第4章
命の灯影1
そこは遠い異国の城のようだった。
巨大な柱が立ち並び、真珠のような光沢を放つ床が続いた回廊のようなところだ。柱の向こうは乳白色の霧に似た、細かな光の粒が満ちている。そこに太陽の光が降り注ぎ、時折視界は黄金にきらめいた。
しかし歩む彼はただ一人、冷たい水と死の気配を連れていた。
『ニルヤの宮を穢して』
『死に囚われたものが』
光の霧の向こうに立ち現れたおぼろな影が、彼の姿を認めた途端に嫌悪感を込めてささやきかわす。
『ニルヤの御子でありながら闇に魅入られるなど』
世に満ちる神々は、すべてニルヤの眷属だ。自らの住まう楽園から星を連れて降り立ったニルヤは創造主となり、もう一つの楽園を作ろうと眷属たちを呼び寄せた。創造主たるニルヤがもっと愛したのが、永の友となった大地と、妻である女神フライヤ。そのフライヤとの間になされた子のひとりが、ハルフィスだった。
しかしハルフィスは、生まれながらにして死と闇に愛された。楽園の外側にあるそれらは、ニルヤですら門を作って遠ざけるしかないもの、神々のもっとも厭うものだった。死と闇への恐れと憎しみは、フライヤが死に愛され失われたことで増し、ニルヤがかの女神が行った冥府へ去ったことから、ますます大きくなっていった。
ニルヤは冥府の門前に都市を作り、その地の王を門の守護者とした。その役目に命じられたのがハルフィスだった。
『死の臭いがする』
『汚らわしい』
ゆえに彼は他の神々から嫌悪される。その美貌がいくら光輝き、その力がどんなに清いものであっても、死者の都の王であるというだけで彼は神々の序列を外れ、ただひとり孤独に、父神に命令を守っている。
ニルヤの宮殿だという神域を足音もなく歩きながら、彼は考えている。
――穢してはならない。
――望んではならない。この世界を。
その瞳に映るものが美しいと感じながら、彼は誰にも明かさぬまま、自身の思いを沈めていく。
――死に近しい私は、輝かしいこの世界にいるべきではない。
――だから私はひとりでいよう。この世界の何も望まず、閉ざされた場所でその光溢れる世界を離れたところから見るのだ。
――それがニルヤの世界を守ることになる。
そうして彼は背を向ける。神々との繋がりを断ち、誰も近づかぬ孤高の城で、守り人として戦い続ける。詩の神と音楽の神が奏でる音も、月の女神の美しさも、剣の神の強さ、火の神の苛烈さも、思い出すことのない場所にしまっていく。
最後によぎったのは花を持つ娘の姿、地上の娘が春の野原を駆けて笑うその声に、ひそかに胸を温めたこと。
しかし大神の宮を後にする頃には、それらはすべて遠い過去の無用な記憶となって忘れられた。
白い宮殿の風景が消え、リカシェが目を開けると、すさまじい勢いで何かが飛び込んできた。ぺたぺたと冷たい手が頬に当てられ、青い目がぐうっと近付いてくる。
「……ニンヌ様?」
「ああ、リカシェ。ああ、ああ、ああ……!」
ニンヌは言葉にならない様子でリカシェを抱きしめる。素晴らしくなめらかな肌と手触りのいい髪が触れ、甘く爽やかな香りにぼうっとしてしまう。この腕に抱かれるためならすべてを投げ打つ人々がいるのも頷ける。
「あなた、自分が何をしたのかわかっていて? 自ら冥府の門へ行って、闇に襲われたのよ」
泣き濡れた瞳があまりにも綺麗で見入っていると「聞いているの?」と怒った顔をされてしまう。
「あの時迂闊に肯定するのではなかったと後悔したわ。冥府の門をくぐり抜けるならまだしも、闇に囚われれば自らも闇となってあらゆるものに呪いをもたらすようになるのよ」
母親が子どもを叱るように言って、リカシェの頬をぺちぺちと叩く。そのおかげか、ぼんやりとしていた意識もはっきりしてきた。自分の無謀さも、使命感に駆られた行動も。意識を失う直前に胸を満たした思いも実感としてよみがえり、リカシェは震える息を吐いた。
寄り添っていたニンヌがぴくりと動いた。リカシェを抱くように腕を回しながら振り返る。
その腕から覗き見ると、ハルフィスが部屋に入ってくるところだった。
彼は青の乙女の膨れっ面を一瞥し、表情を変えずに言った。
「ニンヌ。私はその娘に話がある。席を外せ」
ニンヌは唇を尖らせてそっぽを向く。どう見ても女神のする仕草ではない。だがそれも常のことなのか、ハルフィスは言葉を重ねず、妹神の答えを待っている。そうしてそれに焦れたのはニンヌの方だった。もうっ、と童女のような苛立ちを吐き出してリカシェから離れる。
「あまり長居はなさらないでくださいまし。まだ安静にしなければならないのですから」
「わかっている」
ニンヌの声に年下の甘えが含まれているのを感じて、リカシェはこの兄と妹を見比べた。美しさの質、その性格と感情の出し方はまったく異なるものだが、弾き合うのではなく不思議と一体となってに見えるのは、父母と同じくするからなのだろうか。
ニンヌは控えていたシェンラと、ハルフィスが連れてきていた従士のセルグとともに去り、部屋には二人が残された。
「自分が何をしたのかわかっているか」
どきりとするほど冷たい声だと以前のリカシェなら感じていたはずだった。けれどこの時、怯えるよりも先に浮かんだのは、くすぐったいような安堵の気持ちだった。
「はい。冥府の門前へ行きました」
「では何故ここにいる。そなたの望みは地上へ戻ることだったはずだ」
ハルフィスに願っても叶わなかったことは、ニルヤに願えば叶えられる。リカシェが地上に戻りたいと願っていたなら、もうここにはいない。彼はそう言いたいのだ。
「何を願ったのだ」
その問いかけには渇望があった。推測することができないリカシェの真意を、心から知ることを求めていた。
リカシェは答えた。
「あなたのことを知りたいと、願いました」
リカシェの返答を聞いたハルフィスは顔を歪め、わからないとでも言うように大きく首を振った。
「……何故!」
恐怖しているようにすら聞こえる声で、ハルフィスは言う。
「何故私を知ることなのだ。そなたは危険を冒してまで大神にまみえたというのに、何故そのようなくだらぬことを」
「くだらないなどとおっしゃらないでください。あなたのことです」
それがくだらないのだと吐き捨てそうな顔をしている。この世界の輝かしいものを知っている彼は、自分を何よりも下に見ている。己を憎むのを忘れ、興味を失うまでに。
ニルヤに願ったことで彼の過去を垣間見たリカシェは、込み上げる思いに胸を押さえた。
本当は、地上に戻ることを願うべきだとはわかっていた。闇に飲まれる寸前、実際にそうすることも考えた。ハルフィスの拒絶は強く、そこに入り込めないことはわかっていたからだ。ここには自分に成せることは何もない。ならば危険を冒して地上に戻ることを選ぶ方がいい。
しかしリカシェは見てしまった。自分を助けに来たハルフィスの姿。伸ばされた手を求めてしまった。
願いは塗り替えられ、浮かび上がった『彼を知りたい』という思いをニルヤは聞き届けた。
「そこまでする価値が私にあるか」
「もちろんですわ」
にっこり笑って断言できるのは、リカシェが、ハルフィスに恋をしたからだ。
笑っているはずなのに、涙が頬を流れる。ハルフィスは息を飲んだが何も言葉が出てこないようだった。リカシェは柔らかい敷布を伝い、彼に近付こうと寝台を降りたが、足に力が入らずそのまま崩れ落ちてしまう。
そこを支えたのがハルフィスだった。彼は力をなくしたリカシェを抱えたまま、ゆっくりと床に座り込む。
その腕の中でリカシェはハルフィスを見上げた。にこりと笑うと、戸惑いの目が向けられる。けれど頬に伸ばした手を彼は拒まなかった。
見ただけでは陶器の質感を想像させるものだったけれど、実際に触れた肌はほんのりと温かくて生きものの柔らかさを持っている。
すると、ハルフィスもまたリカシェに手を伸ばした。初めて触れるものの時の時のように、おずおずと不器用な手つきだった。けっして撫で心地がいいとは言えないだろうに、触れ続けるその手は、リカシェの感触を覚えてしまいそうだ。
やがてお互いに手を下ろした。リカシェも気付いていたし、ハルフィスもそうだっただろう。取り残された子どものように寂しい気持ちで座り込んでいる自分たちが、次に何を求めるべきか。
ハルフィスが両腕を伸ばし、リカシェを抱いた。リカシェは彼の背中に手を回し、縋るように背を曲げ深く抱き込む彼の首筋に顔を埋め、額をこすりつけた。
あなたにとって私が美しいものなのかわからないけれど、あたたかいものであればいいと思う。
口にしないその思いが伝わったかのように、ハルフィスはリカシェを強く抱いた。しかしそうした行為に不慣れだったのか、息苦しいほどに力が込められている。リカシェが苦しさを訴えるために、とんとん、と背中を叩くと、はっとしたように力が緩められた。離れてしまうとわかっていたから、今度はリカシェが腕を回した。
「ふふ」
思わず笑い声が漏れた。ただこうしているだけでくすぐったかった。彼の思いがどこにあるのか、彼自身もリカシェもわかっていなくても、幸せだった。
「何故笑う」
「あなたも笑っていますわよ」
そうか、とハルフィスは呟いた。ええとリカシェは答えた。そして互いに噴き出した。ハルフィスの快い笑い声が静かに響く。
「そなたは本当に愚かだ。ニルヤならば永遠の命を与えることもできただろうに、願うに事欠いて私を知りたいとは」
心底馬鹿なことをしたと思っているらしく、言っているのは同じことの繰り返しだが、己を卑下する響きは薄れていた。リカシェは唇を尖らせた。
「仕方がないではありませんか。最後に見えたのがあなたの姿だったんですもの」
「私のせいにするのか」
「そうしたいところです。あなたが現れなければきっと地上に戻っていました。闇に飲まれる方が先だったかもしれませんが」
ハルフィスは顔をしかめた。
「もう二度とあんな真似をするな。そなたが闇に飲まれると思うとぞっとする」
「惜しんでくださるのですか?」
「……闇が哀れだ。腹を壊すかもしれぬ」
リカシェが動きを止めたので、ハルフィスは失言を悟ったようだ。
「……今の、冗談ね? あなたでも冗談をおっしゃるのですね!」
「……忘れろ」
喝采したい気持ちで叫ぶと嫌そうな顔をされてしまった。お世辞にも面白い冗談ではなかったが、それを口にしたハルフィスの気概は嬉しかった。今の彼を見れば誰も、水葬王は心を凍らせているなどとは思わないだろう。
くすくす笑うリカシェを見て、ハルフィスは何か言いかけたが、最後には口を閉ざした。心を浮き立たせていたリカシェは、この時彼の胸底に秘められたものに気付くことができなかった。
「っあ!?」
リカシェは声を上げた。急に掬うように抱き上げられたのだ。その優美さからはなかなか想像しにくい膂力を思い知らされ、軽々と寝台に寝かされる。
「先ほどから部屋の外でニンヌが様子をうかがっている。そろそろ行かねばあやつが踏み込んでくるだろう」
そういえば、あまり長居するなと言っていた。しかしいかにも忌々しいという口調だったので笑ってしまいそうになる。どうやらニンヌがそうであるように、彼もまた妹に遠慮がないらしかった。
「闇に触れられたことでそなたは力を失っている。少し眠れ。目覚めた頃には回復するだろう」
「はい。……ハルフィス様」
彼は寝そべるリカシェに身体を傾けて「なんだ」と問いかけた。その優しい仕草に笑みがこぼれる。
「助けてくださって、ありがとうございました」
ハルフィスは頷いた。
「水葬都市に住まう者はすべて私の庇護下にある。礼には及ばぬ」
このままでは去りがたいと思ったのかそれを告げると、ハルフィスは寝台を離れた。扉の向こうに消えるハルフィスを見送った後、リカシェは横になる位置を直し、大きく息を吐いた。
とてつもなく大胆なことをした気がするが、力を失っているというのは本当らしく、事実をそれと確認することができなかった。ふわふわと浮いているかのような感覚があって、次第にまぶたが落ちてくる。しかし明日になれば今回の出来事は現実としてリカシェをうろたえさせるにちがいない。
(……レンクのこと……エルヴィのことをどうしよう……)
まどろみながらも不安の波となって襲いかかるのはそのことだった。そうして、こうなってもまだ自分は地上に戻ることを諦めきれないのだと自覚した。水葬都市を去りがたいのは事実だ。だが、弟を失えないという気持ち、自らを殺し多くの命を奪っている者を見逃せないという思いは、リカシェの中に強く存在していた。
(レンクがこの都市に来てしまうのは耐えられない)
かと言って、地上に戻るにはハルフィスに願い出るしかなかった。それを告げることは今の自分には出来そうもない。ハルフィスの失望を想像するだけで恐ろしい。あっさり聞き届けてくれそうな可能性もあったが、その後の彼はより一層硬い殻で自分の心を覆ってしまうにちがいない。それもまた、リカシェには許せないことだった。
(……それでも、犯人は突き止めたいわ。地上に警告するという選択肢だってあるもの)
しかしその選択は自分には許されないことなのだろう、という予感があった。
眠りを歌う声の気配が近付いて、リカシェをあっという間に飲み込んでいく。リカシェは失った力を取り戻すべく、その歌声に身をゆだねた。眠りの世界の中で誰かが自分を注視しているような気がしたが、目覚めたリカシェはそのことを覚えていなかった。
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