第4話


 この街にもおばちゃんがいる。デパートで買い物をする淑女のみなさんのことじゃない。いわゆる街のおばちゃんだ。その街のことならなんでも知っていて、会いたいときにはいつでも会える。会いたくなくても出会ってしまうおばちゃん。どの街にも一人はいるだろ? 商店街の会長や交番の巡査にも顔が効き、街のあらゆる会社の社長とも仲がいい。街をうろつく学生の素性まで大体は把握している。居酒屋の客引きなんかには一目置かれて恐れられている。そんなおばちゃんが、この街にもいる。

 と言っても、大きなこの街を行き交う人の数は半端じゃない。おばちゃんだって知らないこともたくさんある。俺とおばちゃんは、今ではお互いの情報を交換し合っている。結構役に立つんだよ。

 そのギターケース、中身はないのかい? おばちゃんの声を初めて聞いた。それまでも、そのおばちゃんの姿は確認済みだった。俺はある程度この街で認められ始めていたから、この街のあらゆる権力者には声をかけられていたんだ。おばちゃんは、最後の大物ってわけだ。

 ちょっと事情があってね。ある奴にレンタル中なんだ。それはその当時の事実だ。今では完全に奴に譲ったけれどな。

 それって、今話題のあの人のことだろ? あんたらのことは知っているよ。この街じゃあ、それなりの有名人だからね。

 俺はさておき、奴はそれなり以上に有名だった。フラッと現れては、俺のギターを奪って演奏する。いい歌を歌いやがる。俺は奴の歌を聞いて、自ら歌うことをやめたんだ。

 まぁ、そんな過去のことはどうでもいいんだけどさ、どうして今でも持ち歩いているんだい? わざわざ持ち帰っているんだろ? 面倒じゃないのかい。まぁ、どうでもいいんだけどさ。

 おばちゃんの問いかけに、俺はなにも答えなかった。俺にとってはちゃんとした意味がある。それだけで十分だ。誰かと分かち合うような意味は、持っていない。俺はそう考えていた。けれどそれは間違いだったと、その後に気がつくこととなる。

 それでなんだけど、あんたに一つ頼みがあるんだ。おばちゃんは、突然に話を変えた。俺はただ、頷くしかできない。

 初めは楽勝だと思ったが、実際に引き受けると厄介な頼みだったよ。小学生の男の子を一日預かって欲しいと言われた。朝から晩まで、楽勝だと思うだろ? 俺には当時、二人の子供がいたからな。子守はお得意だったんだよ。

 しかしまぁ、なかなか思ったようにことは運ばない。勝手に連れて来ればいいよ。なんて、言わなければよかったのかも知れない。いいや、違うな。俺と一緒にいてよかったと、少なくともあいつは感じているんだ。それだけで十分だよ。

 おばちゃんと話をした次の日、俺は朝からこの場所に座っていた。まぁ、いつものことだ。そこにおばちゃんがやってきた。背後に隠れる子供に、俺はすぐには気がつかなかった。この子なんだけどさ。とおばちゃんが言うと、胸の辺りからニョキッと顔をのぞかせた。怯えた目で、俺を見ていたよ。

 名前は? 俺の問いにあいつは答えない。まぁいいから、こっち来て座りな。それでもあいつは動かない。おばちゃんが右手を後ろにあいつの頭を押し出した。あいつはふらふらと前のめりに飛び出し、おばちゃんに背中を押されて俺の前までやってきた。

 六時頃には母親がここに迎えに来るはずだよ。私もその頃には来るからさ、よろしく頼むよ。おばちゃんがなにをしているのか、このときは知らなかったけれど、今は知っている。最近、ビジネスホテルとしてリニューアルされたモーテルの経営者だ。暇なのか忙しいのか、想像に難しい。

 おばちゃんがいなくなっても、あいつは無口を貫いた。俺の隣で、二時間はだんまりだ。俺はその間、独り言の連発だ。聞くのが俺の仕事なのに、話してばかり。俺って情けないよな。

 おじさんって、ここでなにしているの? 俺はその言葉に驚いた。おじさんって、誰だ? 少し戸惑っていると、あいつは続けた。ずっと座って喋っているけど、仕事はしなくていいの? なにを言ってやがる。このガキは! と思いながらあいつの瞳を覗き込んだ。なんだか妙な影が差している。母親ってのがどんな人物なのか、気になった。

 あいつの名前は坂本勇気。なかなか楽しい名前だ。小学四年生。微妙な年頃だな。俺の息子と同い年だ。会わせてみるかとも考えたが、いまだに会わせてはいない。

 あいつは少し、寂しい奴だった。学校でも家庭でもひとりぼっち。この日だって本当なら、家で一人過ごすはずだった。四年生なら留守番くらい簡単だ。それをしなかった理由は、やっぱり寂しい。

 これは後から聞いた話だ。あいつからじゃなく、おばちゃんから。母親はその時間、家に男を連れ込んでいたそうだ。朝から晩まで、なにを考えていることやら。それはその日に限ったことじゃない。よくあることで、そんなときあいつは、一人で近所の公園のベンチに座っていたりする。なにをするわけでもなく、うつむき、時間が過ぎるのを待っている。そんなあいつの姿を、おばちゃんが見とめ、この日の俺との出会いにつながった。

 俺はあいつを隣におき、いつも通り聞き屋の仕事をこなした。子供が隣にいても、気にせず話をする奴らは多い。おかげで俺は退屈せずに済んだ。あいつは少しは口を開いたが、ほとんどが俺の独り言になってしまう。話をするより、聞くのが俺の性分には合っているんだよな。

 気がつけば街を行き交う人物が変化していた。買い物のおばちゃん達が消え、学校帰りの学生も消え、会社帰りのサラリーマン達が多く溢れ出した。この日は、あいつの小学校だけが休みの特別な日だった。まぁ実際には休んでいる他の小学校もあったんだけどな。前の土曜日が運動会だった。よくある話だ。ついでに言うと、あいつの母親の恋人は、理容師で、月曜日だけが休みだったそうだ。

 俺とあいつは途中で昼飯を食ったが、それ以外はずっとここにいた。昼飯だってすぐ近くの立ち食いそば屋だ。母親は、暗くなっても姿を見せなかった。おばちゃんすら、やってこなかった。

 俺は酔っ払いのサラリーマンが増えた頃、おばちゃんを探しに街をうろついた。当時はまだ、頼りになるのは交番の二人だけだった。おばちゃんの正体はまだ、分からなかった。警察官も、おばちゃんの存在は知っていたが、そこまでだった。あの二人は、まだまだ新人だったんだ。

 しかしおばちゃんは、こっちが求めれば必ず現れる。俺は鶴屋町近辺でおばちゃんと出会った。

この子はどうすればいいんだ? 母親らしき奴はこなかった。俺がそう言うと、まぁそうだろうね、とおばちゃんは言う。一応は伝えたんだけどね。あんたに預けると言ったから、安心しているんだろうね。

 なにを勝手なことをと思ったが、そうは言わなかった。

 で、どうするんだ? 俺の家に連れて帰れっていうのか? それもいいかも知れないと思い、そう言った。しかし、そうはならなかった。俺とおばちゃんの話を聞いていたあいつは、突然走り出したんだ。

 夜の横浜は、月曜日だって人が多い。小さなあいつの姿は、あっという間に見えなくなった。俺は急いで走り出した。夢中だった。おばちゃんも置き去りに、ギターケースもそのままだった。ほんのちょいのお散歩なら俺はギターケースをそのままにしていた。あんなものを盗む奴はそうはいないが、夜中の横浜にはおかしな奴も大勢いる。普段の俺ならあんなミスはしないが、あの日は別だった。結果的に、その日からずっと、このギターケースはここに置きっぱなしだ。おばちゃんのおかげだな。

 俺があいつを追いかけている間、おばちゃんは俺の仕事場に向い、警察官達とおしゃべりをしていた。そのとき、俺のギターケースが盗まれた。おばちゃんは相当慌てたらしい。自分が責任を持って守ると、心に誓っていたそうだ。階段裏の壁に立てかけられたギターケースには、誰も興味を持たない。おばちゃんが盗まれたことに気がついたのは、警察官とのおしゃべりが終わってからだった。ギターケースがない壁は、バラのマークがない高島屋のように悲しく見えたという。

 おばちゃんは慌てて街中の知り合いに電話をかけた。警察官はあてにならない。だってそうだ。さっきまで一緒に喋っていたんだからな。おばちゃんは電話をかけながらも通りの店を覗いてはギターケースを持った誰かを探していた。

 俺のギターケースは案外と普通だった。当時はこのプレートはぶら下がっていなかったし、外出中には帽子を被っていないからな。出かけるときは大抵、ギターケースの代わりに俺が被るんだよ。このときも俺が被っていたよ。まぁ、誰かと話をするときはちゃんと帽子を脱ぐのを忘れないんだけどな。それから走るときも、帽子を手で支えたり、持ったりするしな。ギターケースにはバンドやらなにやらのステッカーも、ワレモノ注意のシールも貼っていない。汚れや傷はあるが、真っさらだったんだ。メーカのロゴが刻んであるだけだ。この街じゃ、似たようなギターケースを抱えている奴は大勢いる。まぁ、中身が空ってのは他にはないだろうけどな。

 しかし、おばちゃんの情報網は流石だな。俺が街であいつを見つけられずにいる間に、すでに犯人を捕まえていた。俺は偶然にもその現場を見かけていたが、なにもせずに素通りしたよ。ギターケースを抱えた女の子が、ドレス姿の女性に囲まれていた。奇妙な光景だと思ったが、その中の一人が電話で話す声が聞こえ、俺は全てを把握した。おばちゃんへの報告をするその一人は、俺も何度か話を聞いたことがあるこの街のホステスだった。俺に気がついたその子は、オーケーサインを左手につくり、俺へと伸ばした。当然俺には届かないが、その気持ちは届いた。笑顔が最高だった。俺もその子にオーケーサインを返した。そして笑顔を作ったが、今はそれどころではないと、足を速めた。

 あいつを探すのは骨が折れた。どこへ行ったのか、まるで見当がつかない。顔見知りに尋ねても、誰もが子供なんて見かけていないと言う。あの時間に子供が街中を走っていれば、目立たないはずがない。俺は考えた。きっと何処かに隠れている。もしくは電車に乗って別の街? その可能性は少ない。あいつは駅から遠ざかるように走って行った。

 俺はあいつが迷い込んでもおかしくない場所を探した。駅からは少し離れた場所にスーパーのようなが建物がある。あそこなら学生も多い。小学生がいたとしても、それほどは目立たない。親子連れを見かけることはよくあるからな。

 俺の勘はよく当たる。あいつは本屋で一人、立ち読みしていた。寂しい男の行く先なんて限られている。あのスーパーで寛げる場所は、当時は本屋だけだった。今ならレコード屋もあるけれどな。残念なことに、そのレコード屋がある場所は、以前は楽器屋だった。俺にとって、この三つの店が同居する建物は天国と同じだ。まぁ、当時はその楽器屋もそこにはなかった。残念なことに、三つが同居したことは一度もないんだけどな。当時あったのは、本屋だけだ。それでもこの街には楽器屋もレコード屋も当時は沢山あって満足だった。今ではその数も減り、寂しいもんだ。それは俺の話で、あいつには関係ないんだけどな。俺はあいつのことなんて考えもせず、自分の行きたい場所へ行っただけなんだよ。仕方のないことだ。あいつのことなんて、ちっとも知らなかったんだから。けれど俺は、本屋でのあいつをみとめて、あいつを知ることになった。小学生の割には、なかなかいい趣味をしている。あいつはトマス・ピンチョンの分厚い本を読んでいた。そんな難しいの、わかるのか? 俺がそう言うと、あいつは一瞬仰け反り目を丸くしたが、直ぐに姿勢を戻し、その視線をページに向けた。物語は単純だよ。小難しい文章と展開が行ったり来たりするだけでね。そんなことを言う小学生は、あいつしかいない。俺も好きで何冊か読んだことがあるが、単純とは思えなかった。読み終えて仕舞えば内容は難しくはないが、小学生が楽しむ内容ではないはずだ。楽しいのか? 俺がそう言うと、あいつは頷いた。そうか、楽しいのか。俺も同感だよ。その声にあいつは反応した。

 趣味が合うと話がはずむ。あいつは物語が好きで、俺よりもよく本を読んでいる。いわゆる名作はほぼ読破していた。国内外問わずにだ。最近のもわりといい趣味で選んでいる。さぞかし家にはたくさんの本が溢れているのかと思ったが、そうではなかった。学校の図書館では物足りず、町の小さな図書館にも通い、足りない分は立ち読みで済ませる。俺よりも読むのが全然早い。ここにはよく来るのかと聞くと、たまにね、と答えた。小学生が一人でうろつくには、この街は少し賑やか過ぎる。家はどこだと聞くと、直ぐそこと答える。交差点を渡った先の住宅街。おんぼろアパートがあいつの家だが、今は帰れない。こういうことはよくあるんだとあいつは言う。あいつのたまには、よくあるっていう意味を含んでいる。言葉って、難しいよな。

 俺はあいつに本をプレゼントした。ピンチョンは値段が張る。いしいしんじのブランコ乗り。俺が当時好きだった日本の作家だよ。なんだが不思議で心地よい寓話が俺の心に溶け込んだ。あいつは喜んでくれたよ。その日の夜、俺が寝ている間に読破していた。

 俺たちは一度、仕事場に戻ることにした。あいつの母親がやってくるはずだったからな。

 俺はあいつに聞いてみた。なんで逃げたんだ? と。あいつはこう答えた。読みたい本があっただけ。あの人のことは、気にしていないよ。

 あの人が誰のことを指していたのか、ピンとこなかった。俺はあいつを、じっと見つめた。あいつも俺をじっと見つめる。駅前でじっと見つめ合うのは、なんだか絵になる光景だよ。大人と子供っていう構図がいいんだよな。

 戻ってきたのかい? なんだか少しは仲良くなったみたいだね。どこでなにをしていたんだい? 俺たちの目の前に立っていたおばちゃんは、ギターケースをちょっと大きすぎる赤ん坊のように抱えていた。

 こいつの母親はいつ来るんだ? 俺はそう言いながらおばちゃんからギターケースを受け取った。当然、ありがとうの言葉は忘れなかったよ。誰が盗んだんだとか、犯人をどうしたんだとかは聞かなかったよ。おばちゃんがなにも言わないってことは、聞く必要がないってことだからな。まぁ、後日そいつとは顔を合わせることになるんだが、それはまた別の話だよ。

 さあねぇ。そろそろだと思うけど、来ないかも知れないねぇ。あんたに預けるって言ったとき、ものすごく安心していたからね。しばらくはこのままってこと、ありえるわよ。

 それは困ったな。俺だって帰らないとならないからな。今日はちょっと、家には連れていけないんだ。その日は妻の実家から両親が泊りに来ていた。俺が帰らないのはいつものことだから問題はない。しかし、あいつを連れて行くのは、あまりいいアイディアではない。息子には会わせたいけれど、義父母がいると部屋も狭くなる。あいつの居場所がなくなってしまう。

 俺が困っていると、おばちゃんが言った。うちの一部屋使っていいわよとな。

 俺はあいつとラブホテルで一夜を過ごした。まぁ、いい経験だったな。あいつはいしいしんじを読み、俺は古い映画を楽しんだ。寝不足の二人は、あくびをしながらおばちゃんに背中を押されて、この場所に位置取った。

 神様ってのは、やっぱりいないんだ。俺は毎回思うんだよ。事件が起きる度、神様の存在が薄くなる。はっきり言ってやる。神様がいるとしたら、それはやっぱり、俺ってことだ。俺が神様なのか、俺が神様の子なのか? それ以外に答えはない。この意味、まともな奴なら分かるはずだ。分からないってことは、最悪ってことだ。俺っていうのは、広い意味の言葉なんだ。それぞれの自分って意味だよ。その言葉を口にした誰もが、神様ってことだ。そうなんだよ。神様がいるのなら、赤ん坊もミジンコも、命あるものはみんな、神様なんだよ。ちなみにだけど、俺って言葉はさ、なにも男だけの一人称じゃないんだよな。詳しい経緯は別として、田舎で暮らしていた俺の婆ちゃんは、自分のことを俺って呼んでいたからな。

 なんて話はどうでもいいんだ。あいつは苦しんだ。その事実が俺は哀しい。あいつを救う方法が、他にはなかった。俺は、最善の方法で、あいつを苦しめてしまったんだよ。

 朝になってこの場所で、俺は悩んだ。あいつを学校に送っていくべきか、そのままにしておくべきか。あいつは学校には行きたくないと言う。しかし、理由は言わない。俺は困るばかりだ。だから決めた。あいつを連れて一緒に学校へ行こうとな。

 結果、あいつは学校には行かなかった。しかし俺は、あいつを引っ張り、学校へと向かった。その途中で、大事なことに気がついたんだ。あいつはなにも準備をしていなかった。さすがに、ランドセルなしで学校に行くのはまずいよな。

 あいつの家には、あいつの母親と、その恋人がいた。ランドセルを取りに来たというと、恋人は ブツブツと文句を言い、母親はどうもすいませんと無意味に俺に対して頭を下げた。あいつはその間を縫って部屋に上がり、ランドセルを取ってきた。

 準備はいいのか? 俺はそう聞いた。あいつはただそこにあるランドセルを取ってきただけだったから、不思議だったんだ。俺の息子は毎朝、慌ててランドセルに教科書を詰め込んでいるからな。

 どうせ勉強なんて意味ないんだ。あいつがそう言った。そんなことはないと、今では思う。けれど、意味なんていらないとも、ずっと思っている。

 ランドセルを持ったあいつは、玄関を出ると、俺に一度、ニコッと笑いかけた。そして振り返り、母親の恋人にランドセルを投げつけた。

 俺って意外と役立たずだった。その後の騒ぎに、たいした対処もできなかった。あいつの一生をめちゃくちゃにしたのは間違いなく俺だよな。

 けれど俺は、それに対して責任なんて持つつもりはない。全てはあいつとあいつの母親がしたことで、俺はほんの少し、関わりを持っただけだ。責任っていうのは、逃げなんだよ。関わりを持った俺は、それに対しての責任なんて持つよりも、この一度の関わりを断ち切らないことを選んだんだ。なんらかの形で上辺だけの責任を取って、はいそれまでなんてごめんだよな。

 母親の恋人は、あいつの行動に逆上した。まぁ、当然と言えるよな。理由がどうであれ、物を顔にぶつけられれば、誰だって怒りを感じるだろう。しかしあいつはひるまず、その男に向かっていった。そして転がっているランドセルを拾って、今度はそれを両手で持ち上げ、その男の顔に叩きつけた。まさかの出来事に、その男は対応できずにランドセルを喰らい、よろめいた。俺もあいつの母親も、驚きのあまり開いた口をふさげなかった。目が丸くなるって、本当だな。あいつの母親が、そうだった。きっと俺も同じだよ。

 男は痛がっていたな。あいつはわざと金具がぶつかるようにしていた。結構な策略家だよ。男の顔から血が流れていた。怒りを抑えきれなくなった男は、ランドセルを払い退け、あいつの顎を掴んで持ち上げた。お前なんてな、簡単に殺せるんだよ。男がそう言う。俺は怒りに我を忘れそうになった。本気で男を殺してやるつもりだった。

 しかし俺は、すぐに冷静を取り戻した。あいつの母親が、とんでもない行動をしたからだ。背後から男の首を絞めたんだよ。玄関先に転がっていたあいつの縄跳びを使ってな。素早い行動だった。力なんてなく、普通なら跳ね返されるはずだ。それなのに、必死に歯を食い縛るあいつの母親は、決して跳ね返されず、その手を離しもしなかった。よろよろと背後に倒れてはいたが、それが力を増大させたのだろう。

 俺がなにもできずにいると、あいつが動いた。あいつは母親の横で、その手を重ねて強く引っ張り、体重を乗せた。すると、男が泡を吹き、脱力した。死んだんだよ。

 そこからがやっと、俺の出番だ。俺はあいつの手を離し、あいつの身体を引き寄せて抱き締めた。言葉は出なかった。あいつは身体全体を震わせていたよ。

 あいつの母親は、なんだかぶつぶつ言葉を発していた。俺はあいつと一緒に、あいつの母親も抱き締めた。

 俺は、あいつのためなのかは分からないが、男の死体処理を手伝った。誤解しないで欲しい。それが犯罪だってことは知っている。偽善なんかでもない。そこの警察官二人にはちゃんと話しているからな。黙殺しているあいつらを悪く思わないで欲しい。俺はあいつの母親に話を聞いたが、あの男は最低なんだよ。あいつの母親のちょっとした弱みにつけ込んで、しつこくつきまとっていた。出会いは普通だったとあいつの母親は言うが、俺はそうは思わない。不幸を背負っている女性を狙う男は、数多い。簡単に落とせると思っているんだろうな。寂しさにつけ込むんだよ。あいつの母親は、見事にハマってしまった。息子のことを忘れてしまったかのように、男のために働き、男の言うことを聞いていた。息子を追い出すのは、男の指示だ。後で知ったことだが、男はあいつの母親との行為をネットに流していた。何度も言うが、最低だよな。他にも被害者は多かった。男が死んで、悲しむ者はいない。家族でさえ、ホッとしているとの本音を零していた。

 死んだあいつを、俺は海に流した。知り合いのツテを使って、船で沖合まで連れて行き、重石を付けてドボンだ。洋服は全て燃やし、灰にして畑に撒いた。完全犯罪だよ。アパートは近々取り壊される。男がその日、そこにいた証拠も消える。後は俺が、別の知り合いの力を使ってあいつの母親の映像を全て消去した。事件はそこで終わりだ。

 俺のところには、あいつもあいつの母親もやっては来ない。通り過ぎることはあるが、ただそれだけだ。話しかけてくるようになるには、もう少し時間が必要だ。それでいいんだ。きっとあいつは、立ち直る。今は信じて待てばいい。

 事件の報酬は、意外なところからやってきた。男に苦しんでいた他の被害者の一人が、たまたま俺の客だった。しかも、大勢の代表者だ。俺は知らぬうちに仕事を引き受けていたんだ。結構な束を頂いたよ。

 俺とあいつとの関係は、終わらないだろう。すれ違いは、最高の出会いと同じだからな。あいつはいつも、俺に笑顔を見せてくれる。それが最高の報酬であり、俺たちの関係を物語ってもいるんだ。

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