第5章
許しの庭に咲く1
慈しむような手つきで撫でられている。
解けた髪をなぞり、頭の形を確かめるようにしてゆっくりと。微睡みながらリカシェが身じろぎすると、その手は離れ、今度は指の背が頬に触れる。心地よくて大きく息を吐いた。顔を埋める寝台は、柔らかくていい香りがする。触り心地は極上の天鵞絨にも羽毛にも勝るとも劣らなかった。いつまでもそこで眠っていたいくらいだ。
だからこれは夢なのだとリカシェは知っていた。自分には過ぎた幻想だった。未来の夫はこれほどまでに自分を甘やかさない。自分も夫に甘えない。一族の女当主として家を管理するのが仕事になる。子どもを産んで、その子が家を継げる年齢になった後は余生だ。一族の者の結婚と出産、人間関係の話題だけの世界で生きる。だからこんな幸福で満ち足りた思いは、夢でしか味わえない。
――そう、私はもう選んでしまっている。
心の中でもう一人の自分が囁く。
――私は何を選ぶべきか、もうわかってしまっているのよ。
「…………」
わずかな驚きを含んだ何者かの呼び声が聞こえた。触れていた手は目元を拭う。リカシェは眠りながら泣いているのだった。悲しいのか苦しいのか、曖昧な意識では判然としない。ただ胸から溢れたものが涙になっていく。
手の主は、そんなリカシェの涙を拭っていた。意識がなくなる直前にも。そして恐らく、その後までも。
自室で目覚めたリカシェが、身支度を整えた後に最初に行ったのは、最も広くて殺風景な庭を探すことだった。狭すぎてもいけない。広すぎてもだめだ。適度に広くて、昼と夜が感じられて、湿っても乾いてもいないところ。
(あった! ……でも……)
それが眠れない夜にハルフィスが時間をつぶしていた、あの東屋のある庭なのは、ちょっと戸惑う。
だがいろいろと見比べた結果、ここが一番良さそうだった。東屋を引き立てるためか飾りや彫像は置かれていないし、太陽がない世界だがどこも明るい。あとは、リカシェの持つ種が強いものであれば大丈夫だろう。
ロディとルビナからもらった種を植えよう、と思ったのは、この都市に緑をひとつも見ないからというのが一番大きい。植えても芽吹かない場所なのかもしれないとは考えたけれど、リカシェが持ち続けたとしてもこの種を植えるところは地上にはないだろう。これはすでに水葬都市のもの、地上に持っていけるとは思えなかった。
東屋に座って小庭を見回して見当をつけると、その位置に穴を掘った。種を植えて土をかぶせると、集めてきた小石でぐるりと囲む。部屋から持ってきた水差しで水を回しかけると、笑みが浮かんだ。
(勝手をするなと怒られるかしら。それとも花が咲いてやっと気付くかしら)
芽吹くだろうか。芽吹くといい。
どんな花が咲くかはわからないけれど、この種は植えられるのを待っていたはずだ。咲くところを見てくれる人が約束されているのなら、きっと頑張って咲いてくれることだろう。
次にリカシェは西棟に向かった。ニンヌの居城ではなく、様式と雰囲気が異なる鎮めの宮の方だ。少し緊張しながら廊下を進んでいくと、声をかける前に扉が開き、リェンカが姿を現した。
「ごきげんよう。お連れ様がいらしていますよ」
「……連れ?」
招き入れられると、子供の笑い声がわあっと押し寄せた。扉の向こうから聞こえてくるようだ。リェンカが扉を開くとその声は増した。
中心にはアーリィがいた。小さな子の腰を抱いてぶんぶんと振り回している。豪快に振り回されている子はきゃあきゃあと歓声をあげ、降ろされてももっともっととせがんでいる。その周りには私も僕もとさらに子どもたちがまとわりついていた。
「ごめん、おばさん疲れちゃったよ」
「おばさん力持ちだね! すごいや!」
「その剣、ほんもの!?」
「どうやったらそんなにおっきくなれるの?」
「そうだなあ……」
アーリィの目元は赤く染まり、柔らかい眼差しを子どもたちに注いでいる。取るに足らないだろう質問に一つ一つ答えて、際限ない問いかけに笑っている。そうしてそれを見ているリカシェに気付いて微笑んだ。
「おばさんの友達から来たから、お話ししてくるよ。また後でね」
ええーと残念そうな声を背中に受けながら、玄関広間に戻る。
「……よかったの?」
「ああ。あそこにいると楽しいんだけど、ずーっと遊んでるから、さすがに体力がもたなくってねえ。それに、他の部屋にも行きたいし」
言って、吹き抜けの頭上を仰ぐ。するとそこに続く階段から、別の女官が姿を現した。
「あの者が案内します。どうぞ」
「ありがとうございます。じゃあね、リカシェ」
アーリィが上階へ行ったのを見送って、リカシェは本題に入った。
「この種、鎮めの宮のどこかに植えてもいいかしら」
先ほど植えたときに数粒、種を取り置いていたのだった。どちらかというと感情豊かな方だったリェンカだが、リカシェの手のひらに出した種には驚愕を露にした。
「まあ、まあまあ! 植物の種ですね! めずらしい……こればかりはいくら水葬王でも、この都市に持ち込むことは難しいんですのよ。芽吹くかどうかはわかりませんが、是非植えさせてください」
リェンカが案内してくれたのは、建物と建物の間にある庭だった。片隅に器や何かの筒、砂の山がある。どうやら子どもたちが外遊びをするところのようだ。
その隅の方に種を植える。先ほどしたように石で囲い、そこに何かあると見てわかるようにしておいた。
「日に一度水をあげる係を子どもたちにお願いしようと思います。みんな率先してやりたがるでしょうから、順番に」
「喜んでくれるかしら」
「ええ、きっと。ありがとうございます、リカシェ様」
花が咲くときを楽しみにしてくれたら嬉しい。そう思って持ってきたのだが、想像以上に喜んでもらえてよかった。時が緩やかに流れるために、何かが育つ、大きくなるという変化は楽しいものなのかもしれない。
「リカシェ様、お身体の具合はいかがですか? 暴漢に襲われたと聞きました」
「大丈夫よ。心配いらないわ。怪我もほとんどしていないから。ありがとう」
そう答えてから、気になったので尋ねてみる。
「もしかして噂になっているの?」
「はい。水葬王が街にお出ましになるのはめずらしいことですから」
苦笑混じりに言われるが、どうも思っていた反応と違う。不満に感じているというよりかは、常と違う水葬王の行動を歓迎しているようだ。ではさぞリカシェの安易な行動には呆れていることだろう。
「青の乙女も心配しておられました。『身体を張らなくてもいいのに』と」
「身体を張ったわけでは……。ええと、それじゃああなたは知っているのかしら。私を襲った人たちがどうなったのか」
「調査のために水葬王が召喚されたそうです。場合によっては裁きがくだされるでしょう」
わずかにぎくりとした。ウィスティとケッツァ、そして名前の知らないもう一人。彼らはリカシェが同族であること、同じく同族のエルヴィが話を聞いて回っていることを話すだろう。ハルフィスが疑問に思えば次はエルヴィが呼ばれる。リカシェが何をしようとしていたのかが知られてしまう。
秘密にしていたつもりはなかったが、今それを知られると、次に何を尋ねられるかが想像して怖くなる。
『己を殺した犯人を突き止めて、どうするつもりだ?』
その問いに答えるためには、気持ちを固めなければならない。自分がどうするか。何故そう思ったのか。それをどう伝えるか。
その時、布を裂くような悲鳴が響き渡った。
上の階からだ。リェンカが飛ぶように駆けていく後ろを追いかけると、彼女は三階の部屋に飛び込んだ。追いついたリカシェは、その部屋の空気に触れた途端、冷えた刃を押し当てられたような息苦しさを覚えた。
悲鳴をあげて泣き叫んでいるのは、茶色の髪の少女だった。彼女が逃げているのは棒立ちになっているアーリィからだ。何が起こったのかはわからないがこのままではまずい、そう思って、リカシェはアーリィの腕を引っ張った。
「アーリィ、外へ!」
少女の目を覆い隠すように二人の間に入ったリェンカも、そうしてほしいと目で頷いた。
泣き声が聞こえないよう遠ざかって、ようやくアーリィの硬直も解けた。しかし青ざめた顔のまま、落ち着かない様子で腰に帯びた剣に触れている。
「あの子、ミュナっていうんだけど……剣を見た途端に叫んで……」
はっとしてリカシェは部屋の方を見た。
あの子がミュナ。巻き添えで殺されてしまった少女なのか。あの部屋が魂を傷つけられた子どもたちの居場所だったのだとすれば、闇の気配を感じる空気が満ちているのに納得がいった。そしてミュナが剣を見てあんな悲痛な声を上げたということは。
(……剣?)
アーリィの持つ剣は城で配給されているものだ。だが地上でありふれたものとは違い、水葬王の兵士にふさわしい、華美ではないが慎ましい装飾が施されている。革の鞘には魔除けの刺繍。柄には小さな宝石らしき石がはめられている。
それを見てリカシェが感じるのは、言いようのないざわめきと不安だ。なんだろう、落ち着かない。頭の中で誰かが囁いているかのようだ。ばちっと白い光が閃き、眩暈を覚えた時だった。
「リェンカ様」
部屋から出てきた彼女をアーリィが呼び止めた。少し厳しい顔つきをしていたリェンカだったが、もう大事ないと頷いて表情を和らげた。するとアーリィは今にも崩れ落ちそうなほどの泣き声になった。
「あたし、あたし……」
「日と時の巡り合わせが悪かったのでしょう。いつもなら元気すぎるくらいの子なのですが、何か思い出すものがあったようです。あなたが傷つけたわけではありません」
気遣う言葉は優しかった。傷を持つ者同士が引き合わされるこの塔にはよくある光景なのか、肩を震わせるアーリィもまた、リェンカからすると怯える子どものように見えるのかもしれない。
「どうか嫌にならずに、また来てください。あなたを待っている子がいますから」
鼻をすすり、涙を拭ってアーリィは「はい」と強く答えた。こんなところで諦めるものか、という思いが感じられた。それだけ彼女が望むものは、それこそ魂に刻まれるほど求めたものだったのだ。
「申し訳ありませんでした。リェンカ様。他の子どもたちも怯えさせてしまった。……リカシェも、悪かった。何か用があったんだろう?」
「私の用は済んだから大丈夫。戻るなら送るわ、アーリィ」
むしろ見られたくなかったところを見てしまったのではないか。私はこのことを誰にも喋るつもりはないし、あなたを慰めたいと思っている。そう思いながら尋ねると、彼女は微笑し、首を振った。
「ありがとう。でも、しばらくひとりにしてほしいんだ」
その返答は、自らと向き合いたいと思う者にとっては当然のものだ。気持ちはよくわかったから、リカシェも無理にとは言わず、先に行くと告げて、鎮めの宮を出た。
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