許しの庭に咲く2
城に入ったものの部屋に帰る気にはなれなくて、なんとはなしに種を植えた庭に戻り、まだ何の変化もないそこを見つめて思う。
(あの花が咲くところを見ることは、きっと……)
――リカシェを殺した犯人は、男だ。
ウィスティたちに襲われて思い出した。自分の口を塞いだのは男の手。それも年老いた戦士だ。剣だこがあり、節くれ立ち、歳を重ねた皺があった。体臭めいたものも思い出した。あれは年をとった男だ。
その男は、女と子どもを憎んでいる。苦しめて殺したいと思うほどに憎悪するのだとすれば、その原因はなんだろう。身近な女といえば、母親、姉妹、妻だろうか。そうした者たちに虐げられた、不当に扱われた、裏切られた……考えてみても無限に推測できてしまうため、今のところ役には立たなさそうだ。
そして、リカシェの記憶に焼きついた『白い十字』。あれが何を意味するのか、未だに思い出せない。またミュナが剣に異様に怯えたことも気になる。
だが確実にその像には近付いている。曖昧な影だったものが手を伸ばせば触れられるものになった。姿を覆う謎を暴けば、誰なのかがわかる。
ふう、と息を天にこぼした時、視界の端にきらめくものを見た。空気が光っているのは、いつかの夜と同じだ。それが何なのかはわからないが、恐らく力のかけら、溢れてしまう力が何かと反応して粒になって流れてくるのだろう。
リカシェが姿勢を戻すと、東屋に向かって歩いてくるハルフィスが見えた。
どんな歩調であっても彼が歩く姿は美しい。衣服の裾が長く身動きしづらいはずなのにとても優雅に扱う。地上の女性たちがどんなに真似しようとも再現できない美しい所作だ。それを見ていると嬉しいような、目を背けたくなるような相反した気持ちが沸き起こる。
そうすると必然、じっと彼を見つめながら訪れを待つことになる。雛鳥が親を待つように従順に。月の巡りを待つ夜のようにわずかに焦がれて。
「庭に何を埋めた」
「種を蒔きました。冥府の門をくぐってしまった夫婦が、守護の願いをかけた種です。花開けばきっとこの城を守ってくれるでしょう」
王の力はこの都市を守護し、人の思いは人とそこにあるものを守るだろう。時には神の力の及ばないところで人の思いが大きな力を発することがある。ハルフィスにとってはお守りめいたものだろうが、リカシェの思いでもあった。
「この都市は死に近い。育つとは思えぬが」
「試してみたことがないのなら、試す価値はありますわ。種は数種類ありましたから、きっと庭が賑やかになりますよ」
「騒がしいのは好かぬ」
そう言って、ハルフィスは東屋のリカシェの向かいに腰を下ろした。
「騒がしいのでなく『賑やか』です。まあ、お好みでなければ仕方がありません。気に入らなければ掘り返してしまってください」
「掘り返すまでもあるまい。咲かぬならそれまでだ」
そっけない口調だがリカシェの意思を尊重する、という返答だ。リカシェが微笑むと居心地悪そうに顔を背ける。
「この地での深手は魂の傷になるというのに、そなたはひと時もじっとしていない。むしろ自ら危地に飛び込んでいく。何をしようとしているのだ」
覚悟していた問いがきた。呼吸を整え、居住まいを正す。
「わたくしを襲った者たちに御自ら尋問を行ったと聞いています。何をお聞きになったのですか?」
「そなたが同族であること。ある男が彼ら一族の死の原因を調査していること。その男を探ったところにそなたに行き着いたこと。……そなたの素行不良を進言する者もあったが、主観に基づいた独りよがりのものだったので聞き捨てた」
リカシェは右手で左手の甲をさすった。
「そなたは、己の命を奪った者を突き止めようとしている」
視線が「何故か?」と問うていた。以前のやり取りを思い返せば、単なる正義感だけでなく、リカシェが何かしらの考えを持って動いていることがわかるだろう。そしてハルフィスにその真意を明かさずに行動していたということは、知られては困ると考えていたことまでも彼は察したはずだ。
裏切りと断じるには足りない。そう考えていることが冷静な目つきから感じ取ることができた。だがすでに裏切りであることをリカシェ自身が知っていた。せめてできることは、見苦しい言い訳を口にせず、堂々と、自らの信念を貫くことだった。
「弟を守るため、犯人を突き止めて裁きの手に委ねます。――地上へ戻って」
「ならぬ」
ハルフィスの返答は簡潔で、想像以上に素早くもたらされた。その速さに虚を突かれて言葉を失う。
「地上に戻ることは、許さぬ」
「い……以前言われたことは覚えています。あなたは地上に戻るという願いに対価をお求めになった。けれど何も望まないとおっしゃってもいた。でも」
「望むものならある」
艶やかな銀の月の瞳がリカシェを絡め取る。
「――そなただ。私はそなたを望む」
リカシェは大きく目を見開いた。
どん、と胸を叩かれたような衝撃。頂点まで昇る熱。思考の混乱は目を回させる。冷たい月の視線は燃えるように熱い。ハルフィスがすっと立ち上がるのに無意識に怯え、後ずさる。直接触れられれば炎に巻かれて燃え尽き、あるいは水に沈められて溺れてしまうだろう。そんな怯えを見て取ったにもかかわらず、ハルフィスは躊躇なくリカシェに手を伸ばし、顎をすくって上向かせた。
彼の目となめらかな手の感触に怯え、無理やり顔を背ける。
「私を見ろ」
「……いやです」
声になるかならないかの返答になった。リカシェは唇を噛む。その痛みに気持ちを立て直して、早口に言った。
「弟が殺される前に犯人を捕らえなければなりません。わたくしたち殺された一族の者は犯人の手がかりを握っています。この都市であれば犯人を突き止めることができるかもしれない。中原の争いも、無意味に殺される者も止むのです」
「口を閉じろ」
「望まれるのならどうかわたくし以外のものを。わたくしはあなたを選ぶことができません」
この一言はハルフィスの気に障ったようだった。
「死せるそなたが弟に心を寄せる理由はなんだ」
「あの子は……」
臆病で生意気で。賢いけれど不器用で。誰かに庇護されなければ生きていけない幼さで。けれど時が経てば、臆病は勇気と優しさに、生意気さは挑戦への意欲に変わり、賢さは思慮深さを増し、不器用さは知恵と工夫を編み出すだろう。庇護されることを愛されることへ繋ぐことができれば、レンクはやがて一族の長としてだけでなく、人として立派だと尊ばれるものになれるはずだ。
「レンクは、今はまだ守られなければ命を繋ぐことができない幼子です。けれどあなたはちがう……あなたがたくましい未来の軸を持つのなら、あの子はばらばらの可能性をかき集めているだけ。あの子が自分でそれを継げるようになるまで、助ける者が必要です」
「地上に生けし者がその役目に当たるだろう」
「ええ。ですがそれが通らぬ地上の現状です。遠からずあの子は水葬都市に来るでしょう。わたくしはそれが耐えられない」
「愛しているのか?」
リカシェの目の奥から熱いものがこみ上げた。目を閉じ、かすかに喘ぐ。
「……我が子であるゆえに己が所有物であることを望んだ父、何も教えてくれずに死んだ母、同一の価値観を口にして同じくあれと言う親類たちの輪の中に、わたくしの居場所はなかった。幼い弟だけがわたくしの庇護を求め、愛していると言ってくれた……わたくしの家族は、あの子だけ。たった一人の家族の幸福な生を望むことが愛というのなら、わたくしはあの子を愛しています」
泣き濡れた目は懇願を訴えていただろう。ハルフィスは抜きはなった刃のように目を細め、背けたリカシェの顔を再び正面に向けさせる。リカシェは両腕を突っ張って抵抗したが、体格に恵まれ、鍛えられた彼の身体を押しのけることはできなかった。引き寄せられるままに唇を重ねた。
ハルフィスの口づけは、その冷ややかな容貌に反して、暖かく、甘く、柔らかだった。触れ合うだけで、喉を通って胸の奥に灯る力めいたものを感じた。自分を押しのけようとしていた手首を強く掴んだまま、リカシェの頑なな唇を食む彼は、ゆっくりとその抵抗を奪っていった。
「離して……」
わずかな合間にリカシェは言葉で請うた。目尻からこぼれ落ちた涙を唇ですくい、ハルフィスは囁いた。
「真に拒むというのなら、そなたは私の唇を噛み、頭をぶつけ、足で私を蹴倒そうとするだろう」
そうしないのならその本心はどこにあるのか。本気で振り解けば逃げ出すことができる。怯えすくんで動けないわけではないとリカシェが自覚しているのを見抜いて、彼はそう言っている。
リカシェは首を振る。
「地上に戻りたい」
「ならぬ」
「地上に戻りたいのです」
リカシェは何度も言葉を重ねた。
「わたくし以外のものなら何でも差し上げます。地上へ戻った後、生贄を捧げることすら厭いません。永久に冥府の門をくぐることができなくとも、今は地上へ、弟の元へ帰りたいのです」
ハルフィスの瞳に感情が宿った。明確な怒りと憎悪、闇と同じ色をした激情だった。リカシェは、彼の背後に滲む闇を見た。
「許さぬ」
彼の持っていた清廉な月が黒く染まっていく。光が失われ、凍える影が波のように押し寄せた。執着と愛を叫ぶその波がリカシェを飲み込もうとする。冷え切った指が思考を凍らせていくが、殺された時の苦しみ、それを味わうかもしれない弟を思い、なんとか息を継ぐ。
「リカシェ」
救いを求めてもがいても、たったひとつ、名前を呼ばれただけでリカシェは抗う力を失う。
誰の名前を呼ぶべきかわからず薄く開いた唇に、再び口づけが寄せられた。緩やかに縛られながら、心の奥、思考の底に冷静な自分を沈めた。気付かれてはならなかった。それが地上に戻るために残された、最後の手段だったからだ。
揺らぐ視界に闇が見えた。
闇はハルフィスだった。己が守り続けてきた清浄な世界を汚すことを厭わず、劣情のままにリカシェを抱く。そしてリカシェは彼の望むままに応えた。それが自分の望みの一部であることは真実だったからだ。
――きっと罰が下る。
水葬王の心を手に入れ、名実ともに花嫁となった。彼の獣のようにして闇を呼び寄せさせた。そうしていずれは彼を傷つける。そんな自分は、誰かによって罰を受けるだろう。約束された事実としてそれがわかる。
しかし今は自分を求める熱に手を伸ばした。凍れる永遠に閉じ込められるなら、最後にこの炎を抱いていたかった。凍れる月、燃える闇。青い炎と汚れた銀。水葬王の名を持つ神が自分のものだと信じて。
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