げた。大丈夫ですから、とささやけば、喉を鳴らして細田に注目する。
もう一度、細田の指が鳴る。今度は、食堂の扉が音を立てて閉まった。受付の少女が、飛び上がって戸口を振り返る。
「デニス・ロビンソン。よく聞けよ。俺はいま、ものすごく機嫌が悪い」
薄闇の中で、細田の眼鏡だけが光っている。窓の外の明かりが反射して、レンズの奥の目は見通せない。
だが、彼の声は底冷えするような笑いを含んでいた。
「クソったれなド田舎で、クソったれな奴らに追い回されて、ひと息ついたと思ったら、今度はあのクソ女どもにしてやられたんだ。まったく腹が立つよなあ、山ちゃん」
「ああ、そうだな」
腹が立っているのは大山も同じだ。
ラダーやハンダに対して、なにか仕返ししようという気は無い。だが、この鬱憤を向ける八つ当たり先くらいは、あっても良いのではないか?
「俺が、この世でいちばん嫌いなのは、ひとの親切心を当て込んで要求を上乗せしてくる連中なんでね。つまり、目の前にいるお前だ」
「そういうこと。さて、デニス・ロビンソン。お前は俺たちに、どんな礼をしてくれる?」
パチンと指が鳴り、部屋の明かりが一斉に灯る。
食堂の面々が唐突な明るさにまばたきする中、細田は悪魔じみた笑みを浮かべてデニスを見下ろしていた。
「なんでもする、って言ったよな」
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