ぼくはちっとも変わらない、だから。
鈴原桂
第1話
その日、施設に下見に来ていたミキと施設を案内するスタッフが二人連れで歩いていたところにそれは来た。
「決めた」と突然来た男性はミキの服を握りしめて、言った。
「君がぼくの配偶者だ。だからぼくの世話も今から君がやるんだから」
まだ卒業後の進路も決めていない学生だったミキの将来も、このときに彼は一方的に決めてしまった。
初潮が始まった朝、ミキは朝食のトーストを睨みながら、母親にそのことを伝えた。母親は心得たとばかりに頷き、ミキが産まれたためにあと1人男児を産まなくてはならず、臨月を向かえ張りだしたお腹を撫でながら言った。
「おめでとうって言うべきなんだろうね、あんたやたら遅かったから。やっぱり最初は女の子が良いわよ。男の子の寿命は短いもの。産まれた瞬間に別れを覚悟する。私は何度も何度も子供を産むなんて大変なことしたくないって、若い頃は思ってたけど、自分の子供がみるみる成長して、大人になって子供を作りすぐに老いて、死んでいくのを見たら気が変わった。すぐに2人目には女の子を産もうと思った。女の子を産んだら、人口を保つために後2人男の子を産まなきゃいけないって分かってたけど。」
そう言うミキの母親は、ミキを産む前に長男の死を見届けた後だが、まだ十分若々しかった。背中にかかる癖のない髪は艶があり、白い素肌に目立つシミもない。もちろんそれは日頃の手入れの賜物もあり保っている若さではあったが、身内であるミキから見ても、母親は綺麗だった。
女性の平均寿命は120歳だけど、母親はさらに長生きするかもしれない、とミキは思う。最近の若い世代は古い世代よりも、長生きする傾向があると学校の先生が言っていた。私も130歳くらいまで生きるのかもしれない。
その反面、男性の平均寿命は20歳とずっと短い。男性特有のY染色体のせいだ。哺乳類の進化の過程で、Y染色体は世代を追うごとに、短くなり変化していった。現在、男性は女性の4倍近い速さで成長し、配偶者を見つけ、次世代を作り、あっという間に亡くなって行く。そのために男性は女性よりも高いIQを持っている傾向があった。
短期間で生殖期間まで成長し、子孫を残せるまで生きられれば、生物としては問題ない。長寿は進化の意味では停滞を意味する。世代交代が遅くなれば、進化もその分遅くなる。男性の寿命が短いのは次世代を早く作るのに適しているとミキは学校で教わっていた。
ミキはまだ自分の生物学上の父親と、今の二人目にあたる戸籍上の父親以外の男性とほとんど関わったことがなかった。ミキの生物学上の父親はミキが小さい頃寿命で死んでしまったので、彼女の男性の知識は今の父親と街で見かける誰かの父親、友達の父親からと、授業で聞いたものばかりだ。ミキが今の自分の父親で知っていることは、朝は誰よりも早く家を出、遅くに帰ってくる仕事ばかりの人で、たまの休日には一緒に出かけてくれ、親切にしてくれるが、それもあと何年できるだろうかということだった。二人目の父親は母親がミキに紹介しれくれたときは若く、母親とそう年も変わらないように見えたが、今はどう見ても父親のほうが老けていた。
男性は女性と寿命や成長速度があまりにも違うので、産まれた瞬間に分けて育てられる。女児は母親と一緒に過ごせるが、男児は産まれたらすぐに施設に預けられ、そこで養育される。ミキには次男の弟がいるが、ミキは会ったことはない。施設に出入りできるのは初潮を迎えた女性だけであり、施設から出られるのは成人し配偶者のいる男性だけだからだ。母親は定期的に施設に会いに行って様子を見ては、瞬く間に成長する息子に驚く話をミキによくしていた。
ちょっと前まで、ハイハイしてたのに、いつの間にか私より大きくなって、もう配偶者を見つけて、来月からは立派に施設の外で働く予定だよ。頭の良い子でね、雑誌の校正の仕事をするらしい。施設を出たら、あんたもいつでも会おうと思ったら会えるね。
母と毎日顔を合わせて生活しているミキは、その話を聞く度に、居心地の悪い思いをする。自分の男兄弟はなかなか母に会えないので、自分ばかり贅沢をしているような気がするのだ。そのことをミキは一度母に伝えたことがあった。すると、母は大笑いしながら、言った。
何言ってんの。施設にいれば何不自由なく、そこで働くスタッフに大事に世話をされて、男の子たちはすくすく育つ。それに男の子は立派に育てば、すぐに配偶者を自分で見つけて子供をつくって、その配偶者と子供のために働いて、生きて、あっという間にいなくなる。そういうもの。あんたが心配するようなことじゃない。他のものに夢中になって、あっという間にいなくなるから、母親のことなんて、ほとんど考えないに違いないんだから。1人目のもういない息子もそうだったし、今までの夫も母親や兄弟のことなんて、話題に出したことなんてないよ。実際、自分の息子に1度も会いに行かない母親もいるくらいなんだから。あんたにはまだ何でか分からないだろうけど、会いに行くのは義務じゃない。
ゆっくり歩き、朝食の残りを片づけながら母親が聞いた。「あんた、いくつになったけ。」
「18。」
そのあとに続く話を予想して、ミキはぶっきらぼうに答えた。
「あと2年で成人でしょ。丁度いいじゃない。施設に下見に行ってきなさいよ。学校帰りに。あんたちょっと地味だけど、見た目もそんなに悪くないし、すぐ良い相手見つかるわよ。」
施設の下見とは将来の配偶者探しのことで、ミキは頬に不細工な皺を寄せた。
ミキは自宅から3駅先の一番近いところにある施設そばに来ていた。ガラス張りの巨大なエントランスにはまばらに女性の出入りがある。平日の今日は人が少ない。出て行く人の方が多いのは、閉館時間が近いからだ。ミキは下見に行く決心がつかずに、施設のそばの歩道橋のちょうど真ん中の手すりに寄りかかり、長い時間を無為に過ごしていた。そこからは施設の外観がよく見える。いつもは近くに来ても通り過ぎるだけの施設を改めて眺めながら、母親と違い跳ねやすい猫っ毛の肩までの髪を風に揺らす。
施設は初潮が来てからでないと行くことができない。ミキは初潮が来るのが遅くて、そのことを少し恥ずかしく思っていた。同年代の女性はとっくに一度は施設に行っていて、中にはもう将来の配偶者を見つけている者もいる。学校で配偶者探しの話題が出るたびに、ミキは居心地の悪い思いをした。仲間内で、施設にまだ一度も行ったことがないのは、ミキだけだったからだ。そのため、今日初めて施設に行くことをミキは親しい友達にも話していなかった。自分の年で、今更初めて行くのはきまり悪い。施設のスタッフもミキの歳を聞けば、初めてくるには遅いと思うに決まっている、とミキは渋面を作る。できれば、すぐに帰りたい。ミキは頭の中で稚拙な言い訳を作った。施設に行ったが、遅れてしまったので、じっくり見る時間はなかったという言い訳を。行ったという事実があれば良い。一人納得すると、ミキは歩道橋を降りて、エントランスに向かい足を進めた。施設から出てくる人の年齢は様々だ。一人で来ている人もいれば、何人かで来ている人もいる。親子や友人同士で来ているのかもしれない。ミキはエントランスに足を踏み入れたものの、入って正面に見える均等に並んだカウンターとそこで待っている施設のスタッフを見て、気後れして立ち止った。そのまま進めずに視線を逸らせば、エントランスの脇にラックがあり、パンフレットが並んでいた。目に着いた一つを手に取り、開いてみる。そこには学校の教科書に書いてあることと概ね同じことが、美麗美句と一緒に書かれていた。
『女性は一生の間で平均して3人の配偶者をもちます。結婚し子供を儲けても、配偶者はすぐにその使命を全うされるので、再婚する女性がとても多いです。働いている男性は優秀で、収入が良く、経済的に安定するため、家庭にはパートナーがいるほうが理想的だと多くの女性が考えます。施設を見て回るだけでは、なかなか理想の相手が見つけられない、そんな方のために、スタッフはいつでもお相手探しをより円滑にサポート致します』
パンフレットの裏面の最後のページには施設の採用情報も載っていた。
『施設のスタッフ募集中。子供達の貴重な成長をそばで見ることのできるやりがいのある仕事です。業務内容。掃除業務。食事準備業務。食事指導。学習指導。生活指導。それぞれの将来の職業に合わせた就業指導。何も難しいことはありません。子供を持つ母親なら誰もが経験することが仕事です。全国にある施設から希望の勤務地を選ぶこともできます。また、勤務地に近い寮や施設内での宿泊場所もご用意できます。それらの設備は格安でご利用できます。』
数字を見ながら、噂通り給料はかなり良い、とミキは思った。その代わり、細かい字で禁止事項が書いてあった。
『施設に勤めている限りは配偶者を持ち、妊娠することはできません。子供を持つのは退職後になります。また、勤務している施設や勤務したことのある施設で配偶者を探すことも禁止されています。配偶者を探す際は最寄りの別の施設へ行ってください。施設の男性の情報を外の女性に流すことも禁止されています』
なるほど、とミキは思った。制約があるから給料が良いんだ。それに勤務地の施設で自分の配偶者探しをされたり、他人に配偶者候補の推薦もされても困るから、この決まりは理にかなっている。割りが良く、こんなに将来のために貯金しやすい職業もないだろう。それと同時に、ミキは母親が言っていたことも思い出す。
どんなに貯金しやすくて、すぐに自立出来るからって、施設のスタッフだけには就職しないでよ。あんた絶対向いてないし。それに、施設のスタッフの仕事にハマって全然子供を作らない子もたくさん見てきたんだから。仕事にやりがいを感じて、抜けられなくなったら、一生子供をつくれなくなるわよ。金は貯まるけどね。数年やったらきちんと辞めるって決めてる意志の強い子しかやっちゃ駄目なんだから。あんたは流されやすいから無理ね。
ミキは明るい色の瞳を伏し目にし、丸い頬に影をつくりながら、施設のスタッフになろうかな、と思った。中ほどのページの大きく見出しになっている数字を見る。
『一人の女性が産む平均的な子どもの数は3.5人です。』
ミキは自分がそんなに子どもを産むとは考えられなかった。そんな数字はちっとも現実感がない。ミキがエントランスで彫像のように固まっていると、中からスタッフが歩いてきて声をかけた。施設のスタッフは皆一様に簡素な飾り気のない白い丈の長い上着にパンツという制服を着ているのですぐに分かる。
「こんにちは。施設の下見に来たのですか」
ミキは明後日のほうを向きながら、頷いた。
「最近は早い時期に下見に来る人も多いですよね。学生の間に相手を見つけておいて、卒業後すぐに結婚し、男児を産んで、施設に預けて活発に働く女性も年々増えています。将来のことを早めに考えるのは良いことですよね。ちょっと緊張してしまうかもしれませんが、そんなに深く考えず、短い時間ですが、見学だけでもどうですか?」
ミキはスタッフの親切な声かけを無視するほど無神経になれなかった。それに、今決めるわけじゃない、とミキは自分に言い聞かせた。人気のない様子もミキを後押しした。促されてエントランスから奥に入り、通路に向かう間もスタッフは丁寧に施設の説明や、配偶者についての話をしていた。
「女性は20歳になると学生期間を終え、同時に成人し、その後は就職をするか結婚するかの選択を迫られます。子供を1人以上産むのは女性の義務で、寿命の違いから女児を産むと、男児を3人産む義務が発生します。人口を維持するためです。みなさん、最初はそんなに子供を産むなんて思わないようですが、1人産むと2人目を欲しがる人が大変多いんです。あなたはまだ学生ですよね。卒業したら働いてお金を貯めてから子供を産むか、すぐに結婚し、早めに男児を産んで、施設に預けて働くかの2つに大抵分かれます。もちろん、最初に女児を産む方もいらっしゃいますが。
配偶者を選ぶ時期は人それぞれです。みなさん最初は緊張して来るんですよ。そう難しく考えないで、今日は施設見学だけにして、また気が向いたらもう一度お越しになったらどうですか?」
ミキがスタッフに応えようとしたとき、それは来た。ぱたぱたと軽い足音がしたが、話に集中していたミキとスタッフは気がつかなかった。ミキは、いきなり背後から右袖を引かれて、驚いて振り返り、スタッフもつられてそちらに視線を投げて、ぎょっとした。
「決めた」
突然現れた人物は言った。ミキは一瞬、その人物を女性かと思った。見知った父親のような男性よりも、長めの頭髪を持っていたからだ。しかし、薄い胸と丸みのない頬、細い喉にある喉仏を見て、すぐに男性だと分かった。ミキは初めて見るその人物をまじまじと観察した。自分とそう背丈の変わらない華奢な男性。襟ぐりが伸び、よれた見慣れない服を着ている。施設のスタッフが来ている白い制服に形が似ているが、彼の服には脇に青いラインが入っていた。ここにいるなら、未婚男性なのだろう、とミキは検討をつけた。もしかすると、まだ成人してないのかもしれない。未婚の男性という、見たことのないものに誇大な想像をしていたミキは、なんだ自分とそう変わらないじゃない、と調子抜けした。ミキの不躾な凝視に、相手は怯む様子もなく黒目がちの頑固そうな目でミキを見返した。
「君がぼくの配偶者だ。ぼくの世話も今から君がやるんだから」
彼の後ろから別のスタッフが泡を食って駆けて来て、ミキを見て顔色を失った。
「すいません。この子はまだ適切なコミュニケーションの訓練を終えてないんです。気にしないでください。さあ、シロウさん、いつもの部屋に戻りましょう」
「いやだ!」シロウと呼ばれた男性はもともと様々な方向に跳ねていた髪をさらに振り乱し、地団駄を踏んだ。促すようにスタッフが肩に触ると、余計に暴れまわった。
ミキに話をしていたスタッフは取り成すようにミキを促して場所を移動し、何事もなかったように話の続きをしながら、施設を案内した。別の通路に入ってからも、しばらく、ミキにはシロウの声が聞こえていた。
「触るな!ぼくが決めたんだ!今からあの人がぼくの配偶者なんだ!」
通路を進み、別の棟に入ると、シロウの声が消え、中から別の賑やかな声がした。
「あそこは子供たちの談話室です。今は授業も終わり、放課後なので、ああして団欒しているんです。彼らの年齢は大体4歳ほどです。女性の4歳と比べると随分大きくて驚かれるでしょう。男性の成長は早く、知能の発達も大変早いため、5歳で女性の20歳までの義務教育を終えます。女性がその後、結婚するか、就職するかを選ぶように、男性も5歳の時に適正に合わせて、職業訓練に移行し、6歳の成人の時には配偶者を見つけ、すぐに働けるまでの能力を身に付けます。実際に施設の外へ出て行く年齢はそれぞれで、だいたい7歳から遅くとも11歳には配偶者を見つけ、外に出て行きます」
談話室の一部の壁はガラス張りなので、外からも中の様子がよく見えた。さまざまな男性が余暇を思い思いに過ごしていた。皆一様に同じ服を着ている。ここの制服なのだろうその服のデザインは、先ほど通路で突然会ったシロウという男性が着ていたものと同じだった。ただ、この談話室にいる男性たちの来ている服に入ってるラインの色は黄色で、先ほど会ったシロウのものよりも皺がなく清潔そうに見えた。彼らの大半がミキよりも背が高いが、ミキの父親よりはずっと若々しい。ガラスはマジックミラーになっているらしく、こちらからは中の様子が分かるが、中からはこちらが見えないようで、ミキはほっとした。スタッフは談話室を通り過ぎ、連絡通路を渡りまた別の棟のガラス張りの部屋が並んだところに行く。
「ここは5歳以上の男性のいる棟です。職業訓練や、配偶者を見つけ外にでるための最終調整をしていて、年少の男性たちよりも拘束時間が長いので、まだ訓練中です。」
それらの部屋も、壁の一面がガラス張りなので、中がよく見えた。部屋ごとに訓練の内容が異なるようで、ある部屋では機械の組み立てをしていたり、ある部屋ではコンピューターやタブレットを使ってなにやら勉強している。会社運営についての講義をしていると思われる部屋もあった。この棟で訓練を受けている男性は初めて会った時の自分にとって2人目の父親とそう年が変わらないように見える、とミキは思った。彼らの制服のラインの色は緑だった。講師をしている今の父親と変わらぬくらい年配の男性の制服のラインの色には青もあった。制服の色についてミキが聞くと、スタッフは年齢や、所属によって、制服の色分けをしているのだと説明した。
施設を一通り案内された後、人気のないエントランス近くのカウンターに戻り、ミキは幾つかのアンケートに答え、書類と遺伝子サンプルとしての髪の毛を提出した。
「アンケートに基づいて、趣味嗜好の合いそうなお相手を探すことができます。またDNAサンプルを基に、遺伝的に相性の良い相手を探すこともできます。たいていの方が両方を試し、実際に何回かに会ってお相手を決めます。こちらのデータベースを元に良いお相手が見つかり次第、あなたの携帯電話に連絡することもできますが、いかが致しますか?」
「紹介してもらったところで、それにお答えできるか分かりませんが」
ミキはちょっと焦って答えた。
「もちろん、あなたの気が向いたら、お会いする形で問題ありません。強制ではないので。一人ひとりの人生の適切な時期に、理想的なお相手を見つけられるようにサポートするのが私たちの仕事です」
スタッフの答えに少しだけ肩から力を抜き、ミキはありがとうございます、と言って家に帰った。
施設については、行って登録してきたよ、とだけミキは母親に報告をした。母親はそれで満足したらしく、根掘り葉掘り聞かなかった。次の日、学校に行っても、友人の態度もいつも通りで、施設に行ったからって、何が変わったわけでもない、あんなに渋る必要もなかったな、とミキは感じた。
その2日後に、施設からの連絡が来て、ミキは少し躊躇した後、携帯電話の通話に出た。携帯電話から施設のスタッフの声が響く。
「お世話になります。今お時間大丈夫ですか?」
「はい」
「ご相談があるのですが、ご都合の良いときに施設に来て頂けますか?」
「配偶者の紹介の件ですか?それでしたら、今はまだそんなに考えられてなくって…」
礼儀正しい挨拶の後の提案に、ミキは口ごもった。
「いえ、インターンのお誘いです。詳しい話はまた施設で致しますが、もし卒業後の進路が決まっていなかったら、お話だけでもいかがですか。施設を下見にいらした方で適正のありそうな人にはお声掛けをしているのです」
ミキは卒業後すぐに結婚し子供を産むことにしっくり来るものを感じていなかったが、かと言って就職活動もまだ始めていなかった。同級生の中には、少数派だがもうすでに卒業後の就職先を決めているものもいた。すくなくとも大半の者が就職活動を初めていたが、ミキはその流れに乗り遅れていた。ミキがあまり進路について積極的に考えていなかったのは初潮がくるのが遅かったからだ。就職も配偶者探しも、まだ自分には先の話、と思っていたのだ。
スタッフの提案にミキはパンフレット裏面の求人広告を思い出す。良い給料と福利厚生は魅力的だ。同時に、施設で働くことに関しての母親の意見も頭をよぎったが、就職活動始めに社会勉強だと思って話を聞きに行くだけでも良いじゃない、とミキは思った。
「わかりました。いつ伺ったらいいですか」
施設に行くと、四角いテーブルに向かい合うように置かれた2脚の椅子、隅に観葉植物が置かれているだけの応接室に案内された。ミキが椅子の1つに座ると、対面に年配のスタッフが座った。半白の髪を頭の後ろでまとめており、母親よりも年上に見えた。別の者がお茶を置いてすぐに退出する。年配のスタッフから、パンフレットに書いてあったような一般的な業務内容の説明があった。ミキは不思議に思ったことを聞いてみた。
「配偶者の見つからない成人男性はどうなるのですか?」
ミキは配偶者のいない成人男性を施設外で見たことがない。仕事ばかりをしている、母にとって3人目、自分にとって2人目の戸籍上の父親を思い出しながら聞いてみた。
「ある程度の年齢に達して、残念ながら良い相手が見つかりそうもないと判断された場合、施設内の業務に携わることになります。ここには沢山の仕事があります。施設の男性の衣食住のための衣類をつくる工場や食料を育てる農場もあります。また、職業訓練の講師をしたり、子供の世話をする者もいます。男性の一生は約20年と短いので、そういった施設内職業についても、女性の時間感覚で瞬く間に生涯をまっとうします。あなたも自分の父親のことで、ご存知でしょう」
ミキは自分の生物学的な父親について思い出そうとした。ミキが9歳の時に亡くなった父親を。記憶は曖昧で、当時どんな思いでそれを受け止めたのか、ミキは思い出せなかった。明確なのは男性はすぐにいなくなってしまうということだ。ミキの戸籍上の今の父親も人生が短いのを承知で家族に何かを残そうと、いつも一生懸命だ。家族のための生活費や将来の貯金を少しでも多く残そうとする。そのせいか、ミキの私生活には父親はあまり口を出さなかった。口うるさいのは母親だけだ。だからと言って、ミキは今の父親が冷たいと思ったことはない。家にいるときはいつもミキを気にかけてくれ、仕事帰りにはたびたびお土産を買ってきてくれる。
「実は、あなたに特別に世話をお願いしたい人はもう決まっているのです」と説明しているスタッフは言いにくそうに言った。
「先日、下見に来た時、あなたに声をかけてきた男性を覚えてますか?」
「あの男性の子供ですか?」
「いいえ、かれは小柄で痩せているので子供のように見えたのかもしれませんが、半年前に成人しています。彼はもうこの施設から出ることがないと決まっているのです。世話というよりは話し相手になって欲しいのです」
スタッフは辞書のように分厚いファイルを3冊テーブルに置いた。振動でお茶がすこし溢れた。
「これが彼の生活の記録のファイルです。彼は神経質でこだわりが強く、しゃべり方も独特です。この施設で彼と友人になれる同性や、親しくなれるスタッフもいません。彼が小柄で痩せているのは極度の偏食で食べられるものが限られていて、ほとんどの栄養をサプリメントで補っているからです。たいていの男性が将来施設を出て、外の世界に行くことに憧れていますが、彼はむしろ部屋から出る気がありません。環境の変化を嫌悪していますから。コミュニケーションも難しく、彼の配偶者になってくれる女性は現れないでしょう。その代わりに彼の情報処理能力、プログラミングなどの知識と技術は群を抜いてすばらしいので、ここで一生コンピューターを使った業務に従事するのが、彼の生涯なのです」
ミキは口を半開きにし、驚き呆けていたが、とりあえずファイルに手を伸ばして触ろうとしたところで、スタッフが釘をさしてきた。
「施設での秘密保持の制約について承知して頂く必要があります。ここで得た情報はたとえ身内にも話してはなりません。そのファイルを見る前にもう一度、シロウに会ってから、ここでインターンとして彼の話し相手に実際になるか決めませんか?」
スタッフがテーブル越しに手を伸ばし、筋が白くなるほどの力で、ミキの手を握りこんだ。
「実は、今回あなたに特別にこの件をお願いするのは、彼が、シロウが先日あなたに会ってから、あなたにこだわっていて、手に負えないからなのです」
ミキは押しに弱かった。
シロウの部屋に続く通路のドアには網膜認証がついていて、簡単に入れないようになっていた。
「外側から鍵をかけているわけではなく、入れる人をシロウが制限しているのです」
ドアを開けると、壁一面にエアプレッサーがついていて、ミキは強風にもまれた。
「入るにはここを通らなくてはなりません」
スタッフが強風に負けないほどの声を張り上げ、ミキはなんで必要なんだろう、と考えたが強風の中質問することができなかった。さらに手を洗わせられ、履物まで変えさせられた。
「中は仕事場兼シロウの生活スペースなのですが電子機器が多く、そういったものを汚されるのをシロウは極端に嫌うのと、花粉やハウスダストのアレルギー持ちなのでしかたないのです。本来でしたら、着替えてほしいところですが、そこは割愛します」
スタッフは通路の奥にあるもう一つのドアの脇にあるインターフォンを鳴らした。
「シロウ。ミキさんを連れてきました」
「入って」
スピーカーから短い返事があった。ドアが開いて中に入り、ミキは目を見開いた。部屋中に電子機器が溢れている。中央にデスクらしきものがあるが、コンピューターの画面が積み上がっているので、コンピューターの山の一部がデスクといった感じだ。壁のほうにも様々な液晶や、サーバーが積み上がっている。スクリーンにミキには全く理解できない言葉や記号の羅列が蠢いていた。電子機器に埋もれるように、ベッドらしきものを見つけて、ミキは驚いた。人が住むようなところには見えない。ミキはデスクの正面にいる青いラインの入ったよれた制服を着た、入り口に横顔を向ける人物を見たが、最初それが先日話しかけてきた男性と同一人物だと分からなかった。容貌が違っていたからだ。頭髪が半分ない。ミキが戸惑っている間もスタッフは床一面に広がる電子機器の配線を跨ぎ、その人物歩み寄る。ミキも後に続くと、本来だったら頭髪があるところの肌は荒れて血が滲み、足元に髪の毛が散らばっているのが見えた。誰が見ても、彼が自分で髪の毛を抜いてしまったのは明らだった。
「遅いよ」と、パソコンをいじっていた手を止めてシロウが向きなおると、ミキにも彼が先日声をかけてきた人物だとやっと分かった。頑固そうな目つきが同じだったからだ。シロウは足元に自分の髪の毛が散らばっているのに気がつき、「早く掃除して」と不愉快な様子で素足につっかけただけのルームシューズのつま先で髪の毛を払った。
「所長、とろいんだよ」
「ここに来るまでに、私がどれだけ、この施設の制約を破って急いでミキさんを連れてきたと思っているのですか」
所長と呼ばれたスタッフが不満を包み隠さない声色で応えた。ミキはここまで案内してくれた人物が所長という上の地位の人物だったことに驚いた。
「そんなの知らないよ。だってぼくが決めたんだ。施設のルールなんて知らない」
「あなたがこうして快適に生活できるのは、施設に携わる皆さまのおかげなのですよ」
「その話なら、耳タコ。何度も言われなくても分かってる。ぼくのIQいくつだと思ってるわけ。所長は女性特有の長生きってだけでなく、脳の発達も遅いのかな」
ミキは女性にこんな口を聞く男性を始めて見た。
「で、所長、ちゃんと説明したんだよね?」
シロウの暴言に反論しようとした所長は、その問いに口をつぐんだ。
「ねえ、まさか言ってないの?」
シロウは出し抜けにデスクの上のスクリーンの一つを壁に投げ飛ばして破壊した。硬いものがぶつかって弾け壊れるひどい音がした。ミキが飛び上がる横で、所長はうんざりした顔をした。
「なんで説明しないんだ!ぼくは説明が苦手だから、代わりに言えって言ったのに!」
シロウは頭をかきむしり、まばらに残った頭髪がさらに抜けて床に散らばった。
「外部の人間にそう簡単に情報を伝えるわけにはいきません。何度も言いました」
「この脳足りんめ!じゃあぼくが直接言ってやるよ!」
「やめなさい!それなら出て行きます」所長がミキの腕を掴んで急いで部屋から出ようとした。中からは簡単に開くらしく、ドアは近づいただけで開こうとしたが、その前にシロウはデスクの上のコンソールのボタンを押した。とたんにドアが開くのを止め、また閉まった。
「何をしたのですか」
シロウは尖った肩を震わせて笑った。
「何って、それこそ一体どんな質問なわけ。ぼくは国家機関で使われてるOSやソフトのプログラミングをしているんだよ。この施設を管理するOSやソフトだってぼくが作ったものを元に作られてる。ハッキングするのなんて赤子の手を捻るも同然なんだよ」
「そんな、ここのコンピューターにはどれほど強固なファイヤウォールを何重にかけてあると、」
所長の言葉を最後まで待たず、シロウが遮る。
「だから、その発想がおかしいんだってば。国家機密を扱うようなコンピューターの最強のファイヤウォールをそなえたプログラムも作ってるのはぼくだ。ハッキングだって朝飯前さ。今まで必要がなかったからこういう風に使って見せなかっただけで、ここの回線をしょっちゅう乗っ取って、外の世界のあらゆるものを普段から傍受してたよ。」
所長は目を剥いた。
「なんですって。今後はここに運び込む機器も制限します」
「そんなことしたら、国中にウイルスばらまいてやる。今すぐできるよ」
シロウはコンソールをいじった。
「交通機関を一斉に麻痺させるウイルスにする?最新のウイルスだから国中のウイルス対策ソフトが対応してないと思うよ」
所長が押し黙った。
「ねえ、もう分かってるでしょ。ぼくだってこんなことしたくない。だから、ぼくのこと話していいでしょう。所長が説明してくれないんなら、下手だけど、ぼくが話すけど」
それは質問ではなくて、命令だった。
「分かりました。私が説明します」所長は頭痛を我慢するように額をおさえながら続けた。
「先ほど説明したように、彼は気むずかしく、施設の外に出る予定もなく、ここでコンピューターを使う業務をして一生を送ることになっていると言いました。それは嘘ではありません。ただ、それだけでは説明が不十分です。なぜ言わなかったのかと言うと、彼がこのような仕事をしているという事実が国家機密だからです」
ミキの唖然とした顔を見て、シロウが合いの手を入れたが、説明が足りなくて、あまり補足としては成り立たなかった。
「昔から、紙幣のデザインをした人はデザインが変わらない限り、世に名前が出ないだろう。偽札を作ろうとする輩に利用されないようにするためさ。機密なんだよ」
所長はさらに追加の補足をすることとなった。
「彼の仕事が機密事項なのは重要国家機関で使われるOSやソフトウェアをプログラミングしているからです。プログラミングの世界において、彼にかなうものはいません。あらゆる適正テストで彼は最高スコアを出します。単純にIQにおいてなら、彼と並ぶものも多いでしょうが、そのプログラミングセンスにおいて右に出るものはいません。そのように生まれてきたからです。理想的な遺伝子のマッチングのために遺伝子を解析する研究所がここにありますが、そこで、この施設にあるあらゆる男性、女性の遺伝子サンプルを研究し、そのような知能をもった個体は脳の一部の神経回路に関わる遺伝子が特異的に発現していることが解明されました。彼は重要国家機関を扱うコンピューターのOSやソフトウェアをプログラミングするためにデザインされて産まれてきた、生きる国家機密なのです。もっとも、ドアに鍵をかけなくても、彼はその気質から、この施設から出て行こうとしませんが」
「つまり、彼は人為的なマッチングで産まれてきたの?あの遺伝的に理想的な相手を探すっていうマッチングで?」
「そうです」
「だって、ぼくって理想的だろ?」シロウはそう言ってニヤリとしたが、所長は取り合わず、そのまま話を続けた。
「彼は、様々な面で問題がありますが、プログラミングをする高い能力を持つ個体をつくるという点では、彼の両親は理想的なカップリングでした。この遺伝子は男子にしか発現しないタイプのものです。男子は生まれてすぐに施設に預けられ、その時に遺伝子を採集するので、そこで確認できます。遺伝子の発現の起こりそうなカップルをいくつか作っても、そもそも相性がわるくカップリングが成功しないこともありますし、実際に子供ができても、遺伝子が発現する確率は高くありません。マッチングによって産まれ、このような役目につく男性としては、彼は4人目になります」
「彼の両親は、彼がこのような仕事をしていると知っているのですか?」
「知るわけないよ。だってこの施設に会いに来てくれたのなんて僕が3歳のころが最後だからね。ぼくに似て気難しいんだよ」とシロウが言うと、所長が眉間にしわを刻んだ。
「私の記憶によると、最後にご両親が訪問した際、汚いから会いたくないと追い返したのは、あなた自身ですが。」
「だって、きちんと手を洗ってくれないんだ、あたりまえだろ」
所長はミキに向かって話した。
「彼の両親はシロウが配偶者を見つけるのは難しく、施設内の仕事につき一生をここで過ごすということだけ知っています」
「配偶者は見つけたよ。だからミキだってば。ここのデータベースにハッキングして見たデータではまだ配偶者見つけてないって書いてあった。ぼくでいいじゃんか」
「配偶者を見つけたら、この施設から出なくてはなりません。しかし、私の記憶では、あなたはどこにも行きたがっていなかったと思いますが。それに、例え出たとして、外で他人とコミュニケーションを取って、協力して働くということが貴方にできるのですか?」
「そりゃ、無理だな。考えるだけで吐きそう。それにぼくはここを出たくない。前のぼくが作ったOSやソフトのプログラムをバージョンアップするにはあと1年くらいかかる。それにはここの機材が必要だし、ぼくはそれを辞めるつもりはない」
「でしたら現実的に実現不可能でしょう」
「別にいいじゃんか。ミキを配偶者にしても。ぼくはここから出ないけど、もう成人して仕事もしてる。ミキもあと2年で成人でしょ。配偶者候補でいいじゃんか」
「貴方がここを出るつもりがないのなら、ミキさんがここに来なくてはなりません。施設に内部に常時出入りしていいのは、正式なここのスタッフのみです」
「だったら表向きスタッフってことにしよう。とりあえずインターンで。スタッフをしている期間は配偶者をつくらないって、規則で決まってる。ぼくの配偶者になったも同然じゃんか」
「物事には順序があるのです。施設でも相手を紹介してすぐ配偶者になるわけではありません。何度も会って会話し、デートを繰り返してから配偶者を決めるのです。長い人では男性の短い人生の内の1年をかける人もいます」
「じゃあ、これからたくさん話すよ。それにさ、もう分かってるだろうけど、ここまで話しちゃったら、配偶者の件は先延ばしにするにしても、スタッフとしてのインターンの契約を含めた機密保持の書類にサインしないかぎり、ミキは帰れないよ。所長は喋り過ぎたし、ぼくも最低限その書類にサインして、とりあえずインターンとしてここに来てくれる約束をしてくれないかぎり、このボタンを押して、大騒ぎを起こす」
繰り広げられる論争を見学していたミキに、二人の視線が一気に集まった。
「申し訳ありませんが、別室で話したインターンの件は了承して頂き、機密保持の誓約書にサインしてもらわないわけにはいかなくなりました。正式なインターンですので給料もでます。特別手当も出しましょう」
言われた額はミキが今までやったどんなアルバイトよりも良かっので、ミキは反射的に頷いてしまった。シロウは所長の背後でにんまり笑っていた。
インターン初日に施設に訪れると、所長が待っており、ミキのために用意した制服を渡し、改めて施設で働くにあたっての細かな規則や、施設の制服の色の決まりを説明した。そこで初めてミキは青色のラインの入った制服は施設内業務に携わる男性のみが身に付ける特別な色なのだと教わった。そして制服は毎回洗って、清潔なものを着なくてはならないと留意された。柔軟剤を使ったり、香水などの匂いのするものを付けるのは厳禁だった。シロウが匂いに敏感だからだ。
ミキが着替えてまずしたことは、先日見せてもらった、シロウの生活の記録が書かれたファイルを読むことだった。口で説明するより、呼んだ方が早いと言われ、ミキは膨大な量に怯みながら、記録に目を通す。なぜデータではなく紙媒体なのかと聞くと、持ち出しされることを警戒してらしい。たしかにこんな重い束になったものをこっそり持ち出すのは不可能だ。遺伝子の研究に関する情報などはさすがにデータとして管理されているが、スタッフとして関わる人が全員共有するような情報は紙媒体にしてまとめてあり、回し読みをする習慣なのだという。ここに勤めている限り関わらないわけにはいかないので、ここのスタッフは皆シロウの存在を知っているが、シロウの本当の役割については知らないのだと所長はミキに説明した。気むずかしく特別な配慮が必要な人物で、部屋に入れるのは所長のみ。ファイルに書かれていることはシロウの生活についてだけで、彼のプログラミングについての記述は皆無だった。
肉の類は食べない。野菜も食べない。パンは食べるが、ジャムは使わず、特定のメーカーのバターのみを塗って食べる。米はごま塩をかけて食べる。それ以外のふりかけは受け付けない。唯一食べられる果物は蜜柑だけだが、それも剥いて白い筋を綺麗に取り、バラバラにしないと食べない。自分では剥かない。ジャガイモは食べないが、ポテトチップスは食べる。飲み物は水しか飲まない。足りない栄養は全てサプリメントで補う。
ミキは資料を読みながら感心した。嫌いな食べ物よりも、食べられる物の方が少ないなんてすごい。他にも、生活に関する決まり事が書いてある。聴覚が過敏で予想外の大きな音が嫌い、触覚が過敏だから硬い靴が履けない、服も着慣れた服以外は肌触りが嫌いだと言って、たとえ寒くても上着は着ない。運動も嫌いで、施設の運動場には出ない。他の男性と関わることも嫌いなので、談話室へは行かない。とにかく部屋から出られない理由がこれでもかというほど網羅してある。ストレスを感じると頭髪を抜く癖があるとも書いてあった。ミキはあまりの量に途中からどんなに真剣に読んでも頭に入らなかった。とにかく、シロウに言われたこと以外しないようにしよう、と決めた。それなら怒らせる心配もない。
シロウの部屋に入るための生態認証も設定してもらった。初めて来た時と同じように所長と一緒に強風にもまれた後、手を洗って履物を消毒済みのものに変え、シロウの部屋に入る。取り敢えず話相手になって欲しいと所長に言われ、ミキは部屋にやってきたが、一体なにを話せばいのか、あの資料を読んだあとでは一層見当もつかなかった。
ミキが黙っていると、「なんでいるの、所長」と先に話したのはシロウだった。
「ぼくはミキと二人で過ごしたいんだ、邪魔だよ。一体なにを心配してるか知らないけど、どうせこの部屋の様子なら壁の監視カメラで見えてるんでしょ。ハッキングして、いたずらしないから外にいてよ。ぼくがミキを突然縊り殺すとでも思ってるわけ」
所長は明らかにムッとしながらも出て行った。
「私が心配してるのは、ミキさんというよりも貴方ですよ。無理をしすぎないようにお願いします」
一言残して所長が出て行き、扉が閉まるとシロウは振り返った。相変わらず髪の毛は半分ほど抜けていて、残った髪も長さがバラバラでまとまりがない。古い箒のようだ、とミキは思った。
「ハロー」シロウが抑揚のない声で言った。
「ハロー」と緊張しながら、取り敢えずミキも返してみた。
シロウが首を少し傾げて聞く。
「みんな、最初は挨拶をするんだって言うんだ。コニュニケーションの講義でもそう言ってた。印象がよくなるからって。ぼくはその効果のほどには疑いを持ってるんだけど、ミキはどう?ぼくの印象は良くなった?」
「多少は」
正直にミキは答えた。お世辞が好きなタイプには見えなかったからだ。
「ふーん、そうか。効果あるんだね。ミキがそう言うなら、使うことにする」
シロウは一旦、見たことのない言語の泳ぐコンピューターの画面に向き直って何かを操作してから、またミキの方を向いた。
「ひと段落したから、休憩することにする。ねえ、遊ぼうよ。チェスは好き?」
電子機器の山の下から、シロウはチェス盤を出した。15回ゲームをして、ミキは15回負けた。資料に載っていたシロウのIQを考えたら、ミキが勝てるはずかなかった。それでもゲームをしたがるシロウにミキは聞いた。
「勝てるに決まってるのに、楽しいの?」
「楽しいよ。ミキはどう考えても負けるとしか思えない下手な手をなんども打つ。予想外な変な手も打つ。ぼくは毎回違うパターンの勝ち方を試してる」
ミキは貶されてるのか褒められてるのか分からなかったが、とりあえず同年代の女性が夢中になるようなテレビドラマで聞く口説き文句ではないなと思った。
「ぼくは2歳の時にチェスにはまって、毎日飽きもせずスタッフと打ってた。3歳のときにはチェスのゲームのプログラムを作った。その頃にはチェスでぼくに敵うやつなんてここにはいなかったけど、ゲームを相手にチェスをしてもつまらなかった。プログラムは僕の予想通りにしか動かないから。チェックメイト」
30回ゲームをして、30回負けて、ミキは家に帰った。
その日からミキは週2回インターンとして来るたびに、シロウの提案するゲームに付き合った。ミキは必ず負けた。ミキが悔しそうにする度にシロウは逆に喜んだ。
半年以降からは知略を巡らすゲームは諦めて、ミキは運が結果を左右するようなゲームをしようと提案してみた。拒否されるかと思ったが、シロウは最初にぼくの好きなゲームした後なら、いいよと受け入れた。そうしてジャンケンやすごろくを含めた運だめしの面が強いゲームまでやったが、結局ミキは勝てなかった。シロウはミキの反応を楽しんで、後少しでミキが勝てそうな局面まであえて持っていった後勝ったり、明らかに過剰はハンデをつけて勝てると思わせてから、自分が勝つことを繰り返した。ゲームをしている時以外は、巷で流行っているアプリゲームや、ビデオゲームの話をするときもあった。シロウはミキより物知りで、ミキはシロウの話を一方的に聞くのが常だった。ゲームの裏技や、バグの話や、デザイナーの話。それから、本当に気が向いたときだけ、ミキが手詰まりになった学校の宿題を教えてくれたりした。シロウに解けない問題は無かった。
インターンを始めて1年半たった頃、シロウがいつものゲームをしようよ、と同じ調子で言った。
「明日、デートしない?」
ミキは何を言われたか分からなくて、もう一度聞いた。
「デートだよ。二人で外に出かけようよ。所長も言ってたじゃん。普通、何回かデートしてから、配偶者は決めるんだって」
「施設の外に出たことあるの?」とミキは怪訝な顔をした。
「ないよ」
「デートって何するの?」
「一般的には一緒に出かけて、おしゃべりして、ご飯食べるらしいよ」
「わたし、やったことないから分からない。友達とならそういうことするけど」
「ぼくも初めてだよ」
「所長はこのこと知ってるの?」
「知らないね」
「でもここでこんな話をしたら、監視されてるからバレるんじゃないの」
「今カメラには、今までぼくらがこの部屋でゲームしてきた映像がそのまま流れてる。過去に録画したやつが。だからバレてないよ。そのために毎日ただゲームしてきたんだ。本当はいつでもハッキングできた。その必要がなかったからしなかっただけで。明日もそれを流すからその間に出かけよう」
「所長、怒るんじゃない?」
「ぼくが何しても、いつも怒ってるから、何も変わらないよ」
ミキはおもわず笑ってしまった。
「どこに行くの?」
「もう計画はできてるんだ。定番のデートだよ。調べたんだ」
「出かけられるんだね」
「まだ分からないけど、ものは試しさ。所長には内緒だよ。明日いつもの時間に、制服に着替えて、脱いだ私服をそのまま持ってここに来て。そしたら出かけよう。」
ミキはまた何かのゲームなのだろうかと思いながら、頷いた。
当日、シロウの部屋に行くと、シロウはいつもどおりの格好でそこにいた。よれよれの施設の服に今は生えそろっているが、整えていないぼさぼさ頭、素足につっかけただけのルームシューズ。これから出かける人の格好とは思えない。コンピューターでなにやら操作している。
ミキが黙って待っていると、「行こう」と言ってシロウはおもむろに立ち上がり、小型のコンピューター端末のみ持ってドアから外にでた。ミキも後に続く。鍵はそもそもかかってない。部屋の外に出ると、トイレに寄り、シロウはミキを私服に着替えさせた。そのほうが目立たないからだと言う。ミキの今日の服装はシンプルなワンピースにストールというものだった。デートはミキにとっても初めてだった。ミキは何を着て行こうか迷ったが、同級生がデートにはワンピースで行くのが正解なんだ、と言っていたのを思い出して、手持ちのワンピースの中から一番上品に見えるものを選んできた。着替えをすませ、トイレから出たミキは、施設の外で、施設の服を着たままのあなたは目立つけど、とシロウに指摘しなかった。シロウがミキですら気が付くようなことに、気が付かないわけがなかった。きっと気にする必要がないに違いない。この一年半に及ぶ付き合いでシロウのやり方は、ミキにも多少掴めてきていた。エントランスに向かい二人で歩いて、何事もなく外にでた。警報も鳴らなければ、誰にも会わなかった。施設から出るのは驚くほど簡単だった。
「本来だったら、施設の外に配偶者のいない男性が出るのには許可がいる。デートのためだけだし、時間も制限されて、同伴の配偶者候補の女性がいなきゃならない。ここにいる男性はみんなGPSのチップが首筋に埋め込められて管理されてるけど、ぼくにはそれは入ってない。そもそも外に出て行くことを念頭に考えられてないからね。歴代のぼくらは鍵や、制限なんかかけなくても外に出たがらなかったんだろう」
「それにしったって、こんなに簡単に出られるなんて」
ミキは隣を歩くシロウを見た。シロウは普通の靴を履けないので、いつものルームシューズ履いたままだ。
「施設のシフト表をハッキングして覗きみて、人の入れ替わり時間、誰もいない時を狙って外にでたんだ。ぼくは部屋の外には出ないけど、そうやって勝手にシフトを見て、普段から職員の動きを見たり、監視カメラの映像を傍受したりしてる。君に初めてあった時は、定期的な健康診断のために別室に連れてかれたところを目を盗んで抜け出したんだ」
ミキは通りを見渡した。なんだかやたらと人通りが少ない。
「近所の信号のタイミングをずらして、車通りを減らしてある。みんな信号待ちが長くて迂回してる。それから、昨日SNSでニュースを流したんだ。近所に何人か有名人がお忍びで来るって。嘘の情報じゃないよ。ちゃんとハッキングして、掴んだ情報だから。みんなそっちに群れてて、今ここには人はいない」
シロウは向かいいある歩道橋を指差した。
「あそこの歩道橋を渡って、右折すると喫茶店があるから、そこに入ろう」
歩道橋を渡り喫茶店の前で来ると、立ち止まり、シロウはミキを先に入らせた。
「予約の名前はシロウミキって伝えて」
変な名前と思いながらも、ミキは喫茶店の中に入る。喫茶店はチェーン店ではなく、個人経営のところに見えた。店内は洒落た内装をしている。言われた通りに予約名を言うと店員が訳知り顔で、外からは死角になる奥まった席に案内する。席にはすでに二人分の軽食が用意されていた。手前の席には一般的なハンバーガーセット。奥の席にはバターを塗っただけのトースト。一見モーニングセットのようにも見えるが、飲み物はコーヒーでなく、ただの水なので、特別メニューということが分かる。席に案内すると、店員はごゆっくりと言って去って行った。しばらくすると、シロウが音もなく入って来て向かいに座った。洒落た店内の内装に、いつもと変わらぬシロウの身なりは、まるで合わない染みのように浮いて見えた。ランチタイムをいくらか過ぎた時間とはいえ、人っ子一人客の居ないがらんとした店内に、ミキは疑問を口にした。
「どうして、店内に私たちしか居ないんだろう?」
「2時間貸切にしてるから。それに特別な要望をした。連れの人は後から来るからって伝えておいたから、ぼくが直接会しなくてよくしたし、2時間ほっといてくれって言って、特別メニューも頼んでおいた。」
シロウの平然とした返答にミキの声はひっくり返った。
「貸切?!そのお金はどこから来てるの?」
「ぼくのポケットマネーからだよ。ぼくは成人してて、施設内で仕事をしていることになってる。専門職だからかなり貰ってる。ミキの貰ってる給料よりも多いよ」
「そうなんだ」
「ぼくは監視されてるかもしれないけど、自由を奪われてるわけじゃない。」
「シロウから自由を奪うことはできないんだなって、このデートで改めて感じてるよ」
ミキが身に染みて言うと、シロウは恐る恐るといった様子で、トーストをつまみながら言った。それを見てミキもハンバーガーを手に取る。パンに挟まれたハンバーグは肉厚で、学生が好んで食べるものより値の張りそうなものだった。
「そこが施設の脳足りんとミキの違いだよね」
「違い?」
「ぼくがかわいそうだと、ミキは思う?」
「全然」とミキは自分でも吃驚するくらい即答した。
シロウはトーストをゆっくり咀嚼して、飲み込んだ。及第点らしい。ミキも青々としたレタスの挟んであるハンバーガーを食べる。レタスは新鮮でシャキシャキと歯の間で音を立てた。見た目に違わず高そうな味がした。
「ところが、施設のスタッフはそう思ってるやつばかりなんだ。僕の本当の役目を知ってる奴らもそうでない奴らも」
グラスに口をつけて水を飲んで、塩素くさくないと満足げに言ってシロウは話を続ける。
「ぼくはデザインされて産まれてきた。偏食であるように生れてきた。匂いや音に敏感であるように生まれてきた。独特のしゃべり方や感じ方をするように生まれてきた。感情の起伏が激しくて、コミュニケーションが難しいように生まれてきた。難解なプログラムを解読し、更新するために生まれてきた。でもね、ぼくはぼくの仕事に満足しているよ」
トーストをもう一度かじり、バターの付いた部分に口つけたが、シロウは顔をしかめた。ここのバターはお気に召さなかったようで、シロウはバターを避けてトーストを丸く齧りはじめた。
「ぼくの感じ方は他の人とは違うからよく分からないけど、あのOSやソフトのプログラムはね、まるで音楽のようにぼくの中で響くんだ。皆は難解で、無駄なところが多く、複雑に入り組んでいて、何故正常に機能しているか分からないプログラムだと言う。プログラムの中には絶対に製作者が制作中に残したメモがある。あのプログラムのそれは普通のメモじゃない。皆は意味不明のメモだと言うけれど、実はあれは暗号で、プログラムの海の中に隠された今までのぼくらの記録なんだ。プログラムを読むことで、ぼくらは初代からの記録を見、彼らの人生を覗き見る。初代がどんな食べ物が好きで、どんなゲームを好んでいたかもぼくは知ってる」
シロウはトーストのバターの付いた部分だけ残して一周齧りきると皿に戻した。
「ぼくがあのプログラムを最初に見たのは4歳の時だった。見た瞬間すぐにわかった。これはぼくが作ったものなんだって。あれはね、プログラムであると同時に、一つの作品なんだ、歴代のぼくらだけが解読し、理解できる歴史。あれを読むことで、ぼくはぼく以上の人生を何度も生きたように感じる。あれを見た瞬間から、ぼくの人生はこれを更新するためにあるんだって分かった」
唐突に、おしゃべりはこのくらいにしといて遊ぼうか、とシロウは言って、持って来ていたコンピューター端末を出した。ミキはそこで、今までの会話が昨日行っていた彼の中での普通のデートでのおしゃべりに該当するのだと遅ればせながら気がついた。
「何するの?」
「端末にゲーム入ってるんだ。一緒にいつもみたいに遊ぼう」
シロウとミキは一緒にゲームをして遊んだ。ミキはやっぱり一度も勝てなかった。こんな時くらい勝たせてくれたっていいのにな、とミキは思った。
1時間も遊んだ頃、シロウが帰ろうと言った。
「そろそろ、施設で流してる部屋でゲームしている過去の映像が終わる。気付かれないうちに戻ろうか」
シロウが先に喫茶店を出て、ミキが店の奥にいた店員に声をかけてもう帰ることを伝えた。二人で来た道を戻る。歩道橋の中央でシロウは立ち止まると、手すりに寄りかかった。ミキは見覚えのある格好にどきりとした。
「君は初めて施設に来た時、こうしてここで時間を潰していた。2時間はここにいた」
ミキは目を見開いた。
「なんで知っているの?」
シロウは歩道橋の端を指差した。
「あそこに監視カメラがある。ここはよく人が集まるから。そういうところに街は治安維持のためにカメラを設置するんだ。ぼくはよく部屋の中から街のいたるところにある監視カメラの内容を盗み見てる。そうやって観察しながら、ぼくは誰のためにプログラミングをしているのか思い出すことにしてるんだ」
ミキは施設に入るのを尻込みしているのを見られていたという事実に妙な恥ずかしさを覚え、赤くなり、汗をかいた。そわそわとストールをいじる。
「君はこうして、ここから施設を眺めたり、流れていく車を見ていた。ときどき施設のほうに歩き始めては、またここに戻って眺める作業に戻った。ぼくは推測した。年齢的に施設に入ろうとしてるのかな、踏ん切りがつかなくてあそこで無為な時間を過ごしているんだろうか。高速に流れて行く車を睨んでる様子がまるで、なんで世界はこんなに回るのが早いんだろう、自分だけ置いてかれてるって思っているように見えたんだ」
シロウがこちらを振り返る。珍しく会話の途中で、なんらかの反応を求められているのが分かり、とりあえずミキはぎこちなく「そうだね」と相槌を打った。シロウは気にしてないように話を進めた。
「それはぼくが日頃から感じてることだ。施設にいる他の野郎どもは、あっという間に成長する。この間までよちよち歩きしてると思ったら、仲間を作り、遊び、学んで、一人前になって施設から出て行く。プログラムには歴代のぼくらの記録が残されていると言った。何代もかけて、ぼくらはあの部屋から出ずに一人でいる。誰とも関わらず、仲間も作らない。ときどき施設にいる同年代のやつの姿を見ては、感じるんだ。ぼくだけ何も変わってない。置いてかれてる。世界はどうしてこんなに早く回るんだろうって。何か変化が必要だなって思ったんだ。ぼくらの人生にない変化が。そこで、ぼくは決めたんだ。もうすぐ定期健康診断のために部屋を出て別室に行く。閉館間近で人の少ない時間だ。そのとき抜け出して、もし君が来ていたら声をかけよう。配偶者になってもらおうって」
ミキはシロウの話の内容に、あまりに驚いて汗が引いてくのを感じた。ミキは今までずっと、何故シロウが選んだのが容姿も平凡で、頭も特別良くもない自分なのだろうと思ってきたが、聞いたことがなかった。機嫌を損ねるのが嫌だったのもあるが、なんとなく怖かったからだ。ミキはシロウの横顔の尖った顎と存外長いまつ毛をを見つめる。
「それが、私を選んだ理由なの?」
シロウは返事をしなかった。かわりに突然泣き出し、ミキは動転した。シロウのこんな表情の変化を見るのは初めてだ。
「ぼくはぼくの仕事に満足してる。それは本当だ。でも、ときどき同年代のやつらを見てると悔しくなるんだ。なんで、ああも簡単に他人と関われるんだろう。コミュニケーションを取れるんだろうって。ぼくはそんなことしたことがない。ミキと話すようになって、余計にそう思うことが増えた。だから、試してみたんだ。デート」
シロウは嗚咽を飲み込んだ。
「でも、やっぱりだ。デートってなんにも楽しくない。外はうるさいし、落ち着かないし、イライラする。今日だってすごく我慢した。なんでこんなことしてんだろうって感じ。すごくすごくショックだ。普通の人はこの楽しみを共有できるんでしょ。ぼくにはちっともわからない」
シロウはそれが悔しいんだと涙をこぼす。
「ミキ、ごめん。いくらぼくでも、この発言がデートに不適切なのは分かってる。こんな思いをするくらいなら、させるくらいなら、最初から声なんて、かけなければよかった」
歩道橋の上は風が強く、日が落ち始めて肌寒かった。シロウの足元は素足にルームシューズだけで、上着も着てない。うつむいて目元を隠すざんばらな髪は風に煽られて、無防備な首筋を曝して寒々しい。ミキはシロウは苦手だろうと思いながら、しかし今はそれが正しい気がして、自分の肩にあるストールを、シロウの肩にかけた。そうすると、すこしはまともな格好に見えた。
「でも私、今日のデート楽しかったよ」
ミキは笑顔で伝えた。シロウは顔をしかめて、肩にかかったストールを握りしめる。
「この生地、ちくちくして気持ち悪い」
そうは言いつつ、シロウは施設に戻るまでストールを外さなかった。部屋の前で、シロウはまたね、と言った。ミキはストールをシロウに渡したままにした。
その2日後、シロウは意識を失い、帰らぬ人となった。
ミキはいつも通り施設に行き、その知らせを聞いて何日も泣き続けた。所長が言った。
「あなたが始めて施設に来た時にシロウは健康診断を受けていました。そのときの結果で寿命があと1年半なのは分かっていたのです。歴代の彼らも他の男性と比べると短命でした。遺伝的なものと、偏った生活習慣の両方の原因が考えられます。結果を伝えたところ、シロウはどういうわけか、それを予め知っていたようでした。そして、あなたには絶対に伝えないように、と言ったのです。ここ数週間、あなたと会う以外の時間は具合が悪く、ずっと寝ていました。しかし、あなたにはそのことを気づかれないようにしていたのです」
ミキは部屋に篭り、思い出したように泣いては学校を何日も休んだが、母親に留年するつもりなの、いい加減にしなさいと一喝され、心ここにあらずといった様子でなんとか学校に行った。
「だから、あんた施設のスタッフなんて向いてないって言ったのよ。何にも話さないけど、関わってた男性の1人が亡くなったんでしょ。施設にいると誰よりも多くそういう機会に会うんだよ。男性は女性の5倍近く早く亡くなっていくんだから。生物学的な父親が亡くなった時も、あんた何日も大泣きしてたじゃない。覚えてないの?」
母親からそう言われた日、ミキは忘れていた自分の父親との思い出の夢を見た。
5歳の時、母の友人からオス猫を貰った。貰い手がいないのだと。名前が思いつかなくて、猫と呼んでいた。貰った時には赤ん坊だったが、2週間で成獣になって、3年したら死んでしまった。あっという間だった。ミキは寿命が短いのね、可哀想にと1日中泣いていた。父親はその様子を見て言った。可哀想なんてないたら、余計に可哀想だよ。猫は短い生涯を全うしたんだ。ミキはきちんと世話をしたし、猫も満足していた。可哀想なんて言ったらそれを全て否定することになる。だから、可哀想にと泣くんじゃなくて、大好きだったよ、君との経験は宝物だ。君がいなくなるのはさみしいけど、きっとそれを乗り越えるって伝えてあげるんだよ。
そう言った父もその1年後に死んでしまった。父から泣かないように言われていたが、ミキは声をあげて何日も泣いた。母は最初から分かってたのか、さほど泣いていなかった。母親はミキの乱れた髪を撫でつけながら言った。
「きっと、あんたは施設のスタッフとか、多くの男性と関わる仕事には向かないはね。感情輸入し過ぎちゃうもの。やさしいものね、ミキは」
一体どうして忘れていたのだろう。
その日起きてからから、ミキは泣くのを辞めた。抜け殻のようにぼんやりと過ごしていたら、気が付いた時には半年も経っていて、もう卒業式だった。同時にミキは成人した。卒業して、ミキがすぐにしたことは施設に行って配偶者を探すことだ。施設でのインターンはシロウが居なくなってから辞めていたので、もう正式に配偶者を探せる。
卒業して数年後、ミキが最初に産んだのは、女の子だった。
それから9年経った。子供が7歳になり、配偶者が亡くなって2ヶ月したとき、それは来た。インターフォンが鳴って、ミキは洗濯物をたたむ手を止めた。子供は学校に行っている時間で、今はミキしかいない。覗き窓から外を見ても誰の姿も見えなかった。いたずらかな、と思いつつ最近伸ばしっぱなしの髪を整えてドアを開けた。死角から人影が飛び出してきた。
「ぼくは最後に「またね」っていったのに、いつのまにか配偶者を見つけて、子供まで産んじゃってるから、たまげたよ。けれど、やっと今日、施設の脳足りんどもを騙くらかして抜け出して来たってわけさ。」
記憶にある姿より、少しだけ背が高いように見えたが、その話し方と、態度はあまりにも似ていた。よれよれの施設の服に、長さの整ってない長めの髪、見覚えのあるストールを肩にかけている。それはミキの忘れられない初めてのデートで彼にあげたものだった。足元は相変わらずただのルームシューズだ。
「シロウ?」
「正確には僕はシロウじゃない。シロウの後のぼくさ。ミキのことはシロウの残したプログラムを読んで知ってるよ。昔より髪が長いよね。」
彼は誇らしげに胸を張り続けた。
「それからね、ぼくもすこし変わった。シロウと違って、今のぼくは少しだけ、前よりも食べれるものが増えた。」
彼が片手に持ってたビニール袋を開きながら、ミキに押し付ける。
「あとこれ、必要かなと思って持ってきたけど、臭いし、アレルギーで鼻と目がおかしくなりそうなんだ。さっさとどうにかしてくれる?」
中身は花束だった。
「今回はタイミングもそう悪くないよね。ぼくはもう成人してるから、君がぼくの配偶者だ」
ぼくはちっとも変わらない、だから。 鈴原桂 @suzuhara-kei
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